彼女は彼に問う。
所は東京、東六番街。
「いやあ、よく売れましたねえ」
すっからかんになったリヤカーを二人で押しながら、史奈が鼻歌交じりにそう言った。二人の足取りは軽い。
「正直、路上販売がこんなに活気あるもんだとは思ってませんでした」
「……俺もだ」
眉根を寄せながら、大柄な俊哉が柄になくぼそり、と呟く。だがその声は少女の耳まで届かずに、突然吹いてきた潮風へ攫われた。
海沿いのこの街は、かつてより『都心』と呼ばれて栄えてきた地域である。次の角を曲がってさらに路地へと入れば、彰考会本部のある古ぼけた二階建ての建物が見えてくる。
「あれ、もう六番街か。行きは結構あるように感じたけど意外と近いんですね」
「リヤカーが軽いのと気持ちの問題だろ」
「あそっか」
史奈がははは、と妙に軽い笑い声をたてた。
統合に統合を繰り返した結果、地名は殆ど数字に置き換わり振り分けられている。今では街にある案内図までも、全て英語と数字になってしまった。
一昔前までは、その地に根ざした漢字を使う地名が少しは残っていたはずなのに。
自分の幼少期からたった二十年の間に、随分変わってしまった……と、ふとそんなことを思い出して少し寂しく思う。彰考会の入口にたどり着いた俊哉は、感傷とともにマントの留め具をそっと外した。
「俺はリヤカー片してくるから。先に帰社報告だけ済ませておいてくれ」
「了解でっす」
ふざけた敬礼を返す史奈に、彼は今日何度目になるかしれないため息をついた。
* * * * *
彰考会。
『彰往考来』――過去をあきらかにして、来る時代を考える。その四字熟語から取られた名前は、まさに彼らの理念を表していると言える。
俗称の「あさの葉隊」はもちろん、彼らの発行する同人小説誌のタイトルから取られた物である。また彼らがしている襷の色が、朝焼けを指す「曙色」であることから、「朝の葉隊」と表記されることもある。
「たっだいまー、かえりましたあ」
間延びした声が響いた。
執筆室と呼ばれるその部屋の引き戸を思い切り開けて、史奈はパタパタと手で顔を仰ぎながら入室した。
「只今戻りました」
顔をしかめながら、リヤカーを片した俊哉も彼女の後に続いた。残暑の熱気に当てられた二人に、おかえりという声の嵐と冷房の洗礼が待っていた。
「うわーこの部屋涼しー! 天国天国。あ、隊長、あのベージュのマント、あんなに暑いなんて聞いていませんよ。危うく死ぬかと思いました」
「……あら、言っていなかったかしら」
伝えたつもりだったのだけれど、と、一番奥にいた女性が首を傾げた。小動物のような愛らしさをもつ彼女こそ、「隊長」と呼ばれるこの組織のトップである。
「ごめんなさいね。今日は予報でもだいぶ気温が上がると言っていたのに……申し訳ないわ。次からは手持ち扇風機も持っていってね。幾分かましなはずだから」
「おい望月、なに隊長に頭下げさせてるんだ馬鹿野郎!」
俊哉は慌てて後輩を叱った。物腰柔らかな隊長と言えどトップはトップ、一般の会社でいえば社長と同列だ。その彼女に頭を下げさせるなど言語道断である。
「なんで、外出時はこれ羽織る約束なんでしたっけ? 内ポケットの収納以外、いいとこ無しですよこのコート」
「望月! それは言わないおやくそ──」
「すみません。言ってしまえば私の趣味です。萌えの追求と言いますか……和装にマントって、なんかカッコ良くないですか? 販売の時にバサアッと取るのも、こう、言い表せない情緒があるではありませんか」
「ちょ、隊長!? そんな理由!? 初耳ですけど!?」
俊哉はぎょっと目をむいた。販売活動の際に着用必須のこのマントが、ただの「萌えの追求」と明言されたのである。冬場は重宝しても、気温の高い日はただの拷問に近いのだ。開いた口がふさがらないとはこの事だ、と俊哉は愕然とした。
騒然となった部屋の片隅で、その様子を眺めていた一人の男性が「賑やかやなあ」と呆れたように呟いた。その視線は口調とは裏腹に、自分の娘達を見守るかのような穏やかさを湛えている。
痩身の彼は「隊長」と呼ばれていた彼女らの世代と比べると少々歳上のように見える。事実、彼はこの中では一番の年長者であった。
「お疲れちゃん。ほれほれ、冷たいお茶と和菓子だよー」
奥からもう一人、お盆を持った女性が現れた。綺麗な黒髪をかんざしでまとめた彼女は、にっこり笑って続けた。
「報告会も兼ねて、あっちの会議室でお茶にしましょ! 今日は車販組ももう、帰って来るそうですよ」
* * * * *
「先輩、ここでいいですか」
一番下座の席を指さした後輩に頷いて、俊哉もその隣へ腰掛ける。
彼はつい先日まで「後輩」の方の立場だった。故に後輩から席次を尋ねられる、そのこと自体がとても新鮮だった。少々むず痒い。
