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非常食2

 家に着き玄関の明かりの下、合羽を確認してみる。

 白く濁ったビニールに包まれた中身は赤っぽい色をしていた。

 ……赤って確実に犬じゃねーな。

 ネコでもない。

 なんだ、赤って。

 やっぱり俺、やばいもん連れてきちゃってんの?

 たぶん、犬やネコみたいにふさふさした毛があるようには思う。

 思うんだけど、合羽越しじゃどうにもわかりづらい。

 何割か狼の血が混ざってる犬ってのを昔、テレビで見たことがある。

 鳴き声は狼っぽいし、こいつはそれなのかもしれない。

 まあ、赤ってのはどうにも不自然だが、ともかくおとなしいうちに部屋に連れ込もう。

 親にバレると面倒だ。


「ただいまー」

 挨拶と同時に猛ダッシュ。

 二階へと駆け上る。

「実? おかえり。遅かったわね」

「あー、友達ん家にちょっと寄ってて」

「暴風警報出てるでしょ。そういうときは、一言連絡ちょうだい」

「はいはい」

 二階から大きめな声で返事をし、母親が上がってくるのをなんとか阻止。

 下手に無視すると、来そうだからな。

 とりあえず俺は床へと合羽の塊を置く。

 ……キツくは無いにしても、息苦しいかもしれない。

「……生きてますか?」

「キュウ……」

 弱弱しい返事が返って来る。

 そっと合羽の結び目を解いていくが、反撃してくる様子はない。

 大丈夫そうだな。

 すべての結び目が解け、正体が露わになる。

 ……露わにはなってんだが、これがなんなのか俺にはわからなかった。




 赤い獣。

 そうとしか言いようが無い。

 ネコに近い。

 ネコと言い張ればネコだ。

 ずいぶんと大きいネコだけど。

 化けネコか?

 通常のネコの2倍とまではいかないが……いや、それくらいか。

 赤い獣は俺の手へと顔を寄せる。

 なんだ、ちょっとかわいらしい。

 胸のあたりがきゅっと疼く。

 実は昔からネコとか犬とか飼ってみたかった。

 かわいい。

 かわいいぞ、これ。

 毛はベタベタで、酷い有様だがきっと乾いたらふわふわのさらさらになるのだろう。

 外で見た怖いイメージとはかけ離れている。

 というか、これを怖がった自分が恥ずかしい。

「よしよし。迷子か?」

 そっと頭を撫でると僅かに首をかしげ、俺を見上げる。

 やばい。

 やっぱりかわいすぎる。

 そのまま濡れた頬を撫でてやる。

 ……つもりだったんだが、俺の指先は4本ほどセットで獣の口内へ。

「へ……?」

 なに。

 なんかパクリって。

 あまりに前触れも無い現状に理解が遅れる。

 つまりこれって、俺の手が噛み付かれてるわけで……。

「ちょっ……。痛い、いや、そこまで痛くないけど」

 少しだけ俺の指先に歯の当たる感触。

「待て。それ以上はまずい! なんかこう歯、立てられると……むしろ本格的に痛くなる前に離せ!」

 そもそもこいつは本当に言葉を理解出来ているのか?

 気持ちだ。

 気持ちで訴えなければ。

 噛み付かれていない左手で、顎を掴む。

「これ、食いもんじゃないんで。離してくれますよねっ!」

 強めの口調で訴え、強引に口を開かせる。

「ウォオンっ!」

 理解した? ……かどうかはわからないが、とりあえず開かれた口から指を引き抜く。

「オォンっ」

 危ない。

 いや、顔の前にいきなり手を出した俺が悪いのか?

 動物ならありがちな行動かもしれない。

「駄目! 絶対! 次噛んだらソッコー捨てるからな」

 そう強く教え込んでやる。

「キュウ……」

 これで伝わった。

 ……ような気がする。

 まあ例え噛まなくとも明日には俺の元から離れる予定なんだけど。

 保健所に連絡すれば、一時的に保護してくれるんだよな?

 違ったか。

 保護期間中に飼い主が現れれば、そのまま引き取られる。

 それで問題ない。

 飼い主が現れなければ……。

 考えたくはないが処分か。

 くそう。

 実際にそうなったわけでもないのに、なんだか胸が痛い。

 そうだ、いっそ飼うか?

