非常食3
ピルルル、ピルルル。
憎らしい音が耳元で響く。
携帯のアラーム音。
毎朝毎朝、不快だ。
目も開けずに手探りでそれを止め、寝返りを打つと腕の下に違和感を覚える。
「ンニャア……」
「ああ、ごめん……」
なんか潰した。
……なんだっけ。
「……もう、ごめんじゃなくて。どけてよぉ」
まだ夢か?
女の子の声が聞こえるんだけど。
うっすら目を開け確認すると、腕の下から、顔を出したのは紛れもなく女の子。
しかも裸体。
「……な……」
「ちょっと重いけど、あったかいからまあいっかぁ」
「うわぁああっっ!」
慌ててベッドから飛び起きる。
思いっきり目が覚めた。
なんだっけ。
思い出せ。
ほら、昨日拾ってきたんだった。
「ななっ……なあ、むやみに人型になるなってっ」
「だって、全然腕どけてくんないんだもん」
「悪かった。だからとりあえず服着て。じゃなかった、獣に戻って」
「オン」
朝から刺激的過ぎる。
そうか、ネコなんていままで飼ったことないけど、冬場は布団に入り込んでくるなんて話を聞いたことがある。
たぶん、それと同じだ。
林檎からしてみれば普通の行動で、そう騒ぐことじゃないのだろう。
こいつはネコだ。
俺もそう思わないと、やってけない。
「……そういえばお前、ここに来る前はどう過ごしてたんだ?」
飼われてたか? なんて聞き方は出来ないが、結構理解力はあるみたいだし、会話も出来る。
聞けばよかったんだ、最初から。
「秘密」
「……そう来たか」
でもってまた人型になってるし。
まあ今回は俺が、しゃべらなきゃならないような質問したせいだけど。
一応、顔を背ける。
「言いたくないとか? 言えないとか」
「……言ってもいいけど。家出しちゃった」
「え……」
つい振り返ってしまうが、そこには獣の林檎が何事もなかったかのように丸くなっていた。
答える気はありませんって、体で表現してるのか?
「……とりあえず俺、学校行くんだけど。その間のことは母さんに頼んでおくから」
「オン」
昨日のカバンはぐちゃぐちゃで使えないな。
筆箱だけ別のカバンへと移す。
今日はこれで登校だ。
帰ってきたら洗うとして、とりあえず1階持ってくか。
部屋に林檎を置いたまま、1階へと降りていく。
みのりはまだ寝てるのか、母さんと父さんだけ。
「母さん、ネコのことなんだけど」
「うんうん。元気かしら」
「元気だよ。お腹空いたら降りてくると思うんだけど、そんときはまたササミあげてくれる?」
「キャットフードの方がいいと思うんだけど」
キャットフードを与えるのはなんだかかわいそうな気がしてしまう。
「昨日ササミ、気に入ってたから」
「わかった。ササミ用意しておく。病院で一度、検査もしておく?」
「そういうのはまた今日中に考えとくから」
「早い方がいいじゃないの」
「すぐに飼い主が現れるかもしれないし。とりあえず、待って」
「……わかった」
ちょっと不満そうだが、なんとか頷いてくれた。
ここに父さんがいてくれるおかげかもしれない。
「あとさ。ネコってあんまり構われるとうっとおしいって感じるみたいだよ」
「え……」
ちょっと母さんにはかわいそうだが、聞いたことがある。
少しくらいほっといてくれた方が助かるからな。
「だから、あんまり構いすぎるとたぶん嫌われるよ」
「……わかった」
構う気満々だったんだろうな。
父さんは新聞を読みながらも、チラっと俺を見てにやついた。
「ねえ、なんでネコの話するの?」
いつのまにか起きてきたみのりが話に入ってくる。
「また夜に教えてやるよ」
「えー」
「じゃ、行ってきます」
追求される前に、とっとと家を出よう。
どうやら林檎は家出らしいし、すぐ飼い主の下へ返すことになるかもしれないからな。
みのりからしてみれば、与えられた玩具をすぐに奪われるようなもんだろ。
だったらいっそ、初めからそんな玩具は無い方がいい。
自転車は土でドロドロだ。
壊れてなくてよかったけど。
「あ、佐伯くん。おはよう」
自転車置き場で運よく七原さんと一緒になる。
今日はいい日だ。
天気もいい。
「おはよう。昨日の雨、すごかったね」
「うん。雷、ちょっと怖かったな」
あ、やっぱり怖いとか思っちゃうんだ?
