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 家に帰ると、明かりがついていなかった。居間にも誰もいない。

「ヒワ、いるんだろ?」

 ヒワの自室の扉を開けようとしたが、扉には鍵がかかっていて開きそうも無い。

「ヒワ」

 扉を叩きながら声を掛けると、しばらくして小さく答えが返ってきた。

「……ごめんトキ。放っておいてくれ」

「怪我とかしてないか?」

「僕はしてない。ごめん、トキが怪我したんだろ」

「ん、まあ、俺は詐欺師だからね。殴られるのには慣れてる」

 強がって笑ったが、ヒワの答えは同じだった。

「ごめん、トキ」

「馬鹿、謝るなよ。お前が悪いんじゃ無いじゃん。絡んできたあいつらが悪いんじゃん」

「……ごめん」

「だから謝るなってば。出てこいよ。お茶でも飲もうぜ。お前のお気に入りのカップでさ」

「一人にして欲しい」

 それきりヒワは何も答えなくなった。寝てしまったのだろうか。まだ寝るには早い時間なのに。

 トキはヒワの扉にもたれかかった。返事は無いが何となくヒワは聞いているような気がしたのだ。

 だから扉越しに今日あった出来事を話し始めた。病院に潜入したこと、中の様子、自分がどう思ったか、そして地下の惨状。

 やはり返事は無かったが、それでもいい。ただ聞いてくれるだけで少し落ちついた。

「それで俺、選択を迫られたんだ。最初はびびっちまって答えられなかったんだけど、でも今日の軍人の話を聞いて思ったんだ。やっぱり俺、御使いを捕まえて兵器にするなんて嫌だよ。俺は詐欺師で何の力も無くて、世間の人に信じて貰えなくて、何かをできるとは思えない。けどあいつらをあんな風に木偶人形みたいにしちまう奴らはやっぱ許せない」

 もしも彼らがこれからもあの実験を続けたならば、暁神殿の渡された研究日誌が事実かを突き止める時間がかかりすぎたら、犠牲が増えるだけだ。

「俺が引っかき回したら、もしかしたらその日実験されるはずだった一人を救えるかもしれないだろ。何日もかき回したら、何人か救えるかもしれない。奴らの犯罪を証明することはできないけど、一つでも命を救えたらいい」

 静かだ。何の音も無い。

 でも何故だろう、ここに居るだけで落ち着く。

 黙ったまま天井を見上げていると、ふと耳に微かな声が聞こえた。

「トキ」

「ん?」

「君は本当に変わらない」

 小さな呟きみたいな声だった。

「進歩が無いってこと?」

「違うよ。いつも君は恐れない。僕はいつも恐れているのに」

 それを最後にヒワの言葉は返ってこなかった。

 自分はあの頃から変わらないのだろうか。

 あの頃……十年前から。

 扉に寄りかかりながら目を閉じ、トキはヒワと出会った時のことを思い出す。

 トキは物心ついた頃、すでに路上少年だった。親に捨てられたのは三歳ぐらいだったらしいが、もちろんそんな昔のことを覚えていない。ありがたいことに、その頃この界隈の面倒を見てくれていた年上の集団がいた。一番幼かったトキは、この年上集団に育てられたと言っていい。

 おかげでトキはさみしさを感じること無く、そして精神的な屈折をそれほど感じること無く、のびのびと育った。彼らに憧れ、いつかは彼らのように年下の面倒を見るのだと決めていた。

 そんな年上集団の中に、当時ユウオウがいた。だがユウオウはどちらかと言えば集団の金銭調達が専門で、面倒を見て貰った記憶はあまりない。

 この集団も、一人、また一人と軍に入ったり、就職をしたりと数を減らし、トキが十歳になる前には、ほぼ全員がいなくなってしまった。当時はまだ戦争中で、大半が喰うために軍に入ったらしい。

 ほかの年上の子たちも、トキを最低限面倒を見てくれたが、この頃になるとトキは自分で稼ぐことを覚えていた。年上集団が教えてくれたカードマジックだった。小さな手から繰り出されるマジックに、人々は大いに感心してくれたものだ。

