第四の視点
どこだ、ここは……?
八ツ橋五郎――もとい〝熊五郎〟は意識を失っていたことに気がついた。
周りを見廻すと、自身が滞在しているホテルの一室であることが間もなくわかった。ただ、部屋の景色が意識を失う前とは明らかに異なっていた。壁際にずらっと並んでいたテーブルがすべてひっくり返り、その上に並べられていた豪華なビュッフェ料理が床にぶちまけられている。
せっかくの料理が台無しであるが、散らかっていたのは料理だけではなかった。土橋が作らせた熊五郎の各種グッズも床に散乱している。
まただ……。
肉体が変異してから、こんな調子で意識を失うことがたびたび起こっていた。その時間は日増しに延びており、おまけにその間は体が眠りに就いているというわけではなく、どうやら勝手に活動をしているらしい。
妙な具合であった。まるで自分の中に、別の誰かが住み着いているかのような気分である。しかも、その誰かとは本質的に相容れないことが直感的にわかった。なぜなら、その誰かとは本能そのものであったからだ。
理性的な〝自分〟とは異なる、本能的な〝おのれ〟は自身が獣となってから、その存在が徐々に大きくなっていた。これまでは見て見ぬふりを続けてきたが、もはや無視できないレベルにまで影響力が強まっているようだ。
熊五郎は、その事実に強いショックを受けた。このままではいずれ、人間としての意識は消え去ってしまい、動物としての意識に体を乗っ取ってしまうのではないか?
そんな不安にさいなまれたが、残念ながら彼の悩む姿は、どこからどう見ても獣のそれであった。もっとも、本人は依然として人間のつもりでいたが、世間で認知されている熊五郎は一匹のクマにすぎず、その事実が日を追うごとに五郎の精神を蝕んでいった。
一体、どうすればいいのだろう……。
土橋はいまだに、熊五郎を医者に診せていなかった。そのことで一度は物申したこともあるが、結局は説き伏せられてしまった。名医にかかるためにはブッキングだけでも大金がかかるのだそうだ。とにかく今は稼ぎ時だから耐えてくれと泣きつかれてしまっては、不満はあっても引き下がるしかなかった。
不信感を持ちたくはなかったが、土橋の調子のいい言動がだんだんと鼻についてきたことは否めなかった。彼の言葉を信じ、テレビの前で必死に〝道化〟を演じてきたのだ。そろそろ正当な報酬を望んでもいい頃合いではないだろうか?
もちろん、テレビ出演は嫌なことばかりではなく、熊五郎自身も楽しんでいた節があったことは認めざるを得なかった。多くの人々に受け入れてもらえ、人間であったときには無縁だった高揚感を味わうこともできた。そういう意味では、タレント活動をしてよかったと言えるのかもしれないが、それはあくまでも人間に戻るための〝準備〟にすぎないはずであった。
いずれは正体を明らかにし、治療を受ける――。
あまりにも楽観的すぎる見通しではあったが、そんなビジョンがあったからこそ、これまでなんとか踏ん張ることができたのだ。だがそれも、もう限界に達していた。自分が自分でなくなる前に手を打たなければ、本当に手遅れになってしまう。
もう一度、土橋さんに直訴しよう……。
少し頭を働かせれば、ほかの誰かを頼るという選択肢もあったはずであるが、残念ながら熊五郎には、そんな考えは微塵も起こらなかった。実の両親にも見捨てられた熊五郎にとって、土橋は命の恩人であり、頼みの綱でもあったからだ。だからこそ、そんな人物を疑うなど、到底できないことであった。土橋の本音がどこにあるにせよ、話せばわかってくれるはずだと、熊五郎は愚直にも信じていたのだ。
しかし、そんな淡い期待は突如として現れた〝魔性の女〟によって、無残にも打ち砕かれることになってしまうのであった。
※
どうして……どうして、こんなことになってしまったのだろうか……?
熊五郎は人目を避けるようにして夜道をひたすら駆け抜けながら、答えの出ない自問を繰り返していた。
いくら後悔しても起こってしまったことを取り消すことはできないが、そもそもなぜあんなことをしてしまったのか、自分でも訳がわからなかった。唯一わかっているのは、自身が追われる立場に陥っているということだけであった。
今や熊五郎は〝逃走犯〟であった。どこで何を、どう間違えてしまったのだろう?