 こいつがどこかで飼われていた獣だとしても、飼い主が現れるまで俺が保護しちゃうとか。

 よくある話だろ。

 そんでもって俺は、飼い主に感謝されちゃうのね。

 うん、悪くない。

 両親は動物好きだし、たぶん大丈夫だろう。

 妹のみのりだって前からネコが欲しいとわめいてた。

 まあ飼い主がいたとすれば、いずれ別れが来るわけで、中1のみのりには辛い思い出になってしまうかもしれないが。

 出会わなければ泣かずに済んだ……なんてな。

 みのりだけじゃない。

 俺にとっても、辛い思い出になる可能性は高い。

 こいつ、なんだかんだでかわいいし。

 また胸のあたりが疼く。

 なんだ、俺。

 すっげえネコ好きみたいじゃん。

 好きだけど、いままでまともに接したことなんてなかったからな。

 近所で見かけても、あいつらみんな逃げてくし。

 まったく触らせてくれない。

 その点、こいつは触らせてくれる。

 まあ弱ってるからだろうし、噛み付かれたけど。

 ……飼い主、いつくらいに現れるだろうな。

 だいたいこの雨じゃな。

 ものすごく遠くから流されてきたってことも考えられる。

 とりあえず、写真撮っとくか。

 ネットで拡散すればすぐにでも見付かるだろ。

 こんな動物見たことないし。

 動物園とかの珍獣系なら、すぐにでもニュースになりそうだ。

「実ーっ! お風呂入ったら?」

 携帯を取り出そうとした矢先、1階から母さんの声がかかる。

 そういえば結構、本格的に体が冷えてきた。

 写真はあとにしてとっとと風呂に入ってしまおう。

 撮るにしても、こんな濡れてぐちゃぐちゃの状態じゃ、飼い主も心配するだろうし。

 乾いてからにするか。

 しかしこいつをここに放置するのは不安だ。

 もしかしたらすぐにでも元気になって暴れ出すとか。

 ありえなくはない。

 けれど繋ぎとめる首輪も鎖もないし。

 また合羽でってのも……。

 ……そうだ、洗うか。

 雨水でベタベタなのは俺もこいつも一緒。

 いきなり連れて来たネコもどきを、なんの了承もなしに風呂場に持ち込んだら、さすがに母さんも嫌がるだろうか。

 かといって、相談していまさら捨てて来いなんて言われたら俺がせっかく考え出した結論が無駄になる。

 こんな暴風雨の中、そんなことを言う家族ではないと思うけど。

「……よし。バレなきゃいい」

 結局、俺はこっそり風呂場へとこいつを連れ込むことにした。


 下着やパジャマと一緒に、部屋を出る。

 獣は少しだけ震え、俺を見上げた。

 ……やっぱ寒いのか。

 俺も寒くてだいぶ体が震えてきた。

 濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。

「すぐ温めてやるよ」

「キュウ」

「少し静かにしてろな」

「オン」

 母さんの目を盗み、脱衣所へと移動する。

 成功。

 ここまでこれば一安心。

 しかし、濡れた服ってのはホント脱ぎにくいな。

 絞れるぞこれ。

 なんてやってる場合じゃない。

 寒い。

 俺は獣と一緒に洗い場へ入った。


 ひとまず風呂桶へと湯を掬い、少しだけ水を混ぜ温度を下げる。

 こいつにとっての適温ってのがよくわからない。

 ぬるま湯を用意し、洗い場の隅に置くと、獣はチラっと俺の顔を伺ってきた。

 ……やっぱりかわいいな。

 ネコとの生活ってこんなんなのか。

 幸せすぎる。

「それさ、あったかいから入れよ」

「オン」

 わかった、と言われた気がした。

 前足で湯の温度を確かめるような仕草。

 それを確認し、俺もシャワーのノズルを捻る。

 ああ、ホントに体冷えてたからな。

 いつもと同じ温度設定なのに、熱く感じる。

 肌がジンジンと痺れるような心地よさ。

 それでも体は冷えたまま。

 頭から湯をかぶり、雨水を流し、とりあえず洗うのは後まわしだ。

