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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人食いシャムロック

作者: 秋月雅哉

地球は罪を犯した天使達の流刑地だと聞く。

私は明日、其処へ向かう。

罪を犯したわけではない。

姿も持たない下級の精霊天使である私に、罪を犯す力などない。

では何故流刑地に送られるのか。

――遊び、なのだそうだ。

肉体を得、一つの大罪を背負って尚、天使としての自覚を保てるか。

それとも大罪に蝕まれ流刑地で殺されるのか。

そんな上級天使様達の、いつもの戯れ。

私達は道具。

私達は玩具。

歯向かう事は赦されない。

あぁ、神よ、創生神よ。

貴方が真にいるのならば。

何故このような残酷な仕打ちを?

命は平等ではなかったのですか?

創生神が住まうという神の塔は此処からでは見えない。

雲の上のその上。

証を持った上級天使にしか、その扉は開かない。

今まで幾人の精霊天使が死んだのだろう。

私は何度、その声にならない断末魔の悲鳴を聞いてきただろう。

上級天使様の娯楽のために私達は生まれてきたのか?

力持たぬ者は生きる事さえ赦されないのか?

名前すら持たず、ただ消え逝く命なら。

意思など、必要なかったのに。

そうすれば何も考えずに、何も疑わずに消えて逝けたのに。

世界は、残酷だ。

翼を奪われた天使達の流刑地はどんな場所だろう。

彼らの子孫は自らが元は天界の住人の血を引いている事を知っているのだろうか。

知っているのならば何を思うのだろう。

流刑地に行くのが恐ろしい。

死ぬのが怖いのではなく。

罪を犯すのが怖いのでもなく。

『流刑地』が恐ろしい。

楽園(エデン)は花咲き乱れる場所。

私達は飢えを知らず、病を知らず、凍える事を知らない。

何時も穏やかな風が吹き、小川のせせらぎや木のさざめきを聞きながら穏やかに過ぎていく時間。

上級天使様達はその暮らしに飽いている。

だから私達を使って暇を潰すのだ。

けれど此処は美しい。

多くの者は安寧に生き、安らかに逝く。

私が、数少ない例外に選ばれただけで。

流刑地(地球)はどうなのだろう。

待っているのは荒廃した大地だろうか。

血の匂いのする風だろうか。

濁りきった川だろうか。

殺伐とした時間だろうか。

見かけは美しい楽園と、どちらが住みよいのだろう。

「出国だ」

…あぁ。

楽園で過ごす日々が、終ってしまった。

光が満ちる。



鳥の声が聞こえた。

土の香りがする。

少し冷たい風が吹いた。

「………此処、は…」

流刑地?

「アンタ、大丈夫かい?」

威勢のいい声。

今知覚したのは罪人の子孫の声?

