落涙
うっすらと、目を開けた。
見慣れた景色が象を結んだ。
史奈は自室にいた。
殺風景な、畳の部屋だ。八畳以上もあるスペースにおいてあるものといえば、最低限の着るものと膨大なノート、それからいくつかの本くらいである。
隊長が何から何まで――そう、彼女が生活しているという自宅の離れの、使われていなかったこの一室に至るまで、全てを好意で準備してくれなければ、冗談抜きで生きてはいなかっただろうと思う。
一人暮らしをしていたはずの、自分の家の場所さえ記憶からすっ飛ばしてしまったのだから。
ごろりとうつ伏せ向きになって、畳の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。酸素が肺に満ちていく。苦しくなって吐き出す。畳につけた耳から、どくどくと心臓の声が聞こえた。
ああ、生きている。たぶん、生きている。
突然の慟哭に苛まれて、脇谷篤郎と吉田剣星を放り出すようにして逃げた。けれどあの後、結局他の「何か」を思い出す事はなかった。落ち着きなく、ビル内を徘徊するだけで終わってしまった。もちろん、手がかりなど見つかるはずもない。仕事に身が入る気がしなかった為、そのまま半休届けを出して帰ってきて突っ伏して……今に至る。
日はまさに、西の空へ沈まんとする所だった。どれくらい長い時間、そうやって死体になっていたのか分からない。ただただ体と頭が疲れ果て、麻痺している。それだけだ。
痺れて悲鳴を上げる体を無理やり起こし、壁に預ける。
しんどい。
史奈は誰にともなく呟いた。
時計を見た。夕飯時にはまだ時間があった。普段は帰宅の早い人がご飯を作り、帰りを待つ。隊長の御両親は共働きかつ自分たちと生活リズムがまるで違うため、自分たちの家事は自分たちで分担している。実質上の二人暮らしだ。
だが今日は誰にも会いたくなかった。それよりも食欲がわかなかった。
『今日は食事をして帰ります』
小さな嘘に罪悪感。心の中で謝った。
せめて隊服は、着替えなきゃ。
緩慢とした動作で紐をとき、ばっさりと脱いで、カゴに放り込んでおいたTシャツとジャージを身に付ける。一通り片付けて、少々隊服にシワがよっていることに気がついた。やはりそのまま寝転がるべきでは無かったと後悔した。
大きく息を吐き出して、望月史奈はゆっくりと、また目を閉じた。
嫌でも思い出すのは、脇谷篤郎と吉田剣星に向かって無意識に自分が放った言葉たち。
自分の夢は、父の背中を追いかけて作家になることだった。
自分が勤めていたのは、本屋のバイトではなく出版社だった。
そこで校正作業を、時々やっていた。
でもそれは、本職では無かった気がする。
そこまでは何となく思い出した、けれども。
思い出して何になる、ともう一人の自分が問いかける。
忘れたままでもいいではないか。ここは優しく、暖かい。自分が何者でもいいと、それを許容してくれている。多少の噂が何だ。思い出さない方が、灰色に染まった心を傷めなくて済むかもしれない。
そこまで考えてふと、果たして自分には「心」があるのだろうかという疑問が頭をよぎった。
かちかちと鳴る時計の音だけが耳に届く。史奈は思考の海へ沈む。
自分が「化け物」と巷で呼ばれている事は知っていた。そして、洋書推進派の「スパイ」ではないかと疑われていることも知っている。でもそれは史奈になんの感傷ももたらさない。時々ズキリと痛むのは、頭くらいのものだ。
史奈が知る限り、普通の「人間」は、そういった悪意のもとに流される噂に対して平気ではいられない。だが史奈には、どこか自分より外側の、別世界のことのように感じられて、どうでもいいという気持ちの方が強い。
一言で表すならば、虚無というのだろうか。穴が空いたような感覚だけが居座っている。まるでロボットみたいだ、と史奈は自嘲した。
何の気なしで目をやった本棚に、「秘密のアンドロイド」というタイトルを見つける。先日古本屋で購入した、人工知能搭載のアンドロイドが人間と危険な任務をこなす小説だ。古本なだけあって、ところどころ破れたり、染みだらけになっていたりしたがなかなか読み応えはあった。一昔前ではそれらは「SF」と呼ばれる小説の括りだったが、今分類するならば「現代もの」になるだろう。少数ではあるが、人工知能搭載の人型アンドロイドは世界に数体存在している。
もしかしたら、自分は本当に。
アンドロイドやAIの類なのかも知れない。
それなら化け物でもスパイでも、記憶がないことの整合性も、全ての辻褄が合う。目や耳や体の一部のどこかに、カメラやレコーダーが仕込まれているとか。作られた記憶がない方が、さまざま場所に潜入しやすいだろう。そうか、そうかも知れない。
目線を落として、気づいたらズボンの太ももあたりが濡れていた。どこで汚したんだろう、と疑問に思って手でなぞると、その手の甲に暖かい水滴が落ちてきた。
泣いていた。
