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 通風口は、病院の真裏にある、人一人が通れるか通れないかという細い路地に開いていた。しかも地面ぎりぎりの位置で、出るときには地面を這わねばならなかった。

 裏路地とはいえ、ようやく普通の世界に戻れたような気がして、トキは安堵の息をつく。足下がおぼつかずに、地面に座り込んでしまった。

 生きて帰れた。解剖されずに済んだ。それだけでもう一生の幸運を使い切ったような気分だ。

 見上げると先に出ていたルリは、黒い上着の肩についたボタンを外していた。何をしているのかと見ていると、上着のボタンがはずれて、ズボンの裾まで隠すような長いスカートが現れた。

 黒づくめ一色だったのに、今目の前にいるのは、落ち着いた茶色のワンピースを来た、普通の格好の女性だった。しかも書類を入れる肩掛け鞄も持っている。

 結っていた髪もほどいていたが、太めのヘアバンドはそのままで、豊かな黒髪を押さえていた。

「その服ってどうなってんの?」

「黒一色だとかえって目立つでしょ? これなら普通に見えるし」

「そうだね」

 納得しかけてハッと気がついた。聞きたいことはこれじゃ無かった。

「いやいや、そうじゃないだろ。君は一体何者なんだ? どうして俺を知ってるの?」

 じっと見上げていると、ルリは穏やかに微笑んだ。

「この街に住む御使いの情報を集めていたの。最近行方不明になっている子は御使いが多いことも把握してたの。本格的に捜査に乗り出すべきかって考えてたら、トビくんの事件が起こってね」

「トビの?」

「ええ。最初はトビくんが相談した相手が犯人じゃ無いかなんて思われていたの。だってトビくんが相談したらしい翌日に襲われてるもの」

 世間話のような口調でそう言いながら、ルリはトキを見た。その真剣な目にぎくりとする。つまり最初は、トキが疑われていたのだ。

「じゃあ俺は、容疑者だった?」

「ええ。私たちの間では。だからあなたを見張ることになって、その担当が私というわけ」

「へ、へえ……」

 自分の知らない間に、ルリに見張られていたなんて、ちっとも気がつかなかった。

「あ、じゃあヒワは? あいつは疑われてない?」

 相棒を思い出して心配になり尋ねると、ルリは何故だか嬉しそうな穏やかな笑顔を浮かべた。

「ええ。だってあの子、外にほとんど出ないじゃない。子供たちを襲ったのは大人らしいけど、大人たちと接点があるのはあなたの方だわ、トキくん」

「そっか……」

 ヒワが疑われていないことに安堵した。事件に関わりたくないと拒絶しているヒワが疑われるようなことになったら、あの状態のヒワにどれだけ負担か分からない。

「もっとも今日の様子だと、トビくんを襲った犯人はあの病院の医者だろうけどね」

 あっさりとルリがいう。

「何で分かるの?」

「決まっているでしょ。閣下と呼ばれたのはカイハク。彼に逆らえないオウチと部下たち。それにこんな非道なことを外部に伝えて騒ぎになったら困るから関係者は必要最低限がいい。となれば病院関係者じゃ無い?」

