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扉を開けると、軽やかな鈴の音が響いた。空席はあるかといつものように扉の陰から首だけを突っ込むと、無愛想な店の主人と目が合った。
「トキか」
「うん。今からいいかい?」
「金を払う気があるなら構わん」
「もちろんあるさ」
軽口を叩きながら店の中に足を踏み入れた。空席があるかどころか、埋まっている席が一つも無い。
いつもならカウンターに座って店の主人と話したり主人の妻と話したりするのだが、今日はヒワと話をするから、奥まった座席を選んだ。
「親父さん、今日はずいぶん空いてるね」
コートを脱いで椅子の背に掛け、注文を取りに来た主人にからかいの声を掛けると、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「黙れガキ。今日は女房がいないんだ」
「なるほどねぇ……」
店の主人が一人の場合、無愛想すぎて色々客には不便だ。だから顔を覗かせて親父一人が店にいるときは帰ってしまう客も多いのである。
「てめえも不満なら帰りやがれ」
「親父さんの飯が食えるなら文句ないって」
「なら早く注文しな」
本当に愛想のない男だ。客商売をする気を全く感じられない。それでもここも店は安くて旨いのだから仕方ない。
酒も料理もかなり安いこの店は、彼の妻がいる普段ならいつも中流階級から貧困街まで、様々な人々に愛されて賑わっているのだ。
最近になってこの近所まで電気が普及し始めたというのに、この店は頑固に菜種由のランプを使い続けている。電気の明かりではあまりにぬくもりが無く、食事が全く旨そうに見えないというのが主人の主張だ。
かくいうトキも、電気など無い貧困街に住んでいるから、この柔らかなランプの明かりがある店の方が落ち着く。
食べたいものを思いつくまま色々と注文した。一日中歩き回っていたトキは、鶏の唐揚げに白米、汁物を注文し、ヒワは野菜の炊き合わせと焼き魚を頼んだ。
暇だったからか料理は驚くほど早く出てきた。料理は旨そうな湯気を上げ、芳醇な香りをめいっぱいに漂わせている。
「野菜はサービスだ。喰え」
「うん。ありがとう」
「礼をいうな。明日まで取っておいたら腐るからな」
愛想無く料理を乱暴においた店主が去って行ってから二人は黙々と食べ始めた。目の前に並んだ料理が、忘れていた空腹を増長し、堪らなかったのだ。
貧乏人の常かあっという間に完食したトキと違い、いつも一人家で本を読みならが食事をするヒワはとにかく食べるのが遅い。それに箸の持ち方はとても綺麗だし、食べる姿も丁寧だが、相変わらず食が細い。
これだから大きくなら無いんだぞとふざけて警告してみたが、あっさりと無視された。気にくわないことは聞こえなくなる体質なのだ。
暇になってしまったトキは、足を組んで、テーブルに両肘をつき、じっと食べているヒワを見つめる。こうしてじっとヒワを眺めるのも久しぶりだ。
小柄で痩せているというのに頬の辺りが少し丸い。太った訳では無いから、もしかしたらむくんでいるのだろうか。頭には店に入ってからもフェルトの山高帽が乗ったままだ。ヒワは自分の髪色を見られることを極端に嫌う。
しかも自分の色の薄い瞳を気にしているから、いつも微かに俯きがちで前髪も長い。相棒であるトキでさえ、ヒワの目を見ることは希だ。でもこうして微かにでも下から見上げると、半開きな瞳の色彩が本当に綺麗だ。遙東人にはこんな色の瞳はいない。
外に出ないせいで肌はトキと比べてとてつもなく白く妙にきめが細かい。もしかしたらトキがよく立ち寄る綺麗どころが揃った店の女性たちよりも綺麗な肌をしているかもしれない。
それに骨格が細くて、これでやっていけるのだろうかと心配になる。一応トキと同じぐらいには護身術を心得ているが、トキならばヒワを簡単に負かせる自信があった。
じっとヒワを見ている視線に気付かれたのか、不審そうな目で見られた。誤魔化すようにヒワの首元の深緑のマフラーを指さした。
