<12>
腕に焼けるような痛みが走り、腕を押さえると血が流れ出していた。堪えきれずに苦痛の声が零れる。
「うっ……」
「トキくん!」
撃たれた。相手は拳銃を持っている。
身を竦ませると、後方から声が聞こえた。あの威圧感のある、ここで一番聞きたくなかった声だ。
「その理由とやらを、わしも聞く権利が無いかな?」
「……カイハク……」
トキは呻きながら振り返った。そこには拳銃を構えるカイハクの姿があった。
「新聞記者かと思ったら、なんと暁神殿の回し者か」
ルリが子供たちを背に庇う。
「悪いがその子たちは渡せんな。まだ実験途中だ」
陰惨な笑顔を浮かべたカイハクの手にあるのは、軍用拳銃だった。その銃口は真っ直ぐにトキへと向いている。
「もうこの子たちをこれ以上傷つけないで」
絞り出すようにルリが呻き、カイハクを睨み付けた。
「傷つける?」
「脳を壊され、こんな所に閉じ込められて、これ以上どんな酷いことができるの?」
「酷いことだと? 名誉なことだと思わんか?」
「名誉ですって……?」
「そうだ。この子供たちが成長し、脳が感情以外を補修すれば、この子たちは国を守る最終兵器になり得る。この国に恒久平和が訪れる」
カイハクの表情は、今までと違い真剣だった。だがルリはカイハクをじっと見据える。
「子供を犠牲にした上の恒久平和なんて、嘘もいいところだわ」
「嘘だと?」
「人を人とも思わず、生きる権利を奪うような人が築いた平和なんて、脆いはずよ」
「それでも人は平和を求める。戦争になれば何千人が死ぬと思う? 何万人が死ぬと? この国の国益は減り、貧しくなった国家は人を支えられずに貧困問題が噴出する。戦争とそれに類する経済崩壊で、どれだけの人が死に直面すると思ってるんだ?」
「……それは……」
カイハクの目がトキに向く。トキは脈を打つように痛みを増す腕を掴みながら、言葉も無くカイハクを睨み据えた。
「軍に巨大な力があればいい。それは戦いを抑制する抑止力になるだろう。巨大な戦力を持った国家は、それだけで戦いを避けられる。それは国家だけでは無く、人間関係にあっても同じだ。そのためには御使いが必要だ。国家のために、戦争を終わらせるために従順にその身を捧げる御使いが。違うかね、トキくん」
トキは唇を噛んだ。腹立たしいが、カイハクの論理も分かる。それは詐欺師の原理も同じだからだ。
ペテンを完全に理解して自在に操ることで、相手を思うように動かせる。力ではなく知識が多い方が、絶対に勝てる。
だからトキは先輩詐欺師と絶対の勝負をしない。彼らの知識はトキを遙かに上回っているから、勝ち目などないと知っているからだ。
「どうやら理解しているようだな。さすがは詐欺師といったところか」
「! 俺のことを……」
「知っている。君がウラハから受け取った紹介状で君を知り調べた」
「じゃあ、俺は……」
「泳がせていたに決まっているだろう。何者がかぎつけたか確認せねばならなかったからな。オイタケの手かと思っていたが、予想がはずれたようだ」
全てが旨く進んでいると思っていた。だがカイハクの手の内にあった。最初からトキたちは負けていたのだろうか。
腕を伝い、血が床に落ちていく。音を立ててゆっくりと落ちていく血は生ぬるく、油断していた自分を責めているようだった。
カイハクが再びゆっくりと拳銃を構えた。
「そんなことをしても、いずれは暁神殿があなたを告発するわ」
背中越しにルリの声が響く。
「あなたは子供殺しだわ。あなたの罪は重い」
断罪するルリに、カイハクが厳しい視線を向けた。
「軍医であるわしは、長年戦場を見てきた。お前たちに分かるか? 悲惨な戦場の現実が。大砲の犠牲になってバラバラに砕け散る兵士の叫びが聞こえないか? 炎に包まれ、焼き殺される兵士の涙が分からないのか?」