かわいいな。
例えそれがぶりっ子だろうが構わない。
かわいいもんはかわいい。
「俺も、今度から雨の日は電車にしようかな」
「うん、雨の中、自転車は大変よね」
俺たちの会話は基本的に自転車を停めたりすれ違う間だけ交わされる。
決して、どっちかを待って一緒に教室へ行く、なんて感じではない。
まだそこまでの仲じゃないのだ。
「やあやあ合羽くん。昨日は無事に帰れたかな」
教室に入るなり、朝からハイテンションな男の声で気分が沈む。
「黙れ夏川。俺は佐伯だ」
「合羽くんの自覚があるから、こうして反応してくれてんだろ」
「お前が俺に向かってしゃべってくるからだ」
「まあまあ。一応、心配したんだぜ? 結局あの後も、全然雨の勢い治まらなかっただろ」
「見てわかるだろ。なんの問題も無くこうして学校来てんだし」
「さすが合羽だな」
「合羽はもうねーよ」
「バカにされるから?」
「そうじゃなくて。後輪に絡まったから切った」
筆箱にハサミ入れてて正解だったな。
学校で使う機会なんてそうそうないけど。
以前、学食で買ったパンの袋がスムーズに開かず、思いっきり破いて落としたことがある。
それ以降、念のため入れてたんだけど、まさか合羽を切ることになろうとは。
「後輪に絡まるってそれ、どんな状態だよ」
途中で脱ぎました、なんてこと説明したらなおさら追及されそうだ。
「いろいろあんだよ。立ち漕ぎしたりさ」
「立ち漕ぎして絡まったのかよ。お前、最高だな」
またバカみたいに笑いやがって。
まあ本当のことを説明する気は無いけど。
「カバン、変わったな」
「合羽が無くなったせいでびしょ濡れになったからな」
教科書は学校に置いといて正解だった。
持って帰ってたらビショ濡れで、また夏川にバカにされていただろう。
筆箱だけ持ち帰るという、俺のナイスな選択が危機的状況を回避したわけだな。
そもそも、林檎がくっ付いてこなければこんなことにはならなかったんだけど。
キーンコーンカーンコーン……。
4時限目終了のチャイムは、とりわけ大きく聞こえる。
もちろん、音量に変化なんてないんだろうけど。
待ちに待った昼休みだ。
「今日は、佐伯の番だぜ」
いつも夏川とは交代でパンを買いに行く。
今日は俺の番。
「プラス、佐伯のおごりだぜ」
昨日ゲームで負けたからな。
こいつはどうでもいいことだけ覚えてやがる。
「わかってるって」
カバンから財布を取り出そうとしたところであることに気付く。
うん、財布忘れたな、俺。
カバン変えたせいだ。
「……悪い、夏川。財布忘れた」
「なっ……」
「お前、俺を頼りに持ってきてないとか言っちゃう?」
「そうですね。佐伯くんのこと頼ってました、つって困らせたいけど、あいにく持ってきちゃってるんだよねえ」
「ナイスだ、夏川」
「今日ばかりは、普段、俺が佐伯を信用してないのが吉と出たな」
なんて嫌味だ。
「いいから、とっとと出せ」
「酷いな、佐伯。それがお金を貸して欲しい相手に対する態度かな」
くそう。
「明日ちゃんと返すよ。適当なのでいいよな」
「オッケー」
どのパンが残ってるかはその時次第、いつも適当だ。
まあ、極端にまずいパンや高いパンがあるわけでもないしな。
夏川の財布を借り、教室を出る。
そんなに夏川とのやり取りで時間を使ったつもりはないけれど、すでに結構な人数が列を作っていた。
今日は焼きそばパンにしよう。
焼きそばパン4つと、コーヒーを2つ。
まあ俺たち1年4組の教室は比較的学食に近い。
並びはするが買えないということはなかった。
教室に戻ると、夏川がパクパクと口を開く。
「なんだよ、それ。急げってか。そこまで待たせてないだろ」
「そうじゃなくて……っ」
自分の席へ着いたと同時に、ぐっと腕を引かれる。
「いてえってっ」
無理に屈まされたかと思うと、耳元で
「誰だ、あれっ」
そう告げられた。
夏川の空いている方の手が、廊下に近い七原さんを指差す。
「……七原さん?」
「そうじゃなくてっ」
七原さんの横には桜井。
……その前。
赤色のさらさら髪を2つに結んだ女の子。
「な、見たこと無いよな。絶対かわいい。あの後姿で正面ブスとか、詐欺だろ」
いや、後姿だけで人は判断出来ない。
ブスだろうが詐欺ではないだろ。
それよりあの後姿、ちょっと気になるな。
あんな赤髪、滅多にいないし。
悪い予感しかしないんだが。
「ちょっと、佐伯!」
桜井が、あいかわらず響く声で俺を呼ぶ。
それに合わせて、教室にいるやつらの視線が突き刺さる嫌な感覚。
ついでに、赤髪の子も振り返り俺を見た。
やっぱり、思った通り。
林檎だ。
「ミノルっ!」
やっと見つけました。
そんな感じで、俺のところへとやってくる林檎。
……私服。
俺のシャツに少し短めのスカート。
みのりのか。
なんだかもう、慌てたところでどうにもならないような気がして動けない。
「お財布ね。ママさんが持ってってって」
てが多い。
「ああ、どうも……」
パンとコーヒー、夏川の財布を机の上に置き、林檎から自分の財布を受け取る。
俺は焦点の定まらない状態のまま、済ませた会計分の金額を夏川に渡した。
どうして。
どうして人型なんだ。
でもって、どうして学校に?