 沈まないとやってられん。

 浴槽へ入り、肩まで浸かる。

「ふわー……」

 自然と声が漏れた。

 生き返るってこういうことを言うんだな。

 シャワーの比じゃない。

 こう疲れが取れるっつーか、体の真からあったまる感じ。

 たまに見たいテレビなんかがあると急いでシャワーだけで済ませてたが、あれは間違いだ。

 やっぱ沈まなきゃ疲れは取れない。

 母親が勝手に入れておいてくれた柑橘系だと思われる入浴剤もなかなかいい匂いだ。

「柚子……か」

 ……そういえば、七原さんの名前ってたしか柚子だったな。

 同じクラスになって、名簿を見たときからかわいいと思ってた。

 しばらく、誰が七原さんなのかわからなかったけど、自転車置き場で顔を合わせて、おはよう、なんて挨拶してくれて。

 こっそり、自転車に貼り付けられたシールの名前を確認して知った。

 彼女が七原柚子なんだと。

 だから人柄とか見た目だけじゃなく、名前も気になってた。

 ……結構、気持ち悪いな、俺。

 いや、なんだかんだで七原さんとは挨拶以上の関係にはなれてないから、趣味とかなんも知らないんだけど。

 夏川と同中らしいから、そこまで家は遠くないんだろう。


「ふぅ……」

「フゥ……」

 俺と同調するように少しだけ遅れて聞こえるため息。

 獣か。

 獣って呼ぶのもなんだな。

 いずれは飼い主に返すわけだけど、一時的に名前があってもいい。

 柚子に対抗して、赤いから林檎とか。

 安易過ぎか。

 でも、赤といえば林檎だ。

 トマトやパプリカなんかよりはずっとかわいらしい。

 一時的なものだしそうこだわる必要もない。

「今からお前は林檎な。まあお前だって本当の名前が別にあるのかもしんねーけど、とりあえず俺は林檎って呼ぶから……ん?」

 湯煙の中、風呂桶を確認する。

 が、そこに林檎の姿は無い。

「……おい、林檎?」

 名前を呼んだところで、自分が林檎だって理解出来てないかもしれないけど。

 肩をちょんちょんと何かにつつかれる。

「なんだ、そこに……」

 つつかれた右側へと顔を向ける。

「そこに……」

 林檎の姿は無い。

 代わりに、存在したのは、女の子。

 え、女の子?

 人間の?

 入浴剤のせいで体は見えないけれど、とにかくヒト。

 見ず知らずの人が、俺と一緒に風呂に入ってらっしゃる……?

「うわぁあああああっ!」

「ウワっ……んぐっ!」

 危ない。

 こいつが叫ぶ前になんとか口を押さえる。

 どうして俺が叫ぶと真似して叫ぶんだ。

 この感じ、少し前に味わった。

 そう、雨の中、自転車を漕いでいるときだ。

 だからこそ、咄嗟に口を塞ぐことも出来たわけだけど。

 あの獣と同じ。

 林檎と同じだ。

 ……いや、誰だって近距離でいきなり叫ばれたら驚いて叫び返しちゃうかもしれないけど。

 でもこいつ、どうも驚いてるわけじゃなさそうだ。

 なんていうか真似してる感じ。

 一匹の犬が鳴き出すと、輪唱のように他の犬も鳴き出すあれか?

 なんて叫びについて冷静に分析してる場合じゃない。

 それよりもっと、分析しなきゃなんないことがあるだろ、俺。

 女の子。

 同世代の女の子にしか見えん。

 くりっとした瞳で俺のこと覗き込んでくれる。

 長い髪が湯船に浮かび、妙に色っぽい。

 しかも俺、慌ててたとはいえこの子の口押さえちゃってるんですけどっ。

「えっと……その……」

 どうする?

 混乱している中、ばたばたと響く足音。

「実? 大丈夫なのっ?」

 母さんか。

「大丈夫っ! 大丈夫だから開けないでっ」

「すごい、叫び声に聞こえたけど……」

「そのっ……そういうこともあるよ」

「そういうこと?」

「ほら、俺、もう高校生だしっ」

 なに言ってんだ、俺。

 まったく意味わかんねー。

「ああ……そういうこと」

 そういうこと?