「マフラーぐらい取れば?」
「いい。別に問題ないよ」
「あっそ」
ヒワがようやく食事を終えた頃、全く来ない客を前に主人は奥で新聞を読み始めていた。客が幾人かは顔を出したのだが、カウンターの中から不機嫌そうな主人に見据えられてすごすごと店に入ることなく去って行った。
人に聞かれたくない話をするなら好都合だ。
「そろそろいいか?」
「……」
答える変わりに、ヒワは本当に深刻そうに溜息をつく。トキの心が徐々に塞いでゆく。やはりヒワはこの件から降りたがっている。それだけはよく分かる。
でもその理由が分からない。今までのヒワならば、こんな事件があれば、迷走しそうになるトキを無言で影から助けてくれていた。面と向かって反対されたことなど無かったのだ。
今回はこれほどの事件であるというのに、助ける気は皆無なようだった。それどころかヒワは事件から必死で離れようとしているように見える。
今までいちばん近くにいて、色々な考えや価値観を分け合っていた相棒の突然の拒否に、まだトキは戸惑っていた。
トキが口を開く前に、ヒワが口火を切った。
「さっきの続きだ。トキ、この件から手を引け」
ヒワの口から出たのは質問では無く命令だった。一緒に暮らすようになってもう十年近くになるが、こんなに強い口調で命じられたのは初めてだ。
「嫌だっていったら?」
「嫌でも手を引け。僕らみたいな孤児に軍に立ち向かう力なんて無い」
いつもは全ての事を遠くに見ているような表情をしているくせに、今日のヒワは異様なまでに真摯だった。
だがトキにだって思うところはある。ヒワがいつもよりも反対しているからって、はいそうですかと自分の決意を引っ込めることなんて、できるはずがない。
「トビが助けを求めてきたのは俺なんだぞ」
「分かってる」
「あいつらは俺とお前の情報屋を長く務めてくれているんだ。そいつを襲われたのに、悔しくないのかよ?」
「悔しいさ。悔しくないわけ無いだろ。でも軍にかなうわけ無い」
「やってみなきゃ分かんねえじゃんか」
「やる前から分かってる!」
苛立ったようにヒワが怒鳴り、自分の声に驚いたように身を縮める。主人が一瞬眉を顰めてこちらを見たが、すぐに視線を新聞に移した。トキはそれに安堵して、再び声を潜めてヒワに向き直る。
「俺たちはこの街で暮らしてきた。まだ十歳にも満たない頃からずっと、この街の子供だった。そうだろ?」
唇を引き結び、黙って手元のグラスを眺めているヒワを言いくるめようと、あえて冷静な言葉を紡いだ。ヒワからの返事はないが、言葉を続ける。
「俺たちがあいつらぐらいの歳だった頃、兄貴分や姉貴分が俺たちの生活を助けてくれただろ? 今俺たちが子供たちを助けないと、俺たちはこの街に恩を返せない。違うか?」
見つめていると、ヒワは顔を伏せたままそっぽを向く。
「ヒワ、こっち見ろよ」
ずっと顔を逸らされたままだから少し苛立って低く告げたが、ヒワはこちらを見なかった。その代わりに同じように苛立った声で返された。
「僕が警邏隊も軍人もみんな嫌っていることは知っているはずだ」
微かに震える冷たい言葉にトキは黙った。ヒワは肌の色が薄く、髪の色も薄い。眩い太陽の下に出ると、髪は茶色ではなく金色に見えることもあるぐらいだ。それ故に、戦争が継続している間、ヒワは外に出る度に酷い目に遭った。
ヒワの外見は、敵国ネイソスの人々と酷似していたからだ。
まだ子供だったヒワは、それによって憎まれ、言われ無き暴力を受けることもあった。その先鋒となっていたのが、当時ネイソスと直接戦っていた軍人たちだった。
敵国人と似ていると言うだけで、ほんの子供なのに諜報員扱いされたことだってある。通りすがりに殴られることなど日常茶飯事で、それにたいしてトキがくってかかるのもまたおきまりのパターンだった。
それだけでは無い。本来なら人々を守るはずの警邏隊もヒワを疑った。ヒワは何もしていないのに、ただその外見だけで胡散臭い目で見られ、おかげで家を借りることに非常に時間がかかったのである。