「あたしは、誰?」
答えはない。部屋は沈黙を保っていた。
ごしごしと目を擦る。それでもやはり、痛むのは心ではなく擦られたまぶたの方だ。
とりあえず、整理しよう。史奈は立ち上がって書棚にあったノートを引っ張り出す。今日思い出したことと、その可能性を。記憶が必要なのかそうでないのか、考えるのは後ででいい。
そうしないと先へ進めない気がした。
『出版社』
知らないうちに手に握っていた、毎日持ち歩いている万年筆のキャップを取る。いつもより数段覇気の無い字でそれを書き出した。
チカリ。
瞬きをしたまぶたの裏へ一瞬だけ、何かの景色が過ぎった。暗い部屋に最新式のパソコンが設置されている部屋だった。
「……ん?」
もう一度同じ文字を書いてみる。目を閉じる。
また一瞬、画像が過ぎった。
今度は先程よりも少しだけはっきりと見えた。パソコンの画面には、たくさんのアルファベットが見える。
「なに……今の」
こんなことは初めてだ。震えだした手を抑えて、もう一度書く。
『出版社』
今度こそはっきりと、全く同じ映像が、フラッシュバックした。
モニターに自分の顔が反射していた。見慣れたはずの顔。どうしてかとてつもない違和感を感じた。
心臓が凍る。
背中を冷や汗が駆け降りる。
――――知りたい。やっぱり、知りたい。
渇きとも飢えともつかぬ欲求が、腹の底から湧き上がってくる。
それが自分の過去であるなら。自分が何者かを証明してくれるのならば。
知りたい。否、知らねばならない。
誤魔化しでもう、誰かの前に立ちたくない。
心が悲鳴を上げて軋んでいた。それでも、史奈は止めなかった。
『出版社』
『出版社』
『出版社』
『出版社』
『出版社』
『出版社』
『出版社』
何度も何度も、書き連ねた。残像は一瞬で消えてしまう。その違和感を追求するために、ざわつく心と手の震えを抑えて書き続ける。不安を消し去ろうと唇を噛み締めた。血の味がした。
『出版社』
十回目を書き殴ったその時。
溢れ出した光景は、史奈の目を焼いた。
* * * * *
『今日は食事をして帰ります』
そのメールがブレスレット型端末に届いた時、彰考会の隊長、辻花あかねは密かに眉をひそめた。
副隊長である和泉彩香の報告によれば、彼女は今日体調不良で早引き、となっている。そんな人間が、外で食事をしてくるとは考えにくい。
「何か、あったのかしら」
虫の知らせとも言うべき何かが、あかねの心をざわつかせた。
「みなさん、今日は早めに帰りましょう。私は切りがいいので、ここで失礼させていただきます」
「何かありましたか?」
この所、次の企画の打ち合わせが長引き残業が続いていた。名和優介が敏感に察してその質問を挟む。
「よく分からないのですが、胸騒ぎがするのです」
フィーリングを馬鹿にしてはいけない。あかねはそれのお陰で、いくつもの危険を回避してきた。優介もそうですか、と言ったきり深くは追求してこなかった。
とにかく急いで帰ろう。鞄に荷物を詰めて、一礼して執筆室を後にする。
あかねは言い知れない不安感に押しつぶされそうになりながら、家路を急いだ。
あかねが今暮らしているのは、彰考会から歩いて十五分くらいの位置にある、実家に隣接した二部屋の離れのうちの一つである。二つも離れがあるという不思議な構造をしてはいるが、今となっては絶滅危惧種の日本家屋だ。
家は着物屋を営んでいて、母屋の方は店も兼ねている。自分が彰考会を立ちあげるのと同時に、生活面でも独立しようと離れへ移り住んだ。水周りは共用だが、それなりに線引きしてうまく回っている。史奈に離れの一つを貸してからは、二人で家事を分担することもあって楽しみも増した。
周りからは正体不明の人間を傍に置くなど気がふれている、と言われたが、あかねは気にしていない。
一緒に暮らしてみて分かったことがいくつかある。彼女が博識なのは、ジャンルを問わず様々な本を片っ端から読み漁るからだ。知らなかった事はノートに手で書き出す。そうやって記憶を定着させている。けして得体の知れない化物なのではない。
そして「スパイ」の可能性。これもあかねは否定派だ。彩香も今日言っていた事だが、史奈は嘘をつくことが壊滅的に下手くそだ。そんな人間に、スパイのような器用なことができるはずも無い。アンドロイド説も同じだ。悲しい、苦しいことに関しての感覚は麻痺しているようだが、彼女にはきちんと感情がある。笑って、喜んで、そして好きな事がある。
一人っ子の茜にとって、姉妹のような存在になっている史奈は、今やかけがえの無い家族の一員だ。その彼女にもし異変が起きているのならば、放ってはおけない。
夕日の色だけが残る黄昏の空を睨みながら早足で歩く。息を切らして母屋の前にたどり着いた、ちょうどその時だった。
「ああ、うあぁあぁぁあああ……ッッッ!!」
悲鳴が耳を劈いた。
それは疑いようもない、史奈の声そのものだった。




