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 読み通り三日後には、トキは病院の紹介状を手にしていた。ウラハをいつまでも冷たくあしらい、信用しないのは病院の黒い噂のせいだと思い込ませ続けたのだ。

 その結果、それなら病院を一度見なさいと紹介状を受け取ったのである。

 心の中ではしてやったりとほくそ笑みつつも、表面には面倒くさそうな色を浮かべて見せたが、ウラハはそんなことに気付かず、自分が案内するという。そんなことをされたら調べることなどできない。

 結果、ウラハがいたら皆が偽善的に装うから一人で見させろと納得させた。口のうまさだけは自信がある。

 そして紹介状を手に入れた二日後、トキは準備万端に太白記念病院へと足を踏み入れた。

 最初に入った受付ホールは、驚くほど綺麗だった。床は幾何学模様のタイルで覆われていて、ちり一つ落ちておらず、磨かれて光っていた。壁もタイル作りだが、こちらは落ち着いた生成りで統一されていて、床と相まっても全く派手さが無くて落ち着いている。

 とてつもなく明るく、その光源はどこにあるのだろうと思ったら、ホールの天井は四階建ての建物の一番上まで吹き抜けになっていた。四階部分の天井がガラスになっていて、そこから光が降り注いでいるのだ。

 通された受付もどこにも継ぎ目の無い黒い大理石でできていて、この病院がどれだけの金を掛けて作られたのか想像もつかない。戦争の最中だったというのに、軍人は儲かるのだろうか。それとも病院が儲かるのだろうか。

 そんなことを考えずにはいられない。トキのいる貧困街には、こんな施設は一つも無いのだ。

 そして入ってすぐ左手側には、街中の飲食店でも見かけないような立派な丸テーブルと布張りの椅子が幾つも並べられている。丸テーブルに、椅子が四つほどの構成だろうか。

 病院のはずなのに、ホテルのラウンジのように見るからに金のありそうな人々数人が新聞や本を読みながら飲み物を飲んでいる。

 確かにここは病院だったよなともう一度首を傾げた。あまりにもトキの知る施療院とは違っていて、病院だとは思えない。

 回りに気を取られていて、受付の女性の声で我に返る。見ると淡い白の服を着たトキと似たような年齢の女性が不審そうにこちらを見ていた。このままでは怪しいことこの上ない。

「紹介状を貰ってきたんだ」

 トキは迷い無くウラハの紹介状を取り出し、受付に置く。封印された封書だが、中身が何なのかはすでに確認済みだ。封がされた書類ぐらい、湯気と針があればいくらでも開けられる。中にはトキの名前と、健康診断希望の文字と、紹介者の名前が記されていた。

「まあ、ウラハ様の?」

 受付女性はそういうと、品定めでもするようにトキを眺め回した。令嬢の知り合いが健康診断を受ける。それは令嬢とその人物が深い仲にあるのではないだろうかと勘ぐらせるに十分だ。

 トキはそれを知っていつつ、この女性に微笑みかけた。

「彼女が是非行けって言うんだ。俺は健康そのものなんだけど」

「それはその……ご婚約なさるとか、そういうことなんですか?」

 興味津々の女性に、軽く肩をすくめて見せる。

「それはどうかな。俺はしがない画家だしね。彼女はよくてもご両親や、御祖父のお眼鏡にかなうとは思えない」

「まあ……」

「健康だと言うことを証明できるだけでも、俺に少しは価値が出るのかな?」

 甘く微笑んで見せると、女性はぼーっとトキの顔を見つめた。微かに目を細めて不思議そうな顔を作り首を傾げると、女性はようやく我に返った。

「あ、ごめんなさい、あの……」

「俺の顔にみとれてた?」

 低く囁くと、女性は顔を真っ赤にして首を振る。

「と、とんでもございません!」

「冗談だよ。冗談」

 また微笑んで見つめると、今度こそ女性は耳まで真っ赤になる。ヒワ曰く、この顔は強力な武器なんだそうだ。こういう時、この顔に生んでくれた顔も名も知らない両親に感謝する。