上級や中級の生活をする人々も、戦時中はヒワを蔑むような、恐怖に満ちた目で見た。ひそひそと交わされる言葉に、当時のヒワはとても傷つき、やがて用事が無い限りヒワは家から出なくなった。
「トキ」
「何だよ」
「このままじゃいけないのか?」
真摯な問いかけは、トキの胸に刺さった。
「このままいつものように暮らせばっていつも言ってるだろ。何故駄目なんだ?」
「……」
「確かにトビは可哀相だったかもしれない。でもこの貧困街じゃよくあることだろ」
「よくあること……?」
「子供が行方不明になる。生死が分からなくなる。でも大概はどこかで保護されてる」
言い聞かせるような言葉だったが、トキはそれを鵜呑みになどできない。トキはヒワの言葉が嘘であることを知っている。
「半分は、だろ。半分は殺されてる。者を盗んだと打ち据えられる奴、変質者に攫われて乱暴されたあげくに捨てられる奴もだっている。生きてるったって、騙されて花街に売られてる奴もいる。俺もお前もそれをよく知ってるだろ」
「知ってるさ。知ってるけど、今回の件が大きな事件だって何故言える? たまたま彼らが御使いだったってだけで、いつもの行方不明事件かもしれないじゃ無いか」
「それは……」
「だから俺たちが介入するまでも無いだろ。俺たちの縄張りは、トビたち率いる集団だけだ。彼らはみんな無事じゃ無いか」
ヒワの言葉は正論だった。孤児たちには皆それぞれに世話役がいる場合が多い。世話役同士は顔見知りであることが大半だが、今回の件で自分たちの縄張り以外の世話役から声を掛けられたことは無かった。
それはつまり、彼らの誰も御使いの行方不明を気になど掛けていないということになる。
「だけど消えた奴らは……」
「集団に属していない奴らが多い。自業自得だ」
ヒワは冷たくそう言い切ると、話は終わりだとばかりに黙った。しばらくヒワを見ていたが、もう本当に口を開く気は無いらしい。
「当たり前のことだから手を引けと?」
「……」
「トビの奴が襲われて、生きてるか死んでるかも分からないのに?」
「……」
ヒワのテーブルに置いたままの手が微かに震えている。必死で感情を押し殺しているのだろう。
ヒワがトビに対して、関係ないと思っているわけが無いのだ。分かって貰いたくてトキはヒワを必死で説得にかかる。
「行方の知れない奴らは確かに俺たちの縄張りの奴らじゃ無いかもしんないよ。でも単独でやってても俺らの街で育ってるんだ。当たり前で片付けられることかよ。俺たちが助けてやらないと、誰が助けるんだよ。俺たちが仲間同士助け合うのは、俺たちの正義だろ!」
たたみ掛けるように言葉で責め立てると、テーブルに手をつく。積み上がった食後の皿が、互いに触れあい音を立てた。
「お前は、助けたいと思わないのかよ? あいつら見捨てて旨い飯が食えるのかよ!」
手をついた表紙に倒れたのか、コップから溢れた水が滴っていた。でもそれを直す余裕は無い。
「何か言えよ!」
見据えると、ヒワが顔を上げた。髪の隙間から燃え上がるような激しい怒りを秘めた、薄青色の瞳が見えた。
「トキは!」
ヒワが絞り出すように怒鳴った。
「トキは知らないから言えるんだ。知らないから正義の名の元に危険に足を踏み入れようとするんだ」
「知ってるさ! だってヒワはいつも警察や軍人とやり合ってきただろ!」
「あんなのは受け流せばすんだ。疑われても違うと言い続ければ、トキが色々誤魔化してくれればすんだ。でも敵の中に閣下と呼ばれた奴がいた……閣下って分かる? 従三位のことだよ? 警邏隊や、警察とは違うんだ。軍を動かす方の立場にいるんだよ」
「ヒワ?」
「本気になった軍なら、一人の人間から全てを奪える。全てを失うんだぞ? 全てだ! 全て失うってどんなことだか、トキは知らないくせに!」
ヒワの瞳から涙が溢れた。
「ヒワ……何を……」
「僕はもう嫌だ。もう、嫌なんだっ! 今のままでいい。卑怯者でも、意気地なしでも構わない。僕はこのままでいたいんだよ! このまま、トキと僕と、一緒に普通に暮らしたいだけだ!」