しかも母さんに頼まれた?
「佐伯―っ!」
俺がなにか言い出す前に、夏川の声が響く。
我に返った。
「あ……ああ、夏川、なに?」
「なにじゃなくて。誰だよ」
遠い親戚?
いやいや、そういうのってあからさまに怪しいし。
「母さんの友達、だと思う」
夏川にはそう告げ、俺は林檎の肩を掴む。
「うん、財布ありがとう」
「えへへー」
もう帰ってください。
くるっと林檎の体を反転させる。
「え、それだけ?」
「うん。部外者は入っちゃいけないから。先生に見つかる前に帰らないとな」
「忘れ物届けに来ただけもん」
「そうだよ、佐伯。もう少しくらい大丈夫!」
夏川め、余計なことを。
「大丈夫じゃないだろ」
「佐伯。私も思うんだけど、わざわざその子、届けに来てくれたんでしょ」
桜井まで俺のところへ来て口を挟んでくる。
元々、桜井が俺を呼んだんだけど。
なぜか桜井と仲のいい七原さんも、一緒にこちらへ来てくれた。
「事情を説明すれば、先生だって理解してくれるんじゃないかな。お昼ご飯、一緒に食べて行く? よかったら私のお弁当分けようか」
七原さんにまでそう言われてしまうと、さすがに帰れとは言いづらい。
なんていうか、俺一人、冷たい人間みたいだ。
実際冷たいのか?
普通だよな。
「焼きそばパン多めに買ったから。俺がパンの部分やるよ」
「佐伯、パンの部分ってあんた、酷い。焼きそば部分あげればいいでしょ」
「違う、これは優しさだ」
焼きそば部分は味が濃いから……っ!
なんて説明出来ないな。
「大丈夫。ママさん、リンゴのお昼ご飯、用意してくれたの」
なんだって?
耳を疑う。
林檎は持っていたカバンから小さな包みを取り出した。
弁当か!
こいつ、さっき忘れ物届けに来ただけとか言ってたくせに、初めから一緒に食べるつもりで……。
というか母さん、なんで弁当持たせてるんだよ。
「……弁当食べたら、帰るんだぞ」
「佐伯、もうちょっと優しくしてあげなよ」
忘れ物届けに来たやつが一緒にお昼ご飯食べる時点でおかしいだろ。
桜井め。
「ああ……うん」
下手に反論するのはやめておこう。
面倒なことになりそうだ。
そんな様子を気にするでもなく、林檎は俺の机の上で弁当の包みを開く。
かわいらしい弁当箱。
みのりの遠足用か?
「じゃじゃーん」
嬉しそうに林檎が蓋を開く。
そこには茹でたなんの飾り気もないササミが、大量に敷き詰められていた。
「ぶーっ!」
汚らしく夏川が噴出す。
慌てて口を押さえていたが笑いたくて仕方ないんだろう。
その気持ちは俺も分かる。
もし、これが他人だったら大爆笑してたかもしれない。
弁当の中身全部ササミって虐めかよ。
「それ、佐伯のお母さんが作ったの?」
「うん。ママさんが持たせてくれた」
「ちょっと、あんたのお母さん大丈夫?」
桜井も笑いを堪えるのに必死の様子だ。
なんだ、桜井だって結構酷いじゃないか。
人の弁当見て笑うなんて。
「おいしそうでしょ」
同意を求められた七原さんは、なんとか頷く。
ただ、完全に林檎に対して同情の目を向けていた。
「よければ、私のお弁当と少し交換して欲しいな」
七原さんの優しさに涙が溢れそうです。
夏川と桜井が酷いだけあって余計、心に染み込んでくる。
「うーん……」
まあ林檎にとってササミは好物だ。
たぶんだけれど。
七原さんの優しさは伝わっていないだろう。
せっかくの厚意を無碍にして欲しくは無い。
「林檎、少し交換してみたらどうだ」
味付けしてないササミを七原さんに食べてもらうのはなんだか悪いけど。
「うん。そうする」
「よかったな」
「じゃあ、今日はここら辺で食べる?」
……ん?
