<7>
酒場での一夜から、普通にペテンで金を稼いで生活しながら数日後、トキは『かいなの園』でアカネと話し込んでいた。
もちろん行方不明者捜しの話では無い。トキが貧困街で子供たちを養っている話や、相棒との笑い話など、他愛も無い話をしていたのだ。それにはもちろん目的があった。
調べると太白記念病院の病院長はオウチという医者だった。この医者は軍医上がりの男で、病院経営者の娘婿にあたる。
実質病院を経営していたのは、カイハクという軍人で、この男は従二等軍医総監まで上り詰めた男であり、今は引退しているらしい。
病院長のオウチは現役中カイハクの元におり、忠実な部下であったらしかった。その忠義を見込まれてカイハクの娘と結婚し、一人娘をもうけていた。
ウラハというのが娘の名だ。どうやらいつもお付きの侍女を連れ、瑞山ではまだ数が数台しか無いという車に乗ってあちこちに行くらしい。
まだ乗合馬車が主流だというのに、病院は儲かるようだ。乗合馬車にすら乗ったことは無く、頼るのは自らの足だけというトキには、その生活が想像もつかない。
この辺りの話はみな、病院近くの噂好きな中年女性たちや、病院で昔警備をしていたという老人、周辺の路上少年たちから集めた情報だ。
だがこの中の誰も、それ以外の病院の情報を持っていなかった。中流階級の人々が住む地域にありながらも、病院は上流階級の金持ちしか入れないためだ。
そのため、内部情報を引き出すには、やはりウラハという少女をたらし込むしかなさそうだ。ありがたいことにウラハはトキよりも一つ年上の十九歳で、成人しているから騙すことに躊躇いは無い。
やがて聞き慣れない音が外から聞こえていた。窓から微かに外を見ながら、トキは車が来たことを確認する。乗合馬車から馬を取り、ガラスで全面を覆ったような黒い車は、確かにウラハが乗る車だった。
「アカネさん。お客様のようですよ」
子供たちの世話役をしている好青年の役そのままにトキは微笑んだ。アカネはこれを本当のトキだと思い込んでくれているので、妙な警戒感を抱かせずにすむ。
「本当ね。きっとウラハ様だわ」
おっとりと立ち上がったアカネに、トキも立ち上がり頭を下げる。
「じゃあ俺は失礼します」
「ごめんなさいね、トキくん」
本気で申し訳なさそうなアカネに会釈をして扉の向こう側の気配を伺う。すると玄関の方で声が聞こえた。侍女とやらがアカネを呼んでいるのである。
ウラハはもう玄関にいる。トキはアカネの後について玄関に向かった。トキも帰るのだから不自然は無い。
玄関につくと、予想通り侍女と思わしき中年女性と共に、気の強そうな女性が立っていた。髪は高い所で一つに結い上げ、高価な宝玉のついた髪飾りで留められている。売ればかなりの金額になりそうだよなと視線だけで見定める。
トキが品定めしていることになど気付かず、ウラハはアカネの顔を見た。
「今日は果物が手に入ったのよ。子供たちは喜ぶわね?」
質問では無く、決めつけだ。だがアカネは穏やかに微笑む。
「ええ勿論。ウラハ様が来てくださった日は、みんな珍しい食べ物が食べられて喜んでおりますわ」
「そう。当然ね」
この私が持ってきてあげているのだから、とトキには聞こえた。金持ちも相当カモにしてきたが、ここまで金持ちだと騙しがいもありそうだ。しかもこの女、きっと自分を騙す人間がいるなんて思いも寄らないだろう。
男に惚れっぽいというが、実際に男を得たことはなさそうだ。
さてどう出る? きっとこういう女は優しくされたりちやほやされることになれているだろうから、その逆を行ってみるか。
自分なりの作戦を決め、アカネの横から前に出る。ウラハの視線がこちらを見て、そして止まる。どうやらこの顔に興味は示してくれたようだ。
今日は特別念入りに、服と髪にも力を入れている。これで気を引ければ、とどめも刺しやすい。
「アカネさん、失礼します」
アカネには極上の笑みを向ける。
「あらトキくん、ごめんなさいね。また来てくれるの?」
「ええ。アカネさんの笑顔を見に」
軽く手を握り、アカネの目を見つめて微笑む。ウラハの視線が横顔に刺さってきた。よしよし、見てる見てる。