ほとんど叫ぶようにそういったヒワは、そのまま乱暴に涙をぬぐった。
「僕はこの件から手を引く。トキも手を引け」
最後は最初と同じ結論で、ヒワは言葉を締めくくった。
全く意味が分からない。ヒワはトキと同じような戦災孤児で、両親を失って瑞山の貧困街へ来たと本人から聞いている。
なのに何故軍のことを知り、そんなに畏れるのだろう。
「そんなこと言われたって、引けねえもんは引けねえし」
小声で呟くと、ヒワを見つめる。
「……これだけ言っても分からないのかよ」
掠れ声でヒワが呻いた。苦痛を抱えた言葉に、微かに苛立つ。
ヒワは何かを隠している。やっぱりあの違和感は、トキの思い込みなどでは無かった。しかもそれは、相棒であるトキに、ずっと秘められていた。
「分からねえよ。そっちこそ、なんでそんなこと知ってるんだよ」
聞くな、聞いてはいけないと思っていたのに、ついそれを口にしてしまった。案の定ヒワは微かに身震いをし、俯いた。
孤児である自分たちは、多少なりとも心の傷を背負っている。だから相手が話さない限り詮索しないのは暗黙の決まり事だった。それをトキは相棒に対して破ってしまった。ヒワの言葉にある真実みに気がついたからだ。
きっとトキと出会う前に、ヒワは軍によって全てを無くしている。
全部知っていると思っていた。自分の相棒のことは何でも分かっているような気でいた。好きな食べ物、嫌いな食べ物、言われると怒ること、少し照れながらも笑うことも。
でも気がついてみると、ヒワのことを何も知らない。過去のことも、これほどにトキの考えを拒絶することも。
「お前が今まで話してくれたお前の過去には、軍なんて一度も出てこなかった。軍人に何かをされたなんて、聞いたことない」
「……詮索しない決まりじゃ無いのか?」
少し高くてかすれた声に問われて、トキは視線を背ける。一度破ってしまった決まりを、また戻すことはできない。
「俺はお前を信頼してた。何かあったら絶対に一緒に動いてくれると思ってた。なのに子供たちを見捨てろって……トビを殺したかもしれない奴をみつけるなってて言うなんて思わなかった!」
「悪いけど、僕はそういう奴だ。そうじゃないって思ってたのは、トキだ」
ヒワは自分の懐から小銭をだし、きっかり自分の注文分の金をおいた。それから数枚の紙をまとめた束を取り出してテーブルにおいた。
「コンビ解消だな。商売道具が必要なときは、注文してくれ。売るよ」
「……ヒワ……」
顔を上げヒワを見ると、ヒワの目が悲しげにトキを見ていた。
「僕は今の生活を守りたいだけなんだ。自分勝手でもなんでも、守りたいだけだ。もう……昔に戻りたくない」
ヒワは立ち上がり背を向けた。やけにその背が小さく感じられ、頼りなげだった。思わず立ち上がるが、止める言葉がない。口を開けばまた言い合いになりそうだった。
入り口に近づいた時、ヒワは振り返らずに呟いた。
「御使い絡みじゃなかったらよかったのに……」
「……え?」
意味の分からない言葉に、戸惑っている内にヒワは店を出て行ってしまった。力が抜けて座り込むと、テーブルの上を見る。そこには所在なげな小銭と、何らかの書類が置かれている。
何気なくそれを開いて愕然とした。
「あいつ……なんで……」
そこには攫われた子供たちの状況と、攫われたと思われる時間、そしてその時に周辺で目撃された不審な人々の情報が事細かに書かれていたのだ。
「ここまで調べてたのに……何で……?」
ヒワはあるところまではこの事件を解決したいと望んでいた。それでここまで調べ上げていたのだろう。でもある瞬間から、この子たちを探すことをやめ、手を引くようにトキに命じた。
一体何故ヒワはここまで調べておいて投げ出し、何を畏れているのだろう。全く分からない相棒の行動に、トキは深く溜息をついた。
ヒワが帰った家に帰るのも躊躇われて、トキは再び座り込み、ヒワの覚え書きに目を通す。ヒワの字は綺麗で読みやすい。トキとは雲泥の差だ。
その中に気になる記述があった。消えた御使いの一人、ベニの話だ。
