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筆を執れ!  作者: 楠木千歳
三 その少女、己を知る。
13/23

後悔

『I have received countless disparagements. Apparently I am useless. They all looked down on me. I soon lost sight of any reason to live.』





* * * * *




 ──そこは一台のパソコン画面から発せられる、青白い光だけが頼りの真っ暗な部屋だった。

 薄暗い光の中でかろうじてわかるのは、山ほどある書類たちが、きちんと書架に納められている様だ。

 彰考会の資料室にも似ているが、それよりももっと広くて整然としていて、陰鬱な空間だった。

 記憶の中だ。漠然とした意識で史奈は思った。無くした記憶の中を、第三者視点で見つめている。この場所は恐らく、自分が勤めていた出版社にあった一室かなにかだろう。


 すっ、と見えている視界が動く。部屋の一角、最も人目につかないであろう死角に、自分の後ろ姿と五十代くらいの男性の姿が見えた。


『それだけは……』


 か細く弱い、自分の声がする。近頃の自分と比較すると、まるで別人のような自信のない小さな声だった。何故もっと堂々と喋らないのかと、イライラする程にその声は小さい。


『またそれも出来ませんと言うつもりか?』


 恫喝のようなセリフが、相手から吐き捨てられる。明らかにバカにした、見下す言い方が聞こえた。それが史奈の前に立つ、くだんの男性のものである事は明らかだ。


『作家を降りて編集になれと言った時も、編集から販売に変われと言った時もお前は開口一番に「出来ません」を口にした。じゃあ逆に聞くがな、お前に一体何が出来るんだ?』

 

 いやらしい笑みを浮かべ、男性はなじるような物言いで史奈への物理的距離を縮めていく。自分がいまどんな表情をしているかは見えない。だがきつく握りしめたスカートの裾から、顔が引きつっているであろう事は容易に想像がついた。

 じり、と後ずさった史奈の背中が壁につく。角に逃げ場はない。

 史奈は俯いたまま、必死の抵抗を試みる。


『そ、れでも……今までは言う事を、聞いてきました』

『今回も聞けばいいじゃないか』


 史奈の肩に男性の手が触れた。分かりやすく跳ねた史奈に品のない笑顔を貼り付けて、息がかかるくらい近くまで覗き込む。

 今の自分が嫌悪感を抱いても、どうする事も出来なかった。なぜ自分はこの男の言いなりになっていたのか。蹴り倒して逃げればいいのに、といくら歯噛みしたところで状況は変わらない。

 

『それでも今回は……出来ません』


 そこまで近づくことを許しておきながらも、過去の自分は辛うじて命令の拒否だけはした。何を頼まれたのかは分からないが、少なくとも彼女にとって、周囲の人間にとっていい事ではないようだ。

 

 だが男は引かない。彼のまとう空気が怒気をはらんだのが分かった。威圧感を強めた男は肩にあった手をあごにのばして史奈の顔を持ち上げる。鈍い音がした。史奈の頭が背後の壁にぶち当たった音だった。


『お前の大事な大事なお父上が、どうなっても構わないんだな?』


 ひゅっ、と乾いた音が史奈の喉の奥から漏れた。男はさらに畳み掛けた。


『可哀想に、金がない食いっぱぐれの、自費出版で本を出すような作家では病気は悪化する一方だろうなあ。ただでさえその日暮しの家だったろうに、出版社をクビになって……頼みの綱の娘が職を失ったと聞いては、どれほど気落ちするだろうか』


 作られた猫なで声が耳にかかる。逸らした顔がこちらに向けられて、史奈は初めて自分の顔を見た。先程まで感じていた強烈な違和感は無いが、今にも泣きそうな表情をしていた。昔の方が今の自分より感情の起伏が激しいように思えた。


『悪い事は言わない。お前は家族思いのいい子だろう? お前が言う事を聞きさえすれば、お前のお父上の入院費を全額賄えるだけのボーナスを出そう』


 どうだ、と聞かれても答えられない。

 ついに史奈の目から一粒の雫がこぼれ落ちる。ぱたぱたと小さなしみが、床にできていくのがわかった。

 

『その顔もそそるねえ……だけど泣いたって拒否権は無いことくらい、分かってるよなあ? 優しい優しい史奈ちゃんは、家族を見殺しになんてできるはずもないからなあ?』

『ち……父を……見殺しにしたのは、あなた達の方でしょう?』

『言うじゃねえか』


 唐突に唇を塞がれた。見ている【現在の自分】の息も同時に詰まった。

 記憶の中の自分は必死で抵抗するがあっさりと両手を上に絡め取られる。そのまま男のもう片方の手が服をまさぐりだし、史奈のスーツのボタンに手をかけた。

 強烈にリアルな感覚がこちらにも駆け抜ける。当時を思い出したのだろう。蠢く感覚に震えが止まらない。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 これから起こる事象に諦めを覚えた、その時だった。


