<11>
約束のパーティの日、トキはウラハと共に仕立屋にいた。
「まあまあ。よくお似合いですこと」
目を瞠る店員が、タキシードのトキをウラハの前に引き出した瞬間、ウラハが熟れすぎたトマトのように紅くした。
「……トキ……格好いいわ……」
「そうか?」
不承不承といった顔で鏡を見るも、実はトキ自身も自分に酔いそうだった。そこにはきちんとした、上流階級の男がいる。
絹の黒いタキシードに、同じく絹の真っ白なシャツだ。元々ネーソスを経由して西部三国から入ってきたという洋装だが、遙東人は似合わないという話もある。
だが自分で言うのも何だが、遙東人なのに見事な着こなしだ。ルリは惚れ直してくれるだろうか。あの夜以降、お互いに忙しくて打ち合わせをするのでやっとだ。
「トキ?」
ウラハに呼びかけられて、顔を引き締める。ここで気を抜いたら、しくじってしまう。
「それなりの見世物だな」
鼻で自分をせせら笑ってみせると、ウラハがむくれた。
「それなりじゃ無いわ。素敵よトキ」
「ふん。お前の目は相当に病んでるな」
「目がおかしいのは、トキの方だわ」
ふてくされた彼女が身につけているのは、足首までの長い裾を引いた、赤いドレスだった。気が強くはっきりした顔立ちのウラハにそれはよく似合っている。
「あんたも悪くない」
「本当?」
「ああ」
「嬉しい」
また頬を染めるウラハに、じわじわとまた罪悪感がこみ上げる。
ごめんよ、俺が見たいのはルリのドレス姿だけなんだけど、なんて口が裂けても言えない。
「お嬢様」
今までトキといる時には近くに来ることが無かった侍女が今日は共にいる。パーティとあれば仕方ないだろう。それにここの払いもある。
侍女に支払を任せる間に、ウラハはさっさと馬車に乗り込んだ。
「トキ。乗って」
手招きされるままに、馬車に乗り込んだ。隣のウラハがべったりと寄り添い、腕をしっかりと絡めてくる。
「ねえトキ」
「何だ?」
「お父様が認めてくれたら……一緒に旅行に行きませんこと? あなたが思う存分に絵を掛ける、素敵な場所に」
「認めてくれたらな」
認められることは決して無い。それが分かっているからあっさり頷く。
「静かな高原で湖が見えるのよ。ここからは汽車で行くんだけど、戦争の後なんてどこにも無い素敵な田舎町よ。私の別荘なの」
見上げたウラハの目が、陶然と潤んでいた。ルリといる自分はこんな顔をしているのだろうか。こんな風に幸せな顔を。
でもウラハには申し訳なさはあっても愛情は無かった。それでも未来を期待させておかねばならない。
「泊まりだな」
からかうように言うと、ウラハは顔をますます赤らめた。
「……ええ」
「他にも男と行ったことは?」
「無いわ!」
「へぇ……」
冷ややかに笑うと、トキはウラハの耳元で低く甘く囁く。
「楽しみにしておくよ」
「ああ……トキ……」
とろけるように甘い溜息をつき、ウラハはトキの肩口に寄り添う。
ごめんね、ウラハ。君ならきっと、その体当たり精神で、次のいい男が見つかるよ。
直接言う機会は無いから、今のうちに心の中で詫びておく。
今回の計画が見事に実行されれば、ウラハの恋心は粉々に破壊されるはずだ。そうならないと、彼女の気持ちを自分に残してしまうが、それは困る。
それに今回のことが明るみに出たら、彼女の祖父と父親がやっていることの責任を、彼女も取らされることになるだろう。そうなればきっと瑞山に住む事ができなくなる。
トキの計画はあくまでも子供たちを助け出すことだが、きっとその後に暁部隊かユウオウが、この病院の真実を導き出す。この病院の先は長くない。
どのみちトキは彼女を破滅させる。憎まれることになる。
トキは自分を見上げるウラハの、幸せそうな笑顔を見下ろし、その紅い唇を優しく吸った。お詫びの印としかいえないその口づけだが、今のウラハには違う意味合いを持つだろう。
きっと共に田舎町に行く誓いの口づけだと感じるに違いない。
「ねえトキ」
「何だ?」
「私を愛してる?」
真摯に見上げてきたウラハに、トキは再び口づけると、冷たく笑う。
「さあね」
