<14>
あの大騒ぎの一夜から数日後の夜。
いつもの部屋のいつもの居間に、トキとヒワは向き合って座っていた。事件の処理でのじたばたが全て片付き、ようやく戻って来た今まで通りのいつもの光景だ。
トキが出かけて夕飯を買ってきて、ヒワがそれをよそおって二人で食べる。いつもと違うのは食事をしている時間帯だった。
今までなら夜中に食べていた食事だが、今はまだ夜も更けたばかりで、トキが酒場でペテンにかける相手を探していた時間帯だ。
間にあるのは老婆の店のチキンとトマトの煮込みスープだ。中には小麦粉で作った、塩味の団子がたっぷり入っている。
今日は八百屋が大安売りだったとのことで、この間とは反対に肉が少ないが、それでもいつも通り美味しい。
「明日から出勤だな」
スープをすすりながらトキは呟く。
「そうだね」
「まさか仕事があるとはね」
「あるに決まってるよ。別働隊はみんなが御使いじゃ無いんだからさ」
「そうだな」
「それにトキ、一文無しだし」
「……仕方ねえじゃん、太白記念病院で騒ぎを起こすのに使っちまったんだから」
「でもすっきりしたね」
「そうだな」
顔を上げたトキは、目の前のヒワをじっと見つめた。長かった前髪は、ほどよく目が見えるぐらいに切り揃えられていた。だから大きな薄青の瞳がちゃんと見える。ルリの時は化粧で隠していたというそばかすも可愛らしい。
その上さらしをきつく捲いて、目立たぬように姿勢を猫背気味にしていたという豊かな胸の膨らみも今は健在で、嬉しい事だらけだ。
「僕だって、御使いだけど本当に万が一の場合しか使えないし。条件はトキと同じだ」
いつものような口調で、でもちゃんとあの可愛らしい女の子の声で相棒がそういった。
「万が一の時って?」
「トキの命が本当に危険な時」
「なるほど……」
つまりこの間のような状況にならない限り、ヒワの力に期待はできないらしい。あんな目に遭うのは二度とごめんだから、ヒワの力を目にすることはもう無いだろう。
結局ヒワが兵器だった頃のことはあれから一度も聞いていないし、被検体として過ごし、虐待された時間のことも聞くつもりは無い。この街の貧民層で育った子供だったならば、多かれ少なかれそんな話はある。
もしヒワが話したいと思うことがあれば、話してくれるだろう。その時はどんな状況であっても彼女を愛しているから揺らがない。そんな自信はある。
「なあヒワ。ずっと聞いてないことがあったんだけど、聞いていいか?」
「いいよ。何?」
「何でずっと男の振りしてたの?」
素朴な疑問だった。最初から女の子でいてくれれば、それなりに対処していたはずなのに、何故ずっと男の振りをしていたのか、それが分からなかった。
「だってトキ、最初から僕を男だって決めつけてたし、それに最初男の子と女の子の区別がいまいち分からなかったんだよね」
「……しばらくしたら分かったんだろ?」
「うん。でもそうしたら男の子で通す方がいいような気がしたんだ」
「だから何で?」
「トキが好きだったから」
あっさりとした一言だったが、ヒワがほんの少し上目使いでトキを見た。今までにそんな表情をしたことなんて無かったから、必要以上にどぎまぎする。
「ええっと、そうしたら普通女の子に戻らない?」
「戻れないよ。だってトキはいつも女を追いかけてたから」
「俺別に、追っかけてたわけじゃ……」
「じゃあ言い換える。いつも誰か違った相手と寝てた。トキは本当に顔がいいから」
「……身も蓋もない言い方過ぎるだろ……」
「本当のことだろ。しかもみんな美人ばかりだった」
確かに本当なので、小さくうなだれる。だがヒワの攻撃は止まない。
「それで散々女と寝た話をする。あの子はあそこが良かったとか直接的に。トキはどんな子が好みかなんて全部知ってる。胸は大きめ、ウエストはくびれてるけど、ちょっと柔らかくてさわり心地がよくて、おしりはきゅっと上がってる。だよね? あ、えくぼある方が好みだっけ?」
今までずっと繰り返してきた自らの行状に頭を抱える。確かにそうヒワに言い続けていた。今更その記憶を消してくださいとは言えないから、ひたすら申し訳ない。
ずっとヒワは潔癖症だと思っていたけど、そうでは無かった。好きな男と暮らしているのに自分が女だとは言えず、その上相手は自分では無く他の女を追いかけ、寝た話までするのだから、ヒワはたまった物ではない。
「ごめん」
「謝らなくてもいいよ。僕も打算で動いてたし」
「打算?」
「僕はそばかすで美人じゃないし、巨乳じゃないし、総合してトキの趣味じゃない」
ルリが現れた時、きっちりトキの趣味ど真ん中だったのだが。でもそれも言えず口を噤む。ヒワはその態度をどう捕らえたのか、微かに笑った。
「奇跡的にトキに振り向いて貰えても、他の子たちみたいに一度寝て終わりは嫌だ。飽きて捨てられたら、一緒にいられなくなるから怖かったんだ」
「そんなこと……」
「それに僕の身体は綺麗じゃ無い。研究名目の大人たちに穢されてる。絶対トキは嫌悪すると思ってた」