 あまりに理路整然と述べられて、トキは言葉も出ない。ルリは容姿だけでは無く、頭もものすごくいいらしい。きっとただ者では無い。

「ルリ……さん」

「ルリでいいよ、トキくん」

「俺はくん付けなのに?」

「ええ。何?」

 呼び捨てていいよと敢えて匂わせてみたものの、あっさりと躱された。どうやらルリの方がトキと親しくなる気はないらしい。

「君は何の組織の人?」

 みっともないところを見られているから詐欺師を演じるいつものような口調にはなれず、率直に聞く。ルリも聞かれることは分かっていたようで、あっさりと答えた。

「暁神殿関係者だと言っておくね」

「暁神殿……もしかして暁部隊?」

 御使いのみで結成された、憧れの存在を口にすると、ルリは困ったような顔をしたがそれでも頷いた。

「まあ……近いかな」

「すごいや。君は何の御使い?」

 興味津々に尋ねたが、ルリは人差し指を唇の前に立てて微笑む。

「秘密」

「秘密なの?」

「必要があったら見せてあげるからお楽しみに」

 冗談めかしていうと、ルリはトキに向かい合った。今までと言って変わった真剣な目をしている。

「トキくん、これからどうするの?」

「え……?」

「これはこういう犯罪だって分かったよね? それでもまだ、トビくんを襲った犯人をみつけるの?」

 一瞬迷ってしまった。この経験をして、すぐに頷ける訳が無い。一歩間違えれば、ルリが助けに来てくれなければトキは間違い無く死んでいただろう。

「ここで手を引いてくれれば、私は助かるんだけど」

 はっきりと手を引けと言われた。確かに迷っている今は続けたい気持ちが五分五分だ。でも太白記念病院が犯罪を犯していることだけは分かった。

「俺が見た事を警邏隊に話したら太白記念病院は調べを受けないかな? そうしたら犯罪が明るみに出て奴らを逮捕して貰えるじゃん」

 そうなればあの廃人になった人々も、子供たちも解放されるし、御使いが行方不明になることも無い。だがルリの返事は芳しくなかった。

「無理ね」

 あっさりと否定され、トキは微かな苛立ちを感じつつ立ち上がった。彼女はトキよりも頭一つ分小柄で、立ち上がるとルリを見下ろすことになる。

「何で? だって俺はこの目で見た。ルリも見ただろ?」

「見たわ」

「じゃあ……っ!」

「ねえトキくん、よく考えてみて。病院を経営する元軍の従二等軍医総監の話と、詐欺師の君の話、世間はどちらを信用すると思う?」

 胸を突かれた気がした。今更ながら自分が詐欺師であるという事実が、痛みを持って突き刺さってくる。

 正義のために動いているが、世間的に見ればトキはただの路上少年上がりの詐欺師なのだ。詐欺師が提出した資料が詐欺で無い保証はどこにあるのだ。世間がどちらを信じるかなんて、自明の理だ。