「意地悪っ!」
むくれるウラハを無視して、時は流れていく街の景色を眺めた。
ふとヒワの顔が浮かぶ。最近ヒワは部屋から出てこない。鍵を掛けた部屋の中に引きこもっている。今日も出がけに扉を叩いたが、何の返事も無かった。
寝ているのか、起きているのかも分からなかったが、トキは扉を強く叩いてからヒワに語りかけた。
「ヒワ、今日、全部終わると思うんだ」
もちろん何の反応も無い。
「せめて顔見せてくれるとか、しない?」
部屋の中で何かが動く気配があった。ヒワは起きているようだった。
「そりゃあさ、俺は勝つつもりだよ。帰ってくるつもりだよ。でもさ、負けるかもしんないじゃん。もしも、万が一にも死ぬなんて事になった時、ああ相棒と五日も話をしてなかったとか後悔するの、嫌じゃん? だからせめて顔見せろよ」
しばらく待ったが、何の反応も無かった。仕方が無い。彼は元々この件に関わるなと言っていたし、そのことで常にトキを心配し、苦痛に耐えていた。それなのにトキは自分の命を掛け金にして、無謀な博打をやらかそうとしている。ヒワが顔を見せたくなくても当たり前だ。
「ヒワ、もしもさ……」
トキは立ち上がり、ヒワの扉に頭を付けた。詰めた息の感触を額で感じながら、中のヒワに告げる。
「俺が死んでも、ちゃんと飯食えよ」
もちろん返事は無かった。これでもし本当に死んだりしたら、十年も一緒にやってきた相棒との本当の別れになってしまう。それだけが心残りだった。
「トキ、トキったら」
ウラハに揺すられて気がつくと、馬車は太白記念病院の入り口に馬車が着いていた。
勝負の時だ。
「悪い」
「いいのよ。さあ、行きましょう」
トキは馬車から降り立った。後から降りるウラハに手を差し伸べると、女王のようにウラハがその手を取って馬車から降りてくる。
入り口にいた人々が、ほうっと溜息をつくのが分かった。ウラハとトキはどちらも目立つだろう。
隣に並んだウラハは、トキの腕に優雅に掴まる。トキもウラハに合わせてゆっくりと足を運んだ。ラウンジに足を踏み入れると、集っている沢山の人々の視線が突き刺さるようだった。
この間訪れたトキと違い、ラウンジは華やかなムード一色に塗り固められていた。新聞を読む人たちが時間を楽しんでいた同じ空間とは思えない。
壁には沢山の花が飾られ、正面には楽団が音楽を奏でている。歓談をしている人々の向こうには、音楽に合わせて踊っている人々もいた。
扉はいっぱいに開け放たれており、入り口には元軍人なのか、厳つい男が二名立っているだけだ。
どうやら扉を閉ざさず、通りを歩く人々にまで、この様子を見せつけるつもりらしい。
「すげ」
つい素で呟いてしまい、慌てて気を引き締めた。
「何?」
「なんでも無い。盛況だな」
「普通よ。小規模なぐらいだわ」
「へぇ……」
食堂はこの間の壁が取り払われて、ラウンジから続く広大なくの字型のパーティホールへと姿を変えている。その広い空間に、タキシードとドレスの人々が、まさに群れていた。
トキからすれば、見慣れないそんな姿の集団が、何となく別の生き物であるような気がしたのだ。だから群れていると感じてしまっても仕方ない。
その中に数人の医者とおぼしき人々が混じっていた。タキシードの人々に礼を言われたり、頭を下げて回ったりしている。たぶんここの医者だろう。
しばし会場を歩くと、人々が皆こちらを振り向き、感嘆の吐息を漏らす。
こんな時も見た目よく生んでくれた顔も知らない両親に感謝する。ウラハのことを知っているようで、皆が口々にウラハに挨拶に訪れる。
「ウラハ様、お綺麗ですこと」
「その殿方はどちらですの?」
人々の会話は大体この二つに絞られる。病院の一人娘であるウラハは、この場の女王だった。そして共に歩くトキは、たいした飾りに見えるらしい。
「こちらはトキ。画家をしておりますの」
もっともらしく語るウラハの隣で、トキはできる限りの笑顔を振りまいた。人々の羨望に満ちた表情で、自分が立派な添え物になっていることを確認する。
ここで目立たなくては意味が無い。