俯いたヒワの唇が、泣き出しそうに歪んだ。こんな顔をさせたいわけじゃ無い。
「すげえ身体、綺麗じゃん?」
ルリの裸体を思い出してあえて軽く言ったら、上目遣いに思い切り睨まれた。
「そういう意味じゃない」
「……はい、すいません」
たじたじになって頭を掻くと、軽く溜息をつかれた。
「トキはどれだけ僕が思い詰めてるか知らないし。だから相棒って立場は都合がよかった。ずっと一緒にいられるから」
「そうなの?」
「そう。抱き合うよりも、ずっと一緒にいられる方が大事」
一緒にいるために、全てを受け入れて我慢しているなんて、ヒワの忍耐力はすさまじい。トキには絶対に無理だ。
でもそれだけ耐えてでも一緒にいたいと思ってくれたことが無性に嬉しい。
そのまま口を開くと照れくさいから話を逸らす。
「じゃあもう一つ疑問」
「何?」
「どうしてルリって名乗ったんだ?」
顔を見ると、ヒワもこちらを見ていた。
「僕の好きな色だから。初めて会った時に、トキの後ろの空いっぱいに広がってた夕暮れの空の色だ」
そんなこと、覚えていなかった。でもヒワはずっとそれを覚えていて、心の中に大切に仕舞っていたのだ。いじらしくって愛おしい。
胸がいっぱいになって、言葉も無くカップのお茶に口を付けた。
ああこれだ。ヒワのお気に入りのマグカップ。
これも瑠璃色だ。全然気がついていなかった。
するとそれをじっと見ていたヒワが妙に真面目に見つめてきた。
「トキ」
「ん?」
言おうか言うまいか悩んでいるようなそぶりをした後、ヒワはおずおずと尋ねてきた。
「また女遊びをする?」
「ばーか、しないよ」
「本当だったら嬉しいな。他の人を追いかけるトキを見るのは、結構辛いから」
真摯に見上げてきたその顔は、不安そうだった。そんな表情にぎくりとする。今までの行いがヒワを不安にさせているのだ。
だがトキは本気でヒワを愛している。今までみたいなことはない……つもりだ。
「あのなぁ……何言ってんだよ」
「だって僕は穢されてるし。飽きて女遊びしても仕方ないと思う」
やはり自信なげにヒワはそういうと、またいつものように顔を上げ、トキをじっと見た。
「でも僕に他の女の話をするのはやめてね」
「え?」
「聞くのも辛いから」
「だから、もうしないってば」
見つめ合いながらも、心臓が大きく跳ね上がる。その嫉妬心が可愛らしくて、本気で愛されているのが言葉の端々に見えてたまらなく愛おしかった。
「ならいいけど」
ヒワは今までの会話が無かったかのように涼しい顔で、いつも通りに淡々とトマトスープを口に運んだ。トキも何となくこの歯がゆい思いを口には出せずに残りのスープを口に運ぶ。
こうして黙っていても全く窮屈じゃないし、その無言が心地がいい。そんな相手が自分を死んでもいいと思うほど好きだなんて、何だか信じられない。
ちらちらと伺いながら食事をしていたら、ヒワに諭された。
「明日から僕らは肩書きの上では見習記者なんだから、早く食べて寝よう」
「本当は暁部隊別働隊の雑用係だろ」
「そうとも言うけど、それはあまり口にしない」
「分かってるよ」
本来暁部隊に別働隊は存在しない。一部の人だけが知る極秘事項だ。ふてくされながらスープを口に運ぶ。明日から記者になる。トキが憧れた記者に。もちろん本当の肩書きは、世間には言えないが。
だから今夜は詐欺師として過ごす最後の夜だ。
先に食べ終わったのは、いつも通りトキの三分の一しか食べないヒワだった。食が細いのでは無く、小柄な女の子だから食べなくてもいいようだ。
それに比べてどうもトキは大食漢らしい。
「トキ。早く食べてくれないと、片付かない」
「へいへい」
気がつくとじっと見つめているヒワに言いたいことがあるのに、いつも通りにされるとどうも言いづらい。二人の関係を相棒だけでは無く恋人としても進めたいのに、何だか関係が進展しない。
好きで仕方ないのに、少し引いてしまう自分には気がついている。
相手がルリでは無くヒワであるという事実に、自分で怯んでいるのも事実だ。今までの相棒である男のヒワをつい意識して、一瞬気後れする。
勿論その後に後悔する。大切な一瞬を逃してしまうのは自分の弱さだと知っているからだ。でもそれでもすぐに思い切れる物でもない。
実を言うと、あの事件以来、一度もヒワを抱いていない。いつも伺うようにこちらを見るヒワに、喉元まで『俺の部屋に来ない?』とか『お前の部屋に行っていい?』という言葉が出かかるのだが、何故か飲み込んでしまう。
その代わりに焦ってヒワから目をそらし、全然関係ない話を始めてしまい、視界の端に入ったヒワの顔が寂しげに曇るのを確認して自分も落ち込む。
あの太白記念病院の地下室で、間違いなくヒワに対して迷い無い愛情を感じたし、心から愛おしいと想ったのに、何故戸惑うのか自分でも分からない。
もしかしたらトキもヒワと同じように、女性であるヒワを愛し、抱いてしまうことで彼女との距離ができるのを恐れてしまっているのだろうか?