ゲリラ販売の二人が一番下座の席に着くと、車販組と呼ばれる人々がぞろぞろと後から入ってくる。彼らは上座の方へと歩いていった。
『車販組』は二人が及びもつかない販売のエキスパートである。自動車を使ってはるばる遠くの街まで、「あさの葉」を売り歩く。ただし今日は近くの巡回だったらしい。普段よりかなり帰りが早いということは、よく売れたのだろう。
「これより、報告会を行います……それじゃあまずは、今日初戦だった新田俊哉くんと望月史奈さんのところから」
「はい」
立ち上がる二人。杓子定規な俊哉はともかくとして、普段ちゃらんぽらんを売りにしている彼女の方も今は真面目な顔をして起立している……と思いきや、机上に出されたお茶請けの和菓子の細工をじっと観察しているだけだったので、まともに聞く気はやはりないようである。俊哉は心の中で密かにため息をついた。
「新田望月組は本日、西町十番街の河川敷にて販売会を実施しました。持ち込み数は130部、八時ジャストから開始して八時四十二分には完売致しました」
「普段のデータに比べて随分早いですね。喜ばしいことではありますが」
彰考会参謀、と渾名される名和優介のノンフレームメガネの奥底が、冷たく光った。
その言葉は決して褒めているものではない。部数が足りなかったのではないか。つまり、 売れる数の見積もりが甘かったのではないか? という事を言外に尋ねているのである。
やはり逃げられはしないか。鋭く飛んだ指摘に俊哉は冷や汗をかいた。
「前回データではこれでも、かなり余裕のある量だったのですが……その」
彼は隣にちらりと視線をやった。
和菓子に夢中な彼女はまるで気付かなかったが、それだけで名和には充分伝わった。
「なるほど。嬉しい誤算というわけですか」
「はい」
「予想よりも望月さんが販売慣れしていた。そういうことですね?」
「はい。その後望月はビラ配りを二百部、私は十番街の定期配達に分かれて活動し、再合流後、帰ってきました」
「わかりました。では次」
座れと合図され、俊哉はほっと席に着く。が、それにすら気付かずにぼけっと立ち尽くしている隣人を見つけて、彼は慌てて彼女の隊服を引っ張った。
望月史奈。
それが彼女の、名前である。
販売の時の彼女を思い出す。まるで別人のようだった。気まぐれ猫にも似た普段の雰囲気はどこへやら、彼女がはつらつとした笑顔とトークで次々に接客していくお陰で、今日の俊哉はほとんど客と会話をしなくて済んだのだ。新規購読者を増やすための、セールストークをする接客が得意でない彼としては万々歳である。
(出自不明のエリート剣士、か)
月刊「あさの葉」を販売する販売員のことを、彼らは編集部や執筆担当などとは分けて「剣士」と呼ぶ。違法すれすれのゲリラ販売には、精神力も体力も並大抵では務まらない。時には、諸々を掻い潜る図太さも兼ね備えていなければならない。
体格の威圧感で採用された自分とはまるで正反対だ、と俊哉は心の中で呟いた。
史奈の顔を再度盗み見る。
取り立てて美人というわけでもないが、普通に可愛いと称されるであろう顔立ち。年頃の女性であるはずの彼女に飾り気はまるで無く、下ろせば肩を超すほどになる髪の毛も無造作に後ろで束ねてあるのみだ。
桜をあしらった和柄のリボンでそれをまとめているのが、粋だと言えば粋なのだが。
実は、リボン型に結ってある和柄の布が、ゴムにくくり付けられているだけのただの飾りである。本当に和柄のリボンで器用にまとめている訳では無いと知った今となっては、彼女のズボラさが目立つだけだ。
(不思議な奴だ)
違和感。一言で片付けようとすれば、そうなる。
「出版業界で日本語小説の部門に長年務めていた父がリストラされ、病床に伏した。大黒柱を失って自分が働くしかない。父の意志を継いで働けるのは、ここしかない」──立派すぎる演説で首脳陣を落とし、その数ヵ月後、異例とも言える速さで剣士に就任した。
と、巷の噂では囁かれている。半信半疑だった俊哉も、今日一日で十分にその実力を理解した。とはいえ、僅かに残る不信感を拭い去ることは出来ない。
口先だけのただのお調子者かと思えば、自分が褒められている場面にも関わらず見向きもしなかったり。
父を追い込んだ元凶になった洋書が憎い、と語っていながら、めくっている本の中身は結構な頻度でアルファベットの羅列だったり。
なにより、ごく稀に見る真っ黒な光のない瞳が、俊哉には彼女を縛っているように見えて仕方が無いのだった。
『彼女の素性? 詮索してもそんなこと、必要の無いことじゃないかな。この組織には今、新しい風が必要なんだよ』
