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非常食1

「えっと、関東全域に暴風警報が発令されたようなので、今日は全部活動中止です。速やかに下校してくださいね」

 すっげえ雨だとは思ってたが、とうとうきましたか。

 担任の若田先生はそうホームルームを締めくくり教室を後にする。

 とはいえ実際暴風警報が出てる最中に動くってどうなんだ。

 だからって落ち着くまで学校で待機とかしたいわけでもないけど。

 ……さすがに今日くらい電車で来ればよかったか。

 今朝、読みの甘かった俺は30分かけて自転車で来てしまったのだ。

「すっげぇ雨だなー」

 ひとつ前の席、夏川が窓の外を眺めながら俺と同じ感想を呟く。

 やつの天パが湿気のせいか、いつも以上に爆発してやがる。

 釣られるよう、俺もまた外を見た。

 窓はガタガタ音を立ててるし、視界も悪い。

「はぁ……」

 こんな状態で帰れとか、鬼だな。

 自転車は置いといて、電車で帰りたい所だが、それをやっちまうと最寄り駅から自宅まで結構な距離を歩くことになる。

 そもそも電車は、動いてんのか?

「佐伯ん家って、学校から遠いんだっけ」

 夏川とは、高校に入ってからの付き合いだ。

 すでに二ヶ月経ってはいるが、お互いの家の話はしたことがない。

「自転車で30分くらい」

「30分もまあよくやるね」

「そんなもんだろ」

「俺は歩いて5分だ」

「お前と比べるな」

 そういえば家が近いせいで同中のやつらが多いとか、以前言ってたような気がする。

「もしかして夏川、本当はもっと頭いいけど近いからとかいう理由で学校のレベル下げてたりする?」

「あ、わかっちゃった?」

「まあ夏川に限ってそれはないか」

「俺の言うこと聞いてないよね」

「お前が頭いいなんてことあるはずないからな」

「見くびってもらっちゃ困るよ。これでも推薦入学なんだ」

「それって、一般入試だと受からないからじゃなくてか」

「酷いな佐伯は。どうしたらそういう歪んだ考えになる」

「普段のお前を見ていたら」

「あー、雨落ち着くまで俺ん家で待機する? って言おうと思ってたんだけどな」

「マジか。ぜひとも待機させてくれ」

「いや、それ今撤回するつもりで」

「撤回を撤回だ」

「都合いいなお前。でもそのスルースキル嫌いじゃないぜ。じゃあ来いよ」

 とりあえず学校はすぐにでも追い出されることになるだろうし、この暴風雨で30分はさすがに厳しい。

 雨が落ち着くとは限らないが、夏川の家で少し様子見させてもらうとしよう。

 俺は机の中にしまっていた筆記用具やらをカバンへと入れ直す。

 教科書はそのまま置いとくか。

 エナメル質のスポーツカバンで雨には強い仕様だ。

 斜め掛けにし、雨合羽を羽織った直後、

「なにそれ、佐伯、合羽!? 合羽って!」

 夏川が俺の肩をバンバン叩きながらも指を差す。

「久しぶりに見たぜ!」

「おい。失礼なやつだな」

 ホント、合羽と合羽業者に謝れ。

「合羽とかおかしいし。いやいや、似合ってるよ?」

「どっちだよ、お前」

 俺だって合羽なんて本当はダサいと思ってる。

 あ、すいませんね、合羽業者さん。

 それでも自転車通学のやつらはみんな合羽で、それが普通だ。

 すっげー感謝してんだよ、この合羽に。

「お前にはわかんないかもしんねーけど、必需品なんだよ」

「傘じゃなくて?」

「自転車通学は合羽なの!」

「教室で合羽着ちゃうんだ、お前」

 確かにしくじった。

 せめて下駄箱で着ればよかったといまさら思ってもしょうがない。

「どこで着たっていいだろ。そんなことでデカい声出すなよ」

 変に目立っちまう。

 チラっと教室内を伺うと案の定、何人かの視線が突き刺さっていた。

 ほらね、最悪だ。

 俺と目を合わせないようにか、慌てて顔を背けられるが、完全に見られた。