「そろそろ行こうかな。診察室はこっちでいい?」

 何の表示もない病院の廊下を指し示すと、女性が立ち上がりかけた。

「ご案内しますわ」

「大丈夫。それぐらいは自分で探せる」

「ですけど……」

「君がいなくなったら、受付に来た人が困るよ。それに……」

 微かに腰をかがめ、女性の耳に顔を近づける。

「物陰に君を連れ込んだら、困るだろ?」

「!」

「ありがとう。またね」 

 動きすら止めてしまった女性に軽く手を振り、受付を後にした。

 廊下には数十メートルごとに、出っ張った木の柱と、それを装飾する彫刻が置かれていた。衝立のように幅をもったその柱と壁は身を隠すのにはもってこいだ。

「さて、どこから探るかな」

 柱の陰に身を潜めて、トキは小声で呟く。先ほど女性の耳元に顔を近づけつつ、受付の中にあった館内図を一枚拝借していたのだ。

 金持ちの入院患者にでも配るのか、まるでパーティの招待状のように仰々しい二つ折りの案内図が、最初に様子を窺った時からそこにあるのは見えていたのだ。

 それを開いて溜息が出た。

「何だこれ」

 病院の館内図のはずなのに、一階にあるものはとても病院とは思えない。先ほどの高級丸テーブルが置かれた場所は、やはり『ラウンジ』と記されている。

 そしてラウンジと反対側の広大な部屋は、パーティルームとある。その隣が調理室兼倉庫となっているから、きっと食堂なのだろう。

 その廊下を挟んだ向かいは、水泳場と書かれていた。建物の中に水泳場があるのだ。もしかしたら入院に飽きた金持ちが泳ぐのかもしれない。

「俺はこんなにあくせく稼いでるのに……」

 溜息交じりに愚痴もこぼれる。働いても働いても楽にならないのは、こういう輩がいるからかだ。とはいえトキの仕事は詐欺師だから勤勉に働くと捕まる恐れがあるのだが。 

 自分の境遇を嘆いていてもしょうが無いから再び館内図を開き、現在地を確認する。居間トキがいるのは、パーティルームと水泳場が向かい合う廊下だ。昼はとっくに過ぎているからか、パーティルームと呼ばれる部屋は扉が閉ざされていた。

 何気なくそこに飾られた豪華な彫刻の施された伝言板を見ると、五日後に病院主催のパーティーを開催すると書かれている。病院でパーティーなんて、一体何をやるのだろう。

 金持ちばかり入院患者と、その家族を呼んだらさぞかし賑やかなのだろうが、貧困街に住むトキには関係が無い。

 水泳場の扉は開いていて、中から楽しげな声が聞こえている。何気ない振りをして覗き込むと、中でどっぷりと太った男が、数人の若い女性と裸で追いかけっこをしていた。

「うげっ……」

 その回りで幾人かの男たちが歓声を上げている。どうやら太った男が最初に捕まえられるのは誰かを賭けているようだ。

 賭け事と女性に夢中な男たちが気付かぬ前に、トキはそこを離れた。なるほど。金持ちはこうして暇を潰すらしい。

 男として羨ましいかと聞かれたら羨ましいと思うが、どちらかというと見たくない光景だ。将来万が一間違えて金持ちになったとしたら、衆人環視がある場所でこういうことをしない金持ちになろう。

 そういえばここで働いていたというあの女性は、こんな仕事をしていたから胸を出すことに迷いが無いのかもしれない。

 その先の調理室では、人々が忙しく立ち働いているのが見えた。きっとああいう金持ちばかりの食事を作るのは大変な作業だろう。

 だがトキの詐欺もここで働いている人々も、仕事なのだから頑張っていただきたい。

 怪しいそぶりをせず、普通に見えるように中を進んでいく。調理室は建物の一角にあるらしく、そこから廊下は左に折れた。廊下の向かって左側には豪奢な布張りのソファーが置かれていたが、右側には扉が等間隔に並んでいた。館内図を見るとそこが診察室らしい。

 ソファーに座っている人もいたが、ほとんどのソファーは誰もいない。きっと入院患者は待つこともしないで診察を受けられるのだろう。

 診察室の前を散策するかのようにゆっくりと歩く。すると左側のソファーの置いていないところにいくつか扉があることが分かった。看護者控え室、薬局と書かれている。

 入り口から金銭感覚的におかしな所は沢山あったが、この周辺は普通の施療院と変わらない。診察室一つ一つが巨大だが、ここの医者は病院に住み込んでいるらしいから、自室も兼ねているのだろう。

 そこを抜けた奥に病院長室があった。ウラハの父オウチがいるのだろう。その先は二階に上がる階段になっていて行き止まりだ。館内図を見ても、それ以外に一階には病院の施設は存在しない。

「地下の入り口が無い……」

 小さく呟く。二階は病室が二十室あり、三階には同じ広さなのに病室が十五室だ。きっと特別に広い病室がいくつかあるのだろう。

 病院の館内図は三階までだがこの建物に四階があるということは、おそらく四階はウラハたち経営者一族が暮らしているはずだ。書かれていないが、家族専用に別の入り口があるかもしれない。

 一家族で何人いるか分からないが、診察室一室でトキとヒワの部屋がまかなえるぐらいの建物だから、さぞかし豪勢なのだろう。

 トキは目の前の階段を見上げた。途中に広い踊り場があり、そこにも光が落ちている。正面に大きい窓があるからだろう。

 置かれたソファーは診察室の前にあったものと同じだ。幸いなことにここでくつろいでいる人はいない。そこから向きを直角に替え、階段は二階へと続いている。

「おかしいな……」

 呟きながらトキは窓から外を見下ろした。ここから見える光景は、正面を通る大通りの光景だ。つまりここは受付と同じ方向に位置しているのだろう。しかも建物の正面左端だ。

 溜息をつきながら、窓枠に肘を乗せる。捜査をするとやる気満々に言い切ってきたものの、隠し階段が見つからない。見つからないと言われていたのに自分なら見つかるかもなどと軽く考えていたのだが、やはりそれは甘かった。