ルリは押し黙る。どんな顔をしているのか、振り返ることも動くこともできないから全く分からない。だがルリが苦しんでいるのは確かだ。
何かしてあげたいのに、銃口が目の前にある今、動くことができない。
「数十人の脳外科手術と、数万人の戦死。どちらかを選べと言われたら、わしは数十人の脳外科手術を選ぶ。たとえ女神がわしの過ちを罰すると言ってもだ。戦争をしたい者などおらん。恒久平和のためならば、わしは決して恐れはしない」
銃口は、ぴたりとトキの額に向けられた。
「悪いがお前たちには死んで貰おう。実験材料にできなくて残念だ」
身動きができない。どうすればいい。先に自分が死んだら、あとはルリが殺される。
そう思った瞬間、トキはとっさに動いていた。
一瞬にしてしゃがみ、カイハクの気を逸らしてから一気に突っ込んだのだ。
カイハクの動きは歳故にか、トキよりも僅かに遅い。その時間差を利用する。
拳銃を握る手を下から掴むと、その腕をねじ上げた。拳銃が暴発し、天井に弾が当たった。細かい砂のような破片が落ちてくる。
「貴様っ!」
「ルリ! 逃げろ!」
「トキくんっ!」
「暁神殿へ逃げるんだ!」
カイハクの拳銃を腕ごとねじったまま怒鳴る。カイハクの力はものすごく、トキは歯を食いしばる。
「まだ利用価値のある子供たちは殺されないっ! また機会を狙ってくれ!」
必死の叫びにも、ルリは首を振る。
「トキくんを置いていけない!」
「俺はいい! 詐欺師が仕掛けに負けたんだ。負けは死って、最初から分かってた!」
叫びながらカイハクの腕をねじった。カイハクが呻き声を上げる。
「ルリ!」
振り返った瞬間、トキは予想外の光景を目にした。ゆっくりとルリが床に倒れたのだ。その後ろには木の棒を持った男がいた。オウチだった。
「な……」
一瞬の油断が、勝敗を分けた。カイハクに振り払われ、トキは転倒する。
「形勢逆転か」
低く笑いながら、カイハクがゆっくりとトキに近づく。トキは座ったままカイハクを見つめて後ずさった。
「お前たちだけしか通風口を知らないと思ったか? 研究日誌が消えていたことを考えれば、この部屋から脱出する道があることなどすぐに分かる」
「くそっ……」
今度こそ絶体絶命だ。カイハクをにらみ据えながら、トキは唇を噛んだ。
ルリだけでも助けたかった。だがこの状況ではどうすることもできない。
「オウチ」
「はい」
「娘を起こせ。暁神殿の者にはまだ聞きたいことがある」
「了解しました」
ルリへと手を伸ばすオウチを止めたかったが、目の前にまた銃口があった。今度は同じ手は喰わないだろう。
「詐欺師、手術台に寝て貰おう」
「……なに……?」
「手術台だ。ルリという娘に口を割らせるには、これが手っ取り早いだろう。どうやらお前よりもあの娘の方が事情を知っていそうだ」
振り返り、あの冷たくぬめったような手術台を見た。
「早くしろ詐欺師。いっそ頭を打ち抜いてやってもいいんだぞ?」
「脅迫に屈するかよ」
「お前のじゃ無い。あの娘の頭だ」
悔しさにカイハクを睨むも、カイハクは意に関せず、銃口でトキを手術台へと促した。先ほどトキが気絶させた男が、いつの間にか起き上がって手術台の近くにいた。
無言のまま男に小突かれ、手術台に載せられる。
「抵抗するなよ。娘の頭に穴が開く」
「分かってるよ」
吐き捨てると、両手を拘束された。次に足が拘束される。続いて胴回りのベルトが三本しっかりと固定された。
このまま行けば脳みそを掻き出されるのだろう。
完全敗北だ。
ルリに目をやると、オウチが倒れたルリを乱暴に小突き回していた。
「起きろ、娘。起きないか」
「やめろ! ルリに乱暴するな!」
「お前は黙っていろっ! 私の大事な娘を騙し、汚したお前を許さない」