 いや、合羽姿くらい見られても平気だよ。

 普通なんだ。

 普通なのに夏川のせいで、恥ずかしいもん着ちゃってるみたいじゃないか。

「……夏川んち行くのやめようかな」

「ごめんごめん。許して?」

 両手を合わせてペロリと舌を出してくるがまったくかわいくない。

 むしろ不快だ。

「……しょうがねーな」

「ついでに俺のカバンもその優秀な合羽の内側に入れてやってよ」

「誰が入れてやるもんか」

 許したの撤回だ。

 夏川の手を払いのけ何気なくもう一度、教室内を見渡す。

 するとばっちり、一人の女子と目が合ってしまった。

 七原柚子。

 夏川と違い湿気に負けないストレートロングへアー。

 目立つ美人ってわけでもないけどかわいくて、なにより心が綺麗だ。

 と、俺は勝手に思う。

 以前、花瓶の水を替えていた。

 まあそれだけだが花を愛でられる子ってのはすっごく魅力的だと思う。

 たまに自転車置き場で偶然居合わせる。

 そのときはなんとなく挨拶くらいして、まあそれだけの関係なんだけど。

 七原さんはカバンに手を突っ込んだまま、俺の合羽姿を眺めている。

 ……ああ、そうか。

 七原さんも自転車通学、つまりおそらく合羽だろう。

 それがあろうことか夏川があまりにも合羽な俺を笑いものにするせいできっと出しにくくなっているに違いない。

 ホント、なんてことしてくれんだ、夏川。

 とはいえそんなことを夏川にわざわざ言うのもなんだ。

 ここは俺が七原さんの心のケアに回ろうじゃないか。

「夏川。お前、先に下駄箱行ってろよ」

「なに、マジで怒ったの?」

「そうじゃねーけど。すぐ追いかけっから」

「だったら待つぜ」

「いいから行けよ」

「怪しいなぁ」

 夏川は俺と肩を並べると、すぐさまフっと鼻で笑う。

「ああ、そういうこと? そんなに言うなら先行ってるぜ?」

 俺の視線の先にいる七原さんに気付いてか、夏川はニヤニヤしながら手を振り教室をあとにする。

 だが、そんなにニヤつかれるほどの他意はない。

 ただ『夏川なんて気にするな』と伝えたいのだ。

 出来ればこの場には夏川がいない方がいい。

 そうだ、決して俺が2人きりで七原さんと話したいとかそういうことでは断じてない。

「な……な七原さん」

 挨拶というわけでもなく声をかけるのもしかしたら初めてだったかもしれない。

 わずかに声がどもる。

「雨、大変だね。その、俺ら自転車通学だし」

「佐伯くん……」

 七原さんはなぜか気まずそうに俺から目を逸らす。

 思ってもいなかったその反応に、俺もまた焦りで目が泳ぐ。

 なにか悪いこと言いましたか、俺。

「えっと、七原さん?」

「あ、うん……。その、今日は自転車じゃなくて」

「……え?」

「電車で来たの」

 待て。

 自転車じゃない?

 いや、そりゃ七原さんの勝手だよ。

 俺だって、今日くらい電車にしようかなって朝思ったし。

 じゃあなにか。

 俺ら大変だね、なんつって変に親近感抱いちゃってたのは俺の一方的な感情で、七原さんはやっぱり俺の合羽見てたってことか?

「うわぁあああ」

「ちょっと、佐伯うるさいんだけど」

 誰だ。

 そんな冷たい口調で否定するのは。

 振り返ると、ツリ目を細めて、あからさまに俺を見下してるクラス委員長の姿。

 桜井静香だ。

 ずいぶんと響く声で、お前の方がうるさいんじゃないか。

 まったく静かじゃない。

 名前負けだ。

 なんてこと、言えないけれど、まあ、うっかり奇声を発してしまったことは反省しよう。

「ああ、あんた合羽で登校してんだ?」

「それは違う!」

 くそう。

 夏川に続いてまたバカにされてんじゃないか、俺。

「これは自転車通学の宿命なんだよ」

「別に、興味ないけど」

 でしょうね。

 でも言い訳くらいはさせろ。

「七原さんも、雨のときは着るよね?」

「……雨の日は、電車で来ることが多くて」

 雨の日は電車?

