第三の視点
何よ、これ……。
百瀬愛子は、テレビ画面に映し出された〝獣〟の姿に息を呑んだ。
クマだ。獣のクマが、番組内で芸を披露している。しかも、そのクマが脇に抱えたキーボードに何か文字を打ち込むと、それがモニター画面に映し出されているではないか。
人間とコミュニケーションが取れる獣……?
着ぐるみであれば精巧すぎるし、CGであれば違和感がなさすぎる。制作費が削られる一方のテレビの世界で、地上波のために値の張る〝着ぐるみ〟をわざわざ作るなどありえないし、ハリウッド顔負けの〝CG〟技術など邦画ですらあのザマなのに、一介の制作スタッフの技量ではまず無理だろう。
となると、あれは本物のクマということになるが、サーカスのショーじゃあるまいし、下手をすれば人間に危害を加えかねない害獣を、テレビ用に調教するなんてことが可能なのであろうか?
疑問は尽きなかったが、これがテレビお得意の〝やらせ〟でないのであれば、あのクマは人間と意思疎通が可能な動物タレントということになる。SNSをチェックすると、どこもかしこも、このクマの話題で持ちきりであった。
画面の映像に釘付けになりながらも、いつしか百瀬は、そこに自らの輝かしい日々を重ね合わせることになった。
百瀬愛子は〝トップ〟アイドルだった。少なくとも、本人はそう自負していた。
幼い頃から、彼女は注目を浴びることが何よりも好きだった。だから、そんな彼女の将来の夢が〝アイドル〟になることは、ある意味では必然だった。
とはいえ、彼女がアイドルになりたかった理由は、単に多くの人々からちやほやされたかったからである。実際、ルックスには自信があった。それこそ学生時代から、何人もの異性からアプローチを受け、付き合う男子は選りどりみどりであった。
芸能事務所のオーディションに合格すると、念願だったアイドル活動を開始することになったが、活動自体には多くの制約やルールがあった。何より御法度だったのは〝男〟の存在であるが、メンバー内では彼女を含め、それを守る者は誰一人としていなかった。
彼女は〝女〟としても特別でありたかった。その欲求を満たしてくれるのが、ほかならぬ異性の存在だったのだ。けれども百瀬にとっては、それさえも自分の価値を高めるためのトロフィーにすぎなかった。おまけに彼女は、飽きっぽい性格だった。熱が冷めると、すぐに次の男へと乗り換える悪癖があったが、幸いにも男は次から次へと現れた。
そんな彼女の唯一のコンプレックスが〝太もも〟だった。
大根のような脚――。
同性から、そう陰口をたたかれるくらい彼女の脚は太ましかった。もっとも、陰口をたたかれていたのは、百瀬の男癖に問題があったからであるが、そのことを本人が自戒することは一度としてなかった。
淋しさゆえに、他人と繋がることを求めてやまなかったが、どうせ繋がるのであれば、好みの相手であることに越したことはない。だから気に入った男性がいれば、当人がほかの女性と付き合っていようが、お構いなしに寝取った。そのくせ、男の前では生娘のように振る舞い、相手を見事に欺いた。もちろん全員が全員、彼女の嘘に騙されるわけではなかったが、少なくとも下半身でしか物を考えられない男を手玉に取ることくらいは、彼女にとっては造作もないことであった。
手癖の悪さが同性に嫌われる一方で、自身の利益のため、好きでもない男と床を共にすることもいとわなかった。アイドル活動をしていた頃は、その方法でプロデューサーを抱き込み、ほかの候補生を蹴落としてセンターポジションを獲得していた。
節操のなさは折り紙付きであったが、表向きは清純な女性を装い、多くの男性ファンを虜にしていた。コンプレックスだった太ももが、男たちの欲情を刺激する〝武器〟になることがわかると、グラビアにも積極的に露出するようになった。そうやって彼女は、なりふり構わず自身の地位を築いてきた。