オウチの甲高い怒鳴り声に、トキは黙った。何を言ってもここから事態は好転しない。
せめてルリを助ける方法は無いのか、トキの頭は先ほどからそればかりを考えている。
「起きろと言っているんだ!」
全く動かないルリに業を煮やしたように、オウチがルリの長い髪を乱暴に掴んだ。意識を失ったままのルリが微かに反応をした。
「さっさと起きろ!」
更に乱暴に髪を引かれ、ルリが呻く。
「やめろよ!」
「うるさい! お前は黙っていろ!」
癇癪を起こしたようにルリの髪を乱暴に掴み上げたオウチだったが、これもまた予想外のことが起きた。何故かオウチがそのままの勢いで後ろにひっくり返ったのだ。
意表を突かれて受け身も取れず、オウチはもんどり打ってそのまま床に頭を打ち付けた。情けなくも誰も何もしないうちに自主的に気絶する。
だがその手には真っ黒で真っ直ぐな、ルリの髪が丸のまま握られていた。
「え……?」
「何だと?」
トキとカイハクの同時に上げた声に、ルリだった人物はゆっくりと目を開けた。ぼんやりと周りを見渡し、気絶したオウチの手に長い黒髪が握られたままなのを見て、慌てて頭に触れる。
途端に遙東人ではあり得ない、色素の薄い茶色の髪がさらりと流れた。長い前髪が大きな薄青い瞳を覆い隠す。
トキは言葉を失った。喉が張り付いたみたいに言葉が出てこない。
目が合った途端、手術台に囚われたトキに、ルリだと思っていた人物が唇を噛んでいる。
最初にその衝撃から立ち直ったのはカイハクだった。
「初期の研究資料とその髪。なるほど、お前の正体が分かった」
脅しつけるような声だった。その声にルリだった人物は身体を震わせた。
「お帰り、被検体三号。生きて会えて嬉しいよ」
「……嬉しくないよ」
ルリの声で、でも打って変わってぞんざいに、その人物はそういった。長い前髪の向こうに、大きな瞳があった。
トキが知っているその人物はいつも半開きの目をしていた。声だってもっと低くてかすれたようで、いつもぼそぼそと聞き取りづらかった。
こんなに大きくてはっきりした目をしていたなんて、こんな風に可愛らしい声で話すなんて知らなかった。十年も一緒に暮らしていたのに、女だって気がついてやれなかった。
あの夜、あんなに愛し合ったのに、それでもトキは全く気がつかなかった。
「ヒワ……」
かすれた声で相棒の名を呼ぶ。
そこにいたのは少女だった。でもルリではなく、紛れもなく相棒のヒワだった。
「……ごめんトキ。巻き込んだ」
いつもの口調で、でもルリとして話していた声でそうヒワが謝った。この声が本当の声で、いつもの掠れ声は偽りだったとすぐに分かる。
「どうして……」
「君を巻き込みたくなかった。だから反対したんだ」
「何で」
「御使いが絡んでるって分かった時、カイハクだって分かった。僕が逃げ出して実験は終わってるって思ったけど、そうじゃなかった。僕以外の人間で試されてた」
顔を上げたヒワは、真っ直ぐにカイハクを見据えた。
「他のみんなはどうしたの?」
「残念ながら死んだ」
「やはり脳の改造手術のせいだね?」
「その通りだ。西部三国では知られた外科手術のようだが、遙東では誰も経験が無い。失敗続きだ」
「……人殺し」
「お前ほど殺していない。そうだろう?」
からかうような声に、ヒワは俯いて唇を噛んだ。
「ヒワ、何だよ、何の話だよ!」
手術台に縛られたまま怒鳴ると、ヒワが力なく微笑んだ。
「トキに知られたくなかったんだ。僕がネーソスの兵器だったって」
ヒワは唇を噛んだ。
「兵器?」
「ネーソスは御使いの力を兵器として前戦に投入してた。僕はその兵器だった」
「……そんな……」
噂だけの産物だと思っていた。でもそれは存在していたのだ。そして他ならぬヒワがその兵器だった。
「見事だった! 被検体三号ほど完璧で見事な兵器はいなかった。あの破壊力はわしの最も求める姿だ」
