自覚
ゆらゆら、ゆらゆら。
ぬくもりに包まれて、自分がどこかへ落ちていくような感覚に襲われた。
つい数時間前に体験した、記憶の中をさ迷うものに似た感覚ではあったが、それよりももっと安心感のある幸せなものだった。
(名和先生は、何を言いたかったのだろう)
ハッキリとしない意識の中でも、形のない意識で思うのは彼の言葉。
(私の入社試験の原稿なんかを……どうして、持っていたのだろう)
混濁した意識は、そこでまたぷつりと途切れた。
# # #
次に目が覚めた時、史奈の視界に広がったのは見なれた天井と見なれた布団だった。いつどうやって戻ってきたのか、その記憶は全くないが、ここがあかねと共に暮らす離れであることは明確だ。思わず布団をはねのけて起き上がった。普段家で身につけているジャージに戻っている。「史奈ちゃん?!」という、聞きなれてしまった声が耳を打った。
「あ、かね、さん」
あかねはちょうど玄関から上がってきたところだった。
名前で呼んだ史奈に、あかねはその目に涙を盛り上がらせて駆け寄る。
その姿で、今までの一連の流れが夢では無かったことを確認した。
「史奈ちゃん! よかった、目が覚めたのですね!! 体しんどくないですか? 熱は? 痛いところは? 頭は?」
がくがくと揺さぶられるように二の腕を掴まれて、顔をのぞき込まれる。いつもの調子で、最後の質問が余計な気がします、等と茶化そうとしてみたが、どうにも言えそうになかった。心の一部がまだ麻痺してしまったかのように、重い。
「ごめん、なさい」
だがまずは、謝らなくてはならない。
彼女を突き飛ばしたことを。心配をかけてしまったことを。
心配などしてくれなくても困らない、と言うのは、流石に自己中だ。
「そうですよ。心配したんですからね!! この大馬鹿者!!!」
その姿勢のままぎゅっと抱きつかれる。あかねはしばらくその体勢で止まらない涙を流し続けていた。
肩にかかる温もりと暖かい雫を肩に感じながら、史奈はその重さへ身を委ねる。
無意味に、壁時計の秒針を見つめてみたりして。
どうしてこんな泣いてくれているのだろうと、ぼんやり働かない頭で考えた。
どれほどの時間が経っただろう。やがて、あかねの口からぽつりと言葉が漏れた。
「名和さんが教えてくれました。あなたの事……あなたの、過去を」
体の芯に震えが走る。
やはり、知られていた。そして知られてしまった。
もうここには……本を心の底から愛する人々が集うこの場所には、いられない。
「ごめんな――」
「謝らないで」
ぴしゃりと。
予想外の強さで鋭く刺された釘は、史奈の心に止められる。
「史奈ちゃんがまだ、自分のしたことが醜いとか。もうここにはいられないとか。そんなことでうじうじ言ってるんだったら私、怒りますからね」
肩から顔を離したあかねの、涙で濡れた瞳が史奈を射抜いた。
「過去は過去です。それを乗り越えて進む力を手に入れて、私たちは歩くしかないんですよ」
「でも……」
「もう、本は嫌いですか? 日本語は、嫌い?」
それは有り得ない。幼い頃からまるで呼吸かのように習慣づいた読書が、嫌いになるわけがなかった。首を横に振る。あかねが小さく呟いた。
「史奈ちゃんは――過去に囚われるあまり、大事なことを忘れている気がします」
「……大事なこと」
「そうです。まだ思い出せていないことがひとつ、残っているはずです」
ふっ、とあかねの眼光が柔らかくなる。
腕を抑えていた力が弱まって、史奈もやっと息がつけるようになった。
「教えてください、史奈ちゃん」
「……はい」
「あなたが物書きを目指したのは、どうしてでしたか?」
どうして。
根本的な質問をされたのに、言葉に詰まってしまった。
「それは……父に、憧れて」
「本当にそれだけ?」
「……ええと」
聞き返されると、自信がない。
そんな史奈を見て、あかねはさらに問を重ねた。
「あなたが作家を、いいえ、『日本語作家』を目指していたのは何故でしょう。生き残るのが過酷な世界だと知りながら、この世界を選ぼうとしたのは何故ですか?」
答えられない。
目も背けられない。
あかねの瞳は優しく、だが強く、逃げることを許してはくれない。
「凄いねって言われたかったから?」
「…………」