「あらあらまあ」
年甲斐も無くアカネが頬を緩めた。アカネにも好印象を持って貰えれば、テツたちが親切にして貰える。弟分たちが世話になるのだから、このぐらいの笑顔は簡単に差し出す。
それからトキはゆっくりとウラハに視線を移した。ウラハがこちらをじっと見ている。このまま去れば、顔の印象は覚えて貰えても興味を持たれない。だからここで印象づける。
「……あなたは、どなた?」
予想通りウラハが興味津々といった体で問いかけてきた。なるほど本当に面食いらしい。トキは微かに不審な色を目に浮かべてウラハを見返す。
「俺はトキ」
あえてアカネと接するのと真逆に、冷たく返す。一瞬にしてウラハが表情を変える。
軍人の孫であり、病院経営をしている金持ちの彼女に、このような表情を向けるものなど、今までいなかったのだろう。
それに構わずにトキはアカネに見えないようにウラハに冷笑を浮かべた。
「あなたが太白記念病院の令嬢ウラハ様ですか」
「ええ、そうよ」
強気に上からの目線でウラハが肯定する。トキはそんなウラハを静かに見下ろした。
「俺の身内がここに居ましてね。あなたには世話になっているようですね」
「……そうね」
「ありがとうございます」
トキが頭を下げると、アカネが侍女たちを中へと促した。頭を下げたままのトキの横を、ウラハが通る。彼女の前で微かによろける振りをすると、驚いたウラハが足を止めた。その肩に軽く手を置く。
そして白く形のいい耳元に、呼気がかかるほど近くで低く囁いた。
「とんだ偽善者だな。腹の中は病院と同じく真っ黒だろうに」
「!」
「綺麗に飾っても中身の底が知れてる」
「あ、あなた……」
「それともあんたは、病院と違って中身も綺麗かい?」
それだけ言うと、微かに耳に息を吹きかけて身を起こし、トキは振り返らず孤児院を出た。だが孤児院の中からウラハのトキに対する非難の大声は聞こえてこない。
しばらく近くの壁にもたれかかって様子を窺っていたが、トキは満足して歩き出す。もしも彼女が本当に本当の馬鹿だったなら、馬鹿にされたと大怒りになるだろう。
だが彼女は叫んでトキを非難すること無く、黙って孤児院のいつもの慰問をしているようだ。
ここでトキに嫌みを言われたと騒ぎ立てれば、自分が何を言われたのかを言わねばならなくなる。それすらも許せないほど気位が高い女なのだ。
そのくせトキに興味を持っている。腹が立つことを人間はそれほど簡単に忘れたりしないのだ。きっとこの出会いは彼女の脳裏に刻まれるはずだ。
とりあえず餌は撒いた。
翌日の昼過ぎ、トキは次の手を実行するべく、太白記念病院の近くにある広い公園にやってきた。途中に露天でにぎりめしを買って食べる。腹ごしらえできるときにしておかないと、食いっぱぐれる。
幾度か下見をした広大な敷地を持った公園は、街のほぼ中心にある。本物のように深い森には、動物が生息していると聞く。元々は軍馬の教練上だったというこの公園は、中流階級の人々の憩いの場であり、奥まった場所にある乗馬場は上流階級の社交の場でもある。
ウラハはこの乗馬場へ、週に一度通ってくる。それが『かいなの園』の訪問の翌日だ。聞き込ませていた子供たちによると、近所の人々が決まった曜日の決まった時間に乗馬服のウラハを目撃しているから間違いが無い。
その時に通りそうな公園の小道を推測し、トキは適当なところに網を張る。そしてそこに小道具を置いた。スケッチブックと木炭、パンの欠片だ。
手にしたスケッチブックには、木炭で描いた公園の風景が確かな画力で写し取られている。絵心がまるで無いトキが描いた訳では無い。これを書いたのはヒワだ。
ウラハをたらし込んで病院へ潜入すると決めたとき、どうしてもいくつかの小道具が必要になった。その一つがこのスケッチブックだ。
幾度も不自然無く女性と会うための、簡単な口実作りに使えるのが、相手の絵を描くことだった。そのためにどうしても必要なこの場所の絵が必要になったのである。
だからトキはコンビを組んで初めて有料でヒワに依頼した。断られるかと思ったが、有料というとヒワは不機嫌そうに引き受けてくれた。やはり生活する上で金は必要なのだろう。
