踏み出す勇気
街路樹が、呼吸する。
乾いた冬の空気が街の隙間を縫って渡る時、かさかさと木々を鳴らすこの音が史奈は好きだった。 本のページをめくる時に鳴る、指と紙が奏でる音に少しだけ似ている気がする。本が語りかけてくるようなあの音も、史奈のお気に入りの一つである。
電子書籍よりも自分が本を好むのは、そのせいかもしれない、と史奈は思った。自分に限らず、出版業界に務めている人間は皆そうかもしれない。そして、その思いに共感する人々が一定数いるからこそ、後退の一途を辿る紙本も、辛うじて命をつないでいるのだろう。
本ごとに違う手触り。それぞれに異なる重さの感触や、栞の位置から残りを確認する時の複雑な思い。読後の達成感が相まって、『本』という姿を形作っている気がしてならない。
(だからこそあたし達がこだわりたいのは、あくまでも「本」の形なんだ)
そんな事を考えながら、史奈は風に合わせて大きく息を吸った。肺いっぱいに溜め込んだ冷たい空気をゆっくり吐き出す。そのまま、バルコニーの手すりにつかまって伸びをする。
史奈たち彰考会員は今日、総出で東三番街にある私立図書館に来ていた。この間新田俊哉と日野渉が二人で視察に訪れた、例の講演会とサイン会が行われる当日である。
図書館の多目的ホールではいま、我らが隊長、辻花あかねの初講演が始まったところだ。人の入りは良好だと、受付で整理券を配る担当だった児島唯子が言っていた。
「ここにいたのか。探したぞ」
背後から声が掛かる。ぶっきらぼうなこの言い方をする人は、知っている中で一人くらいしか思い当たらない。振り返らなくても当てられる人である。
「あらあら、どしたんです? 俊哉先輩」
「それはこっちのセリフだよ。隊長直々の講演会だぞ。もう二度と聞けないかも知れないんだぞ、こんな所にいていいのか?」
推測通り、いつもの隊服姿にしかめっ面で腕を組む、新田俊哉の姿がそこにあった。
「そういう先輩だって、聞かなくていいんですか?」
「お前の姿が見えないから、呼び戻しに来たんだろうが。いい所聞き逃してたらお前のせいだぞ」
何故だ。こっそり抜けた史奈を勝手に追ってきたのは俊哉の方なのに、理不尽な責任を押し付けられて史奈はふくれ面になる。ついつい余計な一言を滑らせた。
「あたしなんか放っとけばいいのに。知ってますよ、俊哉先輩って密かに隊長のファンですよね? こないだのファンレター返信企画に、図々しくサイン下さいなんてねだっちゃうくらいには」
「なっ?! おま、どこで、それ」
途端に彼が挙動不審になる。しまった、こんなに慌てるならもうちょっと大きな借りの時にちらつかせるんだった、と史奈は内心で舌打ちをした。ここまで来たら追い詰めるが勝ち、心の声はおくびにもださず、飄々と続けておく。
「こないだ総務部で手紙整理手伝わされてたら、妙に見覚えのある字にぶつかっちゃったんだよなー。どこで見たんだろ、ああそういえば会議の時とか、いっつも隣で見てる字のような……と思ってウラを見たら案の定」
俊哉から「総務部手伝わせた副隊長をとりあえず締め上げてやる」などという物騒な言葉が聞こえたが、華麗にスルーしておく。
「私と先輩の間に隠し事なんてなしなし、ですよ」
「俺はお前の隠し事を一つも知らなかったけどな」
「で、もう一度聞きますけどいいんですか? 隊長の講演会なんて、もう二度とないかも知れませんよ」
「良くねえよ!」
だったら早く戻ればいいのに。
俊哉がわざわざ抜けてきた理由が見当たらない。
「……いだからだろうが」
「はい?」
ちょうど風が吹いてきて、俊哉が呟いた言葉をさらってしまった。
首を傾げて彼を見やると、何故か史奈の方ではなく明後日の方向を向いた俊哉がそこにいた。
「わんもあぷりーず?」
ようやく覚えた英語で聞いてみる。ちなみに合っている自信はない。
すると、俊哉が真っ赤な顔でくわっと目を見開いて怒鳴った。
「だから! お前が開会前にちょっと険しい表情してたから気になった、それだけだ!!」
「……はい?」
