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<3>

 翌日、トキはいつものように昨夜の残り物を冷たいまま腹に詰め込み、ヒワに声も掛けずに昼過ぎに家を出た。思い切りトビの読み通りになってしまったのは悔しいが仕方ない。

 ヒワの表情が気になってなかなか寝付けず、そのくせ眠ってしまえば目が覚めずで、いつも通りの時間になってしまったのだ。

 後ろ手に扉を閉めてから、トキは大きく溜息をついた。家の中に漂う、いつもと同じようで全く違う妙な違和感から解放された気分になったのだ。

 ヒワは昨夜も遅くまで作業をしていたようで、こんな時間でも起きて来なかった。それはいつも通りのことであるはずなのに、何故か少し戸惑ってしまう。昨日の違和感が尾を引いていたせいだろうか。

 そういえばヒワがトキと一緒にいる時間すらも避けるようになってきたのはいつからだっただろう。ごく自然に始まり、それが当たり前になってきていて疑問を覚えることも無かったけれど、昔はもっと色々と話をした気がする。

 最近ちゃんと面と向かって話したことはあっただろうか? 気がつくと相棒が何を考えているのか分からなくなっているような気がする。

 その距離感ゆえか一番分かっているはずのヒワの中にトキの知らない秘密あると気がついてしまった。ヒワはトキに何か大事なことを隠している。

 もう長い間相棒として一緒にいるトキにすら打ち明けられないことなのだろうか。心当たりはまるで無いからこそ、気持ちの持って行き場に困る。

 気がつくと暗くなりそうな気分の自分に、トキは頭を振る。このまま気持ちを切り替えずに子供たちに会いに行ったりしたら、子供たちに何があったのかを根掘り葉掘り聞かれてしまう。

「考えんのは、あとあと」

 小さく呟くと、トキは両手で頬を強く叩いた。大きく音がして気合いが入る。

 ペテンで生活を支えている以上、休みはそうそう長く取れる訳では無い。数日で干上がってしまう商売だから、なるべく早くトビのいう事件を捜査してしまいたいのが本音だ。

 ならばヒワのことはまた家に帰ってきてから考えるとして、今は情報収集に専念するべきだろう。そもそもヒワがへそを曲げることは珍しくない。

 今回はそれに少しの暗さが混じっていたから気になっただけだ。それだってもしかしたらつまらない理由があったのかもしれない。

 足を使って稼ぐのはトキ、家で頭を使うのはヒワ。いつもの分担は単純だ。いくらこの事件に関わりたくないヒワだって、情報の分析ぐらいしてくれるに違いない。トキはいつも通り情報を片っ端から集めてくればいいのだ。

 今は難しい事を考えない。いつも通りならば全部上手くいく。トキとヒワのコンビで上手くいかなかったことなんてそうはない。

 そうと決まれば気持ちも軽くなる。

 薄暗いアパルトメントを出て、煤けたように汚れた貧困街を歩く。ネーソスからの砲撃を免れたとはいえ、国全体が戦争の痛手から立ち直っていないせいか、全体的な復興は遅れ気味だ。

 この国には巨大な採石場と採土場があり、煉瓦と石組みで作られた家が多い。そのおかげなのか、これだけうらぶれていても、家の中にさえいれば凍死することはない。

 だがあちらこちらの漆喰は禿げ、下地である煉瓦が覗いている。富裕層の住む最上部から昼間に見るこの界隈はうらぶれて寂しい印象だ。

 そのせいだろうか。深夜の雑多な明かりが灯る微かな橙色の光の中の方が、街を幻想的に美しく彩ってくれるのだ。夜に属する住人であるトキは、それをよく知っている。

 闇は全てを侵す恐ろしいもののようにいわれるが、時折こうしてすさんだ世界を優しく隠してくれる優しいものでもある。

 ふと子供たちの声に目をやると、昼の住人たちの姿が見えた。この中でも生活している人々は沢山いる。

 路地から両脇に迫る古びた家々を見上げると、ロープが大量に張り巡らされ、一体どれだけ長い間着ているんだというぐらい古びた洗濯物がはためいている。

 その下をすり切れた服の子供たちも沢山駆け巡っている。この子供たちはトキたち孤児とは違い、親と共に貧民街に暮らす昼の子供たちだ。

 足下に転がってきたボールを蹴り返してやると、子供たちは礼を言って掛け去って行く。

「子供は元気だねぇ」

 つい最近まで子供だったが、ふとそんな言葉が口から漏れた。そういえばもう成人したから大人なのだ。この国では成人は一八歳だ。成人した日、珍しくあの宵霞のマスターが、ただで酒を出してくれたことを思い出す。