 その頃、ヒワに出会った。

 貧困街の外れの、崩れかけた家の片隅で、ヒワは小さく身体を縮めて震えていた。その辺りはいつも誰も来ないから、暇つぶしに探検をしていた時のことだった。

 一目見て、ヒワがこの国の人間とは違う血が入っていることに気がついた。短く髪を刈られていたが、茶色の髪は短くてもよく目立った。トキよりも幼いだろうに、薄青い瞳はうつろで、全身の骨が浮くほどやせ細り、見上げられた目は死人のようだった。幼かったトキですらも心配になる有様だった。

 たったひとりで気を張って生きていたトキだったが、そんなヒワを見て『こいつは俺が面倒を見ないと死ぬな』と思った。

 だからヒワを拾った。無茶は承知だった。でもトキは寂しかった。誰かと生きたかった。ひとりぼっちは嫌だったのだ。

 一人で生きていくのも精一杯だったのに、その日からずっとトキとヒワは一緒に暮らしている。

 最初の頃、ヒワは自分の名前すら分からなかった。名前を聞くと不思議そうに『名前って?』と聞き返す有様だ。

 呼び名に困っていたら、ふたりの目の前の木に、丁度一羽の鳥が降り立った。

 黄色と黄緑と黒い鳥。

 それを見上げたヒワが赤子のように純粋な目でトキを見て、本当に不思議そうに尋ねた。

「あれは何?」

「え? どれ?」

「あの綺麗なの、何?」

 彼は当時、鳥のことも知らなかった。トキは年上の子たちに教わった知識をこれでもかと披露した。

「あれは鳥だよ。鶸っていうんだ」

「ヒワ……?」

「うん。そうそう、ヒワって言う色もあるんだぜ。ちなみに俺のトキって名前も鳥の色で、こういう色なんだ」

 トキは当時唯一自分が捨てられていたときに持っていたという布の切れ端を見せた、少々色褪せていたが、それは鴇色という色で、だから呼び名がトキだった。

 ヒワの小さな手が、トキの布に触れた。心から大切なものを愛おしむように、ヒワはひっそりと指の腹を布端に優しく滑らせて幸せそうに呟いた。

「……きれい……」

「だろ?」

 トキの自慢にヒワは今にも消えてしまいそうな儚い笑みで微笑み返し、また顔を上げて木の枝に憩う鳥の姿を目で追った。

「とりも、きれい……」

 ただつたない表情で鶸を見続けるから、トキはふと思いつき、名も無いこの子にこう呼びかけていた。

「ヒワ」

「……え?」

「お前、名前が分かんないんだろ? だからヒワでどうだ?」

「ヒワ……」

「うん。その鳥、ヒワっていうんだ。だから俺と同じ、鳥の名前がいいかなって」

「ヒワ……」

「駄目? 単純すぎかな」

 考えることは苦手だから、トキは腕を組んで呻いた。何にも思いつかない。

「ヒワがいい。ありがとう、トキ」

 本当に嬉しそうにヒワが笑って、だから何となく申し訳なかったのを覚えている。こんなに喜んでいるが、偶然近くに来た鳥の名前だっただけなのだ。もしもその時来た鳥が鶯だったりしたら、ヒワでは無くウグイスになったかもしれないし、烏だったらカラスだったかもしれない。

 今思い出しても適当でいい加減だ。

 あれから十年近くがたったが、今もヒワはヒワだった。名前は一度も思い出せないらしい。ヒワ自身はトキに適当に付けられた自分の名前を気に入っているようだ。

 手先が異常に器用だったヒワは、人から財布を摺ることに天才的な才能を持っていた。それに気がつき、二人は大人相手にスリ家業を始めることになった。トキが人懐こく大人に話しかけ、ヒワが摺る。そのおかげで二人は日々の食べ物とボロであっても衣服を手に入れられるようになる。