七原さんが、俺たちの近くで弁当を?
これは予想外の展開だ。
桜井も一緒か。
「私はいいけど。……あんたたちは、構わない?」
一応、俺たちのこと気にかけてくれるんだな。
本質的に悪いやつではないんだろう。
「いいよな、夏川」
「もちろん」
その返事を確認し、七原さんと桜井は弁当を取りに一旦席へと戻った。
その間に、空いている近くの机を引き寄せる。
俺の隣に林檎。
まあ小中学校の給食タイムってわけでもないし、適当だ。
あんまりがっつり机繋げてってのも、大げさだし。
「そうだ、林檎。ちょっと耳貸せ」
素直に耳を傾ける林檎。
夏川には聞かれたくない。
「……手で掴むなよ」
「ママさん、フォークくれた」
「よし。それで食べろ」
「うん。わかった」
母さん、なんだかんだでわかってくれてるな。
「佐伯、ちゃんと説明しろよ」
夏川の視線が痛い。
説明って言われてもな。
勝手に林檎に聞いてくれ、と言いたいとこだが変なことを口走られては困る。
「母さんの友達なんだけど、一時的にうちで預かってんだよ」
「……預かってるって?」
「大きな声出すなよ。目立つだろ」
「お前というやつは。確か妹もいたよな?」
「よく覚えてるな」
夏川と知り合ってすぐそんな話をした記憶がかすかにある。
「妹だけでなく、こんなかわいい子とまで同居してるのか」
「妹は同居してて当然だろ」
「どうしてこう、不公平なんだ」
「合羽をバカにするからだ」
合羽で自転車通学だからこそ林檎を拾ったんだ。
……まあ厄介ごとではあるんだが。
こうも羨ましがられると気分がいい。
そうこうしていると、七原さんと桜井が来てくれる。
近づけた机を使い、2人が弁当を広げていた。
俺たち男と違ってなんだか華やかだ。
「えっと、名前って……あ、私は七原柚子って言うんだけど」
「佐伯、林檎とか呼んでなかった?」
「うん。リンゴ」
「林檎ちゃんって言うの? よろしくね」
「私は桜井静香。よろしく」
「ユズちゃん、シズカちゃん」
確認するように復唱すると、今度は夏川の方をジッと見る。
「あ、俺? 俺は夏川誠。誠くんって呼んで欲しいなー」
「マコトくん?」
「そうそう」
気持ち悪いな、こいつ。
あからさまに林檎のこと気に入ってやがる。
まあいいんだけど。
妙に保護者の気分だ。
「林檎ちゃん、なにか食べてみたいものあるかな」
「うーん……」
無い、なんて言わないで欲しいし、見ていてハラハラする。
俺がそこまででしゃばる必要は無いと思うんだけど。
「卵焼きあげる。ササミと交換ね」
気を使ってか、七原さんと桜井が弁当のオカズをトレードしてくれる。
これがありがたいことだという認識が林檎にあるのかどうかはわからないが、嫌では無さそうだ。
「ミノル。いろんなのになったよ」
まあそう言って俺に弁当の中身を見せてくれるってことは、喜んでるのだろう。
「よかったな」
一度、洗ってから食べた方がいい。
……とはさすがに言えない。
そもそも、俺がネコや犬だと勝手に思ってるだけで、意外と人間に近い体ということも考えられる。
わからないからこそ、薄味にしとくべきなんだろうけど。
「佐伯、いまいちあんたと林檎ちゃんの関係性がよくわかんないんだけど」
やっぱり、桜井は怖いな。
夏川や七原さんなら流せそうなことでも、チェックが入りそうだ。
「母さんの友達で、一時的にうちで預かってる子」
「学校は?」
「いろいろ事情があるから、そういうのは聞くな」
「じゃあ、佐伯くんの妹さんみたいなものかしら」
そうだ、そんくらいに思ってもらえるとありがたい。
さすが七原さん。
「そうなんだよね。昨日から来てて」
「林檎ちゃん、あの暴風雨の中、来たわけ? 大変ね」
「うん、すごい濡れちゃった」
「そこんとこ詳しく」
「食いつくな、夏川」
会話はまともに出来そうか。
あんまり聞き出される前に帰って欲しいんだけど。
「リンゴ、すごい冷たくなっちゃったんだけど、ミノルとお風呂であったかくなったよ」
……待て。
今なんつった?