トキとヒワがコンビを解散してしまったら、家から出ないヒワに稼げる宛は無い。
依頼して二日でできあがってきたのは、デッサンだけだが見事な絵だった。ヒワは本当に器用だ。
どこに行くかを問われたから、病院に潜入するため、そこの娘に近づくとだけ伝えると、興味もなさそうに生返事をし、自室に引っ込んでしまった。
やはり本気でこの件から手を引くつもりのようだ。長年相棒としてやってきたから、ヒワがいない事実に戸惑うばかりだ。
そのスケッチブックを膝に置き、見張りを頼んだ子供たちの報告をのんびり待つ。普段は夜の生活をしているから、真っ昼間から公園の木漏れ日の下でのんびり座っているのは初めてだ。
昼寝したい気もするが、相手を網に掛けている以上、寝ている場合では無い。
木々の間から零れる冬の澄んだ光を見ていると、何故だか心が洗われたような気持ちになった。昼の世界は明るいんだなとしみじみ思う。
だが心地いいと思うと同時に、この昼の世界に身を置くことは微かな恐怖をもたらす。夜の世界から抜け出てしまえば、自分を守る砦が何も無くなる気がするのだ。
夜の世界で詐欺師として存在しているからトキはトキでいられる。では昼の世界において詐欺師では無くなったトキは、一体何者だというのだろう。
このままこの生活を失いたくない。変わりたくないと願ったヒワの気持ちが分かる気がした。自分が何物でも無くなるのは怖い。失ってしまえば空っぽな自分でしか無いのだ。
ヒワの不安は、トキも感じていたことに過ぎないのかもしれない。それなのにまずヒワを理解してやれなかったことが今更ながら胸に突き刺さった。
ヒワに謝るべきなのだろうか。でもそうすればこの事件を追うことができなくなる。それだけはどうしてもできない。
小さく溜息をついたとき、見張りを頼んでいた子供が駆けてきた。やはりこの場所で間違いなかったようだ。
子供に小遣いとして鉄貨を一枚握らせると、走り去る子供に目をやらずスケッチブックを開いた。そこに木炭で絵を描く振りをしながら、怪しげにならぬように辺りを見渡した。
しばらくして、侍女と共に小道を歩くウラハの姿が見えた。確認してから、スケッチブックをわざと膝におき、顔から離した。こうすることで道を行く相手から顔がよく見えるだろう。
近づいてくるウラハを視界の片隅で確認しつつも、気付かぬふりで絵を描く真似を続けた。ウラハが気付き、声を掛けてくる可能性は限りなくゼロに近い。でもそれでいいのだ。今日は相手にここで絵を描いていることを印象づけられた。
案の定ウラハはこちらに気がついたようだった。それは足がトキをみつけた瞬間に一瞬止まったことで分かる。視線を感じつつも、顔を上げずにキャンバスに向かう。やはり印象づけた通り気にかかるようだ。そんなウラハのそぶりを気がついてもいけない。
黙々と絵を描き続けると、ウラハは声も掛けずにそのまま乗馬場へと消えた。
これで第一段階終了だ。
トキは再びスケッチブックを置くと、伸びをした。しばらくして見張りの子供が駆けてくる。先ほどと違い、乗馬場を見張っていた子だ。
「乗馬場に入ったよ」
「分かった。じゃあ出てきそうになったら、目標よりも先に来て知らせてくれ」
「うん」
子供が再び駆け戻っていく。本来ならトキとヒワで分担して行うこんなことも、子供たちの力を借りねば行えない。何だかそれが無性につまらなかった。
ただ座って待ち、子供に起こされた時には、太陽が西へと傾いてきていた。とはいえ夕暮れにもまだ早い。
子供に鉄貨をやり、スケッチブックを一枚捲る。するとそこに現れたのは、一ページ目から少し進んだ絵だった。こういう細かい作業も詐欺には必要だ。
準備を万端に整えた後で、ウラハは現れた。常に侍女と一緒にいるのかと思っていたが、乗馬服の上にコートを着たウラハは、一人きりだ。
どう出るのかとまた気付かぬ振りをしていると、トキのスケッチブックに影が落ちた。顔を上げると、何だか腹を立てたような顔のウラハが立っている。
「あなた、何をしているの?」