 もっと大きくなってから、トキは詐欺師になり、ヒワはその片棒を担いできた。時折金に困るとスリもしたが、最近はトキの稼ぎだけで暮らせている。

 自分がいないと死ぬと思ったほど、細くて弱々しかったヒワも、今は無くては成らない相棒だ。

 でも今回ばかりはその力を借りられない。彼はこんな風に軍人の暴力を振るわれることを恐れている。それなのに軍人たちの企みを阻止しようなんて言えるわけがない。

 でもトキはもう決めた。できる限りできる方法で戦うと。

 ポケットに突っ込んだままだったルリがくれた蒼と白の組紐を手首に巻き、堅く縛った。これで戦う意思表示になる。

 ヒワの扉から重い体を剥がし、トキはふらりと家を出て、夜中の街を歩き出していた。ヒワに病院での出来事を話すのに時間を食ったとはいえ、まだ夜はこれからの時間だ。

 いつものように貧困街は活気に満ちている。人々の声高な声、煮炊きの香り、路上少年たちの笑い声、大人の怒鳴り声。夜に輝くこの街を、トキはこよなく愛している。

 だがこの街で夜に属している限り、トキは何かの正義を貫こうと思っても信頼されない。

 それでいいのだろうかと、初めて思った。トキはどうしたいのだろう。このまま詐欺師として人を騙してその稼ぎで食べて行くべきなのか、それとも別の道が開けたりするのだろうか。

 目的も無く街をさすらった。吐く息だけが白くて、トキが今ここに居ることを感じさせてくれる。知り合いが声を掛けてくれば手を上げて答え、無意識に軽口を交わす。

 歩き続けてどれぐらいが経っただろうか。ふと後ろを付いてくる足音に気がついた。カイハクたちかと思ったが、彼らはトキの正体を知っているわけが無い。それに後ろの気配は、決して剣呑な物ではなかった。

 だから気付かぬふりをして、ゆっくりと人気の無い町外れまでゆっくりと歩いて行く。

 そもそもトキはその場所に行くつもりだった。詐欺師のトキではなく、一人の自分でありたいとき、トキはよくそこにいくのだ。考えている通りの人物ならば、ゆっくり話をしたかったから丁度いい。

 人の気配や喧騒が遠のくと、途端に足音だけが耳につく。トキの少し早足の足音と、軽やかで微かな足音。その重なりは決して不快では無く、一つに重なっていくほどに心地のいい拍子となる。

 未だ放置され、人気も無く廃墟になっている場所で、トキはようやく足を止めた。そういえばヒワをみつけたのもこの辺りだった。

 後ろをつけてきた気配もトキに合わせて足を止める。振り返ると、そこにはやはりルリがいた。

「こんばんわ、トキくん」

「ルリ」

 予想が当たったことはもちろん、会いたい人に会えたことが嬉しかった。トキは今回の事件と自分のことを話せる相手は、彼女しか思いつかなかった。

 ルリはこの間と違い、膝丈のスカートに、長いブーツを履き、紺色のダッフルコートを羽織っている。長い髪は後ろで一つに結って、前に垂らしていた。髪を留める太めのヘアバンドは、この間と変わりない。巻いているマフラーは、彼女の肌と同じく真っ白だった。

 トキの手首に嵌められた組紐を見て、ルリは少し寂しそうに笑う。

「決めたんだね」

「うん。君に会いたいって、ちょっと思ってた」

「……私も会いたいと思ってた。会えてよかった」

 そういうと、ルリは静かに微笑んだ。

「やっぱり諦めないんだね」

「諦めないっていうか、俺このままじゃ悔しい」

「……悔しいの?」

「うん」

 素直に頷くと、その場に腰を下ろした。元は家だったこの場所には、下草は生えてきているが、未だ土台の石畳が残されていて冷たくも心地よかった。見上げれば街の喧騒が微かに遠くに聞こえるが、ここはとても静かだ。