ベニはトビと同年代の少女だった。彼女は風の御使いで遠見の術を得意としており、家族の生活を守るために故郷から遙か遠く瑞山まで働きに来ている花街の女性たちや、同じような立場の若い軍人たちを多く顧客に持っていた。
彼女の遠見の技は『望郷の夢』と人々に呼ばれていた。懐かしい故郷の姿を遠見で見て、知りたい人の近況を話して聞かせてくれるのだ。
彼女が仕事をしていたのは、花街近くの歓楽街にある酒場だ。酒場の片隅に清楚なドレスを身につけて座り、常に依頼者のために目を閉じて、遠見をする彼女は人形のように美しかった。
その見事な輝きを放つ真っ直ぐな黒髪とふっくらと艶めかしい紅い唇に、よこしまな感情を抱く男は多く、特に若い軍人たちの間では、十四、五歳だというのに犯したい女第一位だったという。
ヒワの覚え書きによると、いなくなった当初はそんな軍人が起こした性目的による行方不明事件だと思われていたらしい。ヒワもその線で彼女の行方を追おうとしていた形跡があった。
ヒワがこの事件を捜査し始めた理由も書かれていた。彼女がいなくなったことで、この酒場が妙な商売を始めてしまうのを阻止するために、ベニを取り戻して欲しいと、子供たちが花街の人間に頼まれていたようだ。
子供たちの裏にトキとヒワがいることを、彼女たちは知っている。おそらくユウオウにも同じことを話しているだろう。ユウオウも花街に顔が利く。
単に性犯罪者を探すつもりのヒワだったが、ここで情報が錯綜し始める。彼女には、強力な護衛がついていたのだ。それは彼女目的でやってくる客を囲い込もうとする酒場が付けた護衛だった。
店側も彼女が性犯罪に遭うことを警戒していたのである。そうなればベニの監視役でもあった手練れの男を倒して彼女にたどり着くのは、不可能なはずだった。
だが彼女は消えた。忽然と、護衛の男と共に。
ヒワの覚え書きにはこうある。
『その男が何者だったのか、酒場の主人に聞く必要がある。だが子供たちでは無理だ。この件を追うならば、トキに頼む必要がある』
「……俺を当てにしてんじゃん」
他の行方不明事件の情報には、先ほどテツたちに聞いたような怪しい奴らも出てこないし、見かけるのは軍人の話ばかりだった。その度にヒワが推測を幾つも書き入れていた。
『軍人が貧困街の子を誘拐? 何のために? 戦争で仕事を無くした人々が軍に詰めかけているから強制的に集める必要はないはずだ。まだ重要な理由が分からない』
理性的に書き込まれていく覚え書きだが、最後の方は調子が変わっていた。
『攫われた子はみな、御使いだった。そして軍が関わっている可能性がある。これ以上立ち入るべきでは無い』
その言葉を最後に、この覚え書きは書き込まれなくなってしまう。そしてヒワが去り際の言葉……。
『御使い絡みじゃなかったらよかったのに……』
御使い絡みじゃなかったら、ヒワは共に子供たちを探してくれたのか。ならば何故ヒワは御使いにこだわるのだろう。
訳が分からないままに覚え書きを閉じて鞄に突っ込んだ。とりあえずできることが一つだけある。
「親父さん、ごちそうさま」
「おう、またこい」
主人の声に背中を押されるように、トキは店を後にした。ただ一つできること、それはヒワがトキに調べさせようとしていたベニのいた酒場に行く事だ。
時計を見ればまだ夜も始まったばかりだ。お楽しみの時間に丁度間に合いそうだった。それにその店はトキもたまに顔を出す店だった。新人や酔っ払った軍人は、トキのペテンにかかることが多く、酔っているためか金払いもよかったのである。
当然トキもベニのことを知ってはいた。だが彼女はいつも客に囲まれていて、ちやほやされており詐欺師のトキには一瞥もしなかった。
トキもお高くとまった女に興味は無い。好きなのはトキを遊ばせてくれる女だけ。それで十分だ。ヒワには母親が恋しくて女と寝るのかと真剣に問われたことがあるのだが、それもこのトキの手当たり次第の性格ゆえだろう。