「佐伯? 今、妙な感じに聞き取れちゃったんだけど」
夏川の視線が突き刺さる。
夏川だけじゃない。
桜井と七原さんのもだ。
変に心臓がバクバクしてやがる。
「夏川、誤解だ」
「そうか、俺の誤解か」
笑ってはいるが、お前が心では笑ってないのを俺は知っている。
「で、林檎ちゃん、佐伯とお風呂に入ったんだって?」
「聞くなら俺に聞けっ」
「うん、入ったよ」
「林檎、答えなくていい」
「二人で一緒に?」
「しつこいぞ、夏川っ」
やばい、俺。
目、泳いでんじゃないか。
どうにも嘘は苦手だ。
「うん。でもミノル、リンゴの体、洗ってくれな」
「うわぁあああ」
限界だ。
これ以上は危ない。
次は一緒のベッドで寝ました、なんて言いかねないぞ。
「帰ろう、林檎」
「一緒に?」
「違う。お前だけ。残った弁当は家で食べればいいから。な?」
「林檎ちゃんにバラされたくない事情でもあるんだ?」
ホント、桜井さんやめてください。
図星でなにも言えなくなる。
「林檎ちゃん、俺の家へ来てくれてもいいんだよ」
「夏川、これ以上ことを荒立てるるなよ」
ああもうホント、最悪だ。
七原さん、変な勘違いしないください。
……全部、事実なんだけど。
「俺ちょっと、校門まで送ってくるっ!」
「林檎ちゃん、ホントに、帰っちゃうの?」
どっちにしろ、昼休み終わる前には帰らせないといけないし。
多少、冷たい人と思われてもそれはしょうがない。
保護者の責任だ。
「うん、リンゴはそろそろ帰るね」
よし、聞き分けがいいぞ。
「じゃあ行くぞ、林檎」
「はーい」
俺に腕を引かれて、素直に教室を出てくれる。
……なんとか、なったか。
「ミノル、リンゴが来て嬉しい?」
「……まあ財布は助かったけど。っつーかなんでお前人型になってんだよ」
「……だって」
「おとなしく獣のままでいられないなら捨てるって言ったよな」
林檎は俺の手をぎゅっと握り締める。
……ああもう、捨てるわけないんだけど。
「母さんは?」
「ママさん、すごくお財布気にしてたの。自分が届けるとミノルが恥ずかしがるんじゃないかって。リンゴに話しかけてきて」
実際、高校生にもなって母親が財布届けにくるとか確かに恥ずかしい。
こっちから携帯で連絡したのならともかく。
そうであっても校門で受け渡しするくらいだろう。
「そのときは、お前、人型になってたのか?」
「違うよ。でもママさん話してくれて」
ああ、母さんならネコにだって話しかけるか。
「で、お前が自分から届けに行くって言い出したわけか」
「そういうことー」
ぱあっと明るく答えてくれるが、危機感ないな、こいつ。
「そういうことーじゃねぇよ」
あっさり、人型になりやがって。
「……ミノル、怒ってる?」
怒りたい。
ネコのままでいてくれたら安心なのに。
七原さんにだって変な勘違いされなくて済むのに。
「ミノル……」
わかってる。
俺のためにしてくれたんだろ。
「怒ってないよ。……とりあえず気をつけて帰って」
「……うん」
「母さんは、だいだい事情わかっちゃってるってことだよな」
「うん。だいたいは」
バレてしまったのならしょうがない。
まあ隠さなくて済むのはラクか。
「電車で来たのか?」
「そうそう」
「……電車、乗れるんだな」
「電車くらい乗れなきゃ、家出出来ないよ」
得意げに胸を張る姿を見ていると、本当に人と変わらないな。
見た目に反して子供っぽいけど。
そうだ。
こいつ、家出中だったな。
「あんまりうろちょろしてると補導されるかもしんないし。気をつけて帰れよ」
「さっきも言った」
「マジで気をつけろってことだよ」
「うん、了解!」
その了解、あんまり信用出来ないけど。
校門で林檎を見送る。
……電車だと俺んちまで結構歩くぞ。
まあネコだから平気かな。
体力はありそうだし。
俺の自転車に食らいついてたくらいだ。
にしても、家出ね。
結構さらっと言ってくれちゃうけど、飼い主と喧嘩か?
