レイニィウスの泪 第十二話
「ほっほっほ。どんな娘かと思えば人の娘か。なるほど、だが目は悪くないみたいだがの」
「は、はあ。あの、語詩亜です。よろしくお願いします」
「あまりかしこまらんでもいい。そんなでは修行するにも窮屈じゃろて」
「そうなんですか」
「そうじゃ」
今、詩亜はレインウォードとカナンと別れて女王の木の玉座の奥の扉、つまり女王のプライベート空間の庭園にいた。ここの広場でまずは話の程をこの目で確かめようというのだそうだ。ちなみにこの老人はカナンを通さなくとも詩亜と意思疎通ができた。つまり、人語を話せた。
詩亜が立っている場所から遠くに案山子をいくつかたてられている。それを対象にして魔法を使えばいいそうだ。そう説明を受けた詩亜は、少し緊張した面持ちでいる。
「ではまずおぬしのできる魔法を使ってもらおうかの」
横目でそれを見ながらエルフの老人、女王メシュトローム・エステアリカの父親であるカカンナカル老は一番左にある案山子を指差した。
「一応四属性の第三段階まではできます。……では、いきます」
語詩亜はひとまず今できる魔法を使ってみることにした。一つ深呼吸をして息を整える。
まずは土属性。
《コ=シィ=キリル》対象に守りを与える魔法。
詠唱は、慈悲たる母の抱擁、コ=シィ=キリル。
《コ=スィ=シスカ》対象の足元を隆起させて攻撃する魔法。
詠唱は、怒れる大地の隆動、コ=スィ=シスカ。
《コ=ムィ=キリル》対象により守りを与える魔法。
詠唱は、慈悲たる母の抱擁をその身に纏え、コ=ムィ=キリル。
次に水属性。
《ナ=シィ=シスカ》対象の頭上に氷のつぶてを降らせる魔法。
詠唱は、凍てつく大気の波動、ナ=シィ=シスカ。
《ナ=スィ=キリル》対象の生命力を回復させる魔法。
詠唱は、慈悲の涙、奇跡の雫、ナ=スィ=キリル。
《ナ=ムィ=シスカ》対象を凍らせる魔法。
詠唱は、凍てつく大気の波動、氷結地獄に抱かれよ、ナ=ムィ=シスカ。
そして火属性。
《キ=シィ=シスカ》指定した小範囲を火炎で焼く魔法。
詠唱は、深淵にて燻る地獄の業火、キ=シィ=シスカ。
《キ=スィ=シスカ》対象に炎の塊をぶつける魔法。
詠唱は、深淵にて燻る地獄の火球、キ=スィ=シスカ。
《キ=ムィ=キリル》武器に炎を纏わせて火属性を一時的に付与する魔法。
詠唱は、罪を罰する浄化の炎、キ=ムィ=キリル。
最後に風属性。
《セ=シィ=シスカ》対象を真空の刃で切り裂く魔法。
詠唱は、厳粛なる静寂への誘い、セ=シィ=シスカ。
《セ=スィ=シスカ》対象の状態異常を取り除く魔法。
詠唱は、神秘の囁き、セ=スィ=シスカ。
《セ=ムィ=キリル》対象の素早さを上げる魔法。
詠唱は、精霊の悪戯、セ=ムィ=キリル。
四属性の第三段階まで難なく使うことのできた詩亜。それをカカンナカル老が長い白毛の顎髭を撫で擦りながらふむふむと何かを考えているようだった。見ているのは足元。そう、女王エステアリカが見ていた詩亜の足元だ。
「やはりの。そうかそうか、ふーむ」
「どうでしょうか」
「うーむ……そうさのう」
カカンナカル老は長い白毛の顎鬚を撫でながら、ふむふむと思慮しながら詩亜の足元を眺めていた。それに気がついた詩亜もなにかあるのかと目線を足元にうつすが、足元にはこれといったものは何もなかった。
「あの、足元がなにか?」
「ん、おお。すまぬな。おぬしの足元、そこの魔力場が薄れておるのじゃよ」
「魔力場、ですか」
「おお、そうじゃ。この世を取り巻く命の流れ。生きとし生けるもの全ての源である魔力の流れ。その流れは循環をしておるのじゃ。だがおぬしにはそれがない。魔力場を通し吸うだけ吸うも溜め込むこともなし、循環することもなし、魔法を顕現させる為だけに必要分を消費しておるだけじゃ」
カカンナカル老の話によると、つまり、詩亜の魔力は惑星そのものなのだ。その為に詩亜が魔法を使うとその場所から魔力を吸い出し己の魔力に自動変換して魔法を使っていたのだ。なので、その場所では使った分だけの魔力が大地から消費される。