「元気ならさっさと戻ってこい、聞き逃して後悔しても知らねえぞ! あと、コートも羽織らずにこんなとこに突っ立って、風邪ひいても俺は責任取らないからな!! 忠告はした、あとは自己管理だ!!!」
言うだけ言ってスタスタとその場を立ち去ってしまう。置き去りにされた史奈はぽかん、とその後ろ姿をただ見送る事しか出来なかった。
「……ヘンなひと」
少々は気にかけてくれているという事だろうか。本人に直接聞くと「後輩に対する思いやり云々」とまた話が長引きそうなのでやめておこうと思った。
「にしても……意外と俊哉先輩、鋭いな」
実際は元気がなかった訳ではなく、少々引っかかることがあっただけなのだが。それを言うとまた彼が教えろとしつこく食い下がるのは目に見えているので、勘違いしてくれていた方がありがたい。
「ただの気のせいならいいんだけど、ね」
史奈の呟きは誰の耳に届くこともなく、うっすらと積もった雪の中へと吸い込まれていった。
* * * * *
『皆様、今日は麗寿私立図書館へお越しいただき、誠にありがとうございます』
司会のような役割をする人物が、マイクを持って注意事項などをつらつらと述べている。それを舞台の片袖で聞きながら、日野渉は生あくびを噛み殺した。
「ほんっと緊張感のないヤツね」
「今更でしょう」
隣では副隊長の和泉彩香がこちらに呆れの視線を寄越している。
「仕方ないじゃないですか。今日の下準備で、結局昨日は午前サマだったんすよ。それに例の一件があって、ココ最近は俺けっこう今過労気味なんですからね」
「それに関しては感謝はしてるけど……」
「特別手当は?」
「でません」
「ですよね」
あっさりと引き下がった渉はまたこみ上げてきたあくびを殺して下を向く。その姿に、彩香の隣に控えていた名和優介までもがくすりと笑い声を立てた。
「ひっでー名和さん。誰のせいでこんな寝不足になってると思ってるんですか」
「申し訳ありません。私の無理なお願いのせいだということは重々分かっているつもりです」
「特別手当」
「は出ないですけど」
「デスヨネー」
依頼主がこれだもんなあ、と渉は諦めてため息をついた。
「それにしても、まさか望月さんの出身がユナイテッドブックスとはね」
話は自然と寝不足の元凶――望月史奈の経歴に纏わることへとシフトする。
「まさか、あの最大手がそんな人体実験紛いのことをしてるなんて流石に思わなかったわ」
「でもこれで最近のエンカウント率にも納得がいきますよね、今日のサイン会しかり、来月の講演会しかり」
彰考会が開催する企画のほど近い場所で、同時刻にユナイテッドブックスのサイン会が二回に渡り行われる。寄贈本計画が漏れての牽制攻撃かと最初は読んだ渉だったが、情報リークの形跡は見つからなかった。史奈絡みで何かを嗅ぎ当てたのか。もしそうだとして更に邪魔までしてくるのであれば余計に看過できないというものだ。
もちろん殺意が湧いたのは、大手がイベントを当ててくる事にいい感情を抱いていなかった渉に限った話ではない。彼女の事情を知らされた彰考会幹部の面々及び、直属上司の新田俊哉の怒りは、筆舌に尽くし難い程のものがあった。
「あたし達の大事な史奈ちゃんをぐちゃぐちゃにしやがった恨み、どんな手を使ってでも晴らさなければ気が済まない……!」
と一番鼻息荒く物騒だったのは、他でもない今渉の横にいる副隊長様である。
史奈にそこまでの感情移入がない渉が、「どうせ俺がやらされるんでしょう?」などとやる気のなさそうなことを言って睨まれた事件は記憶に新しい。
「そうこう言ってるうちに……登壇しましたよ」
優介が舞台を指して言った。反対側の袖から、隊服を身にまとった少女がしずしずと歩み出て丁寧な礼をする。会場から割れんばかりの拍手喝采が贈られた。
『皆様こんにちは、はじめまして。彰考会代表、辻花あかねと申します。本日はお集まり頂き、ありがとうございます。どうぞよろしくお願い申し上げます』
渉たちもエールの拍手を送った。緊張した面持ちではあるものの、この分なら問題は無いだろう。あとは無事に講演が終わることを祈るだけだ、三人の心はその一点だけに集中した。
はずだった。
「……名和さん、隊長の動き」
「ええ、ヘンですね」