「でも、ルリは……っ!」

「詐欺師の君を見張っていて得た資料に信用性は無い。私も尾行に気付かれて、騙されているかもしれないってことになるもの」

「あ……」

 たとえルリが信用のおける暁神殿の人間だったとしても、トキのせいで信用して貰えない。なんて酷い話だ。

「だからこれが必要なの」

 ルリがそう言って自分の鞄を叩いた。そこにはあの研究日誌が入っているはずだ。

「これからこれを事細かに捜査して、この通りの人間が行方不明になっていることを証明しないと。そうすれば信じて貰えそう」

「でもこの地下室を見せれば……」

「記者さんが地下に降りていったでしょ? その時に二人の会話を聞かなかった?」

「あ……」

 犯罪者を処罰するために、軍に変わって生かしたまま廃人にするよう委託されているといっていた。

「分かったわよね?」

「……そんな……」

「だから聞いたの。これからどうするかって」

 トキは俯いたまま押し黙った。ヒワに否定されたあの時と違い、自分も揺らいでいる。

 闇雲に手を引けといわれれば突っぱねるが、自分のやっていることが無駄と分かっていて突っぱね続けるのは厳しい。

「ルリ、俺が詐欺師じゃ無くて、ユウオウみたいに記者だったらもっと信頼された?」

「ええ。記者ならば真実を求めるのが仕事だもの」

 あっさりと言われて、急に自分が詐欺師であることが情けなくなった。真実を、酷い状況に苦しむ人たちをこの目で見たのに、自分の立場のせいで誰にも信用されない。

 その日その時が楽しければいい。今生活できているから問題ない。そう思っていたしそう信じていたのに、自分が詐欺師であるが故に、誰も救えない。

 初めて自分が詐欺師であることが、引け目となるのに気がついた。自分を見張っていたというルリだって、詐欺師だからトキに目を付けたのだろう。

 ルリと目が合うと、いたたまれない気持ちになってしまい、目を伏せた。ルリは最初からトキを詐欺師と知っていて、それでも普通に接してくれた。

 だが最初に見張り始めたときは、詐欺師であるトキを嫌悪したりしなかったのだろうか。

「もう手を引いた方がいいよ、トキくん。あとは私たちに任せて、いつもの生活に戻ったら?」

「いつものって……?」

「平穏な、毎日生きることが楽しいと感じられる日常のことよ」

 穏やかに言われて、唇を噛みしめる。

 悔しかったし、自分が詐欺師であることが初めて恥ずかしかった。昼の側の人間だったなら、もっとやりようがあったというのに。

「詐欺師は詐欺だけしてればいいってことかよ」

「そんなこと言ってない」

「言ってるだろ! 所詮役立たずな詐欺師は、でかい事件から手を引いていつもの詐欺師に戻れって!」

 自分への苛立ちを、ついルリにぶつける。ハッとしてルリを見ると、大きな瞳からトキへと静かな視線が注がれていた。その静けさは、宵闇に小さく浮かぶ月のようだ。

「役立たずなんかじゃ無い」

「……ルリ?」

「これが手に入ったもの」

 大切そうにルリは肩掛け鞄を叩いた。

「研究日誌が?」

「ええ。正直にいうわ。これがあれば、時間はかかっても全ての事件を表面化できる。手に入れておきたかったの」

「通風口を使えばいつでも忍び込めるだろ?」

「いいえ。だってあそこには常に誰かがいるのよ。だけど記者さんが来て、中は混乱状態になって、そこに偶然トキくんがいて、見張っていた私がいたの」

「それって運がよかっただけだろ?」

「そうかな。考えてみて。いつか誰かが来て、見張りがいなくなる日をじっと待っていたら、どれだけかかるかわからないわ」

「……確かに」

「記者さんが来ると分かっていても、病院側が地下には決して入れなかったかもしれない。入れたとしても見張りを解かなかったかもしれない。それは誰にも分からないでしょ?」