ただ、薄れるといっても魔法を数十回程度では目では見えないくらいの変化だ。空気の魔力の濃度が微々たるものだが薄まっている、そんな程度。だからその場の魔力が枯渇する、というほどのことではない。またすぐに巡りくる魔力が埋めていくのだ。
「消費するだけ……じゃあ魔力場が薄れるってことは、私が魔法を使うと、立っている場所の魔力の濃度が薄くなるってこと?」
「そうじゃの。じゃが、それも極々微々たるものじゃからの。気にするほどのものでもないじゃろう。おぬしが魔法を使える理由、そっちの方が問題かのう」
「魔法を使える理由?」
詩亜は自分が魔法を使える理由を考えてみるが、何も浮かばず首を傾げる。カカンナカル老はその様子を見て目を細めて微笑むと、長い白毛の顎鬚を撫でながら口を開いた。
「おぬしは最後の希望なのじゃよ」
「え」
「この世に零れ落ちた最後の涙。この世を憂いて流した至竜レイニィウスの最後の涙なんじゃよ」
「……涙」
「そう、涙じゃ」
そう言って、感極まった様子でカカンナカル老は詩亜の両手を持って包み込む。その目に滲んだ涙はとても暖かく、そしてとても優しげだった。
希望って、まるでパンドラの箱みたい。と、詩亜は内心で思う。この世界は神話を信じ込んで泣くほどになるまで、なにかがあるのだろうか。両手を包み込まれたまま、されるがままに考え込んだ。
「今の神殿には近づかぬようにな」
「え?」
「今の神殿は駄目じゃ。神官はもう手遅れなのじゃよ。いいか、決して近づかぬようにな。でないとおぬしが、希望がかき消されてしまうじゃろう」
「それって、私を消すってこと? 神殿に行ったら殺されるの、私」
近づいてはならぬ、と聞いた詩亜は不安顔でカカンナカル老に問いかける。ゆっくりとした動作で頭を振ったカカンナカル老は、詩亜の両手を解放すると、大きく一つ頷いて目を閉じた。
「今の神官はもう……いや、これは言うまい。とにかく、儂の言うことを忘れずにな」
真剣な面持ちでそう言うカカンナカル老に、理由はわかならいが頷いてみせる語詩亜。きっと、なにか理由があって話さないのだろうとそう思って。
詩亜の頷きを見たカカンナカル老は微笑むと、懐から古い丸められた紙を取り出す。それをするすると広げる。そこには精確に描かれたこの世界の地図があった。
「これはこの大地の地図じゃ」
「地図。え、でもこんな精巧な地図どうやって」
「むかしむかし。おぬしらヒトにとっては途方もない遙か彼方に作ったものじゃよ。この地図は儂が作った。この世にたったひとつしかない貴重なものじゃ」
「え、おじいさんが作ったの? でもどうやって」
「それは秘密じゃ。これを持っていくがよい。きっとおぬしの旅に役立つはずじゃ」
「でもこんな大事なもの、いいんですか」
「いいんじゃよ。この地図を頼りに、まずは魔法国マレニデルムに行くとよいじゃろう。そこの魔法図書館にいる、儂の甥っ子であるカルナリスタを尋ねるとよい。おぬしのこれからについて助言をするはずじゃ。儂が今ここで言ってもよいが、それでは今のおぬしの心には響かぬじゃろう。この世を旅し、この世を理解できて、初めて受け止めることができる。とても大事な旅じゃよ」
「……はい」
くるくると丸められた地図を大事そうに受け取る詩亜。するとカカンナカル老は今度は自身の左手にはめてた瑠璃石の指輪を渡す。掌に載せられた指輪を見てカカンナカル老を見ると、その指輪をはめる仕草をした。促されるまま瑠璃石の指輪をはめた詩亜。
「その指輪には空間圧縮魔法が施されておる。入れられる量に制限はない。おぬしが持つとよいじゃろう。旅に役立つ。念じれば出し入れ自由じゃよ」
「それってゲームのイベントリってことかな。これってとっても貴重なんじゃ」
「旅に必要なものはあらかたその中に入っておる。儂にできるのはこのくらいじゃからな。この世を背負わせてしまうせめてもの償いじゃよ。たしかにこの世に数個しかない貴重なものじゃが、おぬしには必要じゃろうて」