 ルリを見つめるとルリも隣に腰を下ろした。

「静かなところね」

「うん。一人になりたいときここに来る」

「何故?」

「家にいると、相棒に甘えちまうから。今回の件は、相棒に負担を掛けたくない。だからここに来たんだ」

「そう」

 小さく相槌を打ち、ルリは黙って街の明かりを見ていた。だからトキも別世界に存在しているような街の喧騒を見ながら口を開く。

「俺さ。詐欺師だってこと後悔したこと無かった。きっとこんなことに首を突っ込まなければ、このまま行ってたと思う」

 大人たちの忠告を無視して、今までの何も変わらない生活のまま流されるままにこの街で生きていた。

「でも詐欺師じゃ何もできないことに気がついて悔しかった。信じて欲しいと思った。あんなに酷いことを止められない俺が情けないと思った」

 ルリに詐欺師だと話すことが、詐欺師だと知られていることも恥ずかしかった。

「でもそれってさ、今まで俺が生きてきたことを否定することになるじゃん。詐欺師の自分を自分で否定することになる。それも嫌だった」

 こうして生きてきた。自分も、ヒワも、子供たちもこうやって支えてきた。生活をするために詐欺師でいることは、むしろトキの誇りですらあった。

「だけど俺思ったんだ。自分を誇れる人になりたいって。人を騙すことで自分が利益を得ることよりも、俺の手で稼げることがあったら、俺の手で切り拓きたいって」

 石畳についていた手が、ふわりと温かくなった。手袋をしていない冷え切った手を、ルリが優しく握ってくれたのだ。トキもその手を握り返す。冷たく冷えた石畳も、二人の体温で少しずつ暖まっていく。

 不思議だ。ルリと一緒にいるだけで世間の喧騒が妙に遠い気がする。黙ったままなのに、その時間が心地よく、ただこの場にいるだけで満たされる。

 握り合った手を、どちらからとなく絡めるようにゆっくりと指で繋いでいった。放したくなくてきつく絡めた指は、ぬくもりを失わぬよう互いの体温を上げてゆく。

「トキくんは、変わりたいの?」

 やがてルリが優しく聞いてくれた。

「……変わりたいんだと思う」

「何故?」

「堂々と俺を頼ってきた奴らを助けたい。『かいなの園』でも堂々とあいつらの世話役であるって言い切りたい。ヒワを脅す軍人とも対等にやり合いたい。詐欺師風情がって馬鹿にされる存在でいたくない。ルリに自分を誇りたい」

「私にも?」

「うん。君にも」

 薄青い目をこちらに向けて、ルリが見上げてくる。瞳が夜を映して瑠璃色に見えた。トキもその神秘的な瞳を見つめ返した。

 不意にルリの目が細められる。

「いつもそう言って女の子を騙しているんだ?」

「違うよ。ルリは騙せそうに無い」

 何故か彼女の前で虚勢を張れなかった。最初から情けない姿を見られているから、気持ちを立て直した頃にはもう何もかも知られていた気分だ。

 それに彼女はトキをずっと見張っていたのだから、ウラハを騙していたことも、街中で毎晩ペテンをして金を稼いでいることも知っているだろう。

 だから偽る必要が無い。それがとてつもなく楽であると、初めて知った。こんな風に何も構えずにいられる相手なんて、今までヒワしかいなかった。

「ルリは、何だか他の子と違う。不思議だけど、落ち着くよ」

「そう?」

「うん。ずっと一緒にいたみたいだ」

 小さく呟くと、トキの手を握るその力が微かに強まった。トキも強く握り返す。

「私もそんな気がする」

 小さいが確信をもってルリが頷いた。

「だよね。運命の出会いっぽくない?」

 いつもの詐欺師口調で言うと、楽しげにルリが笑う。

「それは詐欺師っぽい」

「そう。こうやって女の子を騙してた」

「やっぱり」

 こんな風に笑ったのを初めて見た。硬質な瑠璃色に、ほのかな薄紅色が差されたような幸せのにじみ出る微笑みだ。出会ったときからずっと張り詰めたように堅かった表情がようやく綻びて、彼女の持つ本当の表情を見た気がする。