以前相談した時にそう言っていた彰考会のとある書き手を思い出す。俊哉は今日何度目になるかわからないため息を懸命に堪えた。
「では解散。ああ新田くん、再来週の路上販売計画、今日までですのでよろしくお願いしますね」
その言葉ではっと我に帰った。らしくない。隣人のことにかまけて職務を忘れるなど、どうかしている。
バラバラと散っていく面々に取り残されて、俊哉と史奈だけが会議室に残された。
「今日は名和先生御機嫌で良かったですねえ」
「……まあな」
「あたしのお陰?」
「調子乗るなよ」
はいはい、とまた気のない返事をする彼女。俊哉の苛立ちは募るばかりだ。
「あ、そーだ先輩」
「何だ」
刺々しい物言いになったのはその苛立ちからだった。大人気ないとは思いつつ、止められなかった。
「あのー、ひとつ、聞いてもいいですか」
「何だよ」
ふっ、と陰りを見せた口調に、俊哉は一瞬たじろいた。
「あー、やっぱりなんでもないや」
「何にもなくないだろ。聞けよ」
「いや、その。大したことではないんで」
「なら言えるだろ」
「んん……じゃあ、遠慮なく」
しばらく口を開いたり閉じたり、モゴモゴと唸ったりしていた史奈が、覚悟を決めてぽつり、と呟いたのは意外な一言だった。
「先輩にとって、彰考会って。何をする場所ですか」
「何をする、か?」
俊哉は暫し考えこんだ。
質問の本意が分からなかった。
「何をする、って……そりゃあ、日本語の物語を、書いて、売る場所だろうよ」
「いやぁ、ね。そういう事じゃなくてその……つまり……」
俊哉は首をかしげた。史奈は頭を抱えた。
「ああええっと、そうなんですけどね? えっとだから、その、あー……なんで彰考会に入ろうと思ったか、というか、どうしてここにいるのかとか……」
「ああ、俺がここにいる理由ってことか?」
「あ、そう、そんな感じです」
単純なことを聞くのに随分と言葉を選ぶものだ、と俊哉は思った。シンプルに聞けば良いものを。それも僅かな彼の猜疑心を刺激する。
だがしかし、俊哉は義理堅い人間でもあった。何かに悩める後輩からの質問には答えなければ。少しでもその救いになるなら。その責任感は薄れなかった。
「誇りのため、だろうな」
「誇り……」
史奈がオウムのように繰り返す。いまいちピンと来なかったようだ。なんと言えば伝わるのか……俊哉は言葉を絞り出す。
「この国の国民であるという誇りだ。言葉は血であり、命であり、魂だ。と、昔、名和先生が言っていた」
「名和先生が……」
「そうだ。俺が彰考会に入ろうと思ったのは、その名和先生の講演会を聞いたのがきっかけだったんだ。あの時の感動は、今も忘れられないな」
躊躇っていた自分の最後の後押しをしたのはその、講演会だった。偶然見かけた小さな講堂で、名和優介が懸命に弁を奮っていたのを思い出す。
何故かと問われれば、言葉にするのは難しい。けれどあの時確かに自分は、その演説を聞いて胸が震えたのだ。
気付かぬうちに、口がするすると動き出す。スイッチの入った俊哉はかなりの饒舌になる。彼を止められる人間がほとんどいないことは、本人は全く気づいていないのだからタチが悪かった。
「あの演説を聞いてから、即ち祖先の魂を受け継いで次世代に繋ぐのが我々の使命なのだ。と俺は考えるようになった。日本語で物語を紡ぐということは我々の魂を刺激するものであるのだと、それを文字に起こすことによってさらに強固となり磐石となる。そして後世に語り継ぐことが出来るのであると思うようになった。文字はなくとも、言語だけでいいではないかなどと抜かす輩がいるがこれは言語道断だ。何故ならば言語は残すことにこそ意味があるからだ。形のない言語はあっさりと消されていく、その前例はいくつもあって…………っておい。どこに行く」
そろり、そろりと史奈が後退りをしているのを発見し、俊哉ははたと自分の主張をやめた。史奈はちら、と視線を俊哉から逸らした。
「あの、ちょっとそこまで。ついでにトイレと、和菓子の載ってた食器洗いと、ビラ配りへ」
「お前が先に聞いてきたんだろうが。いいから最後まで聞け」
「いやいやもう大丈夫です。突然妙なことを聞いてすみませんでした」
やはり気まぐれ猫のようにするり、と横を通り、扉へ向かう。慌てて服をつかむよりも早く、彼女は脇をすり抜けた。
「ああそうだ、先輩。後でネット戦略部に顔出しておいてくださいね」
「は?」
「いやあ、あたし今日は色々、やらかした自覚あるので。じゃビラ配りの続き行ってきます」
「え?! ちょ、おい、望月!!」
追いかけた鼻先で派手な音を立てて扉が締められる。
俊哉は先ほどの感傷などすっかりと忘れて、一人会議室で憤りの雄叫びを上げた。
「気にして損するわ、あんの馬鹿野郎が……!!!!」