 確かにそうだ。もし警戒して一人でも見張りに置いていたら、この研究日誌は手に入らなかった。偶然が重なって、これは今ここにある。

「研究日誌は手に入れた。これで調査する手がかりができる。少なくともトキくんは、それだけの利益はもたらしてくれた」

 取りなすようなルリの言葉に、トキは首を傾げる。

「……ルリ、俺にやめろって言ってる? それとも続けろって言ってる?」

「私の気持ちを言えば、手を引いて欲しい。だけどトキくんが引かないというのなら、あなたを手伝う」

 予想外の言葉にルリを見つめ返してしまった。

 暁部隊がトキを手伝ってくれる。そんなことがあるなんて思わなかった。

「どうして……?」

「みすみす危険を冒すと知っている人間を放っておけると思う?」

「あ……そうか」

「あなたは詐欺師だけれど、子供たちに好かれているし、あの子たちはトキくんを頼りにしている。あなたが一人で軍の暗部と戦っても勝ち目は無い」

「……はっきり言うんだね」

「当たり前よ。あなたを手伝えば上手くいくなんて思ってない。だからせめて死なずに逃げられるように私が守る」

 決意に満ちた声だった。ルリを見るとルリは真っ直ぐにトキを見上げていた。

「研究日誌ありがとう。これは暁神殿に届けるね」

「……ルリは、暁部隊の人じゃ無いの?」

 暁部隊に所属していたらあり得ない展開に恐る恐る尋ねると、ルリは笑顔になった。

「そのような者っていったじゃない。でも関係なくは無いかな」

「じゃあ、何者なの?」

 真っ直ぐに見据えて聞いたのに、ルリは人差し指を自分の唇に当てて微笑んだ。

「秘密」

「秘密って……」

 溜息をつきながら頭を掻くと、ルリが手を伸ばしてきた。

「はい、これ」

 差し出されたのは、濃い蒼の糸と白で編まれた太めの紐だった。

「何、これ?」

「続けるなら手首に縛って。やめるなら捨てて」

「俺が決めていいの?」

「ええ。あなたが決めることでしょう。もし付けなかったなら、私はもう二度とあなたとは会わないわ。日常を送るのに、私は必要ない」

 自らに委ねられた選択に微かな恐れを感じつつも、トキはその組紐を手に取った。これを付けてしまえば、もう今までの詐欺師の日常に戻れないような気がする。

 それでもこのまま尻尾を巻いて夜の世界に逃げ帰るのはしゃくだった。

「……いつまで待ってくれる?」

「そうね。一週間が限度かな。じゃあね、トキくん」

 そういうとルリはトキにくるりと背を向け、声を掛ける間もなく、速い足取りで去って行った。その背中はあっという間に小さくなり、路地を曲がって人混みに紛れていく。

 取り残されたトキは、手の中にある組紐をじっと見つめる。丁寧に編まれた組紐だ。お手製だろうか、ルリは器用なたちなのだろう。

 溜息交じりにそれをポケットに突っ込んで、いつものように早足で歩き出す。

 空を見ると、日は大分傾いているが夜には早い時間だった。普通に生活する、ごく普通の人々とすれ違うと、何だか妙な気分になった。自分だけがこの世界を二重に見ているようだ。

 賑やかで平和なこの街の地下に、あんなに残酷な場所があり、脳を掻き出されている人たちがいる。思い出すのも嫌だったが、考えないと結論が出せない。

 だから太白記念病院での出来事を、最初から思い出してみる。

 豪華な受付とラウンジ。パーティールームと裸の男女のいる水泳場。そして、隠し扉の向こうにあった地獄のような光景とそこに現れたユウオウ。

 トキは思わず立ち止まっていた。

 そもそもユウオウは何故ここに来れたのだろう。紹介状をとらなくとも、オイタケはここに何かがあることを知って、人を送り込めるような立場なのだろうか。新聞社の社主は、それほど凄い存在なのだろうか。

 よくよく考えてみればあれだけ大きな新聞社の社主ならば、金持ちに決まっている。つまりあのオイタケは金持ちなのだ。金持ちには金持ちの情報網があるのかもしれない。

 それにしてもユウオウはあの光景を見てどう思ったのだろう。脳を掻き出された人々を、どう思ったのだろう。子供たちが囚われていることに気がつかなかったのだろうか。

 気がついてくれたなら、ユウオウがきっと記事にするのだろう。そうなれば詐欺師であるトキとは桁外れの信用で世間を動かすかもしれない。

 再び歩き出しながら、トキは思案する。新聞社にはもう入れはしないが、ユウオウに何か聞き出すことはできないだろうか。

 そもそもユウオウはトキがあそこに隠れていることを知っていたくせに無視し、見捨てたのだ。その相手に何かを聞くのもしゃくに障る。

 考えつつ歩いていたのに、気がつくといつの間にか新聞社にたどり着いていた。

 ごめんなさい、俺が悪かったから情報をくださいと土下座すれば情報は貰えるかもしれないが、それをしたくはない。

 かといってユウオウに見た物全てを話しても、詐欺師のトキの言うことなど信じてくれないだろう。いつも詐欺師であるトキを見てそう言っているのだから間違いない。

 溜息交じりに新聞社の入り口が見える、前に隠れてユウオウを待っていた場所にもたれかかる。ルリは何を考えているのだろう。トキが無茶しないように見守るって、何かそれにルリの利になることがあるのだろうか。

「よし、賭けよう」

 小さく呟くと、新聞社の入り口を見つめた。もし一刻の間にユウオウが出てきたならば今日何があったか聞く。出てこなければ家に帰ってヒワに全部打ち明けて相談する。

 最も後者の場合『だからやめとけって言っただろ!』と怒られること間違いなしだ。

 この間と同じようにトキはじっと寒さの中で新聞社を見つめる。あの時と同じようにいろんな人が中に入っては出ていく。また望み薄かなと思ったとき、意外な人物が新聞社から出てきた。

 その人物はしばらくぼんやりと空を見上げてから、諦めたように小さく息をついた。それから白い吐息を大きく吐き出して寒そうにマフラーに顔を埋め、手袋をした手をこすり合わせた。