ラウンジのテーブルには溢れんばかりの食べ物が盛られ、こじゃれた給仕が飲み物を配る。上流階級のパーティはこんなに華やかなのかと、トキは感心し、そして呆れた。
ここにある料理の五分の一でもあれば、貧困街に暮らす路上少年たちがどれだけ助かることだろう。きっと富はこうやって不公平に金持ちへと尻尾を振っているのだろう。
壁にずらりと並んだ椅子には、年配の人々が座り、談笑を楽しんでいる。この街にこんなに上流階級の人々がいるのだなとトキは改めて感心した。
「トキ」
「何だ?」
「お父様がいるわ。行きましょう」
ウラハが指さした先に、オウチがいた。あの地下室で孤児たちに消毒液を振りかけるように命じていた男だ。
一息ついて心を落ち着ける。ここで表情を変えたりしたら全ての準備が水の泡だ。
「お父様!」
嬉しそうにウラハがオウチに歩み寄った。
「ウラハ。とても綺麗だよ」
あの時とは違い、穏やかな笑顔でオウチはウラハの頬に口づけた。
「ありがとう。ねえお父様。紹介したい人がいるの」
頬を染めてウラハが振り返った。小さく頷くと、トキは堂々とオウチの正面に立つ。
「君は?」
「こちらはトキ。あの私たち……」
恥ずかしげに言葉を詰まらせるウラハの横からオウチに手を差し出した。
「初めまして。ウラハ様とおつきあいしております、トキと申します」
「え……?」
「どうぞよろしく」
堂々と言い切ると、言葉を失ったオウチはしばらくじっとトキを凝視した後、ウラハを見た。
「お付き合い? 彼と?」
「ええお父様」
「だがウラハ。お前には婚約者が……」
「嫌ですわ。あんな根暗な医者。私のことは私が決めます」
「だが……彼は医者かい?」
「違うわ。画家よ」
「画家だって?」
「そうよ。素敵な絵を描くんだから」
胸を張ったウラハが見た絵は、みなヒワの作だ。トキには全く絵心は無い。
「そんな……そんなことは許さないぞ」
「お父様が許さなくても、私が許せばいいんです」
つんとウラハはお打ちから顔を背ける。
「ウラハ!」
オウチが声を荒らげ、もう一人の男がゆっくりと近づいてきた。
「何を騒いでいるんだねオウチ」
「お義父さん」
「お祖父様」
そこにいたのはカイハクだった。地下室の廃人を生み出し続ける諸悪の根源にして、戦争に御使いを武器として使おうとしている元軍人だ。
「お祖父様にも紹介しますわ。私が今、お付き合いをしている方です」
カイハクの視線がこちらを向いた。射貫かれるように鋭い眼差しだ。その瞳は、トキの全身をゆっくり眺め回している。これがヒワが怯える軍の従二位軍医総監だ。
「トキと申します」
恭しく頭を下げると、カイハクは唇を綻ばせた。
「ほう……トキというのか」
表情に反して言葉は冷たい。ただただその目に気圧されている。そう感じる。
「はい」
「職業は?」
「しがない画家です」
「ほう……」
見定めているのか小馬鹿にしているのか、それは分からない。
「お祖父様、酷いのよ。お父様、彼が画家だから付き合ってはいけないって言うの」
気安くむくれながら、ウラハはカイハクの腕に縋る。カイハクはそんな孫が可愛いのか、掴まった手の甲を優しく撫でている。
「そうかそうか。それは難儀だな」
「でしょう?」
「だがなウラハ。お前の婚約者も悪くないぞ。この医院では最も腕がいい」
「だから、あんな暗い人は嫌です。私は私の選んだ人にするんです」
「この子は誰に似たのか我が儘じゃ」
「あら、世間ではお祖父様に似てるって言われるわ」
「こいつは一本取られたわ。しかもお前さんはわしと同じく極度の面食いだ」
「お祖母様も美しい方でしたものね」
「その通りだ。血は争えん」
豪快に笑うカイハクは、それでもトキを見ていた。冷たく冷めた目だった。ぞくりと背筋が寒くなる。
もしかして全て知られている? そんなことは無いはずだ。もしそうなら、ここにトキが入れるわけが無い。トビのように事前に処理されて、どこかに骸を捨てられるのが落ちだろう。
「トキくんといったな?」
「はい」
「娘はじゃじゃ馬じゃ。上手く乗りこなしてくれ」
「……はあ」
「乗りこなすなんて、お祖父様下品よ!」