 たぶん違います。

 くそう、変な勘違いされたかもしれない。

 それはそれで困る。

「違うんだ。大声、出す練習してただけでっ」

「声を殺す練習の方がいいんじゃないかしら」

「だからその……つい出ちゃったわけで」

 駄目だ。

 もうなにを言ってもおかしくなりそうだ。

「わかったから、驚かさないでね。あとお風呂場、汚さないように」

 お母様は俺が風呂場でなにをしているとお思いでしょうか。

 汚しませんよ。

 いや、体の汚れを落とす場所なんだ。

 多少は汚れるかもしれないけどっ。

 返事をする間もなく、遠ざかるスリッパの音。

 居た堪れない。

 けれど、この本来の現状を見られたらもっと居た堪れないことになってただろう。

 最悪は回避された。

 たぶん。


 それにしても問題は、この子だ。

 女の子の口押さえるなんて、初めてだ。

 なにしてんだ、俺。

「あああの、手、離すけど大きな声出さないで」

 俺に口を押さえつけられたまま、僅かに首を動かし頷いてくれる。

 というかさすがに緊張してきた。

 こんな女の子と一緒にお風呂に入るとか、なんてご褒美。

 入浴剤さえなければ、丸見えだったかも……。

 って、なに考えてんだ、俺。

 落ち着こう。

 落ち着けるわけないだろ。

 とりあえず、ゆっくり手を離す。

 そのまま俺は、浴槽という限られた空間の中で、出来るだけ距離を取った。

 後ずさりして、ぎりぎりまで。

 あいかわらず心臓はバクバクしたまま。

 投げ出す俺の脚の間にいてくれちゃって、なんていうか開脚状態のまま閉じれないんですけど。

「……その、どちらさまでしょうか」

 名乗られてもきっと理解できませんが。

 首を傾げられてしまう。

 俺の言葉通じてます?

 日本人?

「えっと、お名前とか」

「名前は……リンゴかなぁ?」

「それは俺に聞かれても……」

 というか、日本語通じますね、よかった。

 なんだか髪は赤いし、眼は茶色よりも薄い。

 黄色に近いか?

 どこの国の人かもわからなかったが、話は出来そうだ。

「今からリンゴだって、さっき言われたの」

「誰に?」

「ん」

 俺を指差して示す。

 俺?

 まあそうでしょうね。

「俺が林檎だって言ったのは、もっとこうネコみたいな獣みたいな、一緒に雨に打たれてた子なんだけど」

「うん」 

「……さっきまで俺の部屋にいた?」

「2階の?」

「俺と一緒に来た?」

「うん。一緒に来た」

 ……うん、駄目だ。

 理解出来ない。

 ありえない。

 獣が人型に?

 いや、突如女の子が俺と同じ風呂、しかも浴槽に入り込んでくるよりはありえることか?

