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中流家庭が建ち並ぶ地区の外れの一角に、その新聞社はある。
大きな石組みの建物はとてつもなく広い。一見すると関係者以外が入りづらそうな建物だが、建物正面扉は大きく開かれており、沢山の人々の出入りが確認できた。
トキは正面玄関の見える裏通り近くの路地に隠れていた。新聞社の前まで来たものの、堂々と入る気にどうしてもなれない。新聞社は何かと敷居が高い。
見ると新聞記者だろう身なりのしっかりした人々に混じって、労働者やら、普通の露天の女性などがいる。新聞社は情報を売り買いする場所でもあり、中流家庭や貧困街の人間のちょっとした稼ぎの元になっているとも聞いたことがある。
それにひっきりなしに建物の屋上に向かって鳩が飛んできている。最上階には鳩たちが沢山飼われていて、遙東全土からの情報をここでとりまとめているらしい。
鳩の世話は専門の人々以外に孤児たちに回ってくることがあるから、トキそれを知っていた。
特殊なのは屋上だけでは無い。聞いたところに寄ると、この建物の地下には新聞を刷る活版印刷所があるそうだ。
もちろんトキは一度もそこに入ったことはない。印刷所の出入り口は裏道にあり、ここから出入りする労働者は見えない。
ユウオウの口利きで活版印刷工場で働いていた孤児たちもいる。彼らはここに務めた後、中流の生活に慣れたのか、貧困街で姿を見かけなくなる。
きっと当たり前の中流生活を知り、貧困街にいるよりも幸福な居場所をみつけたのだろう。
トキはそんな彼らを羨ましくは思わないが、内心で少し敬遠していた。
勝手な思い込みだが、何となく彼らが金を目当てに不自由を選んだような気がしてしまうのだ。その妙な反発心が、馴染みの店のマスターにたてついたり、ユウオウに噛み付くことに結びついているのだが、その感情をどうにかしようとも思わない。
今が充実していればそれでいい。それの何が悪いのだ。回りには詐欺師でも稼げればいいし、金を持っている奴なら騙してもいいと吹聴しているし、自分でもそう信じている。
それなら何故自分の足が建物内部に向かないかというと、新聞社のように正義を掲げて社会に向かっている人々には腰が退けてしまうからなのだ。
自分で稼いでいるし誰にも文句を言わせるかと思ってみても、その仕事を一生続けていく覚悟も、仕事に対する誇りも無い。毎日を楽しく笑って過ごせればいい、その信条を守っているのに、何故か心苦しい。
だからここで唯一顔見知りのユウオウを待ちぶせし、建物に入らずに話を聞こうとしているのだ。
その段階ですでに気持ちが負けているのは分かっているが、気がつかなかった振りをして一人白い息を吐き出した。
溜息交じりに両手をこすり合わせる。活動を始めたのが昼過ぎていたから、情報を集めてここに来たのは夕方だった。それからユウオウを待ち続け、今はもう日も落ちている。
いつもならこの時間に酒場にいて今日の得物を品定めしていることだ。でも今日はどうしてもそんな気分にならない。友達の危機を寝坊して救えなかったことが、思った以上に身に染みている。
ユウオウはもう帰ってこないのだろうか。それともずっと建物の中にいるんだろうか。どうせ朝は仕事もできないし、明日また来て張ればユウオウに聞けるだろうか。
そう思っていたら、大通りの向こう側から見慣れた男が歩いてくるのが見えた。ロングコートに中折れ帽子の洒落た男がユウオウだ。
悠々と歩いてくるユウオウが建物のエントランスに足を掛けた瞬間、トキはたった今来たばかりのように余裕を持って声を掛けた。