「トキくん」

「何?」

「諦めないって言ったでしょ? それに詐欺師をやめたいって言ったよね?」

「うん」

「考えがあるから、手首にそれを結んだんでしょう?」

 ルリの視線が真っ直ぐにあの組紐に向いている。トキは黙って頷いた。

「戦うのね? カイハクとオウチと」

「戦うよ」

「どうするの?」

「あくまでも詐欺師として、詐欺師の正攻法で。俺の今まで稼いだ全財産と、俺の命を賭けて一か八かの勝負を賭ける」

「それじゃあ詐欺師じゃ無くて博打打ちよ」

「かもしんない。だけど負けたら俺は死ぬと思う。死ななかったとしても廃人になる」

 脳を掻き出され、汚物に塗れたあの人々の中に、加わる事になるのだろう。

「でも勝ったら……」

「勝ったら?」

 俯くと、顔を覗き込まれた。

「恥ずかしいんだけどさ、絶対に絶対に誰にもいうなよ、ルリ」

 ルリの人間関係など知らないが、一応そうやって念を押しておく。

「言わない」

 真剣な顔でルリが頷いた。だから一呼吸置いて正直に話した。

「俺、ユウオウみたいな記者になりたい」

「……トキくん……」

「いっつも馬鹿にされて、悔しくて、憎たらしくて、でもユウオウは絶対に折れない。いっつも何を言われても平気な顔で戦う。ずっと認めたくなかったけど、俺はいつも……格好いいなって、ああなりたいなって思ってた。ユウオウは憧れの人なんだ」

 だから馬鹿にされるほど腹が立った。詐欺師と蔑まれると反発したくなった。自分を育ててくれた年上集団の中で、唯一未だに接点を持つユウオウだからこそ、反発せずにはいられなかった。

 でも本当はああいう大人になりたくて、ずっと憧れていた。

「子供だったんだ、俺。突っかかることしかできないんだ。でも俺はユウオウみたいになって、堂々と世間と渡り合いたい。正しいことを正しいと主張できる男でありたい」

 小さく、だが決意を持って言うと、不意にルリに抱きしめられた。

「ルリ?」

「勝とう、トキくん」

 力強い言葉だった。

「絶対に勝とう」

 頭の中で何かが弾けた気がした。強くルリを抱き返す。

「俺は……負けない」

「うん」

「今までの詐欺師人生全部を掛けて、俺は勝つ」

「うん」

「君の目的が何なのか、俺は知らない。けど、もしも同じ目的を持っているなら、一緒に来てくれる、ルリ?」

 抱き合ったまま囁くとルリはその澄んだ瞳でトキを見上げ、ふわりととろけそうな優しい微笑みを浮かべながらトキの唇を自分の唇で優しく塞いだ。

 トキも抱きしめ返して、心にこみ上げる愛しさを込めて、深く唇を重ねた。幾度となく重ね合う唇は、冷たくとも柔らかくて、触れあうことで生まれる熱はトキを力づけた。

 微かに離れた唇の隙間から、吐息混じりにルリが決意を持って囁いた。

「一緒に戦うわ。お互いの目的のために」

「うん」

「そして私たちは勝つ」

「絶対にだ」

「絶対に」

 再び唇が重なり合った。思った以上の力強さで、縋るように抱きついてきたルリを、強く抱きしめ返した。下草の生えている地面にそのまま倒れ込むようにしてトキはルリを抱きしめる。