 これ以外行きようが無いのに、どうやって地下を探せばいいのだろう。もしかして病院長室の中とかだったら、トキでは探しようが無い。

 背中越しに人の気配には気をつけながらも、大通りを行き交う人々に何気なく視線を送る。ここでどん詰まりなら、ウラハの言う通りに診察を受けて帰るべきだろうか。ウラハを手中に収めておけば、いつでもまた病院に潜入できる。

 でもそうなればいつまでもウラハを宥め続けているわけにはいかず、自らの信条を破って、ウラハと本当の恋人同士のように肉体関係を持つこともやむを得ない。

『素人に手を出したらろくな事にならない。そもそもトキは今まで素人に手を出さずにここまで来たんだから』

 こんな時にヒワの警告を思い出して、ぐったりと突っ伏す。潔癖症のヒワが、詐欺のために女性の身体まで奪ったと知ったら、たたき出されそうだ。大体においてヒワはそういうことに厳しすぎる。

「俺、どうしよう……」

 溜息と共に何気なく大通りを通る人々を見ていて、妙なことに気がついた。大通りから道を折れてこの病院の横を通る人々が、やけに建物から離れたところを通るのだ。

 見ているとそれは一人や二人ではない。この階段は建物の最も端に位置していなければならない。つまりここを曲がる人は、見ているトキから曲がるところが全部見えていなくてはおかしい。

 だが病院の方へ折れてくる人々は例外なく建物を離れたところを曲がるように見える。つまりトキからは曲がっていく姿が見づらいのである。

 つまりこの階段は、建物の最も角には存在しない。

 館内図を再び取り出すと、トキは開かない窓に顔を押しつけるように建物の壁を見た。するとやはり階段は最も角に無いことが分かった。

 二階まで上りきると、一階から踊り場までの階段の上は、落ちないように手すりになっていて、トキが思った通り建物の壁際にトキが余裕で歩けるほどの広さが取ってあった。

 間違いなく一階の壁の向こうに、通路がある。確信して階段を降りようとすると声がした。聞き覚えの無い声が共にいる誰かに早口で何かを離しているのだ。

 トキは足音を立てぬようにひっそりと階段を踊り場まで降り、そこに置かれたソファーの陰に身を潜めた。男の声が聞こえてきた。

「とっとと片付けろ。やばいものは一つ残らず貧困街にでも放り出せ」

「ですが……」

「早くしろ。オイタケがかぎつけた。隠しておくより確認させた方が早い」

 オイタケ……? あの新聞社の社主だ。そういえば新聞社を持っているのだからオイタケも金持ちのはずだ。そっと男たちを伺うと、一人は背の低いずんぐりした老年の男で、もう一人はひょろりと細身の学者風の中年男だった。

「あの老いぼれめ。金になりそうなことはさっさとかぎつけおって。ここで新聞社なんぞに書き立てられて見ろ。計画が台無しだ」

「ですが閣下……」

「いいからやれ。今後もこのわしの娘婿でおりたいだろう?」

「……はい」

 トキは息を呑む。あの老年の男がカイハクで、学者風の男がオウチだ。もしかしてこれはチャンスなのでは?

「わしはあの若造の相手をしておる。施設を案内して時間を稼ぐからな。分かったか?」

「仰せのままに」

 慌ただしく会話が打ち切られ、二人の男が慌てたようにどこかへ去って行く。

 トキは顔を出してゆっくりと移動した。気がつかれないように先ほど男たちがいたいちばん近くの柱の陰に隠れ、様子を窺う。階段から誰かが降りてきたら見つかるが、向こうからは見えないはずだ。程なくして、数人の男女が青ざめた顔で集まってきた。彼らの先頭にはオウチが立っていた。

「ですが院長、そんな急には……」

「分かっている。とにかく一時研究室に押し込めろ。急がないと私の部屋も通れなくなる」

「はい」

 オウチは頷くと、壁のタイルを一枚剥がし、そこにできた窪みに手を差し入れた。しばらく手を動かすと、小さく鍵がはずれる音がした。どうやらあのタイルの奥に何らかの仕組みがあるようだ。

 息を詰めて見守っていると、オウチはタイルを強く押す。すると居間まで壁にしか見えなかった場所が、するすると横滑りし、大きな入り口が開かれたのだ。

 いつの間にかランプを手にした人々が、一つにまとまってその中へと入っていく。

「……やっぱりここか……って、オイタケに助けられたな、俺」

 時間があればきっとこのぐらい見抜いてたしと、トキはつまらない虚栄を張ってみたが、そんな時間はない。無言のまま中に行く人々と距離を取り、トキは人々の後を追った。

 タイルの向こう側は、左右に伸びる細い通路だった。入って左側はすぐに行き止まりになっているが、右側は暗くて見通せない。

 幸いなことに明かりは全くなく、彼らの持つ二つのランタンだけが頼りだったから、トキの追跡はたやすい。だがもし明かりをどこかで付けられたらおしまいだ。これぐらいの街中ならばもう電気は通っているはずだからだ。