其処で私は自分に手がある事に気付いた。

「ちょっと、大丈夫かい?」

「…私、ですか?」

掠れた声はきちんと相手に届いた。

今まで形も、声も持たなかったのに。

溢れんばかりの光に目から涙が零れる。

「どうしたんだい、そんなに泣いて」

「…此処は、何処ですか……地球、なのですか…?」

「…はぁ?地球以外の何処に人間が生きてるって言うのさ」

「…そう、ですね。地球…ですよね」

美しい。

瞬きすれば涙がまた一筋。

「アンタ、名前は?」

「…ありません」

「ないって…」

「誰も、呼んでくれかなったんです」

それが当たり前だった。

誰かと言葉を交わすなど、夢ですら叶わないと思っていた。

「訳ありみたいだね。帰る場所はあるのかい?」

「…いいえ」

「なら教会へおいで」

「教会?」

「神様を敬う場所さ」

此処にも…流刑地にも教会があるのか。

追放された民達は、誰に祈りを捧げるのだろう。

「さぁ、行くよ」

「…はい」

上手く歩けない私を見て、恰幅のいい女性は手を繋いでくれた。

その手はとても温かく、私は彼らが罪人だとはどうしても思えなかった。

「みんなー!集まりな!新入りだよ」

わらわらと集まってきたのはまだ子供といって良い年齢の罪人ばかりだ。

「シスター、その人の名前は何ていうの?」

「っていうか男?女?」

「名前はないんだってさ。お前達、つけてあげな」

「はーい!」

沢山の視線が私に向けられ、私は居心地が悪くなって身動ぎした。

「好きな物はなぁに?」

舌足らずな少女の声。

「………分かりません」

「分からないの?」

「好きとは、なんですか?」

「んーっとね…ずっと見ていたいものとか、触りたいものとか。傍にいて欲しいものとか」

好きな物。

ずっと見ていたいもの。

触りたいもの。

傍にいて欲しいもの。

「……花、でしょうか」

「お花?私もお花大好き!一緒だね!」

笑顔が向けられる。

違う。

この人達は罪人なんかじゃない。

此処は流刑地だとしても。

楽園よりずっと美しい。

「どうしたの?」

「え?」

「どうして泣いているの?」

「…分かりません。けれど」

「けれど?」

「…多分、嬉しいんです」

例え罪を背負ってこの地に来たのだとしても。

例え来た理由が上級天使様達の遊びだとしても。

「…此処に来れた事が、嬉しいんです…」

「嬉しい時はね、笑うんだよ」

「笑、う…?」

「そう。笑うの」

先刻まで身体がなかった私には、笑い方が分からない」

周囲を見て口の端を緩めてみる。

酷くぎこちないのが自分でも分かった。

「名前、どうするの?」

少年が口を挟む。

「シャムロック、は?」

「三位一体の象徴だね。…どうだい?」

三位一体?

「気に入らない?」

「いえ…此処は何を奉っているのですか?」

「創造主様よ」

シスターと呼ばれた女性が語ってくれた天地創造の話は私が知っているものと殆ど同じだった。

聖ガブリエル様が受胎告知をした聖母マリアという女性とその子、イエス・キリストについてはしらないけれど、その話以外の多くは事実だ。

確かに天使は存在する。

…本当にこの人達が信じるように清らかなのかは、別として。

「シスター。お祈りの時間だよ」

「あら、じゃあ行きましょう。…アンタもおいで」

「シスター、言葉遣いが悪くなってるよ」

「どうにも慣れなくてねぇ」

笑いのさざめきが広がる。

「アンタはあたしの言う言葉を繰り返して言うだけでいいよ」

「…はい」


「Benedicta tu in mulieribus

(御身は女のうちにて祝せられ)

 et benedictus fructus ventris tui, Iesus.

(胎内の御子イエズスも祝せられたもう)

 Sancta Maria, Mater Dei,

(天主の御母聖マリア)

 ora pro nobis peccatoribus, nunc et in hora mortis nostrae.

(罪人なる我らの為に 今も臨終の時も祈り給え)

 Amen.

(まことにそのようでありますように)」


シスターの言葉に続いて子供達が祈りを捧げる。

敬虔なその姿に私は感動と申し訳なさを覚えた。

聖母マリアという女性がどんな方だったのかは知らない。

けれど天使についてなら多少知っている。

美しい外見に、醜い心。

戯れで精霊天使を殺める事に罪悪感すら抱かない無垢な悪。

聖ガブリエル様にお会いした事はない。

けれどもし聖母マリアと聖人イエス・キリストの誕生が天使の戯れだったら?

「シャムロック?」

「…済みません。皆さんは信心深いのですね」

「人は何かに縋る生物だからね」

「…何かに縋る?」

「希望も未来も見えなくなった時、もう一度歩こうって気になる勇気…かね」

私は何に縋るのだろう。

楽園の醜さを知っている。

流刑地の美しさを知り始めている。

「アンタにはないのかい?生きていく上で必要不可欠なもの」

「……考えた事もありませんでした」

「…そうかい。そいつが幸せなのか、不幸なのかあたしには分からない。けれど見付けてみるのも悪くないんじゃないかい?」

「…そうですね」

「アンタは綺麗な目をしてるね」

シスターが目を細める。

私の目が綺麗?