ちらりと再びヒワに視線を向ける。未だ視線はトキを見つめていて、その唇は小さく開きかけている。何か言いたげなのはちゃんと分かっている。
トキだってちゃんと言いたい。一緒に夜を過ごしたいんだって。だがそれが思いの外重たい。
結局二人が身体を重ねたのは、ルリと抱き合ったあの夜だけで、正体が分かってからのヒワをまだ一度も誘うことができないでいる。
欲しくて仕方ないくせに、いざとなると唇が自由に動かない。今まで散々目の前で女のことなどを口にしすぎたから、今は耐える時なのだろう。なんて、自分で言い分けを探していたりもする。
本当は分かっているのだ。自分の今までしてきたことの罪悪感に足を捕まれてしまって、言い分けしながら二の足を踏んでいるだけだと。
ヒワはトキに嫌われたら生きていけないと言った。相棒としてのヒワも、女としてのヒワも好きで、どちらも失いたくないから、恋人として踏み込むのが怖い。
どちらも失えない。
「食べたらちゃんと支度しなよ。初日から遅刻で忘れ物なんて情けないからね」
そんな男の葛藤などどこ吹く風と、ヒワは食器をまとめ始める。今日もまた、いつも通り誘えそうに無い。
自分の馬鹿、意気地なし。
「わーってますって」
多少いじけ気味に膨れると、ヒワが微かに目を伏せた。
「ね、トキ。全部支度が終わったらさ」
「ん?」
「詐欺師とスリの最後の夜を一緒に過ごそっか? 僕のベッドで」
「え……?」
何気なさを装ったヒワのとてつもなく嬉しい言葉に、心臓が高鳴った。意気地の無いトキを見かねて、誘ってくれたのだ。
これに答えられなくては男じゃ無い。今晩はめいっぱいヒワのいい男でいよう。
「本当にいいの? 本当に? 本当に?」
テーブル越しにたっぷりの期待を込めて見つめると、ヒワは頬を染めた。伏せ気味の瞳が色っぽく潤んでいるのに態度は裏腹で、こちらを見ずにふいっと逸らされる。
「嫌ならいいけど」
「待って待って! すっげぇ過ごしたい!」
「本当に?」
「本当だよ! 大好きだヒワ。お前と愛し合いたい」
力をめいっぱい込めて主張すると、ヒワはいつものように音も立てずに立ち上がった。
「じゃあ先にお風呂入って待ってる」
照れ隠しなのか、さっさと片付けたヒワを見送り、トキは小さく拳を握る。
「よしっ!」
情けなくもヒワから助けて貰った形で、二人の関係を進められそうだ。この先は二人で進んでいく未来なのだから、それもありだろう。
小柄なヒワの後ろ姿に、愛おしさが止まること無くこみ上げる。ついには立ち上がり、皿を洗うヒワに声をかけていた。
「一緒に洗うよ」
「いいよ。中の仕事は僕だろ?」
「早く終わるじゃん。ね、そしたらさ一緒に風呂入っていい?」
小柄なヒワに後ろから抱きついて耳元で囁くと、ヒワの手から皿が滑り落ちた。みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染まっていく。
「それは駄目っ!」
「何で? 身体、洗ってあげるよ。気持ちいいって、褒められたんだぜ?」
「誰にさっ! じゃなくて、いらないっ!」
「恥ずかしがんなよ。愛があればいいじゃん?」
「それで全部済むと思わないでくれっ!」
「ええ? 駄目? いいよな?」
「まとわりつくなってトキっ! どこ触ってるんだよ!」
「ん~好きだよ、ヒワ」
じゃれつく二人を見守るように、テーブルの上に置かれた、揃いの瑠璃色のマグカップから、まだ暖かな湯気が上がっていた。
古い関係が終わって新しい関係が始まる。
変則的ボーイミーツガールもので、アクションと探偵もの要素もありと、好きを詰め込んだ作品になりました。楽しんでいただけたでしょうか? 本当はもっとスチームパンク感を出したかったり、魅力的な大人キャラを出したかったのですが、無理でした。もし続きを書くことがあれば出したいです。お読みいただきありがとうございました!