 用心しながら進むと、左側の通路はすぐに行き止まり、そこに地下へと延びる階段が現れた。集団は無言でその階段を降りていく。覗くと、地下は薄ぼんやり明るい。そこにある今回の証拠を探しに、当然トキもその後を追った。

 階段の下から生臭い香りがする。獣のような臭いだ。何らかの生き物の臭いだろうか。強烈とまでは言えないが、かなり鼻につく。

 トキが階段を降りきったところで、ぼんやりとした明かりが不意に強くなった。見るとあちらこちらの電灯が付けられたようだ。だがそれはいくつかのむき出しの明かりで、それほど明るくない。

 トキは明かりがついた瞬間に身を隠した。降りきったところが広い踊り場でその先は狭い廊下が続いていたのだ。廊下と踊り場の陰は、ありがたいことに隅々まで明かりが届いているわけでは無く、トキが身を潜めるには十分だった。

 地下はむき出しの焼煉瓦で組まれた、殺風景な空間だった。薄汚れた焼煉瓦の黄土色が、全てを包み込んでいる。

 ここが地下だからなのか、妙に息苦しく感じるのは気のせいだろうか。何故だかこのまま埋葬されてしまうような気分に陥ってしまう。

 トキは小さく首を振った。駄目だ。このままではこの場の恐怖に飲み込まれてしまう。情報を取るためには落ち着かなくてはならない。

 慌てる乞食はもらいが少ないというのは、本当だ。冷静沈着さが自分を救う。ペテンも、詐欺も、そして調査もだ。

 小さく息を吐き出すと、トキは心を落ち着かせて男たちの様子を窺った。

 男たちは慌てているのか、トキには全く気付かず、その廊下を進んでいく。こっそり覗き見ると、その異様な光景に身体が竦んだ。

 短い廊下の先に拓けた空間があり、そこに白いベットと沢山の何に使うか分からない金属の装置が置かれていたのだ。見るからにそれは病院の診察室のようだが、それがこんな地下に、しかも薄明るい光にぼんやりと浮かび上がるのは異様でしかない。

 視線を廊下の両側に戻してまた驚く。廊下の左右には鉄格子がはまり、牢獄のようになっている。中には一面うずたかく敷き藁が敷かれ、その上に沢山の人々が黙ったまま座っていた。彼らは皆一様に裸で、そしてうつろな目は何も映してはいなかった。

 この間聞いた『この病院に入ると廃人になる』話を思い出して、身震いする。確かにここには沢山の廃人が居る。これは一体何なのだろう。

 気味悪さに胸が悪い。先ほどからのこの生臭い臭いのせいもある。しかもこんなうつろな人間に、寒気がこみ上げ、脈が速まる。何が起こっている? 一体ここで何が行われているのだ?

 トキが動揺している間に、人々は迷うこと無く一つの檻を開けた。そこから引き出してきた裸の人々を見て、トキは声を上げそうになり、必死で堪えた。

 ベニがいた。

 美しかった黒髪はその輝きを失い、身体にまとわりつくように彼女の裸体を覆っている。もちろんあの気の強そうな瞳に生気は無い。

 リン、シシ、フシ、そのほかにも数名の子供たちがうつろな目をして立っている。その身体のあちこちが、自らの汚物らしきもので汚れていた。異臭の元はそれだった。

「院長、この臭いでは気付かれます」

「洗い流せ。血を洗うときに使っているだろ」

「ですが……」

「いいからやれ。時間が無い」

 裸の子供たちは、一斗缶に入れられた液体を頭からかぶせられる。トキは鼻を覆う。これは強力なアルコールだ。しかも消毒薬の酷い臭いもする。

 回りの数人が嫌悪感を隠しもせずに子供たちの身体をぬぐっている。

「手がかかるな。服が無いだけ汚れ落としは楽だが」

 鼻をつまみながらのオウチの言葉に、彼らが全裸な理由が分かった。廃人となった彼らはきっと、もう自分で用を足すことすらできないのだ。

「なんて事しやがるんだ、こいつらは……」

 小さく呻く。だがここで出て行けば多勢に無勢だ。このままトキもここに閉じ込められた廃人たちと同じ運命を辿る。

「院長」

「よし。運び出せ。急げよ」

 廃人を生み出している異常な集団は、立ち尽くしているだけの子供たちを乱暴に小突きながらこちらに向かってくる。先ほどの話からすると、彼らの行き先は病院長室だ。それが分かっているならば、慌てる必要はない。

 トキは物陰に身を潜めて、とりあえず彼らが出て行くのを待った。人々の気配が消え、トキはホッと一息つく。だが調べ物をしようと動き出したとき、また何らかの気配がした。慌ててまた闇に潜む。程なくして先ほどの階段から誰かが話しながら降りてきた。