違う。

綺麗なのは貴方達の方だ。

貴方達の目が美しいのであり、貴方達の心が美しいのだ。

私は生きる事を諦めていた。

与えられる現実に歯向かう事もせず、ただ嘆いていた。

そんな私の目が美しい筈がない。

「きっとアンタはこれからもっとたくさんの事を知っていく。そして傷付いて、それでも立ち上がれた時。アンタの心と目はもっと綺麗になるよ」

あぁ。

この世界は美しい。

楽園は形だけの美しさだった。

満たされるのは上辺だけだった。

此処にはきっと辛い事も沢山ある。

けれどだからこそ心から満たされる事もあるのだろう。

「傷付いて、立ち上がれなかったらどうなりますか?」

「誰かに助けを求めれば良い」

「…助けてくれる人は、いるでしょうか」

「アンタの心に神がいる限り」

「神…」

「神様ってのはね、信じる人の心の中にいるんだ。神様は助けちゃくれない。でも見守ってくれている。その視線に恥じない自分でいられるように己を律するんだよ。そうすれば幸せになれるってアタシは信じてる」

そう、神は救いの手を差し伸べない。

死に逝く精霊天使にも、おそらくこの世界の住民にも。

「誰かが自分を見守ってくれてると思えるから頑張れる時がある。創造神を信じるというより…自分を信じてるのかもしれないね」

「ではあの祈りは?」

「『自分が自分でいられますように。今日も明日もより良く生きる事が出来ますように』っていうおまじないさ。…お陰で他の教会の連中には疎まれてるけどね」

自分自身の中の『神様』に向けた祈り。

「何かある度に救いを求めて、求められるままに救いの手を差し伸べてたら人間が駄目になっちまうよ。自分の事は自分で解決しなきゃ成長できないんだ。…違うかい?」

「…多分、違いません」

「アタシは本当の意味で『救う』っていうのは見守る事も入ってると思うよ。誰も見てくれていないのと心の中の誰かが見てくれてるのとじゃ、大違いさ」

「そういうものでしょうか」

「怠けたくなった時。逃げ出したくなった時。苦しい時。誰も見ていてくれなかったら楽な方へ逃げちまう。でも、自分の信じる誰かが心の中にいれば、その誰かに恥じない自分で在るために踏み止まれるのさ」

「……素敵な考えです」

「そんなに大した考えじゃない。アタシは弱い人間だからね。縋るものがないと駄目なんだ」

シスターはそう言って豪快に笑う。

弱いのは、私の方だ。

「アンタの目は綺麗だけど、どこか悲しそうだね」

「………」

それは、きっと。

今まで当たり前だと思っていた現実の空虚さに気付いてしまったから。

「髪も、太陽の光を集めたように綺麗な金だね。目は命を生み出す海の色だ」

自分の容姿を私は知らない。

鏡を貸して貰って初めて自分と対面する。

肩の辺りで切り揃えた金髪。

綺麗かどうかは分からないけれど、確かに悲しげな目をしていた。

これが、私。

精霊天使だった頃は姿も名も持たなかった。

此処にきて肉体と名を得た。

…しかし此処へきたのは罪を背負った下級天使がどうなるかという実験のため。

大罪、としか聞かされていない私の罪とは何なのか。

私はその罪に耐えられるのか。

私の中に、神はいるのか。

「さぁ、食事にしよう」

「…はい」

食事をするのは初めてだ。

精霊天使だった頃は大気からエナジーを吸収して生きていた。

身体を得た今、食事を摂らなければ活動停止…死が待っている。

食卓に並べられたのは固そうなパンと具の殆ど浮いていないスープ。

少量の野菜。

それを見た瞬間【何か】が駆け巡った。

眩暈がする。

鼓動が激しくなる。

気持ち悪い。

食べたい。

食べたい、のは。

「どうしたの?」

「シャムロック、早く食べようよ」

その血が脈打つ首筋に噛み付いて。

やめろ。

血を浴びながら柔い肉を貪って。

やめろ。

痛みに絶叫する子供達の肉を。

やめろ。

食べたい。

やめろやめろやめろやめろ止めろやめろやめろヤメロやめろヤメロヤメロ止めろ!!!!

