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筆を執れ!  作者: 楠木千歳
三 その少女、己を知る。
16/23

衝動

 彰考会隊長、辻花あかねが、自宅へ急いで帰っている途中で史奈の悲鳴を聞きつけた数秒後。

 部屋の扉を勢いよく開け放ったあかねが目にしたものは、散乱した史奈の部屋と、畳の隅で小さくうずくまっている彼女の姿だった。

 激しくしゃくりあげる声を部屋の畳が吸い込んでいく。ぽたぽたと垂れる雫がシミを作る。

 祈るように握り締められた万年筆と共に、くしゃくしゃに握りつぶされていたのはノートを数枚破ったような紙切れだ。引き裂かれたそれの本体は近くに転がされており、無残な姿を晒していた。


「史奈、ちゃん……?」


 尋ねた声は自分で思い描いたものよりも数段小さく、頼りない。予想外の姿に動揺していたが、自傷行為迄は至っていないことを確認すると少し気持ちにゆとりができた。首を大きく振って自分に喝をいれ、彼女の肩に手をかける。


「史奈ちゃん。聞こえますか? 私です、辻花あかね」


 優しく、背中をさするように。目線を合わせて膝をつく。過呼吸気味になっていた史奈の息が少し落ち着いて、彼女は虚ろな顔をあかねへ向けた。


「分かりますか? あかね。辻花あかね」


 辛抱強く繰り返すと、ようやく焦点の合った瞳があかねを捉えた。

 あかねも史奈をじっと見つめ返した。涙ではりついた髪の毛も、赤く充血した目をした彼女も初めて見る姿だった。切れた唇が「あか、ね…………」と乾いた音を紡いだ。


「私が誰か、覚えていますか?」

「……たい、ちょう」

「そう。正解」


 あかねは心の中で安堵のため息をつく。同居人の事すら忘れてしまうほどの錯乱状態に陥っているようなら、手に負えないと思ったからである。


「隊長……あたし、駄目なんです」

「何が、でしょう」

「駄目なんです。生きてちゃ、いけないんです」


 その安堵も束の間、史奈の口からあまりにも過激な言葉が飛び出す。

 呆気に取られて物も言えないあかねに、史奈は壊れたロボットのように繰り返した。


「駄目なんです。死ぬはずだったの。死ななければならなかったの」

「史奈ちゃん、落ち着い――」

「あたしはあたしになってはいけなかった。過去を知って自分を完成させるべきではなかった。記憶とともにあたしを、殺しておくべきだった」


 両目から溢れ出す涙はとどまることを知らなかった。あかねがティッシュの箱を差し出しても、史奈は首をふり頑なに受け取ろうとしない。


「史奈ちゃん……」

「ごめんなさい」


 小さく、小さく。

 あかねにさえ届くか届かないかの謝罪を残し。

 次の瞬間、あかねの視界が反転した。


「――――――――ッ!!!!」


 声にならない悲鳴があかねの喉の奥から漏れたもれる。

 突き飛ばされた。

 理解した時には、もう遅かった。


「ふ、みな、ちゃ」


 掠れながら、切れ切れに呼ぶ名前は既に届かない。

 着の身着のまま飛び出した彼女の後ろ姿を、あかねは小さくなるまで見送ることしか出来なかった。








* * * * *







 どこをどのように走ったのか。

 自分でも、理解出来ない。

 はっと我に帰った史奈の目の前には、彰考会のある古ぼけたビルがそびえていた。

 無意識のうちに自分の本能が、まだこの場所へ甘えているらしい。

 居場所などないと、いる資格などないと、突きつけられたばかりなのに。

 

 月明かりもない、真っ暗な夜になっていた。裏路地のぽつりと立った街灯だけが明るい。スポットライトのように照らされた裸足の自分は、さぞ滑稽に見えることだろう。


「……ははっ」


 自嘲の笑いが口から漏れた。

 壊れた人形。思いついた比喩が余りにも的確で、痛烈な皮肉で、また乾いた笑いが込み上げる。


「ふ、ははっ……」


 冬の足音を運ぶ冷たい風が、走り疲れた体を急速に冷やしていく。随分と薄着で出てきてしまった事に気がついた。寒いと思うのもおこがましい事だろう。

 本当はこの服だって、自分のモノではないのだから。

 行く宛も過ごす宛もない。いっそ通りすがりのトラックが自分をはねてくれればいいのに、こんな路地裏ではその望みが叶う気配もまるでない。

 ふわり、と頬に冷たいものが触れた。雪だと気づくのに時間はかからなかった。

 史奈は体を彰考会のビルの壁に預けた。力が抜け、ずるずると背中が冷たい壁面を滑り落ちる。


「父さん……母さん」


 「望月史奈」という人間を産み、愛を注いでくれた人たちは、きっともうこの世にはいない。

 それでも折れそうな声で助けを呼ぶ自分の声が、やっぱり酷く馬鹿らしく思えてきて。


 

『これはなかなか面白いな』

『ほんとう?』

『ああ。よく出来てるよ』

『きっとお父さんみたいな、素敵な作家になるわね』


 ごっこ遊びの代わりに物語を紡いでは、両親に見せびらかした日々が蘇ってくる。

 作られていない記憶をなぞり、涙が頬をつたった。

 目尻からあふれるしずくは熱いのに、外気に晒されて凍る温度へと化していく。けして大粒の涙ではなかった。ぽたり、ぽたりと垂れる雨だれのようなものだった。


 このまま、凍えてしまえたら。

 そうだ、それがいい。見つけた人は、困るかもしれないけれど。きっと明日の朝誰かが出勤してくる頃には、息絶えていられるはずだ。

 

 史奈はそのまま目を閉じた。静かな眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。

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