 この声はカイハクだ。

「ここは軍の犯罪者を処罰するために作られた部屋でしてな。さすがに世間向きに、軍人の凶悪犯がいるとは言えませんので、頼まれて内々に始末をしております」

「ほう。それは確かに外聞が悪い」

 もう一人の声を聞いて、トキは溜息をついた。

「ユウオウだ……」

 出し抜いたと思ったのに、また追いつかれた。がっくりと肩を落とすトキに関係なく、カイハクの自信に満ちた説明は続く。

「そうでしょう? 特にここに収容しているものは、薬物による中毒者、一般民衆に対する性的暴行犯、そして凶悪犯罪である民衆への殺人を犯したものです。戦時中の体験からこのような犯罪を起こすものが増加しましてな」

「それはそれはご苦労ですな」

 話ながら二人はトキが潜んでいる闇を超え、あの牢獄へと入っていく。気付かれずにすんだことにほっと胸をなで下ろし、再び聞き耳を立てた。

「でしょう? ですから我々が子供たちを攫って地下に閉じ込めているなんて、全くの噂に過ぎません。いるのは軍の犯罪者だけです」

「とりあえず確かめさせて貰いましょう。我が社のオイタケ社主が直々に調査したいと申し出ることは滅多に無いのでね」

「好きなだけ調べてください」

 愛想よくカイハクが告げ、ユウオウは地下の牢獄を見渡している。こっそりと暗がりから出て見ていると、微かにユウオウの視線がこちらを向いた。慌てて身を引こうとした瞬間、ユウオウが微かな嘲笑の笑みを浮かべた。

「ここはネズミも多そうですね」

「は? ネズミ?」

「ええ。自分のことを自分で始末に負えない、あのやっかいなネズミですよ」

「はあ……?」

 自分のことを言われている。そう感じたが、どうにもならずに身を固くして闇の中に埋没させるしか無い。

「えらく不衛生ですね」

「仕方ありません。彼らは自分で用を足すことすらできませんから」

「健康な者を廃人にするのが、あなたの研究ですか?」

「廃人にするのが目的ではありません。罪を悔い改められない者が生きていくためには、犯罪を犯すその脳を壊すしかない。そうすれば生きているがただ黙って座っているだけの存在になる。これで生かしたまま、犯罪者を消すことができるでしょう?」

 強い憤りを感じつつ、トキは拳を握りしめた。犯罪者が聞いて呆れる。ベニも、リンも、フシも、シシも、犯罪なんて犯していない。なのに何故廃人にされる必要があったのだ。

 この男の大きな嘘に憤りながらも、トキにできることは耳を澄ませることしか無い。

「廃人になるより。死刑の方がまだましじゃありませんかね?」

 軽い口調で尋ねたユウオウと同意見だ。廃人にされてここに汚物と共に取り残されているよりも死んだ方がずっとましだろう。だがカイハクは肩をすくめて苦笑している。

「無理ですな。何しろ国民は死刑に厳しい。いくら犯罪を犯したものでも、生かしておきたいというのですから」

「戦後そういう風潮ができているのは確かです。戦争で人が死にすぎた」

「そうでしょう。ですからこれしか方法が無いのです」

「この状況でも、彼らは生きていると言えますか? 世間が認めますか」

 いつもと同じ口調だが、その言葉には見えない棘がびっしりと生えているような気がする。正面切って言われたら、トキなら動けなくなりそうだ。

 だがカイハクは秘めたユウオウの嫌みすら理解していないらしい。 

「これで世間に迫る危機が無くなるならば、わしは何の問題も無いと思っております。女皇様と遙東のためになるのならば、私はどんなことでも引き受けましょう」

「なるほど。あなたは素晴らしい愛国者でいらっしゃる」

 褒めているのか馬鹿にしているのか分からない口調のユウオウだったが、おそらく馬鹿にしているのだろう。

 カイハクという男は、それに気がつかないのだろうか。もしかしたらおだてに弱い男なのかもしれない。

「どうです? 分かっていただけましたか? 何なら全ての檻の中を見ていただいても構いませんよ」

 自信に満ちたカイハクに、ユウオウは小さく溜息をつく。そのと息は、明らかに面倒くさがってた。

「確認はした。もう十分です」

「それはよかった。では上の食堂にでも行きませんか? 丁度喫茶タイムです」

「それはありがたい。正直私も、社主の思い込みには振り回されてばかりです」

 和やかに出て行きかけたところで、ふとユウオウが振り返った。

「最近衛生管理のために、除菌用の消毒アルコールを使いましたか?」

 ユウオウが尋ねると、カイハクは一瞬押し黙り、それから首を縦に振った。

「掃除の者が毎日来ています。彼らが零したのかもしれませんね」

「ほう……それにしては大量ですな」

「そうですかな? はて、わしは気がつかなかったが……」

 小さな呟きに微かな警戒がにじみ出る。さすがにこれ以上はユウオウも聞かないだろう。はらはらしながら隠れていると、予想に反してユウオウはいつも通りの多少笑いを含んだ声でカイハクに告げた。