カイハクの酔ったような歓喜の声に、ヒワは俯いて唇を噛んだ。
「何千人の兵士がお前の手にかかって死んだか、その兵器が我らの元にある。これほどの喜びは無い。次に何千の兵士を殺されるのは、ネーソス側だ」
「嫌だ……もう、殺したくないんだ……」
それでようやくヒワの軍人嫌いが理解できた。
ヒワは恐れたのだ。自分が兵器として沢山の遙東軍人を殺したことを。そして自分が殺したことに罪悪を感じ、軍人を恐れつつ、自分を恐れたのだ。
だから遙東人しかいないこの国で、出歩くことを極端に嫌っていた。
それを知っていたならば、もっと相棒に優しくできた。もっと気にかけることができたはずだ。その思いでトキは声を上げていた。
「何で俺に話さなかったんだよ。相棒だろ!」
「トキだから話せなかった!」
「え……?」
「被検体としてカイハクに裏取引で買われて、体中をいじられて穢されてるなんて知ったら、トキに嫌われる」
心細そうな、とても傷ついたような声だった。そんなヒワの声、聞いたことが無い。
「え……?」
「ずっと一緒にいたかった。本当は望んじゃいけなかったのに」
「ヒワ……?」
「なのに巻き込んだ。最初から話していれば、トキは僕を遠ざけたはずだ。そうしなくちゃいけなかったのに僕は……」
髪に隠れたヒワの瞳から、頬を滑る落ちるかのように一筋の涙が伝った。
「カイハク。僕が戻ればトキを助けてくれる?」
小さく、だがはっきりとヒワが問いかけた。
「トキだけは助けて欲しい」
「馬鹿ヒワ! んなの駄目だ!」
「カイハク」
必死の訴えだったが、カイハクは冷笑した。
「残念だな被検体三号。そいつは知りすぎた」
「そんな……」
「生かしてやれる方法が一つだけある。脳をいじり、廃人になることだ」
「それはだめだ!」
「何故いけない? お前はここに一人で残ることになるんだ、被検体三号。この顔だけはいい詐欺師をお前の従順な愛玩動物にしてやろうというのに」
「そんな……」
「脳さえいじってしまえば、お前が過去にどんな扱いを受けたとしても、その男は気にもしなくなる。戻ってくればこの男を生かし、お前にやろう。悪い話ではあるまい? お前はその男と共に永遠にこの牢獄で愛し合えばいい。わしの計画を助けながらな」
「そんなこと許さない!」
ヒワの言葉が悲鳴のようだ。きっと一番傷つき、苦しんでいるのはヒワの方だ。トキは自分が賭をしていたのだから覚悟をしてきた。
でもヒワは最初から関わるなと言ってきた。それを振り切ったトキの方に責任はある。ならばヒワがその報いを受ける必要なんてない。
ヒワは、自由になるべきだ。
もともとトキには逃げ道など無かった。
溜息をついてベットに身体を預けた。なんて自分は無力なのだろう。相棒を、そして初めて愛した女性を救うことができない。苦しむヒワを前にこんなところで縛られている。
これではただの足手まといだ。彼女一人なら何とでもなるだろうに。
そう思った時、ふと思い出した。
「ヒワ」
「え……?」
「お前は御使いだろ? それ使って逃げろ」
それが一番妥当だ。沢山人を殺したといった。つまり人を殺せる能力をヒワは持っている。この場を切り抜けられるはずなのだ。
だがヒワは唇を噛み、カイハクは笑った。
「何がおかしい?」
「相棒などと抜かしおるくせに、何も知らないのだな。被検体三号は力を使えない」
「何でだ?」
「人を殺したことをずっと悔い、恐怖感で萎縮しきっている。でなければ被検体として我々軍の人間に身体を好きにいじられたりはしない」
「……やめて、カイハク」
か細くヒワが呻いた。
「齢十にも満たない内に、お前も想像がつかんような、恥辱の限りを与えられはしなかっただろうな。愛される資格なんて無いことを、この詐欺師に聞かせたくなかったのか、被検体三号?」