 どうすればいい。

 とりあえず、この状態、あんまり冷静ではいられないんだけど。

 見た目は一応かわいらしい女の子がいるわけで。

 しかも裸。

「……獣に戻れる?」

「いまからお風呂でしょ?」

 すでにお風呂ですけど。

「体、洗わないの?」

 洗いますけど。

「とにかくその、戻ってください」

「……わかった」

 結構聞き分けガいい。

 頷いた林檎らしき女の子はいきなりザバーっと立ち上がる。

 あまりに急過ぎて、体が硬直してしまう。

 見た。

 前面、体、思いっきり。

「あれ。ミノル、顔赤い?」

 俺の名まで知ってやがる。

 母さんが呼んだせいか。

「いいから、早く戻れっ!」

「お湯の中で戻ったら、溺れちゃうよ」

 ああ、そういうことか。

「わかった。わかったから」

 やっと顔を背けると、少しして肩をとんとんと叩かれた。

 浴槽の淵にちょこんと乗った獣。

 ……これだ、俺が連れてきた林檎は。

 こう胸を締め付けるようなかわいい魅力の獣。

 こいつなんだよ、林檎は。


 結局、変身シーンをちゃんと見たわけではないけれど、こんな狭い風呂場、女の子が隠れる場所なんてものはない。

 つじつま合わせると、獣の林檎が擬人化したってのが一番、ありえる話だ。

 ……いや、ありえないけど。

「俺が言ってること、理解出来てるよな」

「オン」

「俺が体洗うまで、脱衣所で隠れててくれる?」

「リンゴは洗ってくれないの?」

「うぁあっ……っと」

 いきなり人型になるんじゃないよ、こいつは。

 なんとか叫びそうになるのを我慢。

 いや、軽く叫びかけちゃったけど。

 また思いっきり見ちゃったし。

「自分で洗えよ。……じゃあ、俺、反対向いてるから」

「見ないの?」

「見ないよ」

「見たくないの?」

「い……」

 いや、見たい。

 反射的にそう言いそうになった。

 危ない。

「とりあえず、あんま長風呂だと母さんに心配されるかもしんねーしっ。とっとと洗ってくれ」

 心配というより、勘違いされそうだ。

 見たくない、って言えない自分が情けないな。

 だって、ホントは見たいし。

 しばらくしてまた肩をちょんちょんと叩かれる。

 獣の林檎だ。

「……うん、脱衣所でぬいぐるみの様になっててくれ。ああ、答えるのは獣のままで。人型にならなくていい」

「……オン」

 なんだか獣なのに表情があるな。

 少ししょげる様子が、それでもかわいいと思ってしまう。

 別に、犬やネコに体を見られるくらい恥ずかしくはないけれど、こいつを犬ネコと同じようには思えない。

 ひとまず、脱衣所へと追い出し、タオルに包む。

 手短に俺もまた体を洗った。

 念のため、湯船を確認するが赤い毛が落ちている様子はない。

 獣のまま入ってたら大変なことになってただろうな。

 お湯をまるっと取り替えるくらい毛が抜けそうなイメージだ。

 本当はじっくりゆっくり半身浴でもしたいとこだが、そうもいかない。

 理由は2つ。

 1つは母さんにしてしまった変な言い訳。

 それのせいで俺の長風呂は、男子高校生的行動をしているとたぶん勘違いされている。

 もう1つは林檎。

 脱衣所に待たせている。

 しょうがなく、風呂場を出て、タオルをすぐさま腰に巻いた。

 そんな俺の心配とは裏腹に、獣の林檎は俺がさっき包んだタオルの中で、すやすやと寝息を立てている。

 ……やっぱり、かわいいな。

 とっととパジャマに着替え、そっと林檎のタオルを取り替える。

 バスタオルで林檎を覆いながら部屋へと向かった。


 なんとか、母さんはスルーだ。

 疲れていたのか、林檎は起きそうにない。

 そりゃあ暴風雨の中、あんな風に荷台にくっついてたら体力も消耗するだろう。

 あのときはホント、変なバケモンかと思ったけど。

 ……いや、いまでも否定は出来ないな。

 まだ少し湿っている林檎の毛を、タオルで拭いていく。

 自分の枕を床に置き、その上へと林檎を乗せておいた。


 少し遅めの夕飯。

 父さんはまだ仕事で、俺と母さんとみのりの3人。

 みのりのおかげで、なんとか気まずい感じにはならなそうだ。

 そんな俺の考えはものすごく甘かった。

「お兄ちゃん、さっきすごい叫んでたね」

 いきなり突っ込まれてしまう。

 みのりにまで聞かれてたか。

「叫んでねーよ」

「うそ、聞こえたもん」

 くそう。

 結構しつこいな。

「みのり、お兄ちゃんにも事情があるの」

 意外な助け舟。

 けれど痛々しい。

 母さんの優しさに、俺は泣いてしまいそうです。

「……風呂場で歌うとか、そんなノリだよ」

「やっぱり、叫んだんじゃん」

「うん……そうだな。もうなんでもいいから、忘れてくれ」

 納得しないみのりと、変に納得してくれちゃってる母さん。

 どっちも厄介だ。


 本当のこと、言うべきだろうか。

 その前に俺も、林檎に聞いておきたい。

 一体なんなのか。

 理解出来てない。

 なんにしろ飼い主が現れるまでの辛抱かもしれないけれど。

 ……そもそもいままで林檎が飼われてたかどうかも、定かじゃない。

 飼われてたか? なんて聞きにくいよな。

 なんていうか、人に対して使う言葉じゃないだろうし。

 林檎のこと、どう扱えばいいんだろう。

「ごちそうさま」

「食器、沈めるだけ沈めといて」

「はいはい」


 部屋に戻っても、林檎はまだ眠ったままだった。

 毛は乾いたか。

 撫でるとすごくさらさらで、思ったとおりふわふわだ。

「ふふ……」

 いかん。

 つい顔がほころぶ。

 気持ちいい。

 そしてかわいい。

 でもって、俺、気持ち悪いな。

 一旦、落ち着こう。

「どうすっかな」

 このままじゃトイレだって困る。

 ネコ用のトイレ?