「ユウオウ」
振り返ったユウオウの口には、煙草がくわえられている。煙を吐き出しながらじろりと一瞥されて、トキはたじろいだ。言葉にしなくてもユウオウの目は雄弁にトキを馬鹿にしているのが分かったのだ。
だがこれで引き下がったら情報が取れない。心の中の微かな苛立ちを隠して、笑みを浮かべながら歩み寄る。
「丁度聞きたいことがあってさ。いやあ、偶然会えてよか……」
「何時間待ってんだ」
「は? 何時間とか待ってねえし」
「ほう……鼻の頭を紅くして手をこすり合わせているくせによく言うな」
蔑むような言葉に、うっかり鼻を押さえると、ユウオウにせせら笑われた。
「やっぱり待ち伏せか」
「ち、違う!」
「慌てて隠すほど、見られたくないってことだ。長い時間待っていたことを知られたくないから俺が証拠に挙げた鼻を隠す」
「あっ!」
鼻を隠していた手をポケットに突っ込むが、やってしまったことを、今更引っ込められない。焦るトキの頭上から、冷静沈着なユウオウの声が振ってきた。
「単純すぎて話す気にもなれん」
悔しくてうつむき唇を噛む。詐欺師として色々身につけて生きたはずなのに、何故こうもユウオウにはかなわないのだろう。だがこのまま引き下がりたくない。
顔を上げるとトキのことなどすでに無かったように、平然と建物に入っていくユウオウの背中が見えた。慌ててユウオウの後を追う。
扉の中は、外から見るよりも大勢の人でごった返していた。
立ち並ぶ沢山の受付台にはきちんとした服装の若い男女が座り、低く壁のように内外を分ける受付台越しに人々と向き合っている。
そこに向かって大声で怒鳴る人々、中央におかれた沢山の椅子やソファーで声高に話し合う人々、ひそひそと話す人人々、受付台に向かって泣きながら何かを訴えている人、様々な人々がいる。
この人々みんなが用があるのだから、新聞社は忙しいところだ。人々に目をやった間に、ユウオウが人の間を縫って奥へと進んで行ってしまう。
「ユウオウ」
小さな声などかき消されて、少し前を行くユウオウにも届きそうに無い。だから少し声を大きくした。
「待てよ、ユウオウ! ユウオウ!」
「ユウオウ様だろ」
振り返るでもなく、足早になるでもなく悠々と歩くユウオウを追う。ユウオウは背が高い分足が長くて早足でないと追いつかない。しかもこれだけ混んでいても、ものの見事に人にぶつからないのだ。
「ユウオウ、あのさあ……」
人を避けながら声を掛けると、振り返るでもなくユウオウが言葉を投げつけてきた。
「情報は自分で集めるんじゃ無かったか?」
「あ、うん、そう言ったけど……」
「まさか舌の根が乾かぬうちに、もう俺を頼ってきてるんじゃ無いだろうな」
「……別に……そんなんじゃ……」
その通りだったから、言い返す言葉が無い。
「啖呵を切っておいて、どの面下げて数時間で俺の所に来るんだ? お前に自尊心ってものはないのか?」
情けない事実を突きつけられて、トキは足を止めユウオウを睨み付ける。
大体最初にいっておいてくれないユウオウが悪い。最初に彼らを助けたといってくれれば、素直に協力を求めたのに。
苛立ちをそのままユウオウにぶつけた。
「ユウオウがトビたちを助けたなんて知らなかったんだから、仕方ないじゃんか!」
その場にいた人々の会話が一瞬だけ止まり、何事も無かったかのようにまた再開される。でも何人かはこちらを伺っていることは分かった。注目を浴びたことに焦るが、ユウオウは全く動じない。
「今度は逆上してるのか。本当にお前は救いようのない馬鹿だな」
「俺は馬鹿じゃない!」
「馬鹿だろうが。何故お前はあの場で俺に聞かなかった?」
「え……?」