「あなたの病院だから私が言うことでは無いが、鼻の検査をした方がいいでしょうな」

「何故です?」

「これほどのアルコール臭に気がつかないとは、普通ではありません」

「……考えておくことにしましょう」

 かなり険悪な雰囲気になっているようだ。ユウオウは全く変わらないが、その言葉は徐々にカイハクの警戒を高めていく。

 険悪な雰囲気をぬぐい去ることもせず、地下を他照らしていた明かりがまた最初のような薄ぼんやりした明かりに変わった。

「電灯も切ってしまうんですか」

「さすがに一灯は残しますが、本当はどちらでも彼らには分からないんですよ」

「ほう。やはり人間としてあり得ない暮らしだ」

 嫌み要素がたっぷり含んだユウオウの言葉だったが、あっさりと無視される。ここは二人とも大人だった。

 何も言わずに黙ったまま連れそっと階段を上っていく。はぐれないように二人についていこうとしたのだが、ユウオウがこちらを伺っているのを見て動きを止めた。

 一瞬だけ目が合ったトキに、ユウオウは口に出さず、口の形だけで何かを行ってきた。一言だ。解読した瞬間、むっとする。

 ユウオウはこちらに向かって『馬鹿』と言っているのだ。何故こういう時にそういうことをいうのだ。

 腹を立てると同時に、自分がまだ何も調べ物をしていないことに気がついた。どうするべきか一瞬迷いが生じた。

 だがその一瞬の迷いが悲劇の引き金となることはある。あっという間にユウオウとカイハクの姿が消えていたのだ。

「! 扉!」

 小さく叫ぶと、扉は最後まで閉められ、辺りに暗闇が満ちた。そういえばこの隠し廊下に窓は一つも無い。

「嘘だろ……」

 扉が病院内に開いていたとおぼしき場所を探る。だが全く同じようにしか感じられない。扉がどこにあるかも分からないのだ。しかもどうやって扉を開けるのかすら分からない。

 しばし呆然と立ち尽くしてから思い出した。トキは手にランプ一つすら持っていない。

 自分の手のひらも見えない程の闇の中で、トキは混乱しながら地下へと足を進めていく。明かりがあるところはあそこしか無い。

 臭くて、廃人が沢山檻にいる恐怖の場所だが、自分の手すら見えない全くの暗闇に閉じ込められているよりはいいだろう。

 地下室まで戻ったトキは、薄明かりの中で先ほどは入れなかった牢獄の通路を歩いた。

 檻の数は十に満たない。でも一つの檻の中に二人から三人ずつの廃人が入っている。部屋の片隅には便所が置かれているが、そちらは綺麗だ。

 でも彼らがいる干し草の上が目を背けたくなるような惨状に覆われていた。

 食事だろうか、堅くなったパンやにぎりめしが転がり、その隣には汚物がある状態だ。そしてその近くに虚空を見つめて座っている男がいた。

「ひでぇ……」

 口から意図せぬままにそう言葉が漏れていた。だがトキに興味を示す者など誰もいない。こちらを振り返ることすら無い。皆この病院の医師たちによって心が壊されているのだ。

 檻の入り口に手をかけたら、抵抗なく開いた。鍵が掛けられていない。つまり鍵など無くても、彼らは逃げることができないのだ。カイハクが言っていたように、本当に犯罪者なのだろうか。

 だが犯罪者だとしても、この仕打ちは酷すぎないか。そもそもカイハクがそう言っているだけで、ここに居るのは攫われてきた子供たちと同じように罪も無い人々かもしれない。

 檻から顔を背け、トキは最奥の医療用ベットまで進む。そこにあるベットは、奇妙なものだった。

 トキが知っている布製の物ではない。皮に堅く油のようなものが塗り込められているのだ。ベッドサイドには沢山の器具が摘まれたワゴンがあり、背の高い金属性の道具もある。

 そこに取り付けられている器具は、どれも先が尖った細い器具ばかりだ。何に使うのか、トキにはさっぱり分からない。だがこの装置が廃人を生み出していることだけは確かなようだ。

 それからこのベットには身体を固定する太い皮のベルトが、上から胴の部分だけでも三本と、両手両足を戒めるベルトも別についている。このベットに寝かされたら、完全に自由を奪われるようだ。

 一体ここで何が行われているのだろう。

 何気なく見渡すと、傍らにいくつかの机と本棚が置かれていた。きっとここを利用している先ほどの医者たちが使うものだろう。

 何か貴重な情報が書かれているかもしれないと、トキ正面にあった紙束を取り出した。そこには手書きで書かれた施術記録があった。ここで何が行われているか、読めば分かりそうだ。

 読み始めた途端、トキは後悔した。こみ上げてくる吐き気に、目が回りそうだ。

「……本当のことか……?」

 小さく呟いてしまう。もう一度目を落として続きを読もうとしたが、トキは投げ出した。こんな気味の悪いもの、読みたくない。少し読んだだけで分かる。これは異常だ。

 そこには人間の顔が描かれている。そしてその顔のどこから針を入れて、どこの脳に突き刺せば、廃人となるのかが示されているのだ。

 一枚一枚場所を変え、どれぐらいの時間で被験者が意識を失ったか、どれぐらいの時間抵抗できたか、事細かに記されている。

 彼らは意識がある中で脳に針を突き立てられ、脳を破壊されているのだ。医者は針を突き立てる位置替えて様々に事件を繰り返している。それが子供であっても変わらない。そのための目的は、机の上に広げられている研究日誌に書かれていた。