つまり合羽は着ないわけですね。

 七原さんの家がどこにあるのかなんて知らないけれど、きっと自転車でも電車でも大差ない場所にあるんだろう。

 俺の家だって別にそこまで大差ないけれど。

 ……自転車の方が安いし、健康的だし。

「ふーん……」

 なんだか、それしか言葉が出てこない。

「でも、佐伯くん、合羽似合ってるよ」

 いや、そういうこと言われて素直に喜べるほど、俺は人間出来てません。

 だってほら。

 隣で桜井がすっげー笑ってるし、七原さんだって申し訳無さそうな顔しちゃってくれてるし。

 それでも少しだけ、接点が持てて嬉しいのは確かだ。

「……じゃあ、俺、下駄箱に夏川待たしてるから」

 そう言い残し、ダッシュする。

 くそうくそうくそう。

 なんだよ。

 カバンに手なんて入れて、合羽隠してるのかと思ったじゃないか。

 折りたたみ傘でも出そうとしてただけなのか?

 思わせぶりな態度取りやがって。

 いや、こっちの勝手な勘違いですけどね。

 遠めに見られても恥ずかしいのに、わざわざ近づいてこんな合羽姿晒して。

 なにやってんだよ、俺。

 合羽似合ってるよって?

 似合ってたまるか。


「佐伯―。どうだ? 七原とは仲良くなれそうか?」

 そうにやにや顔の夏川に迎え入れられ顔が引きつる。

「むしろ合羽姿を晒しただけになったな」

「なに、実はやっぱ気に入っちゃってんの? その合羽」

「いや、そういうんじゃねぇよ。けど、だんだんと愛おしくもなってきたな」

「なんだそれ」

「こんなに笑われたらせめて俺くらいは愛でてやんねぇと」

「お前ってなかなか物捨てられないタイプだろ」

「そうだな」

「まあ俺だって別に合羽をバカにしてるわけじゃないよ。ただ珍しくてさ」

 騙されるものか。

 絶対バカにしてるぞ、こいつ。

「……合羽は最強の雨具だ」

「そうだ。悪いのは合羽じゃない。合羽を教室で着た佐伯だ」

 ああ、そうですね。

 ……やっぱり下駄箱で着ればよかった。


 結局、豪雨の中、夏川の後ろを自転車を引きながら歩く。

 こんな雨音じゃ横に並んだところで声もそう届かない。

 夏川の後ろを歩けばもしかしたら少しは雨よけに……なんて考えてはいたけれど、まったく効果は無く、合羽の 弱点である顔はびしょ濡れだった。


 マンションの1階へと入り込みやっと少し落ち着く。

「ここ? 夏川んち」

「そう。ここの6階な」

 夏川の言ってた通り、5分くらいしか経ってないだろう。

 近いっていいな。

 合羽を脱ぎ水を払い、軽く折りたたむ。

「佐伯って、脱ぐときは部屋じゃないんだ?」

「部屋で脱ぐわけないだろ。濡れるし」

 ましてや人んちだし。

「いやいや、もしかして合羽大好きくんは部屋まで着てっちゃうかなと」

 結構、合羽で引っ張るな、こいつ。

「そろそろ、黙ろうか」

「はいはい」


 それにしてもこの天気、いつ落ち着くんだ?