「ガキ共に何があったか知らないかと、どうして俺に聞かなかった?」
「それは……」
確かにそうだった。あの場で聞くことはできたはずだ。でも意地を張って自分で探すと言い切った。
「お前は俺が何か知ってるかと聞いた時、何かを隠した。どうせ身勝手な理由だろうよ」
「違うっ! あの時は……っ」
ハッと気がついた。御使いが消えている。そのことで相談を受けたことをユウオウに知られたくなくて黙った。
あの時それを打ち明けて情報を貰っていれば、何かが変わったかもしれないのに、トキはユウオウに対し自らの優位性を捨てたくなくてそれを隠した。
子供たちのことを心配しているはずなのに、自分のことだけしか考えていなかった。
それに気がついた瞬間、トキは言葉を失った。追い打ちを掛けるようにユウオウの声がトキをせせら笑う。
「あいつらの周辺を調べた。どうやら御使いが消えているようだな。お前が隠したのはそれだろう? まあ、あの状態じゃ、お前はそれ以外何も知らないだろうがな」
その通りだ。他に何も調べることができなかった。情報を聞きたくとも、トビと共にトキやヒワの情報源になってくれていた子供たちの大半が今回の襲撃で姿を消している。
「自分で調べると豪語したんだ、自分で当たれ。俺は知らん」
ユウオウの目は、いつも以上に冷たくて身動きが取れなくなる。小さな情報を自分の自尊心を守るためだけに隠したトキの心の狭さを見透かされている気がした。
「新聞社は、お前のようなペテン師がいる場所じゃねえ。とっとと帰れ」
きびすを返したユウオウは目の前から消え、トキは一人人々でごった返すエントランスホールに取り残された。
「畜生……」
悪態をついたはずが、妙に自分の声に力が無い。その時だった。突然誰かに腕を掴まれたのだ。ハッとして振り向くと、知らない男がいた。
「……誰?」
見覚えの無い男にじっと凝視しされ、微かにのけぞる。だが男の視線はトキを捕らえたままだ。居心地が悪くて後ずさりたいのに、男の力は思った以上に強くて振り払えない。
「何か用?」
逃げることを諦めてぶっきらぼうに尋ねると、男の目が執拗に自分の顔を見ているのが分かった。気味が悪くなって手をふりほどこうとすると、不意に聞かれた。
「お前、あの店にいただろ?」
「あの店?」
「あの店だ『宵霞』って店」
古ぼけた上下のスーツに、くしゃりと型の崩れた山高帽。やせぎすの身体に、興味で輝く瞳。どこかで見た事がある。
「忘れたとは言わせんぞ! 散々私から金を奪っていったではないか!」
「あ……」
昨日カモにした客だった。客の顔は覚えていて自然に避けることを身につけていたというのに、今日は動揺のあまり気がつかなかった。
「あ、昨日の……」
しまった。素面の客と再会してしまうほどまずいことは無い。酒が入った上での賭け事だから、上手くいくことが多いのだから。
「昨日はどうも」
昨夜と同じように、満面に笑みを浮かべて軽く挨拶したが、男の手は離れない。
「やはりあれはペテンだな!」
「違う違う、運でしょ?」
「いや、あの記者がお前をペテン師だと言ったじゃないか!」
「だから、違うってば。運ってあるじゃん? ねぇ?」
いつの間にかまた人々に注目されている。しかもさっきと違って少々蔑んだ目でだ。このままではまずいことになりそうだ。警邏隊を呼ばれたりしたら、目も当てられない。
そもそも『宵霞』のマスターは昔検挙されたことがある詐欺師だ。そこでトキが詐欺を働いた事がばれれば、トキだけで無くマスターやサクラの爺さんにまで影響が及ぶ。
ここはトキの踏ん張りどころだ。詐欺師として喰っているのだから、完璧に演じて見せてこそ男というものだろう。