『従順にして、感情を持たない無敵の兵士を作るため、御使いの一人を実験体とした。

 御使いの力を思うがままに操れれば、我々はもはや無敵である。敵国ネーソスは、御使いを子供の頃から一所に集めて武器とすべく教育を施すといわれているが、脱走率も高いと聞く。

 よってわれらは遙東のために、従順な御使いを作り出し、武器とせねばならない。

 実験体 風の御使い遠見のベニ

 実験により中枢部を壊すと死ぬことが分かっているため、脳の横から頭蓋に穴を開け、針を突き立て破壊する。出血は死に直面するため、破壊した脳の一部は、管を通して吸い取り、空洞とした。

 動かぬように身体に麻酔を掛けるも、意識を保たせるために脳を起こしておく作業は骨が折れる。みな脳に器具を突き立てた時点で騒ぎ立て、意識を失うのだ。

 やがて空洞を作った頃には廃人となっている。取り出す部分が未だ特定できないのは、腹立たしい限りだ。

 次の実験は十歳未満の子供だ。子供の脳は大人と違い自己回復することがあり、破壊した脳の部分が成長と共に他の要素で補われることを望む』

 顔を上げると、道具とベッドが目に入った。

 ここで、人々の頭の中へ針を突き立て、脳みそを掻き出した。

 昔のベニと、あの廃人となったベニを思い出した途端にトキは床に吐いていた。これは全部現実だ。このベットで実際に行われていることなのだ。そしてその結果があの牢の中の廃人たちだ。手で触れられるこのベットで、陰惨な実験は日夜行われている。

 磨かれたベットが急に血でべたついたような気がして身震いする。

 一度吐いて少し気分が戻ったところで、研究日誌の続きを読みたくないが確認する。

『当然ながら試行錯誤である現在、約三分の一の確立で被験者は死亡する。廃人になるのは残念だが、実験する上では成功に分類されるだろう。失敗した死体の処理は、濃硫酸による溶解で進めるも限界に近づいており、今後の処理方法を思案せねばならない』

 トキは部屋の片隅に置かれている、巨大な樽を見つめた。そこに満たされているものが何なのか、これで想像がついた。だから見たくない。見たら立ち直れそうに無い。

 薄ぼんやりした部屋に閉じ込められ、微かに漂う樽からの消毒薬のような臭いと、廃人たちの汚物の臭い、そして自分の吐瀉物の臭いにトキは部屋の片隅へとよろめきながら下がった。煉瓦の壁に背をつけ座り込む。

 どうすればいいのだろう。ここから逃げなくてはならない。まさかこんなに非道だとは思わなかった。きっとユウオウが帰ってしまったら、あの御使いたちを連れて彼らはここに戻ってくる。

 今度も見つからずに済む可能性は五分五分ではあるが、ここから逃げられる可能性は限りなくゼロに近い。もし見つかったら、トキも彼らと同じ末路を辿るだろうが、それだけは嫌だった。

 だが自力ではどうすることもできない。ユウオウが助けてくれるという、一縷の望みに賭けるしか無いのだろうか。

 身体が震える。生ぬるい地下室のはずなのに、寒気が止まらない。

 このまま脳を壊されて、ここで廃人として生きるのか、それとも失敗して殺されるのか。二つに一つしか可能性が無いのに、どちらにも希望が無い。

 今まで生きてきた中で初めて、トキは絶望していた。いつもどこかに逃げ道があったし、他の道を探れたが、このまま行くとどうにもならない状況へと追い込まれる。

 そういえば今日ここに来ることを知っている人がもう一人いた。ヒワだ。だがヒワはこの事件への関与を頑なに拒んでいる。助けてくれるわけなど無い。

 絶望に囚われて膝を抱えていると、この静かな空間に小さな金属音が響いた。驚きのあまり小さく声を上げて見回すと、部屋の上部で何かがカタカタと音を立てている。

 ネズミだろうか。それとも何らかの小動物か? 

 音の出所を探していると、突然、鉄の塊が上から振ってきた。

「うわぁっ!」

 つい叫ぶと同時に、耳をつんざくようなすさまじい音を立てて落ちた円形の鉄の塊は、床でからからと音を立てて回転している。

「な、な、何?」

 金属がとんできた辺りを見ると、そこにはどこに通じているか分からない丸い口が開いていた。通風口だ。

 そこから黒い長ズボンを穿き、黒い靴を履いた誰かの足が出てきた。どうやらその人物がこの通風口を蹴り飛ばしたらしい。通風口から出た足は、徐々に伸びてきて、やがて仰向けに細身の身体が現れた。