まあ俺だってたかが1日やそこらの関係だけれどすでに今日、大変だなって思わされた。
何日も一緒に過ごせばストレスを感じることもあるだろう。
慣れちゃうかもしんないけど。
悪気は無いってわかってるし。
やっぱりいずれは、家出の理由とか聞いた方がいいんだろうか。
……それは林檎の方から言ってくれるまで待とう。
事情を知りすぎると、返したくないなんて思ってしまうかもしれない。
小学生じゃあるまいし、飼い犬保護して返したくないなんてこと、言ってられない。
言ってられないけど、実際あれって、別れ辛いよな。
数日、ホームステイしてる留学生くらいに考えるか。
教室に戻ると心配そうに俺を見る七原さんの姿。
「林檎ちゃん、お昼誘っちゃって悪かったかな」
「いや、いいよ。ありがとう。あいつ自身、弁当持って来てたし」
「佐伯お前、林檎ちゃんと手なんて繋いで、目立ってたぞ」
「なっ……」
しまった。
あまりにも精神年齢低すぎて子供みたいに思っちゃってたが、あいつの見た目は同世代だ。
「俺、妹いるからつい、そういうことしちゃってさー」
「面倒見いいんだね」
さすが七原さん、いい解釈です。
「あんた妹と手、繋ぐんだ」
桜井め。
妹大好き変態兄貴を見るような目で俺を見やがって。
実際繋ぐことなんて何年もしていない。
けれどそんなことをわざわざ言ってしまえば、林檎と手を繋いだことが不自然になってしまう。
くやしいが俺は口を噤むしかなかった。
「もうすぐ授業始まっちゃうし、柚子、席戻ろうか」
「うん。じゃあまたね」
「ああ、また……」
また……。
いい響きだ。
もしかしたら二度目があるのかもしれないと思わされる。
二人を見送った後も、夏川は俺の席へと体を向けていた。
「佐伯、妹と手、繋ぐんだ?」
「……桜井と同じこと聞きやがって」
「高校生の兄と手を繋いでくれる妹とか貴重すぎるっ! そして羨ましい」
ここに本当の変態がいました。
危ないやつめ。
「もう何年も繋いでねーよ。けど、クセっていうか。そういうのあるだろ」
「女と手を繋ぐクセ?」
「……子供と手を繋ぐクセ」
「林檎ちゃんは子供じゃないだろ」
やっぱり不自然だよな。
まあ桜井に突っ込まれるより夏川の方がマシだ。
なんとか言いくるめられそうだし、ちょっとやそっとのことじゃ引かない男だと俺は思ってる。
まあ人をたまに馬鹿にはするけれど、言いふらすこともないだろう。
「見た目はああでも、子供っぽいだろ」
「というか、無邪気ではあるね」
「そうだな」
「それってすっごいピュアってことだろ。俺ホント、林檎ちゃん好きかも」
やめとけ。
人外だぞ。
「佐伯は、林檎ちゃんのことどう思ってんの?」
どうもなにもな。
自分んちのネコ。
ペット。
……なんて答えられるはずがない。
「やっぱり、妹に近いかも」
「妹ねぇ。じゃあ俺が狙っていい?」
「は……?」
なに、こいつ、マジなのか?
冗談でなく?
「おい、今ちょっと交流しただけだろ」
「一目惚れ」
「いや、あいつはやめとけって」
「なんで?」
なんでって。
……お前の知らない事情がいろいろあるから。
「それは……」
「やっぱり、佐伯も林檎ちゃんのこと好きとか?」
そんな風に思ったことはない。
というかまだ俺だって知り合ったばっかだし。
「と、とりあえず、林檎の弁当見て笑うようなやつは駄目だ」
「いや、あれは笑うだろ」
「そういう価値観が林檎と合ってないんだよ」
「え、あれが林檎ちゃんの価値観なのか?」
あ、バカな夏川が信じてくれそうです。
「そうそう。そういえば、夏川んちって兄弟いねーの?」
「話変えやがって。まあいっか。俺が下。3つ上の兄貴がいるよ」
「兄貴とか憧れたなー。羨ましい」
「俺は妹の方が断然羨ましいけど」
お互い無い物ねだりか。
授業が始まると、夏川はやっと前へ向き直ってくれた。
林檎、無事に家着けたかな。
まだだいぶ先か。
母さんが林檎のことを理解してくれたってことは、父さんもどうにでもなるだろう。
なんだかんだで、父さんは母さんに甘いから。
それでもあくまであいつはネコとして生活するべきだ。
だってそうだろう?