口調は質問と言うより、どちらかと言えば詰問だった。トキは今気がついたという顔でウラハを見上げ、首を傾げる。
「誰だい、あんた」
「白々しい。知っていてつけているんでしょう?」
「は?」
小馬鹿にするように見上げると、ウラハが目をつり上げた。
「私のことがそんなに気になるの? 下々の者のくせに、思い上がりも甚だしいわ。どうせこの私に一目惚れしたとか、私の財産を狙っているとか、そういう輩でしょう?」
こういう時は言いたいだけ言わせてしまうが勝ちだ。訝しげに眉をひそめる振りをして、黙ったままトキは首を傾げる。
「まあ! まだしらばっくれるのね! 私はちゃんと覚えていてよ! あなたは『かいなの園』にいた、トキという男よね? 私がここに来るときも、今も待っているなんて、本当にしつこいわ」
ウラハは一度にそう言い切ると、頬を赤らめてじっとトキを見つめた。もう言うべきことは言い切ったらしい。
ならば反撃をするべきだろう。もちろん喧嘩になるような反撃では無い。相手の懐に迫る反撃だ。
「ああ思い出した。太白記念病院の娘か」
たいして興味が無い口調で言いつつ、スケッチブックに目を落とす。ヒワが書いた風景画に、弱く木炭で線を重ねた。
「そうよ。だからあなた付け狙って……」
「太白記念病院は黒い噂が絶えねえな」
「……噂はあくまでも噂だわ」
「そうかな? 知り合いがあそこに入院しておかしく成っちまった」
ウラハが鼻白んだ。
「そんなわけ無いわ。お父様を馬鹿にしないでちょうだい!」
「馬鹿にしちゃいないぜ。ただ俺はあの病院がくさいって踏んでるだけさ。金持ち相手に金を儲けるだけじゃ飽き足らず、人間も狂わすのかってね。何しろ俺は文無しだ。金持ちの悪人は虫酸が走る」
「じゃあ私で恨みを晴らそうと付け狙ってたわけ?」
何気なさを装い、微かに視線を上げる。腹を立て頬が紅潮したウラハに冷淡な視線を向けた。ただ静かに彼女を見据えて言葉を並べ立てる。
「そんな面倒をする気は無いな」
「え?」
「知り合い程度の男が狂ったからって、俺が何故恨みを晴らす必要がある?」
「だって……」
「俺の身内に食い物を恵んでくれてるんだろ? あんたで恨みを晴らしたら食い物が減って身内が損する。俺は損することはしない主義だ」
「でも私を待ち伏せていたじゃない」
「待ち伏せ? あんたを?」
トキは一瞬見開いた目を、微かに細めて口角を微かに持ち上げる。これは一般的な冷笑を浮かべている表情になる。
「なによ」
「自意識過剰な女だな。今の今まであんたのことなんか忘れてたよ」
「……え……?」
「あの時は、たまたま目の前にいた金持ちを見て、苛立ちをぶつけただけだ」
呆然とするウラハを身動き出来ぬように言葉で絡め取っていく。
「あんたの方は俺を覚えていたらしいな」
「そ、それは……」
「俺はよほどあんたの記憶に残ったのかな? あんたの方こそ、もう一度俺に会いたかったんじゃないのか?」
「違うわ! それこそ自意識過剰よ!」
じっとその瞳を見つめて冷笑すると、先ほどまでの余裕が全く失われ、苛立たしげな表情すらも失われていく。
代わりに彼女の顔に広がったのは、恥じらいの表情だ。やはりウラハは惚れやすいのだろう。
音を立てずにスケッチブックを横に置きトキは立ち上がった。あの時と同じように近距離でウラハに迫る。
ウラハはあの時と違って、微かに半歩下がった。だがそれで離れては元も子もない。そっとウラハの肩に肘を乗せ、瞳を見つめながら囁く。
「孤児院で一緒にいた侍女は来なかったのか? それともあんたの意思で置いてきたのか?」
「来なかっただけよ。私は子供じゃ無いもの」
微かに彼女の声がうわずった。彼女は自らの意思で侍女を遠ざけたのだ。そんな隙すら見逃してやらない。
「子供じゃ無いから、俺と二人で話をしたかった?」
「誰がそんなこと……」
「違うのか?」
「ち、違うわ」
「そうか。俺はてっきり、あんたが俺に惚れて絡んできたかと思ったぜ」
せせら笑いながら顔を寄せ耳元で囁くと、ウラハは身体を小さく震わせた。頬がますます紅く染まる。
「そ、そんなこと……」
「二人になりたくないなら、侍女は連れて歩くもんだぜ」