 それと同時にマスターに職に就くように諭されたことまで思い出してしまい首を振る。

 今まで通りで大丈夫。何も不安なんて無いはずだ。物心ついた頃から路上で生活してきたし、今は家だってある。立派に生活しているのだから、何も不安になることは無い。

「ちぇっ、つまんねえこと思い出しちまった」

 小さく悪態をつきながら足を動かす。途中の屋台で新聞を購入し、一緒に購入したオレンジジュースに口を付けながら目を通した。男の二人暮らしで野菜がどうしても不足するから、朝はとりあえずジュースを飲むことにしている。

 冬の大気と同じ温度に冷やされたオレンジの果汁が、喉を滑り落ちていくのは心地がいい。身体にいいことをしているという満足感に浸れる。

「儲け話でも書いてあるか坊主」

 通りがかった顔見知りの浮浪者に問いかけられて肩をすくめる。

「特にないね」

「そりゃ残念だ」

 去って行く浮浪者から新聞に視線を戻す。

 遙東は今、平和だ。女皇様もしばらく戦争をしないと宣言したらしいし、西部の三国が色々動いているらしいから、しばらくネーソスとの戦争も無いだろう。

 遙東皇国が最近まで戦争していた国は、ネーソスという。ネーソス王国は最も大きい王都の島を含む大小様々なネーソス諸島全てを傘下に治める中小規模の王国である。

 海上国境だけを見るならば遙かに大きい支配地域を持っているが、遙東の島に比べると、全ての島の規模が小さく、さして戦力に差は無い。

 だからこそ彼らは、鉱物資源のある遙東皇国を狙うのだ。

 この世界ではネーソスの先にある、三つの巨大な国家がほとんどの島々を支配しつつ存在している。当然ながら自主独立を守っている島もあるにはあるが、その島々だってどこかの国寄りにならざるを得ないのが、この常識だ。

 各国とも人の住まない新たな島々を発見して自国の領土にすることに忙しく、ネーソスより西は常に諍いが絶えないのだと聞く。遙東でさえもネーソスと反対側、国家から東側に島を探すことには力を入れている。

 ありがたいことに遙東から東に国家は無く、しかも海洋上の難所があり西部三国が攻めてくることも今まで無かった。遙東はネーソスのみを気にしていればいいため、戦争は少ない方だといっていいだろう。

 西部三国があるおかげで、遙東とネーソスの戦争があまり長期化しないのはありがたい。ネーソスはいつも両側からの敵に怯え、軍事力ばかりを上げているそうで、生活はきっと遙東よりも窮屈だろう。

 この世界は陸地と言えば島しか無い、巨大な海洋世界だ。全ての国家が小さな島々を従えている。

 大陸と呼べるような広い陸地は、伝説上の暁の女神大陸しかないが、今まで現実に大陸を者を見た人はいない。そもそも伝説はあくまでも伝説だ。大陸なんて存在すらも想像上の産物でしかない。