 地面が冷たくないように、彼女が頭を打たないように配慮して、首に腕を回した。地面に押し倒した彼女がまるで花びらが綻んでいくように優しく微笑んだ。

 心の中に感じたことのない思いがわき上がってきた。心も身体も元から一つだったみたいに、彼女となら全てを分かち合える、そんな気持ちだ。

 この感情を、愛おしいって言うのかもしれない。

 人を騙すことにばかり夢中で、自分すらも偽り続けてきたトキは、初めて素直に、何の策略もなく、ルリの全てを欲しいと思った。

「ルリ」

「何?」

「あんな状況で出会ったばかりだし、情けないところを助けて貰ったけど、君を好きだって言ったら、笑う?」

 正直な気持ちだった。初めて何の嘘偽りも無い気持ちを彼女に伝えられた。

「笑わない。じゃあ私も好きだって言ったら笑う?」

 そう尋ねたルリの目も、口調と反して真剣で、トキは黙ったまま唇を塞いだ。それから強く抱きしめたまま、耳元で告げる。

「……笑わない。好きだよ、ルリ」

 抱きしめたその身体は、闇の中で一つに絡み合う。夜の闇は全てを包み込み、無言のまま二人に優しく降りてくる。

 お互いの体温を、そして先の分からない命を失いたくは無いから夢中で溶かし合い、分け合って、その心ごと互いの身体へと残してゆく。

 二人が感じ合ったのは、この先も生き続けるという決意を宿したお互いへの想いと、重なり合う心臓の熱い鼓動だった。



 ルリと再会して決意を告げ、彼女と愛情を重ね合った翌日、トキは公園にいた。

 もちろんルリではなく、ウラハと共に。

「病院へ行ったよ。診察は受けなかったけどね」

 トキは公園でウラハ相手に絵を描く振りをしつつ話しかけていた。

「やっぱり。先生たちは来なかったって言ってたわ」

「だろうな。途中で馬鹿馬鹿しくなっちまって、帰ったんだ」

「どうして?」

「俺のような貧乏人が行く場所じゃねえ」

 吐き捨てるように言いながら、スケッチブックに絵筆をなすりつけた。

「そんなこと無いわよ! 私の紹介だったじゃない。堂々としていればいいのよ」

「とはいってもしがない画家だ。生活が違いすぎる」

 そういうと手を止めて、微かにウラハに向かって微笑んで見せた。

「悪いがあんたと俺は世界が違う。いい加減に俺から離れろ」

 突き放すようにいうと、ウラハはここで萎れたようにうなだれた。その唇からは、小さく悲しげな呟きが漏れた。

「だけど、私はあなたが好きなのよ……」

 彼女とこの場所で話をするようになって五日目。ついに彼女が折れた。今まで一度も口にしなかった気持ちを、ようやくトキに明かしたのだ。

 第二段階も終了だ。

 心の中でほくそ笑みながらも、冷たく言い放つ。

「そんなこと言われてもな。あんたにはあんたにふさわしい男がいるぜ。俺に構うなよ」

「ふさわしい男なんていらない。あなたがいいの!」

「困ったお嬢様だ。俺と一緒にいたいなんて親に言って見ろ。卒倒するぜ?」

 スケッチブックに目を落とす。そこには、色がついてきた風景画がある。

 トキが目覚めると朝一枚ずつ絵が増えていく。部屋から顔を出さないくせに、律儀にヒワが描いているのだ。

 驚くべきことに、ウラハらしき女性のデッサンも最近は描かれている。一体どこで彼女の顔を知ったのか、ヒワの情報網は謎すぎる。

 一枚につき鉄貨五枚だから、一体何枚支払えばいいのだろう。会計時が怖い。

「あなたが私にふさわしいって、親に納得させるわ」

「はぁ?」

「だってあなたしかいないもの!」

「でも俺は貧困街出身の画家だ」

「知ってるわ。それがどうしたって言うのよ。芸術家に身分は関係ないわ」

 燃え上がるような情熱で、ウラハはそう断言した。そんな彼女に少しだけ胸が痛む。初めてルリと逢って、恋を知ったからかもしれない。愛し合うことの心地よさを知ってしまったら、ウラハが少し哀れに感じた。