「……ヒワ……」

 何故そこにいるんだ。いつもほとんど家から出ない癖に。

 言葉にならずに佇んでいると、ヒワがこちらに歩いてくる。トキに気がついてはいないようだったから、傍を通りかかったのを狙って声を掛ける。

「ヒワ」

 弾かれたように振り返ったヒワは、息を詰めてこちらをみた。

「! トキ……」

「新聞社で何してたんだよ」

 ついつい詰問すると、ヒワは溜息をついた。

「トキが怒るようなことさ」

「は?」

「機嫌良く僕に言っていっただろ? 今日、太白記念病院に行くって。だから……」

「ユウオウに報告したのか?」

「……そう」

 ヒワは俯いて視線を逸らした。長い前髪の間から見える目は気まずそうだ。

「何でそんなことするんだよ」

「決まってる。あそこが敵の本拠地だったら、トキ一人じゃ何もできない」

 あっさりと断言されて言葉も出ない。確かに手も足も出なかった。ルリが来てくれなかったら、生きて戻ることさえできなかった。

「言っただろ。命に関わるから反対だって」

「だけど何でユウオウに言うんだよ」

「ユウオウ以外、誰が話を聞いてくれる? 詐欺師と元スリの二人の」

 ここでも自分の立場を思い知らされて、言葉も出ない。世間はおろか、新聞記者すら説得できないのだ。

 詐欺師とは、なんてあやふやな立ち位置なんだろう。警邏隊に見つかれば捕まる犯罪者でしか無い自分が、何かを成そうとするのは間違いだろうか。

「ユウオウは俺の話は聞かないよ」

「トキの天敵だからね」

 あっさりとそう流された。ヒワはトキのことなど知り尽くしている。何だか色々空しくなって、肩に入っていた力が抜けた。ヒワを責めたって仕方ない。詐欺師を職として選択したのはトキ自身だ。

「ヒワ」

「何?」

「飯、喰ってかない? 驕る」

 このまま家に帰ってヒワに自室に戻られたら落ち込むばかりだから、敢えて籠もられない外食を選ぶ。一瞬ヒワは嫌な顔をしたが、トキの落ち込みに気がついたのか、溜息交じりに頷いてくれた。

「この間の旨い店ならいいよ」

「俺もあそこがいいや」

 とにかく一度落ち着きたい。でも話は聞いて欲しい。そう思ったら、あの店が丁度いい。新聞社からはすぐそこだ。

 ヒワはトキの気持ちを読むことが得意だから、考え込むトキを邪魔しないようにか、黙ったまま後についてきた。それがありがたい反面、どこかよそよそしい気がして、少し胸が騒いだ。

 そういえば相棒解消されていたのだった。

 考え込む間もなく、二人は店に着いていた。店は前に来たときとは打って変わって賑やかだった。かといって酒場と違い柄の悪い連中で埋め尽くされてはいない。皆が食事を楽しみに来る。それがこの店なのだ。

 丁度この間座った一番奥の席が空いていたから座ると、店主の妻が注文を取りに来てくれた。

「トキちゃん、この間はごめんね」

「何が?」

「おばちゃんいなくて。あの人ちゃんと料理出した?」

「出してくれたよ。な、ヒワ」

 話題を振ると、いつも通りにマフラーも帽子も取らないヒワが小さく頷く。

「あら珍しい。お友達?」

「俺の相棒」

 紹介すると、ヒワは黙ったまま小さく頭を下げる。

「対照的な相棒さんね」

 店主の妻はそれ以上立ち入ったことは聞かなかった。ヒワの態度から激しい人見知りだと分かったからだろう。そういえばまた解消されてのに相棒扱いしてしまった。怒らなかったからまあいいだろう。

 何となく話を切り出しづらく、くだらない話をしている内に、注文した品が出てきた。今度はそれを黙々と口に運ぶ。自分だけで抱えるには重くて、今日のことを聞いて欲しいのに、病院の話は食事時にする話では無いなと思うと、口を開きづらい。とにかく食事が終わるまで待とう。