 その人物は器用に手を使い、するりと通風口を抜けてくる。その人物のくびれた腰と、膨らみのある胸にトキは絶句した。

「女だ……」

 上手く着地した人物は真っ直ぐに伸びた黒い髪を高い所で一つに束ねていた。前髪はほとんど上げていて、大きなヘアバンドで落ちてこないように留めている。

 少し童顔気味の顔立ちだが、年齢はちょっと読めない。おそらくトキと同じか、少し下だろう。上下共に黒い服だが、上着は妙に膨らんでいて、見た事もない形だ。

 呆気にとられていると女は素早く回りを見渡し、部屋の隅にうずくまっているトキに気がついた。目が合う。

 薄暗いのにその大きな瞳は印象的で、呆然と見つめていると、女は安堵したように大きく溜息をつく。

「誰もいないよね?」

 声を聞いた瞬間、心臓が飛び跳ねた。こんなことをする大胆な女性だが、声が鈴を転がしたように可愛らしく、軽やかで明るく澄んでいる。

「いないよ」

 目が離せずに、女を見つめていると、彼女は素早くこちらに駆け寄ってきて近くでトキをじっと見つめてきた。上から下まで舐めるように見られて、動けなくなる。

「な、何?」

 こちらを見た瞳は大きく、微かに青みがかっている。ヒワのように少しネーソスの血が入っているのかもしれない。

「怪我は無いよね?」

 見て知っているくせに、確認するように柔らかく見つめられつつ問われた。色々聞きたいことはあるのに何も出てこず、諦めて短い返事を返した。

「無い」

「よかった」

 かなり至近距離だというのに、女は全く警戒すること無く笑顔を浮かべた。その笑顔がまた輝くばかりに可愛らしい。

 こんな状況でこんな場所だが、まるで女神が降りてきたみたいな気分になり、胸が高鳴ってきた。今まで見た事がないような不思議な容姿だが、とてつもない美人だ。

 というか、ものすごく好みだ。

「どうかしたの?」

 首を傾げられて、衝動的に彼女の手を握ろうとした瞬間、女性はトキの手では無く抱えていた研究日誌を手に取った。

「これがあればいいかな? 日付も入ってるし、内容も克明だし。信じて貰えそう」

 パラパラと日誌を捲っているが、トキのように衝撃を受けて吐いたりするどころか眉を顰めたりしない。全くもって不可解な女性だ。

「あの、君は……?」

 研究日誌を大切そうに懐に突っ込むと、女性は満面の笑みで振り返った。その表情に一気に飲まれる。やばい。やっぱりかなり可愛い

「ルリよ。よろしくね、トキくん」

 真っ直ぐに手を差し出されて名前を呼ばれ、トキは目を瞠ってしまった。

「……俺のこと知ってるの?」

「ええ」

 短く答えたルリは、トキの手を握った。白くて冷たくて細い指だ。

「君は一体……」

 口を開きかけると、ルリはトキの手を両手で握り、てきぱきと答える。

「まず脱出しない? 記者さんがいる今のうちが脱出のチャンスだし」

「それはそうだけど……」

「詳しいことは後でね。それとものんびりして、実験体になりたい?」

 思い切り御免被りたい。ルリが何者なのかは知りたいが、ここでぐずぐずしていて頭に穴を開けられるのは絶対に嫌だ。まだたったの十八歳で廃人になるには人生勿体なすぎる。

「分かった」

「じゃあ私についてきて」

 あっさりと手を離したルリは、再び率先して先に立ち通風口に入っていく。後に続こうとしたら、ルリの声が通風口から響いた。

「トキくん、通風口の蓋もお願い」

「分かった」

 慌てて通風口の蓋を拾い上げるとルリは通風口少し先から麻紐を垂らしてきた。これに掴まれというのだろうか。そう思って軽く引くと、紐は簡単にトキの手の中に落ちてきた。

「あ、あれ?」

「それを通風口の蓋に結んでくれる?」

「蓋?」

 足下を見ると、先ほどものすごい音を立てた鉄の蓋があった。

「これ?」

「そう。内側に取っ手みたいなのがあるでしょ?」

「ある」

 言われるままに、トキは紐を通風口の蓋にくくりつけた。

「結んだよ」

「じゃあ紐ちょうだい。私が蓋の紐を持ってるから、トキくんも早く通風口に入って」

「うん」

 有無を言わせないルリには、従うほか無い。何しろ彼女がいなければ、ここから脱出することができないのだ。

 通風口はかなりの高さにあるが、ありがたいことにそこには荷物が積まれていて上りやすかった。何の荷物だろうとついつい木箱の隙間から覗いて後悔する。

 中には濃硫酸で洗われた後であろう、妙に綺麗に輝く白骨が詰まっていた。

「ひっ……」

 引きつった悲鳴を上げると、ルリは小さく忍び笑いをした。こんな可愛い子の前で情けない。落ち込む間もなくルリが四つん這いのまま前を向いた。

「さ、逃げましょう。こんな所、一刻も早く過ぎ去りたいでしょ?」

「もちろん!」

 頷くと、ルリの後に続く。ルリが進んでいくと、やがて音がして蓋がはまった。振り返るとうすらぼんやりした光が、後方に浮かび上がっている。こんな所、もう二度と来たくない。

 前を行く身軽なルリを追いながら、トキは小さく溜息をついた。 

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