同世代の女の子が一つ屋根の下ってのはどうにも居心地が悪い。
一緒に風呂に入ったのも、一緒のベッドで寝てたのも、ネコだから構わない。
そう思わないと、なんだか意識しすぎて恥ずかしくなってくる。
林檎自身は、恥ずかしくないのか。
ああ、ネコって結局素っ裸で歩いてるもんな。
ひっくり返ってお腹を見せたり。
林檎がもし、人型でお腹撫でて、なんてしてきたら俺の理性は崩壊するんじゃないか。
ネコ相手に……っ。
駄目だ、駄目だ。
考えないでおこう。
人としての自覚は無いようだけど、人がどんなものなのか少しは理解してくれてるみたいだ。
ちゃんと服着たり。
世間的には、獣は人型にならないことだって、知ってるようだった。
これって前の飼い主がちゃんと教えてるってこと?
家出した理由はわからないけど、これだけちゃんと躾けられてるんだ。
悪い人じゃないのかもしれない。
……早いうちに返した方がいいかもな。
「ただいま」
家の玄関をあけてすぐだ。
足元へと林檎が擦り寄ってくる。
「ウォオン」
無事に帰れたみたいだな。
にしても、どうどうと1階に来てくれちゃって。
お腹が空いたわけでもないのなら、2階の部屋でおとなしくしてて欲しいところだ。
まあ母さんにはもうバレちゃってるし、いまとなっては構わないか。
「実、おかえり。今日、びっくりしたでしょ」
してやったり、みたいな顔されましてもね。
びっくりにも限度がある。
「どうして、林檎にお使いさせるんだよ」
「やっぱりたまには外にお散歩もしたいじゃない?」
「どうだろうね」
昨日の夕方まで外にいたけど。
「実のカバン洗ってたら財布が出てきたもんだから」
まあ夏川に借りを作らずに済んだけど。
「それよりなに。擬人化するなんて母さん聞いてないっ」
「いきなり言ってもどうせ信じないだろ」
「目の前で見せてくれたら、信じます」
「どう説明すればいいか、俺だって頭の整理ついてなかったんだよ」
「……それもそうね。母さんも今、父さんにどう説明しようか迷ってるのよ」
いっそ、説明しなくていい気すらしてくる。
さすがに俺1人じゃ厳しかったかもしれないが、母さんが味方ならこっそりと隠し通すくらい可能じゃないか?
ずっととなれば話は別だが、あと数日くらいなら……。
「父さんに説明する前にさ。飼い主捜した方がいいかなとも思うんだけど」
「飼い主……?」
「元々の飼い主だよ。考えてもみたら、これだけ躾けられてるんだ。たぶん結構かわいがられてたんだろ。向こうだって心配してるかも」
母さんはあからさまに肩を落とす。
「……そうね」
俺より大人だ。
さすがにため息をつきつつも、現実を受け入れてくれる。
「俺たちが引き止めるわけにはいかないだろ」
「早い方がいいわね」
本当はずるずる先延ばしにしてしまいたいけど。
たった1日でこれだけ心入れしてしまったからこそ、これ以上、生活を共にするのは危険だと感じる。
日付を重ねれば重ねるほど別れが辛いのは目に見えてるし。
「ちょっと部屋で林檎に話聞いてくるよ」
「わかった。……わかったんだけど、あんまり裸、見ちゃ駄目よ」
……忘れてた。
なんだか妙に気まずい。
俺が林檎の裸を見たことはたぶんもうバレてるんだろうし。
「たかがネコだろ」
「人そっくりのね」
「……見ないようにするってば」
「そうそう。あとなに? 林檎ちゃんって、安易なネーミング」
「いいだろ。赤いから林檎なんだよ」
「単純ねー」
「林檎。行くよ」
「オン」
ぼやく母さんを置いて、階段を登る。
林檎も、俺のあとをついてきてくれた。
部屋に入るなり林檎は、俺のベッドに乗りあがる。
「林檎?」
布団の中へともぐりこんでしまう林檎を追いかけるよう、布団を捲ると、いきなり人型の林檎が現れた。
「うわぁっ」
「もー。せっかくママさんが言うからお布団被って変わろうとしたのに」
そういうことですか。
捲ってすみません。
林檎の方から見せるつもりは無かったという態度を取られると、見てしまったことに罪悪感を覚える。
すぐさま捲った布団をもとに戻すと、顔だけ出した林檎がジっと俺を見た。
これはこれでなんかエッチだな。
……本題に入ろう。
「林檎、さっきの話聞いてただろ」
「……うん。でも、リンゴはもうリンゴだよ。帰りたくない」
元々は林檎という名でもなかったんだろう。
「いままでお前が生きてこられたのは、飼い主のおかげじゃないのか」
「そうだけど……」
「そいつだって心配してる」
「してないよ。リンゴみたいなのたくさんいるもん」
……たくさん?