「有難う御座います。でも、この世を背負うって、私が?」
「その理由も儂の甥っ子から聞くとよい。先触れは出しておくからの」
真剣な様子で答えてはくれないカカンナカル老。
語詩亜は思う。償いとはなんの償いなのだろうか。私が背負うこの世とは、いったいどうしたらなにをできるのか、と。それがわかればもしかしたらそれが地球に帰れるヒントになるかもしれない、と。いきなりそう言われてもなにも実感は湧いてこないが。
それに、カカンナカル老はそれを今ここで聞いてもおそらく答えてはくれないだろう。ならば、これからの旅路でそれをゆっくり考えるのもいいかもしれない。この世をじっくりと見ながら旅をすれば、おのずとわかるかもしれない。そう思いながら。
「わかりました。旅の中で考えてみます。私が背負うというこの世と、償いって言葉。その意味を」
「うむうむ。そうするがよいじゃろう」
「はい」
受け取った大事な地図をさっそく指輪の空間圧縮魔法が施されている瑠璃石の指輪に入れる。本当に念じればすぐだった。地図をしまいたいと念じると、手元にあった地図がふっと消えたのだ。詩亜は目を見開いて手元を見つめた。改めてこの世界の魔法、いや、魔法具はすごいと感動する。
「ではそろそろ続きをするかの。おぬしにはこの魔法書をやろう」
そんな詩亜を見ながら、カカンナカル老はまた懐から今度は一冊の薄い本を取り出して渡す。受け取り中をパラパラと捲るのを見ながら話を続けた。
「これって、各属性魔法の四段階と五段階が載ってる! 本当にいいんですか」
にっこりと深く笑みを向けながら懐に手を入れたカカンナカル老は、今度は一振りの長剣を取り出す。それを見た詩亜は、カカンナカル老の服にも空間圧縮魔法でも施しているのだろうかと感心する。
「ああ。そしてこれはあのヒト族の青年にじゃ。この剣はミスリルでできておる。大抵の障魔はこれで切り伏せることができるじゃろう。聖剣じゃよ。戦うこのと少ない儂らエルフには必要のないものじゃ。以前ぶらり旅をした時に出会ったドワーフに貰ったものじゃが、儂が持つよりも役立つじゃろう」
「ミスリルってレアメタルじゃない。すごい! たしか魔法にもいいんですよねこれ」
ミスリルの剣は、よくゲームなどで魔法剣を扱うときなどで使われる剣だ。魔法の伝導率が非常に高い。
この剣に自分の魔法を付与すれば、より強い障魔が出てきてもきっとレインウォードが倒してくれるだろうと詩亜は思う。
「ふぉふぉ。よくわかったのう。その通りじゃよ。魔法を纏わせて障魔を切りつければ高い効果がでよう」
ミスリルの剣を受け取り、ゲームによくでてくる名前だとは歓喜した語詩亜は、この目で初めて見たミスリルの剣を少し鞘から少し出すと、差し込む日の光を反射させて輝かしく煌いた刃にうっとりとする。
これを渡したらレインウォードはきっと喜ぶに違いないと、詩亜はその様子を思い浮かべて笑った。そしてミスリルの剣も空間圧縮の瑠璃石の指輪に入れるのだった。
そうして一息ついたところでカカンナカル老は、まだ空間圧縮魔法の瑠璃石の指輪にしまっていない魔法書を指差し、その後に遠くにある案山子を指差した。
「魔法書を見ながら試しにあの案山子を的に撃ってみるとよいぞ」
「はい!」
詩亜は元気よく返事をすると、さっそく魔法書を開いて集中する。
土属性
《コ=リィ=シスカ》指定した広範囲の地面を隆起させて攻撃する魔法。
詠唱は、怒いかれる大地の隆動は、留まることを知らず、コ=リィ=シスカ。
《コ=レィ=キリル》対象に完全なる守りを与える魔法。
詠唱は、慈悲たる母の抱擁をその身に纏え、何をも通さず、コ=レィ=キリル。
水属性
《ナ=リィ=シスカ》指定した広範囲を水の濁流で押し流す魔法。
詠唱は、全てをのみ込む水の濁流、ナ=リィ=シスカ。
《ナ=レィ=シスカ》自身の周囲を凍てつかせる魔法。
詠唱は、凍てつく大気の波動、氷結地獄に抱かれた後には静寂のみ、ナ=レィ=シスカ。
火属性