掴まれたままトキはわざとらしく小さく溜息をつき、空いている手で髪を掻き上げながら周りの人々に笑顔を浮かべて見せた。
注目を集めたところで軽く肩をすくめる。目が合った幾人かに目を細めて微笑み返すと、微笑み返された。誤解されて困った好青年に見えるように、完璧に表情を取り繕う。
「あんただって見たろ。あれのどこに不正があるのさ? 俺はカード切っただけだし、選んだのはあんたじゃん」
「選ばされたに決まっている! 何か種があるだろう!」
「ないない」
「カードを見せろ! 何らかの仕掛けがあるはずだ」
「持ってないよ。今日はここに野暮用があっただけだしね」
余裕の笑みを浮かべると、男は余計いきり立った。
「私が何故あんなに負けるのか、理解できん!」
「だから運だよ。暁の女神様のご機嫌があんたじゃ無くて俺向きによかったのさ」
「そんなわけあるまい! そうだ、我が社に用があったと言ったな! では私の部屋に来い!」
「え……」
男は山高帽を受付に投げ込んだ。受け取った若い男が、溜息交じりに男を見遣る。
「オイタケ社主、何するんですか」
「この若造の化けの皮をはいで、金を巻き上げたのはペテンだったと認めさせてやる」
「はぁ?」
表情では完璧にあきれかえったように見せつつ、内心トキは混乱状態にあった。
新聞社の社主? それはつまり、この新聞社の持ち主と言うことになる。つまりユウオウの上司に当たる人物だ。
ユウオウに知られたら黙って見逃してくれそうに無い。きっとトキが詐欺師だとあっさり知らせてしまうだろう。特に今、ユウオウはトキを蔑んでいる、助けてくれる見込みは皆無だ。
「困ったなあ。俺、忙しいんだけど」
笑いながら髪を掻いたが、男の手は離れそうに無い。
「すみません。この人何とかしてくださいよ」
山高帽を受け取った男に、困り切った表情で頼むと、男は苦笑した。
「誤解でしょうけど、付き合ってくださいよ。言い出したら聞かない人なので」
「え……?」
「やましいことが無ければ、お茶ぐらいいいでしょう? 出しますよ、緑茶」
「は、はぁ、緑茶ですか……」
いよいよ持って進退窮まった。ユウオウによって自分の身勝手を突きつけられ、寄りによってユウオウの勤める新聞社の上司をカモってしまった。部屋まで連れて行かれれば間違いなく警邏隊送りだ。
「さあさあ、部屋に行こうでは無いか。白黒ハッキリ付けよう」
「え、ちょ、ちょっと! 困るってば」
「いいじゃ無いか」
意外と強い力で手を引かれ、焦っていると不意に声が割って入った。
「すみません」
消え入りそうだが聞き覚えのある声に振り返ると、そこに見慣れた顔があった。ヒワだった。まさに救いの神だ。口元までその名が出かかったが、グッと堪える。
外出する時は目深にかぶった濃茶でてっぺんの丸い羊毛の山高帽。そして首まで隠れるセーターに山高帽と同じ色のダッフルコート。とどめに深緑のマフラーまで巻いている。家の中にいる時以上のモコモコッぷりだ。
「すいません」
俯いたままの掠れた声にコートを引かれたオイタケは、声の主に不機嫌むき出して振り返る。
「ん? なんだね、君は?」
「財布を落とされませんでしたか?」
「財布を?」
慌てて尻のポケットに手をやったオイタケが、すぐに顔を上げる。
「ない」
「拾いました。どうぞ」
ヒワが差しだしたのは、使い込まれた革の財布だった。おずおずと両手で丁寧に差し出したヒワに、オイタケは目を見開くと、それをありがたそうに両手で受け取り、真剣に中を改め始めた。
そのチャンスを逃すことは無い。トキはそっと人混みに紛れて移動する。
