秘密
意識が浮上する直前に感じたものは、凍えでも飢えでもなく、ぬくもりだった。
肌に当たる柔らかい感触は、先程まで着ていた薄いTシャツとは程遠い。顔に当たる風は外のものではなく、暖房のしっかり効いた部屋のそれだった。
「……明日必ずお届けしますから。この雪です。隊長もお風邪を召されませんよう。え?ええ…………何を言ってるんですか。もちろんでしょう? それでは」
くぐもった声が耳朶を打ち、史奈は完全に覚醒した。目を開ける。視界に全く知らない部屋が飛び込んできた。
殺風景なその部屋は、いわゆるワンルームマンションの一室のようだった。史奈が寝かされているのはベッドの上で、食卓と思しき机が見える。背中を向けた男性がそこへ座っていた。
「目が覚めましたか」
通信を切った彼は聞き覚えのある低い声で尋ねた。背を向けたまま、その人は確認を口にする。起き上がろうとすると、「止めておきなさい」と制止された。
「着替えさせるものがなかったので、濡れた衣服を剥いでタオルと毛布で巻いただけですから。起きると悲劇ですよ」
ぎょっとして確認する。確かに彼の言う通りで、下着は辛うじて付けていたもののそれ以外のものは全てバスタオル数枚で代用されていた。毛布を体にしっかりまきつけ、史奈は再び横になる。
「枕元に、水があるでしょう?とりあえずそれを飲んで寝ていなさい」
喉が焼け付くように乾いていたので、言葉に従って手を伸ばして届く距離にあった水を飲み干した。頭に血が巡る。ため息を一つつき、史奈は恐る恐る顔の見えない彼に声をかけた。
「名和先生、ですか」
声と背中だけを頼りに、名前を口にする。動揺こそ見せなかったが、机の上の書類がくしゃりと歪んだのを史奈は見逃さなかった。
「隊長には連絡しておきました。不安で押しつぶされそうな声をしていましたよ。帰ったらまず、謝らないといけませんね」
「隊長」という単語を耳にして、史奈はつきりと胸の奥が傷んだ。飛び出す前に、酷いことをしてしまった、気がする。いや、気のせいではないはずだ。突き飛ばした感触は、今もこの両手に残っている。心も身体も傷つけた相手に、どんな顔をして会えと言うのだろうか。彼は見透かすように「会いたくない等とごねないように」と先手を打ってきた。史奈は唇をかんだ。
「心配をかけた相手には、誠意で謝らなければなりません。あなたの命は、あなただけのものでは無いのですから」
言われた言葉の意味は、何となく分かる気がする。けれども、素直に頷く気にはなれなかった。
「ああそれから、変態呼ばわりはしないで下さいね。 下着姿を見たことを責めるなら、あんなところで寝ていた自分の方を責めてください」
ん? と思考がストップをかける。
淡々と告げられたその言葉で、初めて「見られた」という可能性に気がついた。
ぶわっと顔が赤くなる。そうか、見られたのか。そういう事になるのか……
人間らしい羞恥心はまだ一応、自分の中にも眠っていたらしい。良かったのか悪かったのかは、今となっては分からないけれど。
背を向けているのは、彼なりの誠意のつもりだろうか。
助けなくても良かったのに。その言葉を吐くのは流石に躊躇われ、掠れた「ありがとうございます」が口を飛び出す。
「どういたしまして。お礼など言いたくもないでしょうがね」
息が詰まった。続いて言われた「死にたかったのでしょう?」との問いかけに、史奈は答えられなかった。
「どうして、それを」
「あんな薄着で雪の中に行き倒れていたら、誰だってそれくらいの予想はつくでしょう」
彼は机においてあったコーヒーカップに口をつけた。史奈はじっと、その彼の指先を訳もなく見つめてつめた。
「すべてを思い出して、しまいましたか」
こつり。
カップの置かれた音と共に。
彼の言葉が史奈に突き刺さった。
「私の過去を……知って、いたのですか」
「……いいえ? 単純に、あなたが何の理由もなく突然死のうとするとは思えない。という仮説を立てただけの事です」
当たりましたよね、と彼が言う。誘導尋問にひっかかったのだと気がついたがもう遅かった。
「あなたが死のうとするなら、記憶を失うほどのショックがあった過去を思い出した時、それが一番可能性が高いだろうと。『自分』が何者かを知るまでは、不安でも漠然とでもあなたは生きるという選択をせざるを得ない。何故ならばそれを知ることこそが、あなたの生きる理由だったからです。そう仮説を立てたのですが。違いますか?」
かけられた追い打ちには、黙る事しかできなかった。
カーテンで遮られた窓の外は真っ白に染められていることだろう。びゅうびゅうと窓が泣いた。風も強いようだ。
そしてそんな音を聞き取ってしまうほどの静寂が、二人の間に横たわっていた。
史奈は顔だけを横に向け、彼の背中を見つめる。彼は何を思い出したのか、手元にあった紙をパラパラとめくり始めた。
「──退屈でしょうから、昔話でもしましょうか」
史奈の答えを待たず、彼は一枚の紙を見つけ出す。それを子供に寝物語として聞かせるかのようなスピードで、読み始めた。
「『雪の降る夜が、好きだった』」