「ちやほやされたかったから?」
「………………」
違う、と言いたかった。だが史奈の喉の奥は、震えただけだ。
「それとも──出版社が出す賞金に、目が眩んだのですか?」
その言葉を聞いた途端、史奈の視界が真っ白に焼き切れた。
そうじゃない。そんな、自分を利用した『彼ら』のような理由では、決してない。
脳裏に白銀の世界が蘇る。小さな影と、その手を引いて歩く大きな影が見えた。
凍える足、悴む手。一歩一歩踏みしめて歩き、振り返る。それを繰り返して初めて見えてくる、確かな足跡。自分が生きてきた証。
『父さんは、なんで本を書くの?』
『伝えたいことがあるからだよ』
『それは英語じゃだめなの?』
『世界に発信するには、もちろんそれも大事な事だと思うよ。日本語を読んで理解してくれる外国人は、減ってしまったからね』
懐かしい穏やかな声と、幼い自分の声。
『だけどね史奈……今この世界には、日本語を忘れてしまった日本人が沢山いる。日本人の魂を呼び起こすのは、やっぱり日本語でしかないと父さんは思うんだ』
『魂って、なに?』
『そうだなあ、一言で言うのは、難しいなあ……』
その声が徐々にフェイドアウトして、今度はもう一つの忘れかけていた声が聞こえ始めた。
『魂? 父さんが言ったの? ……そう。難しいことは、私には説明出来ないけどそれでもいい?』
全てを包んでくれる、柔らかい声。母の言葉だ。史奈は思い出した。
『魂っていうのは、目に見えないものでしょう。でもね、確かにこう、存在を確認できることもあるのよ。例えばほら……素敵な絵を見た時、史奈は感動するでしょう? すごいエネルギーの奔流が体に流れてくる感覚、わかる?』
『魂っていうのは、エネルギーの奔流みたいなものじゃないかしら。でもそのエネルギーは、たった一人で生み出せるものではないと思うの。あなたに分かる日が、来るかしら』
あの日、自分は。
何を、託された?
心臓の脈打つ音が、体を走る。
そうか。これが。
この魄動こそが、受け継いだ魂の、正体だ。
「違います」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
息を吸って、目を開く。史奈に質問を投げかけた、あかねの顔が見えた。
「違います。そんな……そんな安っぽい理由で物書きを目指していたわけじゃ、決してないです」
あかねが頷いた。史奈はしっかりと、あかねの目を見て答える。
「魂とは何かを、ずっと考えて来ました。父は、魂を呼び起こしたいと言い続けていた。母は魂のことを『エネルギーだ』と表現しました。ではそのエネルギーは、どこから湧いてくるのか」
自分の胸に手を当てた。どくどくと、血液の流れる音が絶え間なく聞こえている。ここに自分が生きていると、叫んでいる。
「私の中を駆け巡るエネルギーは、父母がその父母、そのまた父母からと、先祖代々脈々と受け継がれてきたこの血です。日本人として生き、考え、行動してきたDNAです。先祖が残した感性は言葉となり文字となり、魂となってこの身に生きている」
この国から失われようとしている言葉を、父が守りたかったその理由は。自分が同じ世界を目指した、その理由は。
「例え雪の上の足跡のように、自分の存在が消えてしまっても……言葉があれば、自分の命が続いていくと信じていたから。またそう信じた先人たちの、中継ぎになりたいと思ったから」
体の奥底から、ふつふつと熱い何かが湧いてくる。それは大きなうねりとなり、頭の上からつま先までを嵐のように突き抜けていく。
これこそがきっと、探し続けていた「魂」だ。
「よかったです」
「……え?」
あかねが再び、くしゃりと涙に顔を歪めて史奈の肩に顔を埋めた。
史奈は思わず固まった。
「それが思い出せれば、もう大丈夫よね」
「……はい?」
「生きる意味。見つかったでしょう?」
ああ。
そういう事か。
あかねは憂いていたのだろう。「自分の過去を知る」ことが生きる理由だった史奈にとって、新しい生きる意味が無ければ、何度でも自殺未遂を繰り返すだろう未来を。
許されがたい過去を生きてきたこと、それにより今も心のどこかで命を捨てたいと思っていること。すべてを見透かされている。
「もう自分がいなくてもいいなんて、言わないで」
「…………」