《キ=リィ=シスカ》指定した広範囲を炎で包み燃やし尽くす魔法。
詠唱は、深淵にて燻る地獄の業火、のみ込むは業深き罪人、キ=リィ=シスカ。
《キ=レィ=シスカ》対象に強大な炎の塊をぶつける魔法。
詠唱は、深淵にて燻る地獄の火球、強大なる炎は全てを残さず、キ=レィ=シスカ。
風属性
《セ=リィ=シスカ》対象を頭上から雷で打ち抜く魔法。
詠唱は、天に轟く竜の咆哮、セ=リィ=シスカ。
《セ=レィ=シスカ》指定した広範囲を真空波で切り裂く魔法。
詠唱は、厳粛なる静寂への誘い、全てを切り裂く断罪の鎌、セ=レィ=シスカ。
それぞれの属性をなんなく顕現させることに成功した詩亜は、ふうと一息つくとカカンナカル老を見る。カカンナカル老は満足そうに頷いてみせた。
「この世の涙であるおぬしには魔力切れの心配はない。おぬしの修行はより集中を高めることじゃ。さすれば危難に遭っても無意識にその状況に合わせた魔法を唱えることができるじゃろうて。日に何度も頭の中で唱え続けるのじゃよ」
「はい。私、頑張ります」
「うむうむ」
真剣な眼差しで自分を見てくる詩亜に、カカンナカル老は長い白毛の顎鬚を撫でながら頷いた。そして、何か思いついたというようにしながら口を開く。
「そうじゃ、おぬしはここに来るまではエシュトロム・キーグに案内されてきたのじゃろう。あれも旅に連れていくとよい。エルフの知識は必要じゃろうて」
「カナンのこと? そりゃ、来てくれると助かるけれど」
あのツンケンしたカナンを思い出すと、旅に誘っても付いてきてはくれなさそうと思う語詩亜。
だがここまで確かに連れてきてくれたカナンは悪い子ではない。きっと、今まで一人で暮らしてきたために人付き合いが苦手なのかもしれないとすぐに思い直す。きちんと頼めばきっと一緒に旅をしてうれるはずだと。
数日間だが一緒に過ごしてきたカナンに語詩亜は情を持ち始めていた。
「心配はいらん。必ず付いて行くはずじゃ。あれのこと、よろしく頼むぞ。あれもこの世を広く見るいい機会じゃ。言うじゃろう、可愛い子には旅をさせろと。儂にとってはエルフの子等は全て儂の子供じゃ。あやつが成長するにもいい時期なのじゃよ」
「そうなんですか……わかりました。誘ってみます」
「うむうむ。エシュトロム・キーグにはこれじゃな。この指輪を渡しておくれ。この指輪は翡翠の指輪。この指輪が割れる時、エシュトロム・キーグの望みが叶うじゃろう。肌身離さず身につけておくように伝えておくれよ」
カナンにと渡してきた翡翠の指輪も大事に受け取り、空間圧縮の瑠璃石の指輪へ入れる語詩亜。
「伝えます。色々と有難う御座いました。また、会いに来ます」
こうして、語詩亜はカカンナカル老に教えを受けて、大事なものを受け取りその場を後にする。その背を見送ったカカンナカル老は、深く深くお辞儀をしていた。
「お、シア。終わったのか」
「うん」
レインウォードとカナンが待っている待合室へ行くと、レインウォードとカナンの二人がそれぞれ寛いでいた。
語詩亜はさっそくカカンナカル老から受け取った物を二人に渡すことにする。そしてカナンに一緒に言ってほしいとお願いをするのだった。
「こんなすごい剣俺が受け取ってもいいのか? いや、確かにこれからの旅には心強い剣だが、これは聖剣だぞ。おいそれと簡単に他人へ渡していいような剣じゃない」
レインウォードはそう言いながらも鞘から出した煌く刀身を輝いた目で眺めていた。
「nuf。これでなにを……。今更だ。けど、いいよ。僕ももう行く場所がない。二人についていくことにする」
受け取った翡翠の指輪をころころと指で玩んだ後、カナンは左手の中指に填める。きちんと受け取り、旅についてきてくれると言うカナンに内心でほっとする詩亜。
「有難う。これからもよろしくね。カナン」
「よろしくな」
「nuf」
ポーカーフェイスを気取っているが、二人にはそれが照れ隠しだといういことは筒抜けだった。