歯を食いしばったヒワはうつむき、拳をきつく握って呻く。だからトキには、ヒワが受けたであろう虐待を容易に想像できた。
「てめえ……なんてことを……」
自分の大切な相棒を、大切な女をそんな目に遭わせたこの男が、殺してやりたいほど憎い。
「なんてこと? ここを逃げ出すまであれは私の持ち物だった。軍の兵士を虐殺した兵器だった。それをどうしようと、咎められる筋合いなぞ無い」
逃げ出すまで……。
つまりトキがヒワをみつけた時、実験体として散々に大人から弄ばれた後だったのだ。様々な暴力で全てを奪われきった後だったのだ。
だからああしてやせ細り、うつろな目をしていた。
ヒワの噛みしめた唇から、血が一筋流れた。噛みしめすぎてかみ切ったのだ。
力を持ちながらも耐えることしかできないなんて、そんなのおかしい。そんな時には全てを使ってでも、逃れないと嘘だ。
生きるに勝ることなんてあるもんか。
「ヒワ! 使えるもんは全て使えよ! 子供たちを助けるんだろ!」
気がついたらヒワに向かって怒鳴っていた。ヒワが弾かれたように顔を上げる。
「……トキ……」
「お前が力を使わずにここで死んで見ろ! 第二のお前が作られるんだ。こいつらをお前みたいな目に合わせるのかよ! お前しかいないんだ、ヒワ!」
叫んだが、ヒワは震える拳を握っているだけだった。悔しくて、情けなくて、こんな時に傍に入れない自分に腹が立つ。
せめてとなりにいてやれたら、その肩を抱いてやれたらと、囚われている自分が苛立たしい。
抱きしめてやれたら、少しは力になれたかもしれないのに。全てを知ってもなお、大好きだと伝えられたら、凍った心が熔けたかもしれないのに。
お前は穢れてなんていない。とっても綺麗だと伝えられたら、それだけで力になれるかもしれないのに。
だがこの身体は全く動かない。
「くそっ! 放しやがれ!」
吐き捨てながら暴れると、カイハクが溜息をついた。
「うるさいガキだ。これでは手術ができん」
「頭をほじくられてたまるかよ!」
「そうか。では願い通りにしてやろう。被検体三号が戻ったなら、この男はもういらん。被検体三号がまたよからぬことを企んでもありがたくない」
銃口が再びこちらを向いた。
「お望み通り、そのまま呼吸を止めてやろう。ひと思いに死ねることをありがたく思えよ、詐欺師」
「トキ!」
悲痛なヒワの叫びに、トキはもがく。このままここでトキが死んだら、ヒワは一生ここに囚われる。
相棒のヒワが、そして愛したルリが。
そんなのあっていいはずがない。
「久々に楽しませて貰った。お前のおかげで再び被検体三号が手に入ったのだから、感謝せねば成るまいな」
ゆっくりとカイハクの手が引き金にかかる。この場の雰囲気を楽しんでいるのだ。
トキはヒワに顔を向けた。
「ヒワっ! 囚われるな!」
自由になれ、お前はもう十分苦しんだんだ。
「お前が過去の罪に怯えるなら、俺がお前の犯した罪を全て背負って死の世界に行く。だからお前はなんとしてでも生き延びろ!」
「駄目だ、トキ……!」
「男ってのは好きな女のために死ねれば本望なんだよ! 俺に格好付けさせろ!」
「トキ!」
「ごちゃごちゃと抜かしおって。お前は所詮、詐欺師だ」
引き金を引くカイハクの指に力がこもった。これでもう止めようが無い。
「早く行け! 頼むぜ、相棒」
トキは目を閉じた。
あっけない人生だった。
唯一の救いは、本気で恋した女を一度だけでも抱けたことだ。
両思いで抱き合うのがあんなに気持ちいいって知っただけでも、人生に十分な意味があった。
耳をつんざくような銃声が響き渡った。
静かな牢獄に幾度も木霊のように反響してから、地下空間は異常に静まりかえる。
撃たれたのに……痛くない。死んだから?