顔を赤らめて怒るウラハから、笑みを浮かべてカイハクは離れた。それから笑顔のままトキの耳に語りかけてきた。
「……何が目的だ?」
「は?」
「オイタケの手の者だろう?」
誤解されている。オイタケが送り込んだ記者だと思われているのだ。トキは眉を顰めてカイハクを正面から見つめた。
「オイタケ……ですか?」
「とぼけおって。汚らわしい新聞記者が」
それだけを囁くと、笑顔を浮かべてトキの手を取った。
「ゆっくりしていきたまえ、トキくん」
「はい」
カイハクが背を向けて去って行くと、汗が噴き出した。硬直した顔を誤魔化すために、ハンカチで顔を拭く。
「どうしたの、トキ?」
「凄い威圧感だな」
「お祖父様?」
「ああ」
「だって元々は軍人だもの」
この近距離にあっても、ウラハは何も気がついていない。孫娘に知られぬように、疑わしい男を脅迫していく。見かけ以上に恐ろしい男なのかもしれない。
いや生きた人間を意のままに操るべく脳を抉り出そうというのだから、見た目よりも遙かに狂気を持った男なのだ。
注意するに越したことは無い。
小さく溜息をつくと、トキは給仕から飲み物を受け取った。いつの間にか喉が渇ききっている。
一気に飲み干すと、酸味が喉の辺りで弾けて消えていく。シャンパンという酒だ。まだこの街では高級な代物だが、この場には何気なく沢山の人たちに振る舞われている。
一体いくら掛けているのだろう。そもそもこのパーティの招待客は、一体いくら払っているのだろう。ウラハはこの家の娘だから分からないが、きっと相当な額なのだろう。
そしてその相当の額の中から、地下室で起きているあの残虐非道な実験の資金も捻出されているに違いない。
「トキ?」
呼びかけられてハッとした。ウラハがじっとトキを見上げている。
「悪い。何か言ったか?」
「もう。私の言うことなんて何も聞いてないんだから」
「悪かった」
対して悪びれずに言うと、ウラハは少しだけふくれた。でもすぐに笑顔になる。
「トキ、お料理を食べていてくれる?」
ウラハがトキの腕から離れた。今回は常にべったりかと思っていたのに予想外だ。
「どうした?」
「お祖父様とお父様の挨拶が始まるの。私も行かなくちゃ。だって私、一人娘だものね」
「そう」
「トキもいつか……お父様の隣に立ってね」
「……さあ。どうなるかな」
「もう! トキったら冷たい!」
頬を膨らませたウラハが、わざとふいっと横を向くと、人波を縫うように設えられた壇上へと上がっていく。そこにはすでにカイハクとオウチの姿もあった。
壇上のオウチが一歩踏み出すと、人々のざわめきがぴたりと消える。
「お集まりいただいた紳士淑女の皆さま。本日は太白記念病院の十周年記念パーティに、ようこそいらっしゃいました」
細身のオウチが深々と頭を下げる。カイハクと並ぶと頼りなく見えるが、こうして一人で話していると、彼も油断ならない人物に見える。
「皆様のおかげで我々はこの病院を、心と体を癒す極上の場所へと作り上げることができました。全ての病院関係者を代表しまして、ここにお礼を申し上げたいと思います」
全員に語りかけたオウチが頭を下げると、惜しみない拍手が送られた。トキもおざなりに拍手を送る。だが頭の中はこれからの計画でいっぱいで、言葉が旨く入ってこない。
「では創業者の我が義父、カイハク様より言葉をいただきたいと思います。お義父さん、お願いします」
オウチに変わり壇上に上がったカイハクは、堂々たる佇まいで人々を眺め渡した。ぎょろりと大きな瞳が、まるで人々の中まで見据えているようで、トキとしてはどうも居心地がよくない。
しかもその視線が、一瞬トキで止まったと思ったのは気のせいだろうか。
「皆さん。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。我が太白記念病院は、皆様を含みます上流階級や軍上層部の皆様のために、心ゆくまで病と向き合い、心身を癒すために創立されました。十数年単位で繰り返されるネーソスとの戦争で、闇疲れ果てた皆様のお力になるべく、我々は力を注いでおります」