 昔、人類の全ては女神の大陸に住んでおり、罪を犯して女神の大陸を追われたと言われるが、トキはそんなこと信じていない。

 昔酔っ払いが『罪人だから戦争ばっかしてるんだよ』ともっともらしく語っているのを見た時には、なるほどと納得しかけたが。 

 トキは空を見上げた。みすぼらしい街の壁に囲まれているが、空はそれでも青く澄み綺麗だった。空に向かって吐く息が、雲のように白い。

「さみっ」

 手袋越しに手をこすり合わせながら、いつもトビが根城にしている市場の片隅の袋小路を目指す。

 新聞はそこら辺に寝ていた男にやった。こうして金を持っている者が、持っていない者に施すのは当然のことだ。

 市場では市街地には無いような壊れた家財道具や、少々鮮度の落ちた食料が山積みされていた。この辺りではそれが当たり前だ。だが値段は市街地に比べて格段に安い。

 トキは果物屋の店先で林檎を一袋買って、それを抱えて歩く。腐りかけであっても、トビと共に暮らし、トキとヒワが面倒を見ている大量の子供たちにとってはご馳走だ。

 一つだけ林檎を取り出し、コートで皮をこすってかぶりつく。よく冷えた完熟の果実から果汁が口の中いっぱいに溢れる。思った以上にいい物だったようだ。

 活気に満ちた市場を林檎片手に歩くと、この街の復興具合が分かる。いつの間にか人はかなり増えてきていた。きっと軍隊に出ていた人が戻っているのだろう。その分、浮浪者も増えた気がするのは気のせいだろうか。

 あまりに浮浪者や孤児たちが増えると、色々な下働きが取り合いになり、喧嘩が起きるから望ましくは無い。

 市場が途切れてきて店が少なくなっていく辺りで、薄暗くて細い道が現れる。日も差さないこの路地にあるのは、いくつかのごみ箱や、空の木箱ぐらいだ。何も知らない人ならば、入る気など一瞬でも起こらないだろう。

 だがトキはその裏路地に足を向けた。細く暗い路地で、置かれた荷物やらごみ箱を避けながら身体を左右に揺らして奥へと進んでいく。

 この通りを曲がった先に、開発の際に取り残されてしまったのか、少し広めの袋小路がある。ようやく路地を抜けると、ほんの少しだけ日の差す路地に出た。

 いつもならそこに置かれた麻袋と荷物に紛れるように子供たちがいるはずだ。 

「トビ、ガキ共いるか?」

 声を掛けたものの、すぐに違和感を感じた。いつもなら飛び出してくるはずの子供たちの声がしない。

 大人から金を巻き上げるのも、スリや客引きに行くのも、夜が圧倒的に多いはずなのに、こんな時間から稼ぎに行っているんだろうか?

 林檎を抱えたまま、トキは路地をゆっくりと進んでいく。全身から危険を知らせる不穏な空気を感じ取る。でも確かめずに去ることもできなかった。

 ここに居るはずなのは、トキのいわば仲間たちなのだから。

「おい、トビ?」

 路地の最奥にある古びた小屋を覗き込む。子供たちが木箱を使って作り上げた、出来がいいとは言えない小屋だ。

 いつもは子供たちが寝られるようにとまとめておかれている古ぼけた毛布や、それを詰めた木箱などがトビの指示で整然と並んでいるのに、今日はバラバラに散らばっていた。

 危険だ。やはりここから退いた方がいい。自分の本能がそう言うが、彼らを探すことをやめられない。

「……誰か、いねえのか?」

 もしかしたら大人の浮浪者に何かをされたのだろうか? それとも貧困街を根城にする裏社会の奴らか?

 いや、裏社会の奴らは金を巻き上げることはあっても、表だって子供たちに何かをすることなどない。彼らにとっても路上生活少年たちは、少ない金で使える便利な手駒でもあるのだから。