林檎みたいなのが?
「……林檎みたいに人型になれるやつってことか?」
「うん。そうだよ」
「たくさん?」
「……5匹くらいだったかな」
そんなにも飼ってるのか。
そもそも飼うって表現でいいのどうかもわかんねーけど。
「だからリンゴは、心配なんてされてない」
「人数が多いからって、心配しない理由にはなんないよ」
むしろ、この生物を飼うスペシャリストかもしれない。
そうだ。
なにを食べさせればいいのかもわからず適当にササミをあげている俺らとの生活なんかよりよっぽど快適なはずだ。
飼い主のことが好きだからこそ、感じる愛情不足なんじゃないか。
「林檎の飼い主のこと、教えてよ」
「もういいよ。飼い主はミノルだよ」
「いいから。教えて」
林檎は少し戸惑って、それでも口を開いてくれた。
「……シュタインって言うんだけど」
「外人か?」
「日本人。でも自分のことみんなにシュタインって呼ばせてる」
愛称みたいなもんか。
「シュタインはおいしいご飯もくれるし、お風呂にも入れてくれる」
「いい奴じゃないか」
「うん。リンゴの体、ちゃんと洗ってくれる。ミノルは洗ってくれなかったね」
ああ、だからあのとき洗ってくれないのって聞かれたのか。
「……いや、ちょっと待って。洗ってもらってたの?」
「うん」
「……獣の状態で?」
「ううん。人型の方が洗い易いから人型で」
いや、絶対獣の方が面積少ないだろ。
まあ実際に洗い比べたわけでもないし、どっちの方がいいかなんて俺にはわからないけど。
「……一応聞くけどシュタインって男だよな」
「うん。そうだよ」
アウト……な気がしてしまうが、相手がネコだと思えばいたって普通の行動だ。
シュタインが変態だとは言い切れない。
「他には?」
「うーん。リンゴは他の子と比べてココが小さいって言われた」
上半身を起こした林檎は自分の胸に手をあてる。
……たしかに小ぶりだが。
「それがいいってやつもいるよ」
ってなにフォローしてんだ、俺。
飼い主にどう思われてるかが問題なのに、別のやつの話なんてしてもしょうがない。
「リンゴたちは実験体なの。珍しい生物だから、いろいろ確かめたいって言ってた」
「実験体?」
そりゃあこれだけ未知な存在だ。
実験体にだってされるだろう。
しょうがない。
……しょうがないよな?
かわいそうだけど、そのおかげでってこともたくさんある。
間違ってるとは言いづらい。
林檎は人じゃないんだから。
ただ、俺個人の意見としては実験体になどなって欲しくない。
「それで、なにかされたのか?」
「リンゴはみんなより小さいから、シュタインが他の子にいろいろしている所をただ見てるだけだったよ。うーん……リンゴは実験体にもなれなかったのかもしれないね」
なんでもないことのように笑顔を向けてくれるが、なんだか作り笑いのように感じてしまう。
「実験体にならずに済んだんなら……よかったんじゃないか」
「ならずに済んだんじゃないよ。なれなかったの。実験体になれないリンゴはただの役立たずじゃないかな」
「それは違う」
つい俺は林檎の手を取りぎゅっと掴む。
「役立たずとか、そんなことねぇよ」
「リンゴは、あそこではきっと不要な存在だったから」
そう感じたから家出したってことか。
「向こうが必要ないってんなら、林檎はここで暮らせばいい」
「え……」
「俺は林檎で実験するつもりはないけど、不要だとも思わない」
リンゴば以前の飼い主の元で、居場所を見失っていたというのなら……。
居場所が見つけられたとしても、それが実験体という扱いなのだとしたら、俺は返したくない。
「ミノル……。いいの?」
「母さんにもまた後で話しとく。今日はもう寝ろよ」
元の飼い主は探さない。
俺はそう心に誓う。
「うん。ねえ、ミノル」
「なに?」
「一緒に寝る?」
「……獣なら」