 ガタン、と派手な音が鳴り、資料室に誰かが入ってきた。動きを止めた男性が、「またか」と小さく舌打ちをして乱暴に史奈を離す。その場に崩れ落ちた史奈を捨てて、物音のした入口の方へと歩いて行く。

 どっと力が抜けた。放心と怒りと切なさと、諸々が入り交じった感情の渦が湧き上がる。

 

 暫くして、先ほどの気持ち悪い猫なで声が、遠くの方からした。


『ああ、これはこれは。――先生ではありませんか。最近ここでしょっちゅう会う気がしますね、自分の書庫があるのにわざわざこちらまで出向かれるとは、ご苦労なことです』


 肝心の名前は聞き取れなかった。が、男にとっての邪魔が入るのは、今回が初めてではないらしい。言外にあからさまな牽制をかけている所からして、男が相当苛立っているのが分かる。


『こんばんは部長。そうでしたかね……昔の事は覚えていないもので、すみません。何せ頼まれた仕事が立て込んでいるものですから』


 思ったよりも年若い男性の声がした。どこかで聞いたことのあるような、似たような声を知っている気もしたがすぐには思い出せなかった。失われていた記憶に、彰考会へ来てからの記憶を被せてしまっているのかもしれない。


『ここには私の書庫にはない本もたくさん置いてあるのですよ。煮詰まった時はここに来ることにしていまして。理数分野の本までよく集めて下さっていますよね。感謝します』


 嫌味とも本音ともつかない言い方で、登場した彼は言葉を紡ぐ。部長、と呼ばれた方が何も言い返せないところを見ると、彼は社内の人間から一目置かれる存在であるらしい。


『あ、ああ……まあ――先生の研究には、私たちもお世話になっていますからね。役に立てて頂いているならばなによりですが』


 耳をすませているつもりだが、どうしても名前だけが聞き取れない。

 理数分野の本とも言っていたし、何かの研究者か教授の類だろうか。出版社の秘密書庫に出入りできる外部の人間が稀な存在であろうことは容易に想像がついた。顔を見てみたい、と思ったが思うように視界が移動したりはしない。自分で見ていない光景は補完できないという事か。


『そうだ、部長さん。被験者、決まりましたか?』

『ああ……先ほど話をつけましたよ、大丈夫です』


 記憶の中の史奈がぶるり、と体を震わせた。持ちかけられた命令は実験台か、とようやく理解する。力が入らない史奈は座り込んだまま震える指先で必死になって服装を整えていた。


『強制ではなく、共感の合意ですよ?』

『え、ええ……それはもちろん』


 何がもちろんだ。史奈は腸が煮えくり返る思いでそれを聞く。乱入したくても声が出せない。この世界に干渉できない自分が歯がゆくて仕方なかった。


『であれば良いのですが。では明日十時に、私の研究棟まで連れてきて頂けますか』

『分かりました』


 史奈の存在に気づかぬまま、研究者の彼は二三冊の本を借りて部長と共にその部屋を後にした。


 後に残された史奈は歯を食いしばって耐えていた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、スーツのポケットへ手を入れる。


『父さん、父さん、ごめんなさい。こんな事になって、ごめんなさい。あたしがあの時……父さんが契約を切られた時、あなたを守れていたら。一番最初の無理強いで、とっととこんな所、辞めていたら……』


 ポケットから現れたものを握って、史奈は呟きつづける。

 見覚えがあった。それは史奈がいつも持ち歩いている、万年筆だった。

 

 不意に閃く。

 あれは父から譲り受けた、大切なペンだ。思い出した。就職祝いに父がくれた、父が手で原稿を書く時や設定メモを作る時にずっと使っていたもの。小さい頃からそのペンに憧れていた。「大きくなって作家になったらやる」と父に言われて、そんな約束は当の昔に忘れていたのだが、採用が決まった時父が真っ先にくれたものだった。


 世界の色が混濁し始めた。泣き続ける自分を見て、様々な事に憤る一方で何故かとてもほっとした。

 あたしもちゃんと、人間だったのか。

『私はことある事に罵倒された。私は役立たずだそうだ。みんな私を蔑んだ。私は、何故生きているのか分からなくなった』


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