待合室を出る前に、詩亜は貰った世界地図を卓の上で広げて二人に見せる。その精巧な地図に二人は目を見張る。やはり二人にとっても驚くほどの世界地図のだようだ。
詩亜は改めてその世界地図を見ると、ふとしたことに気づく。
「え、ねえ、二人とも。この地図の南東の大陸、なにかに似てる。これってっもしかして竜?」
「そうだな……神話で耳だこになるくらい聞いていたが、これが本当ならば、俺達は今シシエランカに立っていることになるな」
その南東の大陸は、詩亜の知る西洋の竜と酷似していた。まるで星の上に立っていた竜が、そのまま横たわっているかのような形。おそらく神話のとおりならば、今自分らが立っているこの大陸が至竜レイニィウスの亡骸、シシエランカということになる。
「じゃあこれって、ここの大陸って本当に至竜レイニィウスの亡骸ってこと!?」
詩亜は窓から地面を見る。今ここで空高く、高く高く舞い上がればこの世界地図の南東に位置する竜の形をした大陸が見えるということだろか。そのようなことが、神話のできごとが本当にあったことなのだとすれば、シシエランカは。
「この世界の神様はもういないってこと、なの」
「……そうなるな」
「……」
その問いにレインウォードとカナンの二人は黙る。
詩亜はその様子を見て、シシエランカの大陸を再度見る。この、今はもう生きていない竜から零れ落ちた涙が私。至竜レイニィウスの流した涙。途方も無い大きすぎるそのことに、詩亜は空中に放り出されたような感覚が全身を包んだ。
「私、いったいどうすればいいの」
小声でそう呟いた詩亜。その小さな問いかけに地図から顔を上げたのはカナン。顔を上げてじっと見つめるその瞳には、不安げに世界地図の南東の大陸を見ている詩亜が映っていた。
「じゃあ、まずはまた渡し舟に乗って中央大陸に戻ってクレスメンに立ち寄り、それから砂漠の都市ザード、そして錬金術師の国アルミッストの北である背中から、渡し舟で翼の大陸に渡って、海岸沿いに進んで魔法国マレニデルムに行けばいいのね」
「ああ、そうなるな。途中にある村々で休み休みいくから、そうだな……およそ一年、か」
「a、僕とシアは旅なれていないから、それに一ヵ月は足したほうがいいんじゃないの」
語詩亜、レインウォード、カナンの三人はエルフの首都レィナ・セの入り口まで来ていた。女王に挨拶を済ませた後、語詩亜が貰った空間圧縮魔法の施された瑠璃石の指輪に旅路に必要なものを詰め込んで、さっそく旅を再開することにしたのだ。
広げられた地図の上でレインの指がつつと進む。その旅の行程を知らされた語詩亜。
「え、一年と一ヵ月はかかる予想なの。そんなにかかるんだ……長い旅になりそうね」
予想よりも長い期間を旅することになりそうだと聞かされた語詩亜は、はぁ、と一つ息を零す。
「まあ、それも徒歩なら、だがな。辻馬車を使えばその七割ですむ。そうだな……二三〇日といったところか。やめるか? このままハーシュベルツに戻ってもいいんだぞ。もしかしたらあの遺跡に行けば帰れるかもしれないぞ」
「あの遺跡に行けば……。ううん、いい。行く。私がこの世界に来た理由が知りたいの。だから行く」
詩亜とレインウォードはカナンにもここまで来ることになった経緯を説明する。それを聞いたカナンは別の世界から来たという詩亜を今更だが珍しそうに見ていた。
「nuuf。異世界といっても僕らと大差ないんだね」
「うん。私もそれは不思議だけど、違うよりは似てる方が目立たなくていいと思う。だって、例えば私の肌が緑だったら、捕まっていろんな人たちに研究されそうだし」
「nu、まあそうだよね。そんな姿なら僕も人体実験をして研究してみたくなる」
「でしょ」
「もしくは貴族や王族のコレクションになるか、だな」
語詩亜はそれで思い出した。
神殿。そこの神官に気をつけろという言葉。レインウォードの言うコレクションがそれに該当するのだろうか。