久しぶりに訪れたその酒場は、今まで以上にいかがわしい雰囲気になっていた。いつもベニがいた辺りにもテーブルが置かれていて、もうベニのいたことなどすっかり忘れられているようだった。
店の主人の下に向かおうとすると、近くで嬌声が上がった。上半身をむき出しにした女が短いスカートのみを身につけ、軍人の膝の上に跨がりはしゃいでいる。軍人もその腰を抱いて、むき出しの女性の乳房を弄んでいた。
ベニがいた頃は、まだ彼女の遠見目当てのまともな客がいたのに、もうまともな客は見当たらない。
「……すさんだなぁ……」
口の中でぼそりと呟く。なるほど、これが花街の人間が心配した理由らしい。確かに行方不明事件とはいえ、こんなことを心配して警邏隊に届けられるわけも無い。だから必然的に詐欺師で便利屋的なトキとヒワの方へ回ってくる。
上流・中流階級が豊かになりつつあっても、下層階級はまだ豊かにはならない。その代わり豊かさと貧困の狭間で、このように人間を売り買いするような商売が多発するらしい。
溜息をつきつつ、トキはカウンターに座った。ヒワの覚え書きにある通り、子供たちを出入りさせるわけにはいかない店になっていた。
「おう、トキじゃねえか」
「おっす、マスター。何だか妙にやらしい店になったじゃん?」
「仕方ねえだろ。ベニがいなくなっちまったんだ。他の店よりも珍しいことをしねえと、この先生き残れねえ」
「この先?」
「そうさ。戦争が終わったら、この業種に参入する奴も少なくなさそうだろ? その時、古くさい店として消える気はねえってことさ」
「ふうん。商売人だね」
「当たり前だろ。稼いでなんぼさ」
「じゃあ俺にも売ってよ、それ」
からかいながらビールを指さすと、マスターは樽に入ったビールをなみなみとグラスに注いでくれた。
受け取りながら振り返ると、先ほどの女が豊かな乳房を出したまま、他の男と踊っていた。よく見るとそんな女が数人いる。彼女らの気を引こうと男たちは必死だ。
「何なの、この状態?」
「花街に行かなくても楽しめる店ってコンセプトさ。みんな平等にいいもんを拝んで楽しめる。おかげで安くすむし、何度でも来たくなる。どうだ?」
「じゃああの女は店の子?」
「そ。花街と違ってしきたり無いからね。すぐ金が手にはいるってんで、喜んでああやって脱いでるよ」
「へぇ……」
「この先、こんな店が増えていくと思うぜ。女だけじゃ無くて、男が下着のみで踊るような店もできるかもな。お前なら裸で女に笑顔振りまきゃ簡単に稼げる時代になるぜ」
「うげ」
顔がいいことには感謝しているが、見世物になるのは嫌だ。
「戦争が終わって、男が軍から帰ってくるし、伴侶が死んだ女もじゃんじゃん働きに来る。街が大きくなる。そうなりゃまどろっこしい花街よりも手軽な方に人と金が流れる。俺たちはそれを読むのさ」
「ふうん」
花街の女性たちの気高さを知っているから、呆れてものが言えない。確かに花街の女性たちも高価な商品であるが、こんな風に下世話に自分を売るなんて何だか空しい。
男も男だ。金を払ってみんなの見世物に成り下がるなんて馬鹿じゃ無いのだろうか。本当にこれが世間の風潮になっていくなら、トキとしては全く面白味を感じられない。
裸の女に惑わされて時間を失うよりも、一対一で人を騙して高揚感を味わいながら時間を使う、ペテンの方がよっぽど健全だ。
「トキもどうだ? 安くしとくぜ」
「いらね。俺は衆人環視じゃ燃えねえもん」
「意外に堅物だな。で、今日は何だ?」
「マスターに聞きたいことがあるんだけどさ。ベニに特に執心だった軍人、知ってる?」
直球で聞くと、マスターは肩をすくめた。
「何だお前もか」
「え?」
「ユウオウさ。同じことを聞いていったぜ。店が開いてそうそうな」
「……へ、へぇ……」
「子供の行方不明を追って、軍部の闇を暴く的な記事を書きたいんだと。ユウオウは軍が嫌いだからな」
「ふうん」
無関心な振りを装ったが、声がうわずった。かなりユウオウに先を越されている。店が開いて早々ということは、ユウオウは新聞社で遭遇してすぐにこの店に来たことになる。
でもユウオウが軍嫌いだとは知らなかった。