恐る恐る目を開けると、トキの前にヒワがいた。
視界の先にいるカイハクは、拳銃を握っていたはずの右手を押さえ、声にならない悲鳴を上げている。
「僕は自分の力は本当に怖い。でもトキを失うのはもっと怖い」
静かにそうヒワが呟いた。カイハクのその手から溢れているのは、鮮やかなまでに紅い血だった。
カイハクの手から指先が消えていた。拳銃が暴発したのだ。
「トキより大切なものなんて僕には存在しない」
ヒワが何かをした。それだけが分かった。
「トキを傷つける者を、僕は許さない」
言葉と共に、ふわりとヒワの足下から熱い風が立ち上る。茶色の髪はその風をはらんで燃え上がるようにたなびいた。
ヒワの身体を包み込むように舞い散る無数の金色の輝きは、熱く焼けた火の粉だ。火の粉に包み込まれ、その中に立ち続けるヒワの姿は、まるで炎に彩られた女神だ。
恐ろしくも美しくて目が離せない。
カイハクはヒワの姿を見て恐怖に戦き、手を押さえたままじわじわと後ずさった。
「これが……ディミオスの力か……っ!」
「ディミオス……?」
聞き慣れぬ言葉を口の中で繰り返す。おそらくこれはネーソスの言葉だ。
「そう。これがプロクス・ディミオス……炎の処刑人だよ。あなたに殺された仲間たちと同じディミオスの力を見せてあげるよ」
冷たく凍り付いたようなヒワの声に、トキは胸が詰まる。
長年共にいるから分かる。ヒワはこの力を使うことで酷く傷つき、心の中で泣いている。
そっと寄り添い、抱きしめてやりたかったが、自分を庇うその小さな背を見つめることしかできない。
ヒワが背中を振るわせ、小さく、だがはっきりと詠唱した。
「力の象徴である火の精霊よ……」
「やめろ、やめてくれっ! 助けてくれ!」
懇願するカイハクを冷たく見据えて、ヒワは一息に唱えた。
「我が敵を喰らい尽くせ」
次の瞬間にカイハクの身体が激しく炎を上げた。
「炎の御使い……」
噂にしか聞いたことの無いその力に、トキは息を呑んだ。
ヒワの両手から生まれ出た炎は、まるで生き物のようにカイハクの身体を絡め取ってゆく。
「ひっ……火がっ! 貴様よくもっ!」
「僕の力を見せろといっていたよね、カイハク。見せたよ、お望み通りだ」
淡々としつつも心の奥底からの怒りがにじみ出た言葉だった。
正面からその顔を見ることはできないが、きっとあの薄青い瞳には憎しみと怒りが込められているのだろう。
「お前は力を失った被検体に過ぎなかったはずだ!」
「……トキに手を出すのは許さない。たとえどんなことになろうとも」