トキとオイタケのやりとりを見ていた年かさの女性が一人、トキを手招きしてくれた。その顔を見て安堵の息をつく。五十代の彼女は、トキがたまに利用する酒場の女主人だ。顔なじみが偶然見ていたらしい。
「トキ、ずいぶんドジ踏んだじゃ無いの」
「うん」
「ユウオウとやり合うからよ」
やはり見られていたらしい。
「ユウオウの味方?」
「違うわ。私は可愛いトキが好きよ」
「本当? 嬉しいな」
トキは女性の両頬に順繰り口づける。白粉の香りがふんわり甘い。
「庇ってくれるよね、ツツジ」
「またそうやって甘えて。本当に女泣かせだこと」
そう言いながらもツツジは笑みを絶やさない。こうやって可愛がってくれる酒場の人々があってこそのトキの商売だ。
「貸し一つよ」
「うん。なんでもする。肩もみ、食事のお供、ツツジの夜のお相手も」
「嘘おっしゃい」
「本当だよ。俺、女の人はみんな好きだし」
「あらあら。うちの若い子たちに睨まれちゃうわ」
冗談を言いつつも、ツツジはトキを背に庇う。ヒワとオイタケの様子を窺うと、何だか穏やかに会話をしている。といってもヒワの言葉は、いつも以上に緊張でうわずっていて、いつも通りいまいち抑揚は無い。
「いい財布ですね。この辺では見かけないです」
「そうかね? 実はこれは戦前に輸入された西部三国の品でね」
「そうなんですか」
こちらを見たヒワと目が合った。そろそろ人と話すのが限界という顔だ。だから軽く頷き返す。するとヒワは目の前の男に微かに心配そうな表情で問いかけた。
「大切な財布を落とされるなんて、何か、気を取られることでも?」
「すまないね。ありがとう。いやいや、このペテン師のことに気を取られて、全く気がつかなかった」
「ペテン師、ですか?」
「そうだ。ここに……」
振り返ったオイタケの前に、腕を組んだツツジがたっていた。トキはその後ろに隠れている。
「おや、ペテン師は……」
「あんたかい? あたしの息子をペテン師呼ばわりしてる奴は!」
突然現れた女に掴みかかられたオイタケは、愕然とツツジを見つめる。
ツツジは大柄で、それ故に迫力がものすごい。女手一つで貧困街から身を起こし、この中流の地区に構えた店を守ってきたのだから当たり前だ。
「は……?」
「場合に寄っちゃ許さないからね!」
あまりのツツジの勢いに、オイタケは慌てたように首を振る。
「いや、そちらのご子息とは……」
「ふざけるんじゃ無いわよ! この子をどうしようってのさ!」
つるし上げられるんじゃ無いかというぐらいの迫力に、オイタケは顔を青くした。中肉中背の男と大柄なツツジでは、圧倒的にオイタケが不利そうだ。
「申し訳ない、勘違いのようです」
ついにそういったオイタケに、ツツジは満足そうに頷いた。
「そうでしょ。行くわよ」
「はい」
ツツジに従い、トキはそそくさと新聞社を後にしいた。あの男が社主で、これだけの騒ぎを起こしたのだから、もう情報収集に新聞社には来られない。
少し歩き、新聞社から離れたところで、ようやくトキは一息ついた。その一息にはがっかりの溜息のせいぶんもいくらか含まれている。
情報の出所が無くなってしまった。ユウオウにもう一度頼むことすらも封じられてしまった。溜息をつきながら頭を掻く。すると肩を力強く叩かれた。
「ツツジ……」
「何落ち込んでるの。トキには似合わないわ。堂々と胸を張ってないと、その商売道具のいい顔が台無しよ」
ツツジはそういってトキを抱きしめ、頬にキスをしてくれた。暖かな感触に、少し癒される。自分に好意を持ってくれる女性は年齢関係なくみんな好きだ。