「で、なんて答えたの?」
「男の名前と所属部署を教えてやった」
「所属部署までしってんの? 何で?」
「俺が雇った男と同じ部署だったから知ってたんだ。ベニの護衛。知ってるだろ?」
ヒワの覚え書きにあった男だ。そして一番怪しい男でもある。頷きながらマスターの顔を見つめる。
「俺にも教えてくれる? あと護衛の男の話も聞きたいな」
「いいとも。但し、条件がある」
難しい顔をしたマスターに、トキは身を乗り出した。
「何?」
「俺の店が更に流行る方法を一つおいていけ」
「……は?」
「ちなみにユウオウは、女を全裸にして顔を隠せってさ。熱を上げまくった女の顔を知らないなんて、心臓ばくばくだろ? 顔を知るために何度も通って回数を重ねた証明書を渡すんだと」
「……顔を知るために必死に通うってこと?」
「そ。なかなか面白そうだ。身体は凄いのに顔はしけてたりとかすれば、次の女が見たいって思うだろ? で、全員の顔を見るまで通うことがやめられない」
「……へぇ……」
それはもしかして、街でここの女性に会ったとき、相手の男から素性を知られないようにするためでは無いだろうか。
顔を知らなければ、店の外で会ってもその女性だとは気付かれない。何度も通わせるといいながらも、金のない奴はここの払いは何度も払えない。
そして女の顔を見られるほどに金が払える者はそれなりの地位があるから、このような店に勤める女性に店以外で会っても、脅迫や強請などの無体なことをしないだろう。
ユウオウはやっぱり大人だ。花街の女性たちに愛されるだけある。
「トキ、どうする?」
「ううっ、思いつかねえよ……」
ユウオウのように端から見たらいやらしいが、本当は女性を守るためなんて思いつかない。
頭を抱えていると、男がカウンターにやってきた。先ほど女を膝に乗せていた男だ。
「ずいぶん若いのがいるな」
男はそう言って歯を見せた。真っ黒に日焼けしていて、そのくせ歯は真っ白だ。鍛え上げられた身体に、楽しげな表情。典型的な軍人である。
「こいつは賭け事師さ」
マスターに言われて愛想笑いを作る。
「賭け事師ねぇ。戦争が終わったのに、一か八かで生きるのはおすすめしないな」
「はあ」
「まともに生きるのが一番の早道だぞ、青少年」
上半身裸の女と戯れていた男に言われたくない。
「軍へ入れといいたいところだが、今は帰還兵で人数過多だ。残念だがな」
「そうですか」
ユウオウのようなことは思いつかないし、エロ軍人に説教されるし散々だ。溜息をついたとき、軍人が口を開いた。
「そういやあ、マスターが雇ってたあの護衛、覚えてるか?」
「もちろんだ。俺が雇ったんだからな」
思いもよらず、二人の話がそちらに向かった。トキは二人の会話に耳を澄ます。
「あいつが病院で見つかったぜ。何だか廃人だったらしい」
「……廃人?」
「そうだ。あいつの友人だった男に聞いたんだが、この先の太白記念病院にいたんだと。声を掛けても、何をしても反応しないで、ぼーっと一点を見つめてるって話だ」
「ベニはそこにいないのか?」
「さあな。ほらマスター気にしてただろ。まだ給料払ってないが取りに来るかって。あれじゃこれねえよ。あいつの分の給料は、マスターの儲けだな」
「そりゃあいいや」
太白記念病院。
確か軍人の一族が経営している病院だった気がする。軍病院とは違って一般人も受け入れてはいるが、恐ろしく高いのだと聞いたことがある。
「太白記念病院の話? あそこは胡散臭いわよねぇ」
不意に女性の声が割り込んできた。振り返ると先ほどの胸を向き出した女性が平然と煙草を吸いながら立っている。
トキよりも年上だろう。目つきからすれば少なくとも二十五歳は軽く過ぎていそうだ。
顔を観察していようと思ったが、自然と視線が形のいい乳房に引きつけられる。柔らかな白い膨らみに、自然と鼻の下が伸びた。
悲しいかな男の性だ。
「あらぁ。坊やも好き? いいこいいこしてあげちゃう」
唐突に大きな胸に顔を埋められた。暖かくて気持ちがいい。