 そう思っていると、二人の席の後ろに軍人たちの集団が座った。ヒワの背中側だ。ヒワも気がついて顔を強ばらせる。細く白い指先が、微かに震えている。昔のように暴行された記憶が甦っているのだろう。

 だがここで席を替わるのにわざとらしいし、どうしようかと悩んでいたら、軍人たちの大声が聞こうとしていないのに耳に入ってきた。酒が少し入っているのか、必要以上に声が大きい。

「あの噂、本当だと思うか?」

「暁部隊を遙東軍の本隊に作るって話か?」

 箸を使うヒワの手が止まった。トキも手を止める。

「嘘に決まってるだろ」

「何でだよ?」

「御使いは神殿がみんな連れて行くんだぜ? 神殿は綺麗だし、俺らみたいな厳しい訓練もないしな。どこに軍に身を置いてくれる物好きな御使いがいるんだよ」

 男たちはもっともだと笑い合っている。だが中の一人が声を潜めた。とはいえ彼らは元々大声だから耳を澄ませばトキにだって聞こえた。

「でもよ。ネーソス軍にはいたんだろ、御使い部隊」

「ばーか、噂だ噂」

「だけど俺は聞いたぜ。風を使って軍船をものすごい早さで移動させる奴もいたらしい。砲撃代わりに火炎を打ち込んでくる奴がいたってさ」

「だからってうちの軍でも御使い部隊を作ろうなんて無茶だ。暁部隊があるのに」

「暁部隊は女皇様のものだろ? おいそれとは使えねえ。もっと簡単に兵器みたいな奴を欲しがってるんだろ」

「戦争も終わったのに?」

「終わっちゃいないだろ、休戦だ。今度戦うときに徹底的に潰したいって魂胆じゃねえか?」

「なるほど」

「でもまあ、今は暇でいいこった。ところでこの間、いい店をみつけたんだぜ」

 男たちの会話は徐々に下世話なものに変わっていく。だがトキは動けなかった。男たちの言っていた噂が事実だと知っていたからだ。しかも彼らが目指しているのは、絶対に逆らわない御使い集団だ。脳をあの器具で掘り出した……。