 こいつネコよりでかいけど。

 そもそも一時的に預かる状態なのに、わざわざトイレ買ってやるってのもな。

 擬人化されたらかなりマニアックな感じになっちゃうし。

 うん……。

 それを考えるのはよそう。

 ネコを飼うにしても、人が増えるにしても、さすがに家族の協力無しじゃ厳しいか。

 寝てる中悪いけど、ここは本人にも協力を頼まねば。


「おい、林檎。起きてくれ」

「ウォオン……」

 あくびとかするんだな。

 かわいい。

 なんて見とれてる場合じゃない。

「聞きたいことがあるんだけど」

「じゃあ、しゃべれた方がいいよね」

「うっ……」

 まあ、そうなんだけど。

「前置きなく人型になられると困るんだよね」

「困る?」

 目のやりどころに困るわけですよ。

 なんて思いつつも、やっぱりどうしても見てしまう。

「ミノル、リンゴの体見たい?」

「いや……」

 落ち着け。

 こいつはネコ、こいつはネコなんだって。

「世間的には、獣は人型にならないんだけど」

「うん」

「……知ってた?」

「知ってるよ」

「だったら話は早い。お前のこと、母さんに紹介したいんだけど、ずっと獣のままでいられるか?」

「……ちゃんとご挨拶出来ないね」

「いい。オンとかキュンとか言ってればいいから」

「ふうん」

「おとなしく獣のままでいて。出来ないなら捨てる」

「ミノル、リンゴのこと捨てるの?」

 ……捨てられるわけないだろ、この状況で。

「わかったら獣のままだ。いいな」

「うん、わかった」

 また林檎はあっさりと獣の姿になってくれる。

 ……よし。

 ネコで通そう。


 ひとまず、大きめのカバンに入ってもらう。

 キッチンには母さん1人。

 みのりは自分の部屋かどこかでテレビでも観てるんだろう。

「……母さん。ちょっと話があんだけど」

 片付けをする母さんの背中へと声をかける。

 なんだかこういうの緊張するな。

「話って……。実、お風呂場の件はもういいの。母さんが出すぎた真似をしたわ」

「いや、その件じゃないし」

「男の子の事情ってやつよね?」

 なんか笑いかけてくれますけど、ちょっと黙ってくれないかな。

 まあいい。

 ついでにあとで弁解しておくか。

「実は今日、帰りにネコ拾っちゃって。……少しの間、うちで預かりたいんだけど」

「ネコっ!」

 ……あ、母さんの目が輝いて見える。

「母さん、ネコ好きだっけ」

「まあ見た目はモモンガが一番かわいいと思ってるんだけど、ネコもいいわね。でも犬も好きよ」

 ちょっと興奮気味だな。

 まあ動物好きだってのはわかってた。

「飼い主が現れるまでだけでも、いいかな」

「飼い主が現れるまで? 飼われてたの?」

「まだわかんないけど。結構、躾されてるみたいだし。無理なら……」

 保健所、という選択肢は林檎と人語でしゃべって以降、俺の中から消えている。

 かといって、どこか貰ってもらうにしても、難しいよな。

「どうしようか」

「無理じゃないっ! 飼いましょう」

「……母さん、どうしてそんなに食い付くくせに、いままで飼ってこなかったんだ?」

 そんなに好きなら飼っていてもおかしくはない。

 みのりも欲しがってたし。

 まあ経済的理由かもしれないけど。

「だってね。母さんがネコばっかりかわいがってると、お父さんがヤキモチ妬いちゃうでしょ」

 ああ、そうですか。

 お熱いことで。

「でも、たまにはヤキモチ妬かれちゃうのも悪くないかなーなんて」

「もういいよ」

 いつまでも若い気でいるんだろうな、この人は。


「で、そのネコちゃんは? どこにいるの?」

「ああ、カバンの中に入れて……」

「もう、なんて扱い方っ!」

「こんなもんだろ」

 母さんは、手を拭き俺へと両手を差し出す。

 出して見せろと言わんばかりだ。

「……ちょっと普通のネコより大きめだから、驚かないでね」

「うん。わかった」

「あと……珍しい毛色してるけど、そういうネコみたい」

「わかったから早く出しなさいよ」

 俺はカバンから林檎を取り出し母さんに見せる。

「……大きいわね」

「うん、ちょっとね」

「大きめに想像したんだけど、それをはるかに超えた大きさだわ」

「ちょっとデブネコなだけだよ、たぶん」

 いや、本当は太ってないんだろうけど。

 悪いな、デブ呼ばわりして。

「持てそう? ちょっと重いかも」

「甘く見ないで。実よりは力持ちよ」

 それはどうだろう。

 まあ、母親ってのは力仕事だろうしな。


 林檎を母さんに手渡す。

 改めて客観的に見てみるとやっぱり大きいな。

 母さんが小柄だからかなおさらそう見えるのかもしれない。

「きゃああ、ふわふわでかわいい。なにこの子っ」

 かわいいだろう。

 別に俺の子でもないが、妙に誇らしい。

「……実は風呂場でそいつ洗ってて」

「そうだったの」

「……よかった?」

「なにが?」

「ほら、いきなり外から連れ込んだネコ、風呂場に持ち込んじゃったわけだしさ。嫌だったかなって」

「そんなわけないでしょう? むしろ冷えてるのにお風呂場にいれない方が母さん、嫌だわ」

 よかった、ネコ好きで。

「……で、つい叫んじゃったんだよ」

「……もしかして、叫ぶようなこと、この子が?」

 母さんは眉をひそめ、ジっと俺を見る。

 え、さらなる誤解に発展しそう?