 雨に加えて雷の落ちる音まで響いてやがる。

「まあ、誰もいないから気楽にしてていいよ」

「サンキュー」

 両親は共働きか。

 なんてことを考えながら、勝手にソファーに座らせてもらう。

 テレビはどこのチャンネルも、L字型の青い枠で台風情報が映っていた。

「そういえば夏川、同中たくさんいるって言ってたよな」

「いるよ。中学違っても小学校一緒のやつとか」

「……俺の知ってるやつも誰か一緒だったりする?」

「ああ、桜井は一緒だよ。なに、佐伯、まさか委員長のこと気になってる?」

「違ぇよ。一緒とか知らなかったし。しかも桜井には合羽バカにされたしな」

「佐伯の合羽をバカにしたのはなにも桜井だけじゃないだろ」

 そうだ、こいつも合羽をバカにしたやつの1人。

 むしろ発端だ。

「ああ、お前と比べたら、桜井なんてかわいいもんだな」

「おー、桜井がかわいいとか言っちゃいますか」

「違ぇよ」

 そういう意味じゃない。

「そうだな。お前はどうせ七原の方が気になってんだろ?」

 なんだかんだでお見通しらしい。

「好きとかじゃないからな」

「はいはい。っつーか俺、七原とも中学一緒なんだよな」

「マジか!」

「あ、桜井は小中両方一緒な」

「夏川と同じ中学ってことは、そこまで家遠くないんだな」

 電車で1駅かくらいか?

「ずいぶん気にしてますね」

「別に」

 家まで気にしちゃうのはさすがに気持ち悪いか、俺。

 この話題、続けるのは得策じゃない。

「夏川、なんかしようぜ。ゲームとか」

 俺は強引に話題をすり替える。

「じゃあ勝負だな」

「勝負? 受けて立とうじゃないか」

 結構ゲームには自信がある。

「負けた方が明日パン、奢るってのでどうだ?」

「いい提案するね、佐伯」

「だろ?」

「ただうちにあるゲームソフトで大丈夫か? 俺はやりこんでるぜ?」

 ……確かに不利だ。

 ハンデでもつけさせるか?

「夏川……」

「ハンデ、つけてやろうか?」

「いや、いるかよ、んなもん」

 ああ、しまった。

 向こうから見下されるように言われると、どうしても突っぱねてしまう。

 無駄なプライドは本当に邪魔だ。

 人生損をする。

 でもって、俺の後悔はますます加速することになる。

 原因は夏川の取り出したゲームソフト。

 なんだこのマニアックなチョイスは。

「やったことねーし」

「それはよかったな。楽しめる」

 いまさらもちろん、やっぱりハンデが欲しいとは言いたくない。

 適当なゲームを選んで対戦してみるが、結果は見えていた。

 まるで歯が立たない。

「もう1回」

「もう1回やれば勝てるとでも?」

「……いいから、やるぞ」

 駄目だ、正直、勝てる気すらしない。

 こいつ、なにかしら裏技的なものでも使ってるんじゃ……。

 一度とならず二度、三度。

「……くそう。夏川め」

 これ以上は、恥の上塗りというやつか。

 そろそろ諦めるしかない。


「じゃあ、明日は佐伯くんにゴチになります!」

 俺から言い出したことだ。

 男に二言は無い。

 別に金が惜しいわけじゃない。

 名誉の問題だ。

 夏川のくせに俺に勝つとは。

 ゲームに没頭しているうちにも時刻は6時。

「そろそろ帰ろっかな」

「まだ結構、雨降ってるけど」

 そうは言われても、いずれ帰らねばならん。

 まさか夏川の家に泊まるわけにもいかないし。

「やむ気配も無いしなぁ。これ以上遅くに帰るよりはマシだろ」

「それもそうだな」

 すでに夜中かってくらい暗いけど。

「じゃあ気をつけて帰れよ」

「ああ。今日はどうもサンキューな」

「いいよ。ここで合羽着てってもいいんだぜ?」

「……1階で着るよ」


 見送られ、1階で合羽を着用し愛車にまたがる。

 こんな中、傘だったら吹き飛ばされてたぞ。

 合羽さまさまだな。

 ピシャーン、ピシャーンと鳴り響く雷がうるさく響き渡る。

 ……ちょっと怖いな。

 近くにも落ちてるんじゃないか。

 ピシャーン。

 大きな音と光。

 雷の光が眩しいと感じたのは初めてかもしれない。

 顔にはバシバシと雨がぶつかって痛いくらいだ。

 こんな暴風雨の中、自転車乗ってるのなんて俺だけじゃないか。

 ちょっとだけ楽しい気持ちになってしまう俺ってなんてガキなんだろう。

「ふんふーん」

 少しだけ鼻歌交じりに歌っていると、ひときわ眩しい光が入り込んでくる。

 反射的に目を瞑った直後。

 ピシャーン。

 また、落ちたな。

 近いぞ、これは。

 ……もしかして、ちょっと俺危ないんじゃないか。

 そんなことを思っていると、

「ウァアアアアアアア!」

 聞き慣れない音が耳につく。

 ……音?