「おい、トビ。どこにいるんだよ」

 声を掛けながら歩くと、小屋を出てすぐの所に何か液体が零れた跡があることに気がついた。まだ乾ききっていない。胸騒ぎを感じつつ、しゃがみ込んで零れた液体に触れる。

 赤黒くぬるりとした感触、鉄くさい臭い。間違いなく血液だった。

「何で……血が?」

 立ち上がると、地面に広がる血の染みは、かなり大きいことに初めて気がついた。大量の血を流したせいで、地面にしみこめなかった血が血だまりを作っている。

 背筋を恐怖が這い上ってきた。これだけの出血になるとおそらくこの血を流した人物は助からない。

「トビ! どこにいる!」

 弾かれたように立ち上がり、トキは叫んだ。

 不安が両腕を粟立たせた。焦りが視界を狭めていく。目の前に見えるのは、血だまりと崩れた荷物だけだ。

 ここで何があったのか、どうしたらいいのか、頭がちっとも働かない。街中で死体を見るなんてこと、戦争中ならままあったが、仲間の死体を見るようなことはごめんだ。

「トビ! ガキ共!」

 彼らを呼ぶことしかトキにはできない。情けないが思考が完全に止まってしまう。

 その時、目の前に本当に唐突に大きな人影が現れた。

 逃げなくては……殺される……。

 瞬時に判断し逃げ出そうとしたが、足が思うように動かず遅れた。態勢を整えられないままのトキは、伸びてきた腕に絡め取られていた。

 厚手のコートの感触と、的確に呼吸を止めにくる腕に必死で抗う。ここにある血だまりみたいなことになっては堪らない。

 両手で力の限り、喉元を締め上げている手を引きはがした。

 抱える力を失い、買ったばかりの林檎が袋ごと地面に滑り落ちた。それは床に弾けて落ち、暗い地面に場違いな紅色を捲くように転がっていく。

 あの血だまりのように。

「何すんだよ!」

 腕から逃れると、苦しかった肺に空気をいっぱい入れて反撃する。敵を見据えて放った蹴りが空を切った。

「ちっ!」

 舌打ちしてからトキは突きを繰り出した。だが腕はあっさりと男に掴まれ、身体ごと捻られる。脳天まで突き抜けるような痛みが襲ってきたが、弱みを見せたら余計不利になる。

「放せっ!」

 絞り出すように叫び、もがくが顔も見えない人影はトキの力を持ってしても全く緩むことは無い。その上、先ほどから全く言葉を発しない。

 その力の強さは、普通の大人とは違う。今までの護身術では全く歯が立たず、焦るトキを羽交い締めにして、男は容赦なく乱れた小屋の中に引きずり込む。

「てめえっ!」

 相手が一言も話さないのが怖い。もしかしたら、気の触れた帰還兵だったらどうしよう。軍人だったら、トキなどが太刀打ちできるわけが無い。

 トキの中に恐怖感がじわじわとわき上がる。しかもここは人目が離れた路地裏だ。子供たちがいないのなら、トキが殺されたって、誰にも気がついて貰えない。

 何があったのか分からないが、あの血だまりを残して消えたトビたちのような目に遭う。

「放せっ! 放しやがれ!」

 必死で抵抗していると、後ろにかなりの重さがかかり、気がつくと地面に叩き付けられていた。上からの重さと、じわじわと感じる痛み、冷えた板の感触に、自分が床に組み伏せられたことを知る。