人々の拍手が響く。カイハクは満足げに頷くと、言葉を続けた。
「現在は敵国と休戦中であり、つかの間の平和を我らは謳歌しております。ですがいつまた戦争が起こるのか、これは暁の女神でも分からぬことでしょう。皆様の不安、苦痛を和らげるべく、我らは我らのできうる全てを持って、この国の発展に寄与していくつもりであります」
「御使いの頭をくりぬいて、か」
人々の拍手の中で小さく呟く。誰にもこの声は届かない。むしろ届けば問題だ。トキは黙ったままカイハクを見つめ続ける。
「今後の我が愛する国、遙東と、敬愛する女皇陛下のために、我々は更なる医療の発展と、幸福を守るべくこの病院で皆様と共に努力をしていく所存です。どうかこれからの十年、二十年後も我々のお力と名っていただけるよう、お願い致します」
演説が終わると、カイハクは深々と客に頭を下げた。今までのどの瞬間よりも盛大な拍手が広い会場内に響き渡る。きっとこの音は建物外にまで聞こえているだろう。
そう。これを合図にしている人たちの耳にも。
微かに俯いて、トキはじっとその時を待つ。
「トキ、ねえ、あちらにも行かない?」
壇上を降りてきたウラハがトキの手を引こうとした時、待っていた瞬間が起きた。
「ちょっと、お客様、困ります!」
入り口で警備の男たちが妙にうわずった悲鳴を上げている。それに混じって女性たちの叫び声が会場内に響き渡った。
「どきなさい! 私はこの会場に用があるのよ!」
「何言ってるの! 用があるのは私よ!」
「ふざけないでよ! 私に決まってるじゃ無いの!」
押し合いへし合いの入り口は、やがて均衡が崩れて雪崩のように人が溢れた。色とりどりのドレスに身を包んだ、見るからに花街の女性たちだ。女性たちは目の色を変えて会場に雪崩れ込む。
その数は相当で、警備の二人だけではどうしようも無い。しかも女性たちは我先にと、タキシード姿やドレス姿の上流階級の女性を突き飛ばし、はね飛ばして会場を突進してくるのだ。
あちらこちらで悲鳴と叫び声が上がり、今まで穏やかに盛り上がりを見せていた会場が、阿鼻叫喚の嵐に襲われ、壊滅していく。
「何? 何? 何事なの!」
「落ち着いてください! 皆さん、落ち着いて!」
給仕たちや、医者たちが自分たちの客を守ろうとしても、女性たちは止まらない。その先頭に立っていた女性と目が合った。その瞬間、女性は軽く目配せをしてきたから、小さく頷く。
作戦開始。
「いたわ! ここに居たのねトキ!」
女性が金切り声を上げる。すると女性たちが一斉にトキに向かって怒濤の如く押し寄せてきた。
「トキ!」
全員の声がそれぞれに自分を呼ぶ。頼んだのは二十人ほどだったはずなのに、どれだけ面白がって増えてるんだろう。
この全員に支払う代金を思うと、溜息が出そうになる。だが金も命も掛けると決めたのだから、それぐらいは織り込み済みだ。
「え? トキ? どういうこと?」
混乱するウラハがうろたえながらトキの裾を掴んでいるところに、女性たちの集団が詰めかけた。
「ここに居たのねトキ!」
「金持ち女と結婚するって本当なの!」
「違うわよ、私と結婚するのよ!」
「何言ってんのよ、私とよ!」
女性たちの小競り合いに、ウラハが呆然とトキを見上げた。
「トキ……?」
だが女性たちの口撃は止まらない。その矛先はウラハに向く。
「こんな小娘、何が面白いのよ!」
「トキが好きなのは、この私よね?」
「ふざけないでよ、トキは私の体が一番いいって言ったわ!」
「何言ってんのよ年増! 私が一番綺麗だって言ってたわ」
「ふざけんじゃないわよ、このあばずれ!」
「何ですって!」
怒号と悲鳴に、トキはウラハを突き飛ばす。呆然とウラハはトキを見上げた。
「なんだ。早々にバレちまった」
「え……?」
「俺は博愛主義でね。あんた一人を愛するよりも、つまみ食いをする方が好みなんだ」
薄ら笑いを浮かべながらも、からかうようにウラハに向かって舌を出す。
「ちっ金になると思ったのに、あいつらときたらすぐにかぎつけやがって」
「……そんな……」