食べたい。

食べたくない!

温かな生き血を飲み干したい。

食べたくない!

脳髄を啜って。

食べたくない!

眼球を噛み潰して。

食べたくない!

生肉に飽いたら焼いて。

嫌だ!

焼くのに飽きたら煮込んで。

嫌だ!

人間を。

――食べたい。

「シャムロック?」

食べたい。

「大丈夫?」

食べたい。

「顔色悪いよ?」

食べたい。

「何か嫌いなものがあるの?」

首をへし折って殺したい。

「凄い汗…ねぇ、大丈夫?」

頭を鈍器で殴って殺したい。

「シャムロックってば」

殺した端から食べていきたい。

「ねぇ!」

食べながらじわじわと死に至らしめたら、この子供達はどれ程甘美な悲鳴を聞かせてくれるだろう?

「シャムロックってば!」

その肉は、その血はどれ程この心と身を満たしてくれるだろう。

「しっかりしてよ!」

「!」

漸く自分の異常な思考から抜け出せた。

人を、食べたい。

それが私の罪?

「何かあったのかい?」

「…いえ。……食事は遠慮しておきます」

普通の食べ物の匂いに吐き気がする。

この身体は多分人間の血肉しか受け付けない。

「…確かに、大罪ですね」

「え?」

「何でもありません」

「…部屋に案内するよ」

名前をくれた。

手を差し伸べてくれた。

笑いかけてくれた。

気遣ってくれた。

その人達を、食べたいと思うなんて。

上級天使様方はやはり残酷だ。

このような、罪を負わせてこのような綺麗な場所へ送り出すなんて。

私は醜い。

私はバケモノ。

誰かを食べたらきっと歯止めは効かなくなる。

食べたくない。

どんなに空腹でも。

私の心を救ってくれた人達を、喰らいたくなどない。

どんなに喉が渇いても。

私を受け入れてくれた人の生き血など啜りたくない。

だから。

――食べない。



それからどれ位の月日が経ったのか、分からない。

殆ど部屋に篭っていて出来るだけ教会の人達と接触を避けた。

空腹も、喉の渇きも限界だった。

…此処を出て行かなければ。

そう思うのに身体が動かない。

食べたい。

食べたくない。

食べたい食べたい食べたい。

食べたくない!

堕ちてしまえば楽になる。

けれどその道は選びたくない。

どんなに苦しくても。

食べたくないから、食べない。

「シャムロック?」

呼ばないで。

私の名を呼ばないで。

近付かないで。

私に貴方達の存在を知らしめないで。

お願いだから。

食べたいという思いを抑えきれないから。

「シャムロック!」

私じゃない。

それは私じゃない。

私はただの下級天使。

精霊天使。

名も身体も持たぬ玩具。

だから。

人を食べたいなんて、思う筈がない。

大気からエナジーを得て生きているんだから。

何かを食べたいと思う事なんてない!

「開けるよ!」

駄目。

開けては駄目。

もう

抑えが

効かない

「…入ってこないで下さい……っ…」

「何故?」

「……っ…!」

「どうしてアンタは食べる事を拒絶する?」

貴方達を。

「食べたくない」

「…今日はね」

シスターが沈んだ声で話しかける。

「…お葬式なんだよ」

「…?」

言われた言葉を理解するのに大分時間がかかった。

「子供が一人死んだんだ」

「え…」

「アンタに『シャムロック』って名前を付けた子、覚えてるかい?」

「…は、い…」

「あの子が病気で亡くなったんだよ」

そんな。

「…嘘だ」

「嘘じゃない」

「……嘘だ」

「嘘じゃないんだよ」

「嘘だウソだ嘘ダ!」

「シャムロック!人は死ぬんだ!受け入れな!」

「!!」

「…あたしだって認めたくないさ。でも人は、死ぬんだよ…」

「………そんな」

名前をくれた。

手を差し伸べてくれた。

笑いかけてくれた。

気遣ってくれた。

あの子が、死んだ…?