あの時――。
百瀬に焚きつけられた熊五郎は、衝動的にホテルの部屋を飛び出した。いくらスイートルームとはいえ、半ば監禁同然の生活を強いられていたことは、本人にとっても相当なストレスとなっていた。そこへあの耳打ちである。
まさか、あんなに親身になってくれた土橋が、初めから自分を利用することが目的だったとは……。
にわかには信じ難い話であった。だからこそ、本人に直接会って確かめたかった。
けれども部屋を出た途端、熊五郎は自分を世話するはずの飼育員たちに行く手を遮られてしまった。元々、飼育員というよりは警備員のような見た目の二人組であったが、この時の彼らの態度は明らかに高圧的で、融通の利かない監視員のそれであった。おまけに二人は、それぞれが〝牛追い棒〟を手にし、熊五郎に向かって部屋へ戻るように命令してきたのだ。口調は丁寧であったが、言うことを聞かないと痛い目に遭わせてやるぞという雰囲気がピリピリと伝わってきた。
それで察した。百瀬の言葉が正しかったのだということを――。
その後に何が起こったか……正直なところ、記憶は曖昧だった。牛追い棒の洗礼を受けてしまい、いつの間にか意識が飛んでしまっていたからだ。気がついたときには、二人の飼育員が床に倒れている光景を目の当たりにすることになった。しかも彼らは、ただ倒れているわけではなかった。
はっきり言って、状況はかなり深刻だった。一人は衣類が裂けて血を流し、もう一人は壁に突っ伏したまま、首が変な方向に折れ曲がっていた。二人が絶命していることは、誰が見ても明らかだった。そして犯人は、どこからどう見ても熊五郎しかいなかった。
もちろん、望んでやったことではない。単に彼らを押し退けようとしただけのような気もするし、牛追い棒から身を守っただけのような気もするが、いずれにしても明確な殺意があったわけではなかった。しかし、誰がそれを信じてくれるだろう?
パニックに陥った熊五郎は、そのままホテルを飛び出した。突然、ホテル内からクマが飛び出してきたら、普通なら大騒ぎであろうが、このときは夜の帳が下りていたことが幸いし、数人の目撃者を出しただけで、熊五郎は暗闇に紛れて逃げ去ることができた。
とはいえ、どこへ行く当てがあるわけでもなかった。ましてや熊五郎のような獣が身を隠せるような場所は、都会の喧騒の中には存在しなかった。
その時、道路脇を流れる開渠が目に留まり、すぐに〝ここ〟しかないと直感した。人間の姿のままであれば躊躇したであろうが、今は獣の姿であることも相まって、熊五郎は悪臭を放って黒光りする液体の中へと迷わず飛び込んだ。
そのまま水面を這うように移動し、放水路とおぼしきトンネル内に身を潜ませる。まだ通水までには間があるらしく、水はちょろちょろとしか流れていなかった。水から上がると、熊五郎はブルブルと身を震わせて水滴を弾き飛ばした。そうして体を乾かすと、ようやくひと息つくことができた。
さて、これからどうしたものか……。
不可抗力とはいえ、やはり飼育員二名の命を奪ってしまったことはマズかった。これが人間であったときの話であれば、素直に自首して刑に服すところであったが、獣の姿となった今は、それをしようものなら間違いなくこちらの命が奪われてしまう。この世界で裁判を受けることができるのは、あくまで〝人間〟だけなのだ。
では、このまま人間たちに狩られるを待つしかないのか? ……否、かくなる上は土橋を公の場に引きずり出し、すべてを明らかにしてやる!
決意を新たにすると、怒りの炎がメラメラと燃え上がった。とにかく、あの男に落とし前をつけさせないと、熊五郎の気が収まらなかった。
だが、どうやって本人を探し出せばいいのだろう? 土橋がスマートフォンの位置情報を共有してくれていれば、あるいは追跡できたかもしれないが、あいにく熊五郎は調べるすべを持ち合わせていなかった。唯一のコミュニケーション手段であるタブレットとキーボードは、ホテルに置きっぱなしであった。今さら取りに戻ることはできない。
それでも熊五郎には、奥の手ならぬクマの手――もとい〝鼻〟があった。
肉体が獣に変異して以降、嗅覚は人間であったときとは比べ物にならないほど鋭くなっていた。その力を使って、土橋の居所を探し出すのである。
とはいえ、すぐに匂いを嗅ぎ分けられたわけではなかった。鼻が利きすぎる弊害は放水路内でも起こり、当初はありとあらゆる匂いの洪水に、熊五郎は溺れかけそうになった。それでも頭から雑念を追い払うと、熊五郎は鼻先に全神経を集中させ、記憶の中にある土橋の体臭をひたすら探索し続けた。
そして――。
かすかではあったが、土橋の匂いを捉えることができた。
間違いない、この匂いだ……。
早速、熊五郎は動くことにした。何か策があるわけではなかったが、怒りに駆られていたこともあって、じっとしていることができなかったのだ。
とはいえ、今の状況下で人目につくのは愚の骨頂でしかなかった。だから陽が昇るまでは移動を続けたが、その後は暗渠内に身を潜めた。そして陽が落ちた後で、また水路伝いに移動を開始する。それを繰り返しながら、熊五郎はひたすら土橋のもとを目指して移動を続けた。その間は足元を流れる濁った水を飲み、トンネル内を走り廻る小動物で飢えをしのいだ。