 声?

 ちょうど家と学校の中間地点くらいだろうか。

 一旦、自転車を止め辺りを見渡してみるものの音の出どころは掴めない。

 なにかの叫び声にも聞こえた……けれど叫び声だとして、雨音にも雷にも負けないとなると相当だ。

 もしかして、この近くで雷に打たれた人の断末魔かもしれない。

 いや、そもそも人だったか?

「オォオン」

 また聞こえた。

 近い。

 なんだこの声は……。

 理解出来ない物に対する恐怖は大きい。

「オォオオオン!」

 3度目の声で俺の頭に一匹の獣が浮かぶ。

「狼だ……っ!」

 理解出来ても、これはこれで怖い。

 ほぼ反射的に自転車を再度、漕ぎ進めた。

 狼の声なんて直接聞いたことないけど、俺がイメージしている狼の遠吠えに近い。

 後ろの方から聞こえたような気がし、俺は必死で逃げる。

 けれども向かい風のせいでかペダルが重い。

 ピシャーン、ピシャーンと、何度も落ちる雷。

 やっぱ夏川んちなんて行ってないでとっとと帰ればよかったかもしれない。

 もしくはゲームなんてしてないで、せめてもう少し早くに……っ。

「ああもう……っ」

 気合い入れて立ち漕ぎするが、倒れそうだ。

 後ろからなにかに引っ張られてんじゃないか。

 ホント、困るからそういうの。

 なんて、ありもしないことを思いつつ、振り返る。

「ん?」

 振り返るとなにかが俺の荷台にくっついていた。

 ゴミ?

「おぉっと」

 変な体勢のせいでよろめく。

 慌てて座り直し前を向くが、なんだあれ。

 あれのせいで、こんなにもペダルが重いのか。

 まあ大部分はこの暴風雨が原因だろうけどいつのまにか引っかかりやがって。

 とっとと落ちろ。

 蛇行運転を繰り返し、チラっと後ろを振り返るが落ちる気配はない。

 むしろ、一瞬タイヤが滑って危なかった。

「オォオン!」

 ほら、また狼の遠吠え。

 ゴミなんかに構ってる場合じゃないんだよ、俺は。

「ウォオオン!」

 ……狼。

 狼?

 少しだけ自転車のスピードを緩め、恐る恐る再度振り返る。

 荷台にくっついているゴミ。

 いや、違う。

 荷台を掴んでやがる?

 後ろを向いたまま走るなんてこと俺には無理だ。

 またすぐに前へと向き直るが、気になってしかたない。

 雨で視界は悪いし、ホントよくわかんねーけど。

「オォン」

 こんな暴風雨の中、そうそう声なんて聞こえるもんじゃない。

 それがいくら狼の遠吠えであっても。

 これだけの近距離だからこそ、聞こえた……ってことか?

 ゴミじゃない。

 俺の荷台についてるのって……。

 もしかして狼さん?

「うぁああああ」

「ウァアアアア」

 俺が叫ぶと、直後、少しだけ遅れるようにして大きな声が響く。

 なんだこいつ。

 俺の叫びに同調しやがった。

 やばいもん後ろにくっついてるぞ。

 もしかしてバケモン?

 とにかく漕ぐ。

 漕ぐしかない。

 逃げて逃げて逃げまくろう。

 そうすればこいつは振り落とされて万事オッケーだ。

 俺の荷台は、ゴミ置き場じゃないんですよ。

 狼やバケモンがいきなりくっついてきていい場所でももちろんない。

 正直、荷台なんてかっこ悪いとも思ってた。

 マウンテンバイクで登校したいよ。

 けれど夢がある。

 かわいい彼女と二人乗り。

 違反だよ。

 それでも憧れじゃん、そういうの。

 横向きに座って俺の腰に手を回して欲しい。

「そこは、俺の彼女の席だっ! わかったらとっとと堕ちろっ」

 未来のですが。

 もう後ろなんて振り返ってはいられない。

 とにかく全力だ。

 くそう。

 かわいい彼女のための荷台に、まさかゴミのような謎の生物がくっついてくるなんて。

 むしろ永久に誰も乗りそうにないから、代わりに座ってくれてたりします?