いつの間にか付いてきていたヒワはそうでも無いらしく、無理矢理抱きしめられて頬に口づけられてもがいている。ヒワは潔癖症で、いくら誘っても女遊びをするような所に顔を出さない。
「じゃあね、トキ」
「ありがとうツツジ。愛してる」
投げキッスをすると、ツツジは口を開けて笑った。
「ばっかねぇ、あんたは。それからヒワ、たまには顔を出しなさい」
「……玩具にされるから嫌だ」
「本当に対照的な子たちね」
笑みを浮かべてきびすを返したツツジは、振り向きもせず颯爽と去って行く。後ろ姿を見送っていると、ツツジの口紅の跡をハンカチで拭きながらヒワが不機嫌そうに呟いた。
「嫌じゃ無いのかよ、トキ」
「俺は下は十六歳から上は六十まで許容範囲」
「節操なし」
「うるせえよ。お前は許容範囲狭そうだな、潔癖」
「そっちこそうるさい」
機嫌を更に損ねたのか、ヒワが足早に歩き出した。慌てて後を追う。
「ヒワ」
「何」
「今回の件に関わらないんじゃ無かったのかよ」
足早なヒワに追いつくと、のんびりと横に並ぶ。ヒワは身長が低く、トキの首辺りまでしか無い。しかも大半家にいて痩せているから、普通に歩けば事足りる。
「関わりたくないね」
「じゃあ何でだよ」
「偶然通りかかった」
「偶然新聞社の中を? しかもあの社主の財布を偶然摺るのか?」
「……」
先ほどヒワが現れた時、ヒワが財布を拾ったのは嘘だ。ヒワはトキからオイタケの目をそらすために、財布を摺ったのだ。でなくては偶然財布がヒワの前に落ちるわけが無い。
それに人見知りで表に出ないヒワが、人と世間話をするのは、大体誰かと組んで財布をするときの常套手段だ。昔は世間話をするのがトキの役割で、摺るのはヒワだった。
「ヒワ」
「……言いたくない」
「は? 言えよ?」
「嫌だ」
頑なな拒否に怒るよりも戸惑った。ヒワはトキを助けてくれたのだ。なのに何故それを隠す必要があるのだろう。それにオイタケに絡まれたとき、ヒワはどこにいたのだろう。
「俺疑問がいくつかあるんだけど……」
「はい、これ」
戸惑うトキの目の前に紙が突きつけられた。走り書きのような文字が書かれている。
「何だよ」
「やるよ」
「何これ?」
「オイタケって人の財布から摺った。これって子供たちが収容された施設の名前だと思う」
「……ホント?」
「ああ。インクがまだ完全に乾いていなかった。それはここ数時間以内に書かれたってことだろ? 今日、この街で孤児の襲撃事件しか起きていないし、その上で孤児院の住所を走り書きしたメモがある」
「つまり、今日の事件に関係する孤児院の可能性が高い?」
「そういうこと」
戦災孤児たちの収容施設は、少なくない数がある。その一つ一つを尋ねたところで、トキに詳しいことなど教えてくれるところは無いだろう。きっと怪しい人物として追い払われるに違いない。
でも施設さえ分かれば、彼らとの接触は何らかの手段で可能だろう。助けを求めてきていたのは、彼らの方だ。
「うわぁ、愛してるぜヒワ!」
「……本当に単純」
「本気の本気で助かった! 手詰まりになるかと思ったんだ」
「別に偶然だし。摺ったと気付かれる前に行かないか?」
「ヒワ、すっげぇ助かる! やっぱお前最高だ! やっぱ最高の相棒だ!」
関わるのに不本意そうなヒワを、トキは思い切り抱きしめた。ふわふわモコモコでどこに中身があるのか分からないほどだが、それでも暖かい。案の定ヒワには思い切り顔をしかめられた。
「鬱陶しい……」
呆れ果てたという溜息をつかれたが、この際は気にしない。
「行こうぜ、ヒワ」
「……付き合うのはこれだけだからな」
「これだけでも助かる!」
気乗りしないヒワを引きずり、トキは紙に書かれた施設『かいなの園』を目指した。