「『朝起きればまっさらな世界が広がっている。窓を開けるその瞬間を思い描いて、わくわくしながら眠りについたものだ。それは私が、まだ幼い子供の頃から抱いていた気持ちであり、大人になってもまた消えることのなかった感情であった』」
滔々と流れ出す言葉の羅列。何を言い始めたのか検討もつかず、史奈は黙ってそれを聞いていた。だが聞き覚えのある文章だとも思った。訝しんでいると、彼が読んでいた紙を持ち上げてひらひらと揺らした。
「あなたが、とある出版社の入社試験で提出した短編小説の冒頭です」
「……え?」
「覚えていませんか?」
ぎこちなく頷いて、彼の目が全くこちらを見ていないことに気が付き慌ててはい、と声を出す。掠れて変な音になったが、彼は気にしない。
「毎年その出版社は、採用試験でエッセイを書かせます。志望動機や作品傾向を見る為でしょうか。あなたが題材に選んだのは、雪でした」
雪。真っ白な雪。
確かにそれは、自分が好きなものだ。
しかし何を書いたかは、全く思い出せない。
「それと今の私に、何の関係があると……?」
「さあ? 関係あるかも知れませんし、無いかもしれません。ただ僕は、今日のような雪の夜にはふとこの原稿を読みたくなるのですよ」
「何故名和先生がそれをお持ちなのですか」
「それは守秘義務というものでね」
何がおかしいのか、彼は背中を揺らして笑った。そして再び、原稿に目を落とした。
「『まっさらな空間に初めての足跡をつける瞬間というものは、私をいつも童心へ帰す。足先に痺れるほどの冷たさを感じながら、胸は高鳴り、口もとはおのずと緩む。そして思わず駆け出してみたりなんかして、しばらく行ってからぱっと後ろを振り返るのだ。はあはあと上がった白い息の向こうに自分の足跡が見える時、私はなんとも言えない幸福感と達成感で満たされる』」
自分が書いたものだと分かると途端に気恥ずかしくなって、史奈は思わず大声を上げて止めてくれと抗議したい衝動に駆られた。が、彼がそんな事でやめてくれるはずもない事は、性格からして目に見えている。史奈は観念して彼の声に耳を傾ける事にした。
突然語られ始めた、自分が昔書いたらしいエッセイの話。もし何か大事なことが隠されているのであれば、このチャンスを逃す手はない。
そこまで考えて、また無意識に生きる意味を探してしがみついている自分に気がついた。呆れを通り越して滑稽にさえ思えてくる。他の誰が否定しようとも、許そうとも、自分が自分自身を許せないのだ。それなのに。
どうして人間は、こうも浅ましい生き物なのだろう。
背中を向けたままの彼は、史奈の頭の中などお構い無しに原稿を読み進めて行く。
「『ところがそうやって振り返り振り返りしながらしばらく歩いていると、突然、言い知れない寂しさが私の全身へ襲いかかってくることがある。今自分がつけた足跡は、いつ消えてもおかしくないという現実に気づいてしまうのだ』」
「『 誰かが通って踏みつけていけば、自分の足跡と見分けがつかなくなるだろう。また新しい雪が降れば、春になって雪が解ければ、この足跡は跡形もなく失われてしまうのだ。たかだか雪の足跡一つ。そう言ってしまえばそこまでだが、その事実にはたと思い当たった私は、言葉で表しようがない虚しさに襲われるのだった』」
その気持ちは今も変わらない。
雪道を漠然と歩く時、史奈が考えることはいつも足跡の虚しさだ。
「『しかしその日は、いつもとは少し違っていた。寂しさに打ちひしがれながらしばらく歩いていると、またふと別の感情が沸き立ってきたのである。
この感覚は、この虚しさは。もしかすると全人類がかつて、太古の昔から抱えてきた渇きなのではないのか。今から思えば滑稽な話にも聞こえるが、唐突にその考えが、天から降ってきたのである』」
おっと、いきなり話のスケールが飛躍した。
表情筋が苦笑めいて歪んだのを自覚する。だが次に聞こえてきた文章に、史奈は思わず息を吸いこんで喉の奥をひりつかせた。
「『雪の一例は確かに些細な出来事と言えよう。だがどんな文豪の著作も元を正せば、その得体の知れない「渇き」を言葉にしようと、もがき続けてきた結果の産物ではないだろうか。誰かと共有したい。誰かへ残したい。その衝動から人々は、我々に数え切れないほどの書物を、残し続けて来たのではないだろうか』」
「『誰かに自分の意思を伝えるため、言葉が生まれたのだとしたら。文字はそれを後世まで大事に残しておくために生まれ出たものではないだろうか。私達の祖先は足跡が消えてしまうと嘆いて終わり、にはしなかったのだ。残すための方法を考えた。私にはそう思えてならなかった』」
そこで彼は言葉を切り、つと窓の外に視線を向けた。
雪は止まない。ますます激しく降るばかりである。
一際大きく窓が軋んだ。
「私が、このエッセイを見つけた時には……既に、手遅れでした」
何が、とは、聞けなかった。
急激に史奈の瞼が重たくなって、落ちてくる。考える間も与えられず、史奈は眠りの海へと突き落とされた。
薄れゆく意識の中でひと言だけ……彼の謝罪の言葉が聞こえた、気がした。