 泣いてもいいですか。

 雨が目に入り込んで痛い。

 ホントに涙が出てきた。

 最強の雨具、合羽ももうほとんど無意味だ。

「オォン」

 声が近い。

 さっきから近いが、さらに近い気がした。

 近づかれてる?

 やばい。

 やばいやばい。

 腹辺り、引っ張られるような感触。

 反射的に、そっちを見たのは間違いだったのかもしれない。

 キラリと2つなにかが光った。

 目玉ですね。

「うわぁあっ!」

 あいかわらず暗くてよくわからないけれど、目玉だってのは理解出来た。

 俺の合羽を掴んでやがる。

 さっきは荷台、今は合羽。

 このままじゃ、俺に飛び掛ってくるのも時間の問題だ。

 どうする、俺。

 ……そうだ。

 ここは脱ぐしかない。

 この合羽を脱いで、合羽もろとも後ろに飛ばすしか……。

 もはや濡れるなんて次元の雨でもないし、こんな合羽、惜しくもない。

 ああいいさ。

 そんなに合羽が欲しいならくれてやる。

 俺は、片手運転をしながら合羽の前を開く。

「ははっ! 短い間だったが、心躍らせてもらったよ」

 少しだけ強がり、向かい風を受けながら右腕と左腕、交互に引き抜き立ち上がる。

 これでお別れだ。

 尻とサドルに挟まっていた合羽が風の勢いで剥がれ後ろへと飛んでいく。

「ははははっ!」

 勝った。

 そう思った直後、ガクンと体が沈む。

「うおおおお?」

 さっきとは比べ物にならないレベルでペダルが重い。

 反射的に変速機を一番軽いものに切り替えるがどうやら無意味だ。

 なにが起こってやがる。

 このままじゃ転ぶ。

 ペダルが全然動かない。

「うわぁぁっ!」

 すぐさま降りればいいものを。

 そう頭では理解した。

 それても、体は素直に反応してくれない。

 変速機は切り替えられたのに。

 そもそも、この場で止まって降りるだって?

 冗談じゃない。

 それこそ、この狼声のなにかに捕まるじゃないか。

「いってえ……」

 ……結果、盛大に自転車ごとぶっ倒れてしまう。

 もうなにが最善なのかまったくわからない。

 こいつは自転車をひっくり返すことくらい、たやすいのか?

 痛い体を少しだけひねり、後ろを確認する。

 後輪には思いっきり、俺の雨合羽が絡まっていた。


 ……今日は厄日か。

 後輪に巻き込まれた合羽。

 こいつのせいでペダルが動かないわけね。

 最悪だ。

 俺はもう狼声に襲われる。

 ニュースになるぞ、これ。

 いや、飛んできた瓦礫で傷付いた少年とか報道されるかな。

 彼はなぜ合羽を脱いだのでしょう……なんて謎の報道がなされるかもしれない。

 きっと夏川は自分が合羽をバカにしたせいだと罪悪感で苦しむだろう。

 ……というか、あの狼声はどこだ?

 後ろか?

 もう体回んねーぞ。

 目を凝らし、荷台付近を確認する。

 いない。

 いや、合羽が妙に大きい。

 まるでゴミでも包み込んでるかのように。

「オォン……」

 また小さく響く声。

「はは……」

 そうか。

 そういうことか。

 狼声め、合羽に包まれ身動き取れなくなってやがるな。

 包まれて、本当にゴミのようだ。

「勝った……」

 やはり俺の勝ちだ。

 神は……いや、合羽は俺を見放さなかった!