「またどっかで逢おうぜ。お馬鹿な尻軽ちゃん」
愕然と立ち尽くすウラハの頬にわざとらしく大きな音を立てて口づけ、トキは駆けだした。当然病院の外に向かってである。
「トキが逃げたわよ!」
一人が叫ぶと、全員が逃げるトキに向かって叫び声を上げる。
「逃がさないわよ!」
「今日こそ誰が好きなのか、選びなさいよ!」
逃げた方向に女性たちの塊があった。
「うわ、しまった!」
叫びながら女性たちの塊に突入すると、女性たちが全員でトキをもみくちゃにする。たまらずにトキはしゃがみ込んだ。
すると女たちの塊の中に身をかがめていた背の高い男と目が合う。トキと同じくタキシードに白シャツだ。
「トキちゃん、モテモテじゃなーい」
女たちの怒声が飛び交う中で、その男は女の口調でトキに語りかけてきた。
「うん。モテモテ。リンドウ悪いね、来て貰って」
「いいのよ。可愛いトキちゃんの頼みですもの」
リンドウは花街にある、男娼専門の店の人気者だ。背格好がトキに近いから、頼んできて貰っている。
「お礼はキスでいいわ」
「はいはい。リンドウが一番安上がりだよ」
いいながらリンドウの頬に口づけると、リンドウは嬉しそうに身をくねらせた。
「嬉しいわ、トキちゃん」
「いいから早く服出して」
「はあい」
リンドウが近くにいた女性のスカートをまくし上げて、服を取り出した。かぶるだけで着られるドレスだ。トキはそれをすっぽり頭からかり。頭には絹のショールを巻く。
「じゃあね。またお店に来てよ」
「うん。飲みに行くだけでいいならね」
「やだぁ。来てくれたら手取り足取り腰取り、いろんな所取ってあげるのに」
「だって俺女の子好きだもん」
「もういけず」
むくれたようにいうと、リンドウはトキと同じように髪を掻き上げた。リンドウもかなりの美形だ。
「行くわよ、トキちゃん」
「うん」
トキは大きく息を吸い込むと、声の限り怒鳴る。
「てめえら、放しやがれ!」
同時にリンドウがさっと立ち上がる。トキもこのどさくさで立ち上がった。ドレスのスカートが綺麗に床に落ちた。近くにいた女性が、声を上げる。
「酷い! 殴るなんて! トキなんて知らない!」
その言葉と同時に、トキは顔を覆って病院の奥へと駆けだしていく。後ろを振り返っちゃ駄目だ。トキは今、トキに殴られ、傷心の女性なのだから。
予定ではリンドウは病院の外へ女たちをかき分けながら進み、それを取り巻く女性たちも口々にトキを演じるリンドウに向かって悪態をつきながら病院の出口へと押し流されていくはずだ。
遠ざかっていく女性たちの騒ぎを後ろに聞きながら、少し膝を曲げて背を小さく見せ掛け、トキは館内を走った。水泳場も開放されていたようで、そこにも人が溢れている。トキは脇目も振らずに病院の奥へ奥へと駆け込んだ。
診察室に差し掛かる頃には、人影がほとんど無くなった。さすがにパーティの初っぱなの主催者挨拶の直後にこんな所に来る人などいないだろう。
診察室を抜け、薬局の角を曲がり、病院長室と医務室の前にある手洗いに駆け込む。しばらく息を潜めていたが、誰も追ってくる気配は無い。
来ていたドレスのスカートの中を探ると、丸く膨らんだ袋が取り付けられている。トキはそれを取りだした。中の着替えはトキの普段着だ。防寒具は無いが、タキシードもドレスも動きにくいから、着替えるのが無難だろう。
素早く着替えてから手洗いを出て、柱の陰に身を潜める。本当に隠れやすい施設で助かる。
トキは前に来た時にオウチが探っていた壁に耳を付けた。それから壁のタイルを探っていく。場所の見当はついているが、どれがそのタイルか分からない。だから周辺を探るしか無い。
ありがたいことに、皆が触るからなのか、タイルの色が一つ、手垢で変色していた。彫刻の真裏にあるタイルだ。
力を込めるとそれはあっけなくトキの手に落ちてきた。できた空間に手を突っ込むと、そこに金属の手触りがある。ごく普通のありふれたつまみ付きの回転式の鍵だった。
つまみを持って回すと、微かに鍵がはずれる音がした。タイルをそっと押すと、あの時のように扉は横に開いた。
「よし」