やっぱこういう店もありかな……と状況を楽しみそうになってから、やっとのところで理性を取り戻した。
「お、お姉さん!」
「気持ちいい?」
「はいっ……じゃなくて、太白記念病院を知ってるの?」
「知ってるわよ。私、あそこで働いてたもの」
「え……?」
思わぬ言葉に呆気にとられる。
「お姉さん、働いてたの? 太白記念病院で?」
「そうよ。うふふ。今は裸の天使だけど、昔は白衣の天使だったの」
妖艶な眼差しに、軍人が大口を開けて笑う。
「俺は裸の天使が好きだぞ」
「ありがとう。あんた最高ね!」
また軍人が大口で笑った。脳みそ溶けてるんじゃねえかと思いつつも、真面目に女性を見つめる。できるだけ胸は見ないようにだ。
「どんな病院なの?」
「変な病院なのよねえ。さっき言ってたみたいな、廃人がとっても多いの。みんな元気なのに何故か入院してきて、何故か最後は廃人よ」
「……みんな?」
「ええ。本当の病気で入ってくる金持ち以外はね。そのくせ給料の払いが悪いのよ。散々こき使われて、金貰えなくて、さっさとやめてやったわ」
「ふうん」
「それから不思議なことがあるわ。夜勤の時ね、地下から音が聞こえるのよ。でも地下室は無いはずなの。階段もどこにも無いんだもの」
「……地下……」
ますます怪しい話だ。ベニが消えた時、共にいた男が病院で見つかった。廃人になって。じゃあベニはどこに消えたんだろう。誰が男を廃人にしたんだろう。
次に調べるのはこの病院だ。何かがあるならそれを探りだそう。
「マスター、このことユウオウは知ってる?」
「こいつが病院で働いてたことも今知ったし、あの野郎が病院にいたのも今知った」
つまり、ユウオウはまだ太白記念病院にたどり着いていないかもしれない。そうと分かれば、ユウオウよりも先に情報を手にするチャンスだ。
「お姉さん、病院って何時から何時まで開いてるの?」
「基本的に朝から夕方ね。でも紹介状がないと中には入れないわよ」
「……そうなの?」
「ええ。そういう病院だもの」
ではまず紹介状を手に入れねばならないだろう。太白病院の経営者一族の誰かをたらし込めば早い。
「マスター、ありがとう。俺もう行くよ」
カウンターに金をおいて立ち上がる。
「待てよトキ。情報料は?」
「情報くれたのマスターじゃ無いじゃん。お姉さんと軍人さんじゃん」
「……そりゃあそうだが……」
渋い顔をしたマスターの目の前で、トキは女性のふくよかな胸に手を伸ばした。そして女性の乳房の上に金貨を一枚載せた。
「情報料ね。ありがとうお姉さん」
「ありがとう。じゃあおまけをあげる」
「え? 何々?」
女性の顔がみるみる近づき、トキの耳元に唇が寄せられた。息が熱くて、胸が押しつけられて気持ちいい。端から見たら怪しく絡んでいるように見えるだろう。
だが女性は囁くように小さく、冷静に言葉を発した。
「太白病院の一人娘は、孤児院の慰問活動をしているわ。紹介状を貰うならそこが一番ガードが甘い」
「え?」
「つまりは世間知らずの馬鹿娘よ。しかも顔がいい男に弱くって、いつも男に惚れては恋文をまき散らしてたの。届けさせられてたのは私」
そう言うと、女は顔を放した。にっこりと微笑む彼女の顔には、真剣な何かがあった。お金のために裸になった気楽な女性では無く、微かに陰を持った女の顔だった。
「何で……」
「若いのに好きねぇ。じゃあね、坊や」
問いかけに答えずに女性はさっさと男たちの群れの中に入っていく。おそらく病院をトキが探ることであの女性にも何らかの利益があるのだろう。
マスターに今度こそ本当に別れを告げ、トキは店を出た。孤児院ならば心当たりはある。『かいなの園』だ。
そこで待ち受け、いつもペテンに掛けるときのように一人娘をたらし込み、病院の紹介状を手に入れるのだ。それしか方法は無い。
とりあえず事前に太白記念病院を張り込めば何かが見つかるかもしれない。早速他の子供たちを使って情報を収集させよう。単独で行動している路上少年たちの知り合いは、今も健在だ。
トキは算段を付けながら帰りづらい自宅に向かった。