「あなたに指図される覚えは無いわ」
「確かに。俺も暇じゃ無い。俺に興味が無い女と話している時間も惜しい」
あっさりとウラハから手を離し、トキはスケッチブックを拾い上げる。それからウラハには目もくれずに無言で、振り返らずに元来た小道を戻り始めた。
読みが誤っていなければ、彼女は声を掛けてくる。トキには自信があった。騙すならばこのような世間知らずの令嬢が一番簡単だからだ。
歩き出してすぐに、躊躇いがちな呼びかけが聞こえた。
「ちょっと、待ちなさい」
まだまだだ。これで振り返るほどがっついてはいけない。もう少し足を進めると、後ろから更に大きく呼びかけられた。
「……トキ! これがあなたの名前でしょう?」
まだ振り返らずに足を止めると、ウラハが声を更に張り上げた。
「またここへ来るの?」
ここでようやく振り返る。そして微かに微笑んで頷くのだ。
「絵が完成するまで、毎日来る」
「私がそれを見ていてはいけないかしら?」
「邪魔はするなよ」
「当たり前よ」
再び迷い無く前を向き、トキは自宅への道を辿る。
これで上手くいった。後は時間を掛けて彼女を更に籠絡し、太白記念病院の紹介状を書かせれる。それ以後も、有力軍人の孫である彼女は色々と役に立ってくれるだろう。
彼女の視界から消えたことを確認してから、貧困街のねぐらへと足を進めた。自然と足取りは軽く、足早に夕方の賑わう待ちを急ぐ。
これで少しはユウオウを出し抜けだろうか。馬鹿にされるだけ馬鹿にされていたら、いつまでたってもユウオウに追いつかない。
あちらこちらの家から漏れてくる夕飯を作る暖かくて腹を刺激する香りと、賑わいを見せる大通りを通り抜けた。
そういえば朝からほとんどまともな食事を取っていない。帰りにまたあの老婆の店で食料を買おう。きっとヒワも腹を空かせているだろう。
いや、ヒワはもう待っていないか。最近は一人で簡単なものを買ってきて済ませていることが多い。相棒は解消されたのだからそれは当然だが、何となく寂しい。
ウラハを狙い通り落としたことを、ヒワは、なんて言うだろう。いつものように作戦成功を報告しても決して喜ばないだろう相棒だが、それでも守備上々を報告したくて仕方ない。
詐欺師であるトキには、自分の仕事の成功を無条件に誇れる相手など、ヒワぐらいしかいないのだ。
貧困街に入ったところで、いつもの老婆の店で今日は大量の野菜のごった煮を購入した。毎日この店でおかずを買うが、同じ料理が二度重なったことは無い。
毎回毎回一品だけを大量に売るというのに、この老婆は腕がいい。冬らしく、たっぷりの根菜類でいっぱいのごった煮には、ふんだんに鶏肉が使われている。
「今日肉多くない?」
「肉屋の在庫処分だと」
「へぇ。もうけたな、ばあちゃん」
軽口を叩きながら機嫌良く鉄貨を払い、その近くで白米売りの釜から二人分の飯を買う。寒さの応える冬の夕時に立ち上る暖かな湯気は真っ白で、その分空腹のトキの食欲を刺激する。
「どれぐらい買うんだい?」
釜の木蓋を手にしたしゃもじの男に聞かれて、勢いで答える。
「三合分!」
「いつもありがとうな」
男にも鉄貨を言い値で払う。機嫌がいいときぐらい値切らずに買いたいのだ。ついつい習慣で二人分買ってしまったが、ヒワが食べなかったら朝食にすればいいだろう。
いつもの如く長い螺旋階段を上がり、自宅へとたどり着き、中に入ったところで足早に居間へ向かい大きく声を掛ける。
「ただいまヒワ!」
食卓で何かを食べようとしていたヒワが軽く飛び上がった。いつも通りに着ぶくれたヒワの袖口から除く細い手元の食器がぶつかり合って音を立てる。
「悪い。驚いた?」
機嫌良く向かいの席に座り、ヒワの前にごった煮と白飯を置く。
「……驚いた。最近静かだったから」
「だってヒワ、俺と口利きたくないみたいじゃん」
ヒワが食べようとしていたものを見ると、昨日の残った白飯に、漬け物を載せてお湯を掛けた茶漬けだった。じっと見ていると、ヒワは微かに顔を逸らした。
「これしか喰わねえの?」
「別に腹減ってないし」
「嘘つけ。腹ぺこなくせに。喰おうぜ飯」