 この件が終わって俺に騙されたと気付いたら、まともな相手を探してくれと、祈るしか無い。

 だがここで計画を台無しにはできない。詐欺師としての最後の大勝負なのだから。

「でもあんたの親は軍のお偉いだったんだろ? 芸術家とは最も遠いぜ?」

「それはそうだけど、でもお父様は分かってくださるわ。だって私を愛しているもの」

 娘を愛しているからこそ、こんな男を連れて行くのは許さないだろう。だがそれを言ってしまえば話が流れてしまう。

 トキは今、第二の作戦に移ろうとしていたのだ。それは堂々と正面から病院に乗り込み、会場で騒ぎを起こして子供たちだけでも解放することだ。檻の鍵はかかっていないことは、この間の潜入で確認した。後はパーティで騒ぎを起こすだけだ。これに関しては、着実に準備を始めている。

 あとはトキがウラハを嵌めて、パーティへの招待状を手に入れるだけだ。

「きちんと身なりを整えればあなたは素敵だもの。絶対にお父様は気に入ってくれるわ」

「服なんぞ、持ってない」

「私が買うわ」

「いらない。少し黙ってくれ」

 しばらくウラハを無視して絵を描く振りを続ける。黙ったままの空気の重さに、ウラハが焦れ始めるのを確認して、ウラハが口を開くために息を吸った瞬間を狙って口を開く。

「俺はさ」

 今までのにやけた笑みを引っ込めて、真剣にウラハを見つめる。

「君が思うような男じゃ無い。君を想う資格は無い」

 微かな陰を見せつけて、自嘲の笑みを浮かべてみせる。

「絵描きと言っても、才能があるかも分からない。女性を幸せになどできない」

「……トキ……」

「君の幸せを想うからこそだ。悪いが俺から去ってくれ」

 人生の陰と人間性の渋みの成分をたっぷりまぶした表情に、微かな笑みを混ぜる。これで本当は君を愛しているのだと相手は感じ取るはずだ。飲み屋の男たちに男の哀愁だけは死ぬほど教わってきたのだから、こんな顔は得意中の得意だ。

 案の定、ウラハは迷い無くトキに抱きついてきた。

「そんなこと無いわ。それなら私があなたを幸せにしてあげる。そんな不幸な顔をしないで!」

「だが俺は……」

 苦悩の表情、ええっと、こんなもんかな。

 心の中で呟いて、微かに伏せ目がちに彼女から視線をそらした。ウラハは面白いようにトキの策略に落ちていく。

「苦しまないで。大丈夫、私がいるわ。私、お父様を説得する」

「どうやって?」

「家に来て」

「気が重い」

「じゃあパーティはどう? さりげなくお父様にあなたを紹介するわ。ねえそれなら少し気が楽でしょう?」

「……そうかな?」

「そうよ! ねえ、今度、病院の十周年記念パーティがあるの。病院のパーティルームとラウンジを使って盛大にね」

「へえ」

「そこにあなたを招待するわ」

 一丁上がり。

「……分かった」

「じゃあこれから買い物に行きましょう! 服を仕立てさせるわ!」

「今か?」

 わざとまた嫌そうな表情を作ったが、ウラハは強引にトキの手を引く。

「ええ、今よ。行きましょう、トキ」

 気が進まないという表情のまま、トキはウラハに引かれるままに立ち上がり、スケッチブックをたたんで水彩絵の具を片付けた。

「私の行きつけの仕立屋に仕立てさせるわ。あなたのタキシードをね」

「面倒だな」

「仕方ないじゃ無い。きっとあなたは素敵だわ」

 ウラハに手を引かれて歩きながら、微かに後方に視線を向ける。かなり離れたところに、女性が一人座って本を読んでいた。

 顔を上げた女性に、ウラハに見えないように小さく合図を送る。首尾上々の合図だ。

 女性……ルリは、微笑んで本を閉じて立ち上がった。トキが動けない間、ルリが準備を進めるのだ。

 子供たちを連れ出すため、通風口に様々な道具を仕込まねばならない。階段、子供たちの服、それからトキが脱出後に着る服だ。

 それから、ウラハに服を仕立てられた後、トキ自身も動き回る必要がある。行き付けていた、といっても便利屋のようにこき使われていた、馴染みの花街の店と、ツツジの店へ行くのだ。

 全て五日後のパーティのために。 

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