この世界では詩亜の世界のヒトとさほど変わりない。こちらの世界のヒトは顔つきは西洋の人のように彫りの深い顔をしている。レインウォードが言うには、日本人のような顔つきのヒトも探せがいるかもしれないが、見たことはないそうだ。だが、黒目黒髪のヒトもいるから、珍しくて迫害されるなどの、その辺の心配はせずとも大丈夫そうだった。
けれど、詩亜はあの統制のとれた盗賊達が気になっていた。
黒目黒髪の乙女を探している盗賊達。それは自身を探しているのではないかと勘繰ってしまう。が、この世界に語詩亜は来たばかりで、誰にも身の上を話してはいない。知っているのは自身を含めてレイン、カナン、エルフ国の女王とカカンナル老の五人。しかも、ここに来るまではレインウォードと自身の二人だった。だから探しているのはきっと別人。詩亜はそう思い込むことにした。
きっと、違う。私のことじゃない。至竜レイニィウスの涙、神話の大陸シシエランカ、神殿、神官。関係性のあるキーワードがいくつか出てきているが、思考の隅に追いやる。でないとなにか途方もない大きな渦に飲み込まれて、もみくちゃにされて、いつか自身が消えてしまうんではないかと不安になるのだ。
レインウォードとカナンの二人の話を聞いて、ぶるりと体を震わせる詩亜。
やはり体の造りが似ていてよかったと心底思う。これだけ自身と似たこちらの世界のヒト。もしまたあの盗賊達に会うことになっても、こちらのヒトと大差ないのだから、隠れるのも容易なはず。ヒトを隠すにはヒトの中。街にいる間は紛れていれば大丈夫。道を歩いているときはフード付きの外套を羽織れば大丈夫。詩亜はそう自身に言い聞かせた。そして、もし、髪色を変えることのできる薬かなにかがあれば、使って色を変えてしまおうと思うのだった。それが自身を隠すにはいいはずなのだから。
「ねえ、レインにカナン」
「なんだ」
「n、なに」
レィナ・セを出て樹海を進んで行く三人。まだその入り口からさほど進んでいないところで詩亜は立ち止る。改まった様子の語詩亜にレインウォードとカナンの二人は顔を合わせて何事かと続きを待った。
「長い旅に付き合わせちゃってごめんね。でも二人が頼りなの。だから、これからもどうぞよろしくお願いします!」
深々とお辞儀をする語詩亜に、再度顔を見合わせたレインウォードとカナンの二人は互いに溜息をついて語詩亜の元まで戻る。
「気にするな。元はといえば俺がシアの世界に行ったのが原因だしな。帰ることができるまではきちんと付き合うさ」
「am、僕の時間はヒトよりも遥かに長いからね。そんなこと気にしなくてもいいよ。それに僕もシアやこれから行く先々の出来事に興味あるし」
ぽんと詩亜の肩に手を乗せてレインウォードが笑う。カナンは自身の腕を組みながら首をコキコキと鳴らす。二人の気にするなという言葉に感謝の念を抱く詩亜。その返事にほっとした様子で笑顔を見せると、一人前へ進んで振り返る。
「ありがと! 旅、楽しもうね!」
「そうだな」
「nuf。ま、楽しませてよ」
「もちろん! 皆で楽しまなきゃね」
ふふ、と笑いながらまた先へと進んで行く詩亜の後をレインウォードとカナンが続く。
これからさきの旅路でどんなことが待ち受けているのか。詩亜の胸には期待と不安がない交ぜになってぐるぐる回っていた。
だが詩亜は思う。このエルフの国にきてやはり正解だったと。カカンナカル老は自身を至竜レイニィウスの涙であるという。だから自身で魔力を難なく使えるのだということもわかった。それは自身のことに対する疑問になり、わからぬことが増えたということだが、これからの旅路でそれもわかっていくのかもしれない。それに先ほど隅に追いやったキーワード。それらも明らかになるのかもしれない。不安になる要素が満載だった。ただの杞憂だといいのだが。
色々な糸が絡み合って、ぐちゃぐちゃになって、解けなくて、塊になっていく。
詩亜の未来の行く先には複雑に絡み合った暗い道があった。だが、そこには必ず光の道もあるはずだ。元の世界に戻って、また、なにも変化のない毎日を送る。それが今、詩亜の唯一の希望の光となっていた。