小さく呟き、トキはタイルを元に戻すと闇に飛び込んだ。背に付けた扉をゆっくりと閉ざすと、カチリと音がして扉が閉まる。どうやら閉ざせば勝手に鍵がかかる仕組みらしい。
内側から開ける方法は知らないが、ここをもう一度通るつもりは無いから全然問題ない。
扉を閉ざすと、自分の手すら見えない真っ暗な空間となる。小さく息を吸うと、前に来た時と同じようにトキは左に向かって進んだ。すぐにほのかに明かりの漏れる下り階段をみつける。
「順調」
ここまでは何も問題が無い。足音を忍ばせて階段を降り、この間潜んだ物陰に再び潜んで部屋の奥を見る。
やはり見張りが一人、机に座って書き物をしていた。まずこの男を何とかしなくては。
少しづつ足音を立てぬように男へと近づく。何を書いているのか、男は顔を上げようとしない。
通風口に目をやると、そこから何かが小さく振られていた。ルリだ。こちらから向こうは見えないが、向こうからはトキが見えるらしい。
軽くトキが手を上げたその瞬間、通風口の蓋が落ちた。鉄の蓋はものすごい音を立てて床を転がる。
「な、何だ!」
叫んで立ち上がった男が、通風口を見ると、そこから身軽にルリが飛び降りた。
「侵入者か!」
男の意識がルリに集中した瞬間に、トキは男に飛びかかった。全くこちらに意識など無かったのだろう。男は悲鳴を上げてひっくり返る。
その男に馬乗りになり、トキは笑顔で拳を振り上げた。
「悪い。寝ててくれ」
「や、やめっ……」
腹に打ち落とした拳が、男を黙らせた。男は口から泡を吐いて、あっけなく気絶する。
動かなくなった男から降り、ルリを抱きしめる。
「お待たせしました」
囁きながら口づけると、ルリはくすぐったそうに身をよじって笑う。
「いらっしゃいトキくん。さあ遊んでる場合じゃ無いわよ」
「うん」
「子供たちは暁神殿が引き受けてくれるわ」
「ありがとう、ルリ」
「お礼はあと」
するりとトキの腕を抜けて、ルリは牢に手をかけた。前に確認した通り鍵は無い。
「リン、ベニ、フシ、シシ。迎えに来たよ。帰ろう」
笑顔でルリはこの四人を選び出した。それを見ておかしな事に気がついた。
「あれ? ルリってこいつらの顔知ってたっけ?」
ルリはこの子たちに直接会ったことがないはずだ。なのに何故すぐに彼らを見抜いたのだろう。
トキの口調に含まれる微かな違和感に気がついたのか、ルリは振り返って困ったように笑う。
「……実は知ってたの」
「どうして?」
「前からの知り合いだったから」
「それじゃあ、ルリの目的ってこいつら?」
つい問い詰めるような口調になった。だがルリは微かに俯いて小さく首を振る。
「この子たちを助けるのも目的だったわ。でももう一つ目的があるの」
「それって何?」
「ある書類をこの世から消し去ること」
いいながらルリは、子供たちを促した。どこも見ていない子供たちは、それでもルリに従うようにゆっくりと移動していく。
通風口の下まで子供たちを連れてきたルリは、見張りが座っていた机に向かった。
そしてそこにある書類の中から一番古そうな書類を取りだし、中を捲る。見つめるルリの表情が陰った。
「それ?」
「ええ。これだけは暁神殿が来る前に処分しておきたかったの」
「前に来た時に持って行けば良かったのに……」
「トキくんの前で持ち去る勇気が無かった。けど、今は大丈夫」
何故トキの前だと持ち去れなかったのか、全く意味は分からない。だがルリはルリの複雑な事情があるのだろう。男子たるもの、女性に詮索は無用だ。
でも気になる物はきになる。迷った末、口に出してみた。
「何が書いてあるか、聞いてもいいかな?」
「それは……」
言いよどんだ途端、輝くように明るいルリの表情が、底なしの沼の底のような暗さを帯びる。やはり聞くべきでは無かった。
だからトキは明るく笑う。
「ルリの目的はそれでかなう?」
「ええ。でも今は逃げるのが先決よ」
何がこんなにルリを苦しめるか知りたかったが、ルリの言うことの方に一理あった。とにかくここから逃げることが先決だ。
トキがルリに向かって歩き出した瞬間、轟音がとどろいた。