「あなたが自分を許せないなら、私が許します。いいえ、彰考会の皆全員が、許してあなたを受け入れます。だからお願い。生きる理由を、自分の中だけに探さないと約束して。あなたはもう、私の大切な家族なのですから」
家族。
こんなにどうしようもない人間を、受け入れてくれるというのか。
気付かぬうちにその言葉が口から零れていたようだった。あかねが史奈を抱き締める腕に、力を込めた。
「当たり前でしょう? あなたはもう、ルナじゃない。物語を愛する一人の人間、望月史奈です。努力家で泣き虫で、人一倍正義感が強くて、仲間想いの素敵な女の子です。そしてなにより、他でもない彰考会の一員です」
彰考会の人々は、皆私の家族ですから。
その言葉を聞いて、史奈は胸がすっと軽くなるのを感じた。それは幼い時家に帰るたびに感じていた、安堵のぬくもりとよく似ていた。
「約束してなんて頼まれたら……わかりましたって言うしか、ないじゃないですか」
「知っています。織り込み済みです」
これが照れ隠しだということも、彼女には伝わっているだろう。
この人には敵わないと、史奈は改めて思った。
「わかりました。約束、します」
「よろしい」
あかねが顔を上げて、にっこりと笑いかけた。史奈もぎこちない、不器用な笑顔で応えた。頬が引き攣りそうだ。笑顔がこんなに難しいものだとは、思ってもみなかった。
だが「彰考会剣士、望月史奈」としては、今までで最も人間らしい笑顔を浮かべているだろうと、史奈は自分で確信していた。
「さあて」
あかねがわざと雰囲気を一転させる、明るい声を出した。
「史奈ちゃんに物書きとしての自我が目覚めたとなると……史奈ちゃん用の執筆室机、増やさないといけませんかね?」
「いきなりですか!? それはいくらなんでも無理です」
今日の夕飯を聞くくらいの軽い調子でもらされた恐ろしい言葉に、史奈の背中へ寒気が走る。
探していたものにやっとたどり着いたばかりだ。単純なブランクはともかくとして、まず、実績ある先生方と共に机は並べられない。加えて、筆を執った時に精神状態が保たれるのかも謎である。トラウマは自分ではどうすることもできない。
尻込みして首を降る史奈の頭を、やさしく撫でてあかねは言った。
「まあまあ、書くことをそんなに怖がらないで。史奈ちゃんに、魔法の呪文を教えてあげますね」
「呪文?」
「ええ」
史奈の両手が、あかねの両手に包み込まれた。あかねはその手にほんの少しだけ、力を込めて言った。
「『やる意志があれば、書けます。心配ならばたくさんの人に聞けばいい』」
「……はい」
「『挫折した日のあなたより、今日のあなたの方が、物語を愛した日々は長いのだから』」
あかねの声が、染みていく。思わず目頭が熱くなった。
慌ててごしごしと目をこすった。
「どうです、カッコいいでしょう?」
「……はい」
「私が書けない、もう書けないと思うたびに唱える、魔法の呪文です」
おどけてウィンクをして見せながら、あかねはふふふ、と笑っていた。ずっと一位をキープし続けている憧れの隊長にも、悩める時期はあるらしい。史奈は少し驚きながら、どこか安心も覚える浅ましい自分を見つけてしまった。
「私がね、スランプに陥って書くのを諦めかけた時にとある方から言われた言葉なんです」
「やっぱり隊長でも、そういう事はあるんですね」
「そりゃありますよ。人間だもの。だけど私にも、譲れない想いがありますから。だからそういう元気が出ない時はこの呪文と初心を思い出して、また一から頑張るんです」
きっと、大事な想いなのだろう。
そして、その言葉をくれたのは、あかねにとっての大事な人なのだろう。
「皆さんには、内緒ですよ。私と史奈ちゃん、ふたりの秘密にしましょ?」
「はい」
「とはいえ、剣士は万年人手不足ですしすぐに籍を移すという話ではないですから」
「そうですよね」
「とりあえず、リハビリに彰考会で開催している通信課題とか提出してみたらどうですか? 匿名で気軽に参加できるから、楽しいと思いますよ」
「受けて……みます」
少女はふたり、小さな部屋の真ん中でそんな会話を続けながら手を取り合ったままでしばらくの間笑っていた。
やっと、人間に戻れたかもしれない。
史奈は心の中で呟いた。