「いや、手を咥えられてっ。俺、噛まれるんじゃないかって思っちゃったからついっ」

「そうだったの。変な言い訳してたからてっきり……」

 うん、俺も、変なこと口走った自覚はある。

「もうそれはいいよ。……じゃあ、とりあえずそんだけだから。部屋戻るよ」

「うん、わかった」

 ……うんって、母さん、林檎のことがっちり抱いたままなんですけど。

「その、連れてくよ」

「え、もうちょっと」

「父さん、ヤキモチ妬くよ」

「まだ帰ってきてないじゃない」

「もうすぐ帰ってくるだろ」

「そうだ、キャットフード買ってこなきゃ。あとおトイレも。まだお店空いてるかしら」

 もう夜の10時だし、外は暴風雨。

「それは明日でいいからさ」

「お腹空くでしょ。そうだ。ササミ、いまから茹でましょ」

 確かに、お腹は空くだろうけど。

「実、ちょっと抱いてて」

 上機嫌だな。

 林檎を俺に渡して、洗ったばかりの鍋をまた火にかける。

 抵抗はないのだろう。

 林檎のためってことか。

 愛されてるな。

「とりあえず俺の部屋に連れてくよ」

「ええっ!」

「ササミは後で取りに来るから」

「ちょっと待ってれば、いいじゃないの」

「寝そうだったとこ、無理に連れてきたんだよ」

「今日は母さんの部屋で寝る?」

「父さんがヤキモチ妬くんだろって」

「…………わかった」

 なんとかなりそうかな。

 林檎もおとなしくしててくれたし。


 部屋へと戻り、林檎を下ろす。

 やっぱり結構重い。

「やれば出来るな、林檎」

「まあね」

 あいかわらず急に人型になる林檎には慣れれず顔が引きつる。

「……いや、戻れ」

「ミノルの前ならいいでしょ」

 まあ、悪くはないんだけど。

 こうして会話も出来るわけだし。

 それでも、目のやり場には困ってしまう。

「あのね、リンゴは人と同じトイレで充分だよ」

 ……ああ、人型になれば問題ないもんな。

 といういか、ネコ用トイレでさせる方が抵抗ある。

「……じゃあ、上手いこと母さんに伝えとくよ」

「ミノルのママさん、リンゴがヒトでも怒らなそう」

 ……確かに大丈夫そうな気もしてる。

 けれど、それがバレたら俺の部屋で一緒に過ごすってことは難しくなりそうだ。

 待てよ。

 別にいいんじゃないか、それで。

 なんで俺、一緒に過ごしたいだなんて思ってんだろ。

 いや、だってかわいいだろ。

 こんなふわふわで、さらさらで。

 母さんに取られてたまるもんか。

 人型の林檎だってかわいらしい。

 こう裸なのは困るけど。

「母さんのことはまた考えとく。それはともかく、あんまり人型で裸になるなよ」

「見るくせに」

「だから、お得感が無くなるだろ」

「お得感?」

 しまった、つい本音が。

 あまりにも、堂々とされるとこう色気が半減する。

 こういうのはたまに見えるからおいしいわけで。

「いいから、部屋でおとなしくしてろよ。ササミ取ってくるから」

「はーい」

 ササミね。

 ネコは食べるらしいけど、林檎はどうなんだか。

 まあ人であっても食べられるけどな。