一瞬たりとも気の休まることはなかったが、皮肉にも肉体が獣と化していたことで、熊五郎はこの難局を乗り切ることができた。人間の姿のままでは、到底こんな芸当はできなかっただろう。しかも熊五郎は、こうしたことを誰に教わるでもなく、自然と行動に移すことができた。理性ではなく、本能が体を突き動かしていたのだ。
移動するたび、土橋の匂いは濃くなっていった。
近いぞ……。
自分では気づいていなかったが、この時の五郎は、まさに獲物を狙う捕食者そのものであった。
移動中は当然、自身の姿が人の目につかないように細心の注意を払わなければならなかったが、その一方で、外から入ってくる情報についても神経を尖らせる必要があった。
水路に潜んで間もなく、熊五郎はビルの大型モニターに自身の姿が映し出されているのを目撃した。ニュース映像の内容は、熊五郎が危険な存在であることを周知するためのものであった。どうやら、ホテルでの惨劇がマスコミによって報じられてしまったようだ。それが人々の知るところとなってしまい、熊五郎の評価は人気の〝動物〟タレントから、人間に危害を加える〝害獣〟へと一気に転落してしまっていた。まさに恐れていた事態が起こってしまったのである。
そもそもテレビに出ることも、スターになることも望んだことではなかった。ただ、人間に戻りたかっただけであった。そのために〝道化〟を演じ続けたのに、それが今や〝怪物〟扱いとは……。
正直、持ち上げるだけ持ち上げておきながら、あっさりと手のひらを返す人間たちには腹が立ったが、かといって今は何もできなかった。怒りの感情は脇に置いて、ひたすら土橋のもとへと辿り着くことだけを考えた。
そのかいあって、熊五郎はようやく土橋が暮らす億ションを見つけ出すことができた。すでに陽は昇り始めていたが、土橋の匂いが億ションの外から漂ってきたため、熊五郎は危険を承知で地上に出ることを選んだ。うまくいけば、土橋と遭遇できるしれない。
しかし、平置きの駐車場に足を踏み入れた熊五郎は、そこで驚愕の光景を目にすることになった。なんと土橋は荷物をまとめ、今まさに車で走り去ろうとしていたのだ。切羽詰まった状況に追い込まれているとはいえ、この男は何の対処もせず、自分だけ逃げようとしているのだ。
あまりの身勝手さに、熊五郎の怒りが爆発した。衝動的に飛び出すと、驚いた土橋が車を急発進させ、あろうことかこちらに向かって突進してきた。故意に熊五郎を轢こうとしたのだ。間一髪でかわすと、土橋が運転する車は勢いそのままに車道へと飛び出した。そして信号待ちをしていた車両に衝突すると、押し出された車が別の車にぶつかり、たちまち後続車を巻き込んだ玉突き事故へと発展した。
事故現場はひどいありさまだった。熊五郎は助けるつもりで駆け寄ったものの、居合わせた人々から悲鳴を上げられてしまい、逃げ出さざるを得なくなった。しかし、どこへ逃げればいい?
その時、車から火の手が上がり、人々の注意が逸れた。その隙に県外ナンバーのダンプカーを見つけた熊五郎は、迷わず荷台に飛び乗った。運よく、ドライバーは熊五郎の存在には気づかずにダンプを発進させ、混乱する現場を離れていった。安堵したものの、こうなってしまっては土橋を公の場に引きずり出すことも、おのれの誤解を解くことも、もはや叶わぬ願いであった。
熊五郎自身、これからどうすればいいのか、もうわかなくなっていた。それでも皮肉なことに、動物的な生存本能が肉体を突き動かしていた。
高速を降りたダンプカーが山麓に近づくと、熊五郎は素早く荷台から飛び降り、森の中へと駆け込んだ。とりあず文明社会から離れれば、ひと安心である。人間たちも、ここまでは追ってこないだろう。
いつの間にか、熊五郎は獣の視点で物事を見るようになっていた。
どうせ、もう人間として生きることはできないのだ。だったら、身も心も獣のクマとして生きるしかないのではないか?
意外なことに、その事実を熊五郎は取り乱すことなく、淡々と受け入れていた。まるで感情そのものが肉体から抜け落ちてしまったかのようだ。もっとも、情動的な感情が残っている以上、一概にすべての感情的要素が抜け落ちてしまったわけではないのだろうが、人間が人間たるための情緒的な感情は、すっかり消え失せてしまったといっても過言ではなかった。
そんな熊五郎の身体を支配していたのは、強い生理的欲求だけであった。
空腹だ……。
この数日、まともなものを口にしていなかった。腹が減っては何とやらであるが、少なくともホテル住まいのときは食べる〝物〟に困ることはなかった。肉汁滴るサーロインやリブロースの〝塊〟が無性に恋しかった。
そういえば、和牛の生肉は意外と悪くなかった。しかし、今の熊五郎はレストランへ寄ることも、コンビニへ買い出しに行くこともできない身の上だった。
はたして、どうしたものか……。
困り果てる熊五郎の視界の片隅に、放牧された牛たちの姿が映った。どうやら、近くに牧場があるようだ。
美味そうだな……。
牛たちの姿を眺めながら、熊五郎は無意識のうちに、そんなことを考えていた。