 頬がささくれだった板に押しつけられて摺れてじりじりと痛みを訴える。

 頭は固い地面に押さえつけられ、上に持ち上げることを許されず、利き手は身動き出来ぬように背中に回される。

 完全にトキの負けだ。このままでは本当に殺される。

「痛えよ! 何しやがるんだ!」

 怯えていることを知られたくなくて、抵抗しながら悪態をつくと、背中に回された利き手をきつく押さえられる。

「ううっ!」

 容赦ない相手の攻撃に、ついに痛みのあまり呻き声を上げた。この男、トキの実力とは桁違いに強い。このまま殺されるのか。

 とんでもない。これからもっと日々をおもしろおかしく暮らすつもりだったのに。それにヒワ。トキがいないと飢え死にする。あの社会不適合者を放って死ぬわけにはいかない。

 痛みと悔しさで、視界が涙ににじむ。恐怖が絶望に変わりかけてきたその時だった。

「お前こそ何してるんだ、ペテン小僧」

 締め上げる力を緩めもせずに、トキを押さえつけている男が問いかけてきた。このような状況なのに人をからかうような小馬鹿にしたこの口調に聞き覚えがある。

「相変わらず弱いな。俺の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぐらいだ」

 顔を見ようと顔を動かしたが、すぐに押さえつけられて呻く。口の中に小石が入ってきたが、吐き出すことすらできない。

 そういえばこの男は、トキ相手に加減してくれるような男では無い。

「普段の威勢はどこへ行ったのやら。裏路地で男に組み敷かれているなんざ、情けなくて涙が出ないか?」

「う、うぐっ……」

「反論ぐらいしてみろ。ああ?」

 人を押さえつけておいてよく言う。口など聞けるわけが無い。必死でもがくとようやく顔が横を向いた。小石を吐き出し、思い切り息を吸いって大声で喚いた。

「うるせぇっ! ゴシップ記者!」

 押さえつけられながらも反論すると、今度はぐりぐりと地面に顔を押しつけられた。先ほどよりも遠慮無い力が掛けられて、砂利や土塊が口に入ってくる。

「誰がゴシップ記者だ? 犯すぞこのガキ」

「俺は男だ! 変態記者!」

 口の中の異物と共に、悪態を吐く。それぐらいしか抵抗できることが無い。

「ああ? 変態だぁ? ペテン師の分際で新聞記者様にたてつこうとはいい度胸だな。まあ俺もお前じゃ面白味もねぇな」

 遊び半分にしか聞こえない口調で、男は更にトキの頭を地面に押しつける。

「お前の相棒の方が好みだぜ」

「どのみち変態だろ!」

 未だかつてトキはこの男に絡まれて逃げ仰せたことがない。

 必死で暴れていたが、全く抜け出せないことを理解して、トキは力を抜いた。口の中の砂を、唾ごと吐き出すとどうにでもなれと大きく溜息をつく。

 これ以上暴れても無駄だ。ならば力を温存して後で一発殴ってやると心に決めた。

「ようやく大人しくなったな。言っておくが、後で一発お見舞いしてやろう何てのはお見通しだ。来るんじゃ無いかと思っていたが、丁度良かった。てめえに聞きたいことがある」

 顔なじみの男の言葉に心底力が抜けた。いつだってこの男にはトキの考えなんてお見通しなのだ。ようやく押さえつけていた男の手が緩み、汚れを振り落とすように飛び起きた。

「ひでぇや……」

 文句を言いつつ渋々あぐらを掻いて座り込む。このまま逃げる選択はない。当たり前のようにまた捕まって地面に押しつけられるのが落ちだ。散らかっているとはいえ、一応建物の中で助かった。

「何の用だよ、ゴシップ記者」

 トキは埃を払いながら男を見上げる。男は蔑んだような目でトキを見下ろしつつ、口元だけは小馬鹿にするように緩めている。

「新聞記者様だと言ったろうが、ペテン小僧」

 男は音も無く立ち上がった。そのまま埃を払うように軽くロングコートをはたいた。その姿をトキはただ黙って見上げた。

 相変わらず大きな男だ。服で隠されているからそれほど体格がいいようにも見えないが、その漂う威圧感は半端ではない。

 先ほどまでトキの頭を地面に押しつけていた大きな手でロングコートのポケットから煙草を取り出し、器用に一本だけを出してくわえた。

「吸うか? ペテン小僧」

「くれんのか?」

 煙草は高級嗜好品だ。目を輝かせると、男は嫌な笑いを浮かべ片手をトキに差し出した。

「一本金貨一枚だ」

 トキの稼ぎの何日か分を請求され、トキはついつい唇を尖らせる。

「……んな値段じゃ、いらねえし」

「ガキにやる煙草はねえってことだ。稼いでから自分で買え」

「もうガキじゃないし」

「ペテン師風情が偉ぶるな、馬鹿が」

 内ポケットのマッチを取り出し、片手で風を避けつつ火を付けた男は、むかついてくるほど様になっている。煙を吐き出すのに、洒落た中折れ帽を軽く指で押し上げる。

 格好付けやがってと思うも、口には出さない。気障だと思うも格好良すぎて正直腹立たしいのだ。どう考えてもそんな動作は、トキが身につけられそうに無い。

 上目遣いに見上げた男のロングコートは、年季の入った、だが決して古ぼけてなどいない手入れの行き届いた見事な品だった。そこから襟元のボタンを二つほど外した浅緑のシャツが覗いている。