 ヒワに目をやると、ヒワが小刻みに震えているのが分かった。

「ヒワ、大丈夫か?」

「ごめん。帰る」

 ヒワは突然立ち上がった。不幸な偶然か、隣の席の軍人が振り上げていた拳に頭がぶつかり、ヒワの帽子が勢いよく飛んでしまう。

「あ……」

 頭を押さえたヒワが、小さく呻くのと、軍人たちがヒワの色素の薄い茶色の髪に目をやるのが同時だった。

「お前、ネーソス人か?」

 軍人の一人が大声を出した。途端に店の中が水を打ったように静まりかえる。

「敵国の人間が、何故こんな所にいるんだ!」

 酔っ払い軍人の怒鳴り声に、ヒワが怯えたように俯いた。

「ちょっとちょっとおっさん! 俺の相棒に難癖付けるなよな」

 トキは立ち上がって、ヒワと軍人の間に入る。

「てめえは黙ってろ。俺はそっちのネーソス人に話があるんだ!」

「こいつはネーソス人じゃないよ。ちょっと色素が薄いけど、遙東人だ」

「嘘をつけ!」

 軍人はヒワの顎を無理矢理掴み、自分の方に顔を向けさせた。

「目も青いじゃねえか! 敵国人が!」

 ヒワが震えながら目を男からそらす。

「だから遙東人だっていってんだろうが! 俺の相棒を離せ!」

 かなわないだろうと分かっているが、トキは軍人に飛びかかった。ヒワを掴んでいる手を無理矢理剥がすと、拳を顔面に向かって繰り出した。だがやはりあっけなく避けられる。

「ガキが! 専門職にかなうと思ったか!」

 怒鳴り声と共に、横っ面に拳の一撃を食らう。痛いと言うよりもすさまじい熱さを感じて、次の瞬間には激しい痛みに変わる。

 気がつけばトキは吹っ飛ばされ、テーブルの上を滑っていた。背中に酷い痛みを感じて咳き込んだ。

「弱っちいくせに出てくるんじゃねえ!」

 罵倒を浴びせられたが、悔しさよりも憤りが勝った。軍人だからなんだ。軍人だから許されて、詐欺師は正義を主張しても許されないのか。

 ルリの言葉を思い出し、頭の芯が沸騰した。

 流れていた鼻血をぬぐうと、軍人に飛びかかる。

「うるせぇ! 弱っちくたって、相棒を馬鹿にされて黙ってられるか!」

 手が届く前に殴り返されて、地面に叩き付けられた。背中を再び激しく打ち、痛みにのたうつ。

「相棒が相棒だ、俺に勝てるわけもねえ」

「やかましい! 負けるかよ!」

 痛みを堪えて起き上がると、視界の端にヒワが見えた。

「やめろ……」

 震えながらヒワが呻く。

「ああ? 敵国人が何か言ってるな?」

 軍人の攻撃が、トキからヒワに移りそうになる。ヒワはトキより格段に細い。こんな風に殴られたら骨を折りかねない。

「相棒には手を出すな! 俺が相手だ!」

「知るか! 相手を決めるのは俺だ!」

「じゃあ俺にしろよ!」

 再びトキが男に飛びかかった時だった。ヒワが高く裏返ったような声で叫んだ。

「やめろ!」

 その瞬間、店の天井に下がっていたランプの一つが弾け飛んだ。ヒワのほぼ真上だった。一瞬、全員がそちらに気を取られる。その隙を突いて、ヒワが落ちていた帽子を攫うように掴み、こちらも見ずに駆けだしていた。

「待てよ!」

 後を追おうとしたが、軍人にコートの襟ごと首根っこを掴まれた。

「離せ!」

「うるせえ。俺に命じるな! このクソが……」

 途中で男の言葉が途切れた。そのまま軍人はゆっくりと崩れ落ちる。

「……え?」

 すると軍人の後ろから姿を現したのは、店主の妻だった。その手には、胴の雪平鍋が握られていた。軍人を倒した衝撃で、鍋の底が歪んでいる。

「楽しく食事をできない子は、出て行ってちょうだい!」

 ひっくり返った軍人を一瞥した店主の妻の迫力に、店全体が静まりかえったが、料理ができたことを告げる店主の声に再び平常に戻っていく。もちろん倒れた軍人を除いてだが。

「トキちゃんごめんね」

 申し訳なさそうな店主の妻にハンカチを差し出されて、トキはそれで鼻血をぬぐった。

「いつものことなんで」

「そうなの?」

「あいつもちょっと色素が薄いってだけで、苦労してるんだよね」

「そうなの……」

 表情を曇らせながら、妻はランプの破片を拾い始めた。トキもしゃがんでそれを拾うのを手伝う。

「それにしても誰かしらね。いいタイミングでランプを割ったのは」

「石でも投げたのかな。まあ、俺も相棒も助かったけどさ」

 少しほの暗くなった明かりの中で、小さく揺らめくガラスの破片を手に取った。炎に微かに煌めくのは、結構厚いガラスだ。これを割るなら、パチンコぐらいは必要かもしれない。素手で石を投げても割れないだろう。

「いや。誰も何も投げちゃいねえ」

 いつの間にか店主が後ろに立っていた。手には料理を持っている。妻が来ないから自分で運んでいるのだろう。

「どういうことさ親父さん」

「そのランプは自分から砕けたんだ」

「内側から? あり得ないっしょ」

「いや、俺は確かに見た。炎が急にでかくなったと思ったら、内側から破裂するように割れやがった」

「え?」

 あの絶妙なタイミングで、ランプが突然内側から砕けた? 

「炎がでかくなったの?」

「ああ。一気に明るくなった。もしかすると菜種油と何らかの液体が混じっちまってたのかもしれねえな」

 主人はいつの間にかガラスの処理を終えて近くに来た妻に料理を手渡す。トキはまだ納得がいかずに主人を見る。

「そんなこと今まであった?」

「いや。一度も無い」

 トキは砕けたガラスを見つめた。ガラス越しに歪んだ景色が見えるだけで何も分からなかった。 

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