ヒワが言い訳をして自分の食事を掻き込む前に、手元の茶碗を取り上げてそのまま乱暴に自分の口に流し込んだ。
「ほら、もうヒワの飯ないし。食おう食おう」
有無を言わせず、立ち上がって空いた茶碗に白飯を盛りつけ、大皿を出してごった煮を盛りつけた。暖かな湯気が部屋を満たす。
「もう相棒は解消したのに」
文句を言いながらもヒワは箸を手にした。やはり空腹だったのだろう。
「いいじゃん。今日は上手くいったから、俺専属の職人さんにお礼」
「専属って、僕はトキの所有物じゃ無い」
「いいからいいから。冷めないうちに喰えって」
機嫌良く進めて、自分も箸を手にする。
「頂きまーす」
率先して言うと、ヒワも小さく同じように口にすると、いつものようにもそもそと食べ始めた。うっとうしい前髪に隠れた目はよく見えないが、口元が嬉しそうに綻んでいる。
「暖かい飯の方が美味いよな」
「……まあね」
口数の少ないヒワは、黙々と食事を口に運ぶ。トキも今日一日の空腹を満たすべく、料理を腹に詰め込んだ。
しばらくしてヒワは立ち上がると、マグカップにたっぷりと注がれた緑茶を手に戻って来た、きっちりと二人分だ。
「緑茶? 高いのに珍しいじゃん」
「アカネさんがくれた」
思わぬ名に目を瞠る。
「お前、『かいなの園』に行ったの?」
「うん。奴らに差し入れもやりたいし。この辺でしか買えない菓子、欲しがってたから」
「……そっか」
この件から手を引いたといえども、子供たちの世話役を辞めたわけでは無いらしい。
「で、守備は」
ぶっきらぼうに聞かれて、トキはまた驚く。
「え? 興味ないんじゃ……」
「飯をおごられたんだ。それぐらい聞くのが礼儀だろ」
「あっそ」
やはり関わりたいわけでは無いらしい。
「ウラハは落とした。しばらく毎日昼は公園通いだ」
「そう」
「風景画、また少しづつ進めてくれる?」
「……一枚、銀貨一枚」
「うへ。高っ」
「分かった。鉄貨五枚に負けとくよ」
「……急に安っ」
「その代わり夕食を買ってきて。今まで通り」
「……やっぱ飢えてたんじゃん」
「何枚も絵を描いてたら買いに行けない」
「まあそうだね」
何日かかるか分からない絵を描いて貰うのに、確かに時間はかかるだろう。あっさりと納得すると、ヒワが立ち上がった。
「ごちそうさま。明日もよろしく」
「もちろん。じゃあ絵の方もよろしく」
「これから書くよ。大体その子を何日で完璧に落とせる?」
「うーん。招待状を貰うだけなら三日ってとこかな」
「分かった。じゃあ下書きは終わらせて、色を付け始めるところまでだね」
「うん」
頷くと、残っていた料理に箸を付ける。小柄で細いヒワは小食だから、大体買ってきた料理の三分の二はトキの腹に収まるのだ。箸を動かして食事を続けていると、ふと視線を感じて顔を上げた。ヒワがじっと顔を見ている。
「何?」
「今回は結構彼女と深い仲になるんだろ?」
「うーん……病院に入り込めた後、更に交渉が必要ならやむを得ないかな」
招待状を貰って病院に潜入し、それがばれなかったら更に彼女を利用しなくては成らないだろう。この病院がベニの居場所を知っていたら、どうにかして更に上の人間へと接触する必要があるのだから。
不意にヒワが微かに顔をしかめる。
「あまり深入りするなよ」
「何だよヒワ、焼き餅か?」
からかうとヒワの目が微かに細められた。これは怒っている。仕方なく黙って両手を目の前で合わせて謝ると、ヒワが言葉を続ける。
「素人に手を出したらろくな事にならない。そもそもトキは今まで素人に手を出さずにここまで来たんだから」
「……うん」
その通りだった。玄人はともかく、罪の無い女性を心だけで無く身体まで奪うような真似は、トキの信条に背く。
「それに彼女は軍のお偉いさんの子だろ。あの事件とどう絡んでるか分からない。そっちの深入りもして欲しくないけど、そうも行かないんだろ」
「そうだな」
小さく頷くと、ヒワは溜息をついた。
「色々理由を付けて、どっちも最後はちゃんと逃げなよ」
言い残すと、いつものようにヒワは扉をパタンと閉めた。一人きりになってしまった居間で、トキは食事を前に小さく呟いた。
「……肝に銘じとく」