 コートに隠れて見えないが、きっとちゃんとしたジャケットに、ぴかぴかのベストを着ているのだろう。新聞記者は儲かりそうな職業だなと、会う度に思う。

「ユウオウ」

 トキは男の名前を呼ぶ。

「尻の青いガキに呼ばれたくないが、何だ?」

 三十代のユウオウは、この瑞山で大きな部類に入る新聞社の新聞記者だ。何故かこの貧困街を歩き回って記事を探しており、貧困街では顔なじみだ。

 たまに花街で遭遇することもあるが、トキは仕事で客引き、ユウオウは客として女を侍らせている。その場合は本当に女にもてまくっていて、正直悔しさを隠しきれない。

 トキはといえば、二枚目ではあるけれど、未だかわいさが先に立つと、花街の花人たちにはもっぱら人気が無い。

 いつも一言も二言も多く、孤児たちには厳しくも優しいくせに、トキに対していつも冷たくて手厳しい。子供の頃は優しかった気もするが、きっと気のせいだろう。

 何故かヒワにはトキとは打って変わって優しいのが疑問だ。もしかしたら変態的な趣味で何らか含むところがあるのかもしれない。

「少しは成長したか、ペテン小僧」

 煙草の煙を天井に向かって吹き付けてから、ユウオウに尋ねられ、トキはそっぽを向く。

「成長って何だよ。俺一応成人だし」

 この国は成人さえすれば立派な大人扱いで、トキはもう子供扱いなど一切されない。

「相変わらずの馬鹿頭だな。そろそろ昼に戻れといってるんだ。自立できるのに夜の生活を変えようとしない人間には反吐が出る」

 最近そればかりを聞く。しかもユウオウにそれを言われたのは一度や二度では無い。

「うるせえよ! 俺がどんな生き方をしようと、ユウオウには関係ないだろ」

 むっとして顔を背けると、ユウオウに頭を思い切り掴まれた。ユウオウの大きな手に握りつぶされるんじゃ無いかというほどの圧がかかる。

「痛い、痛いっ! 頭潰れる」

「潰れちまえ。腐った頭は替えた方がましになる」

「替えなんてあるか!」

「そりゃそうだな。じゃあ潰れちまう前に聞くがな、お前は何を知ってるんだ?」

「……え……?」

 あまりに意外なユウオウの問いかけに、一瞬痛みを忘れた。

「この路地を根城にしてるガキ共に何が起こってるか、お前は知ってるのか?」

「何って……」

 頭の中に、昨夜トビから受けた相談が甦った。でもトキはまだそれを何も知らない。知っているのは御使いが消えているという一点だけだ。

 だがそれをユウオウに打ち明けてしまえば、トキにはもう持ち札が一枚も無くなってしまう。札が無くなるのは詐欺師として最も致命傷だ。助けを求めるのは簡単だ。

 でもそれではトキに全くの得が無い。

 その迷いはユウオウにすぐ気付かれた。

「やっぱり何か知ってやがるな?」

 ユウオウの目が微かに何かを見た。その視線を追い、血だまりに気がつく。

 そういえばユウオウは何故ここに居たんだろう……。

 思わずゴクリと唾を飲み込む。そうだ。札を切っては駄目かもしれない。最初からユウオウがここに居た。ユウオウがあの血だまりを作った奴じゃないとどうして思える?