「…お葬式、出てやってくれないかい」

「………私、は…」

「頼むよ」

「……分かりました」

久し振りに見た空は青かった。

あの子は死んだのに。

世界は変わらず廻り続ける。

お葬式の内容は、よく覚えていない。

ただ涙が流れたし、他の皆も泣いていた。

「私の父の御心は、子を見て信じる者は皆、永遠の命を受け、終の日にはその者を復活させる」

神を信じる者は復活の日に永遠の命を得られるのだという。

…この教会の人達は救われるだろうか。

神は人を救わない、とシスターは言った。

ならば復活の日などこないのではないか。

少女の死顔は安らかで眠っているようだ。

精霊天使だった頃身近だった死とは違う。

あれは今思えば『消滅』だ。

「……シャムロック。アンタは死についてどう思う?」

「…惨い、ものだと」

「そうだね。…とても、惨い」

沈黙。

皆は死を心から悼んでいる。

私もそうありたかった。

けれど。

…食べたい。

その思いが膨れ上がる。

死肉が腐る前に。

食べたい。

どうしても。

食べたい。

生きるために。

食べたい。

誰もこの死を悼んでくれなくても。

死にたくない。

食べたい。

生きたい。

「シャムロック…」

「……」

神はどうして私の様な存在を赦すのだろう。

殺してくれれば楽になれるのに。

食べたくないという理性。

食べたいという本能。

矛盾する二つの衝動で身体が引き裂かれそうになる。

「………い」

「え?」

「食べ…たい」

「シャムロック?」

「食べたくないのに…食べたいんです」

あの子の亡骸を。

此処にいる子供達を。

食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたいたべたい食べたいタベタイ食べたい。

食べて空腹を癒したい。

でも食べたくない。

血が飲みたい。

でも飲みたくない。

「シャムロック…?」

「あの子の亡骸を、食べてしまいたい」

「!?」

「こう思うのは罪ですか…?」

「本気で…言ってるの…?」

「私は初めて食事を拒んだ時からずっと人を食べたくて仕方なかった。でも食べたくないから食べなかった。どうして、どうして他の生物を食べる事は罪ではないのに人間を食べる事は罪なんですか人間じゃない私が人間を食べても罪なんですかどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてドウして!?私が何をしたただ上級天使の言いなりになって死ぬだけの命なのにどうしてこんなに苦痛を?何故貴方方は上級天使を敬うのですか、悪魔の様な所業を知っているのですか私はただ生きていただけなのにどうして!!」

シスターの目に浮かんだ恐怖の色が怖かった。

蔑みの色に変わるのが怖かった。

拒絶されるのが怖かった。

だから。

「…っぁ…シャム…ロック……」

喉に噛み付いた。

骨を砕き血を啜る。

絶叫が、辺りに響いた。

子供達の首をへし折った。

近所の住民を殴り倒した。

神父の頭を石で叩き割った。

静かになった。

もう誰も動いていなかった。

あれ程我慢していたのに。

あれ程壊したくなかったのに。

全て、壊れてしまった。

否。

壊してしまった。

――もう我慢する必要はない――

誰かの声がした。

――食べてしまえばいい――

眩暈と共に

――誰もお前を咎めない――

甦る記憶



精霊天使として生まれる前、私は人間だった。

生まれた村は酷く貧しかった。

口減らしにと赤子や老人が殺された。

そして、食べられた。

私も、その一人だった。

魂だけになった私を、光が包んで。

私は精霊天使になった。

あれは哀れみだったのだろうか。

それとも慈悲だったのだろうか。

どちらにせよ私は前世から人喰いの因果の鎖に囚われていたのだ。

上級天使が選んだのは私が私だったからだ。

かつてその身を食べられた側の人間が食べる側に回るのか、食べないまま死を迎えるのかが知りたかったのだろう。

食べたくなかったけれど食べたくて仕方なかった。

今も血の匂いが芳しく感じる。

そんな自分が疎ましい。

シスターの亡骸の横に跪く。

血が衣類を汚した。

肉片を指で千切って口に運ぶ。

蕩けるように甘かった。

「…葡萄酒がキリストの血、パンがキリストの肉なら…貴方達だって同族を喰らって生きてるじゃないですか…貴方達に、私を責める権利はない」

そう、最初からこうすればよかった。

無駄な情がわく前に。

無駄な時間を過ごす前に。

無意味に悩む前に。

こうして食べてしまえばよかった。

ほら、シスターが()を見てる。

あの時僕()が母さん(・・・)を見た時と同じように、死人の目で。

『僕』?