 1階に下りると、いつのまにか父さんがキッチンにいた。

「ああ、帰ってたんだ、おかえり」

「ただいま。なんか母さんの様子がおかしいんだけど」

 気付くの早いな。

 さすが夫婦。

「実は今日、ネコ拾っちゃって」

「ネコだって?」

 父さんの顔が強張る。

「……父さんって、動物好きだよね」

「ああ、好きだし構わないが、母さんはホント盲目になるからね」

 動物相手にヤキモチですか。

 なんだかみっともない。

「あのササミ、もしかしてネコのか」

「うん。さっきネコにやるって茹ではじめてて。……ちょっと茹で過ぎかな」

「あれは父さんの夕飯じゃないってことか?」

 ……悪いね、父さん。

 俺だってここまで影響あるとは思ってなかったし。

「少しくらい我慢してよ。父さんは自分でも出来るんだから」

「……まあそうだな」

「母さん。ササミは俺がやるから」

「そう? あら、お父さん、帰ってたの?」

 ……重症だな。

 さすがの俺も、父さんに同情した。


 湯からササミを取り出し、水で冷やす。

 母さんは、冷めたコロッケをレンジで温めていた。

「実、拾ってきたネコってのはどこにいるんだ?」

「ああ、俺の部屋にいるよ。もう寝そうだから、また起きたときにでも見せる」

「そうか。どんなネコか楽しみだな」

「赤くて、ちょっと珍しいネコだよ」

「ササミ、余るようなら冷蔵庫に入れておいてね」

「わかってるって」

 そうだ。

 トイレのことも伝えないと。

「母さん、あとトイレなんだけど。普通に人と同じで大丈夫みたい」

「ええっ! 落ちちゃうじゃないのっ」

「だって、林檎が……」

 自分でそう言った。

 なんてことは言えないしな。

「あいつ、ちょっとでかいだろ。そう落ちないよ」

「でかいだけじゃない。はまっちゃったらどうするの!」

「風呂上り、勝手にトイレ入ってたんだ。そこまで躾られてるみたいで」

「すごいネコだな。父さんも気になるぞ」

「トイレくらい、お父さんのお小遣い減らせば買えるんだから、遠慮せずに言うのよっ」

 いや、それは遠慮しちゃうって。

 ヤキモチどうこうの問題じゃないな。

「またなにかあれば、言うから」

 うん、母さんの頭ん中、父さんよりネコでいっぱいみたいだな。


 部屋に戻ると林檎は獣の状態で、枕に乗っかっていた。

 そうだ、普通にしてて欲しい。

「一応、ササミ持ってきたんだけど。食べる? 味はついてないよ」

「オン」

 頷いてササミに食い付く姿は、本当にただのネコだった。

 色と大きさを除けば。

 なんだかんだ疲れたな。

 まだ早いがとっとと俺も寝てしまおう。

「じゃあ俺は寝るけど、トイレ行くなら見付からないようにな」

 みのりにはまだ説明していない。

 夜中にいきなり鉢合わせたら獣の状態であっても驚くだろう。

 俺が今日、雨の中ありえないほど取り乱したのがいい例だ。

 頷き枕の上で丸くなる林檎を確認し、俺もまたベッドへと体を沈めた。

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