「おい、吐けペテン師小僧」

 ユウオウの容赦ない力が、トキの頭を締め付ける。痛みに呻きながらユウオウの腕を思い切り掴んだ。

「ユウオウがあいつらを殺してないって言えるか?」

 喉の奥から声が漏れた。ユウオウはあきれ顔で眉を寄せ、トキを見下ろす。

「……は?」

「ユウオウならトビたちを殺せるだろ! 一人でここに居たんだから!」

 感情的に怒鳴ると、ユウオウが片唇をつり上げた。

「そうだな。つまりお前を殺せば完全に口封じ完了というわけだ」

「ユウオウ!」

 恐怖が口をついて出た。じっとユウオウの黒い瞳を見つめていると、ユウオウは空いていた手でトキの頬を引っ張った。

「い、いたひっ!」

「ばーか。俺が犯人なら、てめえなんぞ一息で殺して去ってるわ。とろいペテン師小僧にこの俺が後れを取ると思うか?」

 思い切り馬鹿にされている。

「で、でもさ!」

「お前がガキの頃から面倒を見てるのに、恩人を疑うなんざ良識を疑うな」

 言われてみれば確かにその通りだ。でも全て頭ごなしに命令されるのが気にくわない。一つぐらい自分の知る情報を隠しておいてもいいに決まってる。

 頭を握られ、頬を抓られながらも、トキはユウオウを見据える。

「絶対に教えない!」

「後で後悔するなよ。情報が集まるのは記者の俺だ。後で協力を求めても、助けたりしねえからな」

「……自分で調べるから構うもんか!」

「そりゃあ良かった。じゃあせいぜい気張れ、ペテン小僧」

 思い切り頬を引っ張られてから、頭と同時に放されて涙が出る。あまりに痛くて、言葉にならない。

 涙目で振り返ると、ユウオウはもう小屋を出て行くところだった。これで良かったのか、悪かったのか。よく分からない。

 乱暴で、いつも上から目線で、しかも意地が悪いユウオウだが、孤児たちに犯罪を犯させたことなど一度も無い。嫌いだし腹も立つが、それぐらい信頼している。

 ならば、トビたちは一体どこに行ったのだろう。御使いが街から消えたと相談したかったといっていたが、本当のことなのだろうか。

 トキはのろのろと立ち上り、小屋の中を見渡してみたものの、荒らされている以外は目に付く異常はない。もしユウオウだったら、何らかの変事を読み取り、トキよりも遙かに早く、ことを解決できるのだろうか。

 ユウオウに対して自分が卑屈になっていることに気がついて、トキは頭を振った。駄目だ。ユウオウに協力しないと決めたのなら、自分で何とかしなくては。

 決意を固めて小屋を出た。すぐそこに血だまりが広がっている。もし死んでいたなら、どうすればいいのだ。

「……お前、どこに行ったんだよ、トビ……」

 小さく呟いてみる。唇をきつく噛みしめ、拳を握る。痛みを感じるから現実感が出てくる。

 もしトビが襲われたのだとしたら、それは何が原因だろう。あの御使いが消える話なのだろうか。それとも全く別の何かなのか。

 別の何かならば見当が付かない。でも御使いが消えた話なら調べられるかもしれない。まずできることから始めてトビを探そう。

 そのためにはまず聞き込みだ。

 トキは得体の知れぬ恐怖感を持ちつつも、裏路地を後にした。

 その結果、街で分かった事実は、トキを打ちのめした。街の孤児たちや、浮浪者たちは、みなこの事件のことを見聞きしていたのだ。

 トキが寝坊していた頃に子供たちの事件が起き、トキが来た頃には現場から警邏兵すらもいなくなっていた。完全にトキの出遅れだった。

 昨夜、トビに言われたように寝坊しなければ、もしかしたらトキは襲撃犯から子供たちを救えたのかもしれなかったのだ。

 トビは大怪我を負い、子供たちは皆保護されたと皆が口々に言う。保護した先は中流家庭が軒を連ねる地区にある、戦災孤児たちの家だった。

 その後トビが助かったのか、命を落としたのかは誰も知らなかった。 

 更にトキに追い打ちを掛けたのは、トビを助け、子供たちを助けたのは、ユウオウだったという事実だ。

 結局ユウオウが言った通り、一番詳しい情報所持者はユウオウだった。

 御使いの子供たちはみな路上生活者であり、街の人々の目に触れていても、個別の存在として認識している存在では無いため、情報が街に転がっていることは無かった。

 御使いの子供が消える……。

 トビに会って話を聞けば何か簡単にできる気がしていたのに何もできない自分に腹を立てつつも、トキにはできることが一つだけ残っている。それはあまりにも悔しいが最後の選択肢だった。

 夕暮れが迫り、もうすぐ自分たちの時間が始まるそんな頃、トキが向かったのはユウオウが務める新聞社だった。 

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