 もはやお前はただの雨具じゃない。

 いや、元々最強の雨具だってことはわかっていたけれど。

 ハンターさん、ぜひ狩りのお供には合羽を。

「オォン……」

「鳴いても無駄だぞ」

 遠吠えしたってこんな雨の中、仲間は来ない。

 たぶん。

 来たら困る。

「オン……」

 なんだか俺の言葉が通じているように感じる。

 妙に弱弱しい声で、なんだか切なげで。

 ……痛い。

 罪の意識が芽生えてしまう。

 くそう、こいつが悪いのに。

 俺は悪くない。

 でも、困ってる……よな。

 こんな合羽に包まれて身動き取れないなんて状態になれば誰だって困る。

 ……やっぱり解いてやるべきか。

「どうすんだよ、これ」

 どうなってるのかよくわからん。

 巻き戻しのように、バックして絡まった合羽を外していくか。

 なんてことを思ってはみたが、それも無理そうだ。

 家まではあとわずか。

 歩いて帰ることは出来る。

 けれどさすがに、自転車をこの場に放置しておくわけにもいかない。

 登校に使ってるだけあって、学校指定の変なシールが貼り付いてるし。

 それに、放置すれば合羽の中のこいつだって見捨てることになる。

「オン……」

「ああ、待てって」

 この合羽、後輪に絡まった部分だけハサミで切るか。

 もう、雨でなにもかもぐちゃぐちゃだ。

 まだ7時前だろ?

 6月だってのになんでこんなに暗いんだ。

 俺は筆箱からハサミを取り出す。

 散々バカにされた合羽だけれど、なんだかんだで嫌いじゃなかった。

 ちょっと寂しいな。

 いままでありがとう。

 包まったままの狼声をしょうがなく抱きしめ、後輪に絡まった合羽だけを切っていく。

 急に、飛びつかれたら怖いからな。

「キュウ……」

 ……意外とかわいい声も出るじゃないか。

 もしかしてただの犬か?

 どうしよう。

 それなら騒いだ自分が恥ずかしい。

 別に誰が知るわけでもないけれど。

 念のため、合羽の腕や裾の残った部分を使い、身動き出来ない程度に縛り上げる。

 さて。

 自転車も、どうやら壊れていないようだし、合羽も取り除けた。

 ……こいつを逃がして帰れば、解決なんだが。

 逃げてくれるか?

 むしろ、俺が逃げてたんだけど。

 少しだけ腕を緩めてみると、わずかにもぞりと動く。

 結構おとなしいな。

 あんなに俺の合羽に食らいついてきてたのに。

 さすがに疲れたか。

 こんな雨の中、自転車で振り回されたわけだしな。

 この感じなら、もう俺を追いかけてくることもなさそうだ。

 あくまで予測だけど。

 合羽を解くと同時にダッシュすれば大丈夫。

 問題ないよな?

 問題ないはず……。

「ああもう……」

 なんでこう、急に弱い姿見せてくるんだよ。

 ぶりっ子か?

 ツンデレか?

 こんな状態見せ付けられたらどうにも置いて行きづらい。

 これって、俺が動物虐待してるみたいじゃないか?

 いや、もとはといえばこいつが勝手に俺の彼女特等席にくっついてたわけで、それを払い落としただけなんですよ。

 ちょっと合羽で縛るっていうひと手間は加えちゃいましたけど。

 いっそ、凶暴に襲い掛かって来てくれたなら、返り討ち出来ただろうに。

 あいかわらず雨は酷い。

 もう濡れるとかそんなん通り越して、このまま外にいちゃ体調崩すだろう。

 俺も早く帰って、風呂で体温めないと……。

「オ……ン」

 せめて、屋根のあるところに置いてくるか。

 見捨てるんじゃない、置くだけ。

 俺は悪くない。

 自転車の籠に合羽で包んだそいつを乗せる。

 さっきまでの威圧感は無い。

 というか、包まれててよくわからない状態だ。

 まさか窒息……いや、それは無い。

 そんなにキツくは縛ってないし。

 さすがに殺しはしたくない。

「お前が悪いんだぞ。勝手にくっ付いてきて……」

 自業自得だ。

 ……それでも、一度拾っちゃったようなもんだしな。

 近所の公園に大きなトンネルの遊具がある。

 そこまで来てみるが、地面は少し雨水が溜まっていた。

「……やっぱ捨てれねーな」

 しょうがない。

 1日預かって、その後、晴れたら保健所にでも頼むか。

 いや、飼ってくれそうなやつを捜すとか。

 そもそも、飼い犬か?

 こんな雑な扱い、飼い主には見せられないな。

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