渉の言葉は最後まで言う前に優介へ引き継がれた。
「やたら視線が泳いでるわ」
「なんども袂や袖を確認していますね」
「もしかして」
嫌な緊張が三人の間に走った。
そしてその予感は、的中した。
「隊長、スピーチ原稿無くしたんじゃ」
「あれだけ持ってるか確認してたのに?!」
「だって、そうとしか思えないっすよ」
「残念ながら、そのようです」
縋るような視線がこちらへ向けられたことで、その疑惑は確定へと変わってしまう。渉がちらりと奥に視線を向けると、そこにぽつねんと置き去りにされた白い紙が目に入った。直前まで練習して忘れたというところか。誰も取りには走れない。
「えっと……名和さん、覚えてないっすよね、隊長の公演の中身とか」
「覚えてませんよそんなもの。いくら練習に付き合わされたといっても」
渉は舌打ちをした。断片的にでも思い出してくれさえすれば、ブレスレット型端末のパネルに文字を映してあげるくらいなら出来るのに。最も、あかねの場所からこの位置の画面が読めるかどうかは別問題だが。
「困りましたね」
徐々にざわめきが広がり出しそうな会場を前に、三人の思考はフリーズへ追い込まれた。
「だからやめとこうって言ったのに……!」
彩香が呟くが、状況は好転しない。
辻花あかねが今まで表舞台に立ってこなかった理由が、ここにあった。
彼女は極度のあがり症、もとい、軽度の集団恐怖症なのである。
「隊長、膝が笑い始めちゃったよ……」
「ちょ、まじでどうします?!」
過去に一度、まだ彰考会結成当初の集会で、コメントを求められた隊長が、全員の前で号泣してしまったことがある。その彼女を見たことがある日野渉としては、気が気ではない状況だった。あの頃よりは症状が緩和されていると信じたいが、本人曰く涙は自分の意思と関係なく溢れてしまうらしいのだ。万が一この場でそうなったら収集のつかない事態となる。
寄贈本計画の優先受け入れの条件として、図書館側が提示してきたのがこの「隊長自らの公演」であった。彰考会の作品を特集したとしても、利用人数が増加しないのであれば麗寿図書館で特集を組むメリットがない。まずはその企画で人を動員できるという実績を見せてくれ、と言われて押し切られた公演だという事実は、つい先日知らされたばかりである。計画が始まる前から悲惨な結末を迎える訳には行かない。
ここは恥を偲んででも、自分が飛び出して原稿を拾いに行くべきか。
一時の恥か、一生の後悔か。聞かれなくとも、選ぶ方は決まっている。
渉は腹を括った。
だが、静寂を破ったのは渉が駆け出した足音では無かった。
「き、今日はっ」
動き出そうとした右足が、その声でぴたりと止まる。
「ど……どうやらその、原稿を忘れてしまったようです。ええ、ですから、その、申し訳ありませんが」
あかねが必死で、言葉を絞り出していた。
声は裏返り、小刻みに震える手を必死で握りしめながら。
それでもあかねは、話し始めた言葉を止めはしなかった。
「うまく言葉を、紡げないかも知れません。実をいえば、私は人前で話すことがとても、苦手です。分かりにくいかも知れません。それでも」
会場はしん、と静まり返っていた。
笑う者は一人もいなかった。
「今日は皆さんに、お話したいことがあってきました。ですから、最後まで聞いていただければ、幸いです」
会場からぽつり、ぽつりと拍手が聞こえた。それは周りを巻き込んで、やがて再度の嵐となる。舞台袖で身を固くしていた三人の緊張が、その拍手の音で徐々に解けていった。
すぐ側で小さく鼻をすする音が聞こえた。渉がぎょっとして横を見ると、両目から大粒の涙を滝のように流している彩香と目が合った。
「見んじゃないわよ」
「えっ……と……不可抗力……いや、さーせん……」
その奥では、優介が背を向けていた。
「あれ……名和さん…………も?」
「見ないで頂けますか」
「あ、はい……」
ともすると正反対のように見えるこの二人も、何だかんだ言って世話焼きで、よく似ている。
「……二人とも隊長のこと、好きすぎですよね」
「悪い?」
「悪いですか」
否定をしない憎まれ口に、渉は僅かに頬を緩めた。