『母さん』?

()は食べられて母さん(・・・)の血肉になった。

目の前にいるのは 誰?

虚ろな目。

冷たい手。

………。

「……シスター(・・・・)?」

()が食べたのは。

のろり、と辺りを見渡す。

惨状が改めて視界に入った。

全員、私が殺した。

私を心配してくれた子供達。

言葉を交わした事のない人々。

誰も、息をしていない。

シスターに至ってはその身を口にした。

「ああああああああああああああぁぁぁぁああぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁああああああああああああああぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!!!」

自分の声とは思えない程の声量で絶叫が迸る。

このまま喉が避けて死んでしまえればいいのに。


「やれやれ、無様だね」


声が、聞こえた。



辺りに立ち込める血の匂いに『彼』は顔を顰めた。

壊れたように叫び続ける少年。

「姿が変わったね。人を食べたんだ?」

ゆらゆらゆらり。

澱んだ目はかつて青かった。

血で固まった髪はかつて太陽の光を集めたような金だった。

今は血の色をした目。

今は闇の眷属の証である黒髪。

面差しだけは変わっていない。

悲しげだった眼差しは絶望色に染まった。

「全員、殺したんだ?」

「あ……あぁぁ…私、は…」

「殺された側の人間なら、死ぬ苦しみを本能が覚えてると思ったんだけどな。殺しちゃったんだ。…人間って結局、救いようがないのかな」

「貴方、は…」

「僕を忘れた?君を精霊天使にしてあげたのは僕だよ。泣き声が五月蝿かったからね」

『彼』は少年に笑いかける。

一見穏やかな、けれど気付いてしまえばその冷たさに凍える笑みだった。

「精霊天使だった君を流刑地に送ったのも僕。人間の罪深さを実証するためにね」

『彼』が一歩踏み出す。

「これで人間を滅ぼす口実が出来たよ。有難う」

「……ぁ……っ…」

「僕はね、人間が嫌いなんだ。元人間の、君も。愚かしくて見ていて腹が立つよ」

『彼』が手を翳す。

それに呼応して炎が辺りを灼いていく。

「僕は人間が嫌い。そして創生神はもっと嫌い」

薄い唇の両端が上がり笑みが浮かぶ。

細められた目は全く笑っていない。

「だって僕に無価値(ベリアル)なんて名前を付けたんだもの。生まれた時から見捨てられた子供の気持ち、君なら分かるよね?だから僕は無価値ではなく有害になる。これが堕天への餞だ」

舞い踊る炎の蝶達。

ベリアル(彼)の背には鳥を思わせる白い翼があったがそれは徐々に黒く染まっていった。

一人死ぬ度に羽の一枚が黒くなり、やがて漆黒の翼になった。

「君も連れて行ってあげるよ。煉獄の炎に焼かれながら赦されない罪を償うといい!」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ――!!!!!」

ベリアルが少年の腕を掴むと肉が焦げる臭いが立ち込めた。

「同族喰らいは魔界で生きられるのかな。まぁ、殺されても仕方ないよね。食べる事を選んだのは君なんだから」

禍々しい色合いの魔法陣が死体だらけの町を囲む。

ベリアルの嗤い声とシャムロックと呼ばれた同族喰らいの少年の叫びの残響を残して、辺りは死に包まれた。



私は貴方を殺しました

貴方の愛する子供達を殺しました

貴方の愛する隣人達を殺しました

だから私は地獄へ堕ちます

煉獄の業火に灼かれながら

貴方の死後が安らかである事を願います

だから貴方は


私を 恨んで 決して赦さないで下さい――


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