けれども、そんな彼女にも抗えないものがひとつだけあった。それが〝年齢〟である。年増のアイドルは、どんなに見栄を張っても〝若さ〟で勝負はできない。若い後輩が次々とデビューし始めると、彼女のポジションはどんどん脇へと追いやられてしまった。
ただでさえ狭い世界である。一定数しかいない客層を奪い合えば、誰かが割を食うのが必定であった。実際、彼女の人気は後輩の人気が過熱するにつれ、どんどん下火になっていった。
それならばと一念発起し、女優業に乗り出してみたはいいが、演技に関しては素人のため、彼女に来るのは端役ばかりで、一度も主役のオファーがなかった。所詮はアイドルの看板を外してしまえば、百瀬愛子には何の値打ちもなかったというわけであるが、本人は自分が〝大根〟役者であると自覚したことは一度としてなく、それどころか主演女優賞をもらって当然とさえ思っていた。
自分の価値を認めようとしない番組スタッフや演出家たちを見下す一方で、何かしらの成果を上げなければ芸能界で生き残っていくことができないことは、誰よりも彼女自身がよく理解していた。だから百瀬は、おのれの低迷している人気を、どんな方法を使ってでも回復させる必要があったのだ。
そんな時であった。巷で話題になっている動物芸人のことを、彼女が知ったのは――。
動物芸人とはいっても、それが動物を操る芸人のことではなく、文字どおり動物の芸人であることを知ったのは、先刻のことであった。
そんな馬鹿な話があるかと、当初は訝っていたものの、その芸人が出ている番組を目にした百瀬は、すっかり魅了されてしまうことになった。
こいつは使える……。
そう直感した百瀬は、マネージャーに電話をかけると、テレビに映っている動物タレントのスケジュールを調べるように命じた。
※
「はい、カット! 映像チェック入ります!」
「チェック入りまーす!」
番組スタッフが、足早に撮ったばかりの映像をチェックしている。
「……OKです! お疲れさまでした!」
「お疲れさまでした!」
その言葉で、本日分の収録がすべて終わったことがわかった。収録の間は緊張していたスタッフたちも、今はホッとしたような表情を浮かべている。
「お疲れぇ」
百瀬は気だるい調子で挨拶すると、突っ張った頬の筋肉を両手で揉みほぐした。カットの声がかかった瞬間から百瀬は表情を崩していたが、番組の収録中はずっと笑顔を保っていなければならないのは、やはり苦痛だった。アイドル時代も同じ苦しみはあったが、あちらは間近でファンが黄色い声援を送ってきたため、優越感に浸ることができた。しかし、ここには獣と愛想のないスタッフしかいないため、張り合いがなかった。
百瀬はマネージャーに無理強いし、熊五郎なる動物タレントと念願の共演を果たしていた。毎週放送されるバラエティ番組内のコーナーで、熊五郎と一緒に全国のお取り寄せ商品を紹介するのだ。
早い話がテレビショッピングであったが、熊五郎のキャラクターが受け、これがなかなかの盛況ぶりだった。商品を紹介するのは百瀬の役割で、熊五郎がそれに相槌を打つなりキーを打つなりして、コメントを挟むのがお約束となっていた。もちろん、一連のやり取りにはすべて台本があり、百瀬も熊五郎もそのとおりに振舞っているだけなのだが、それがどういうわけか通販番組にありがちな胡散臭さを消し――その代わり、獣臭さはあった――扱う商品を、さも素晴らしい代物のように見せる効果があったようだ。
それは獣に人間味があるからかもしれないと、百瀬は勝手に考察していた。一体どこで見つけてきたのかは知らないが、熊五郎は獣でありながら、その仕草にはどこか人間らしさが漂っていた。そのギャップが、ある意味で人々を魅了しているのであろう。
代名詞となった「ク~マ~」の鳴き声が、実は合成音声によるもので熊五郎本人は、そんな可愛い声が出せなかったことは拍子抜けであったが、それでもCM依頼がひっきりなしに舞い込んでいるところを見ると、この獣の人気が天井知らずであることは間違いなかった。ゆえに百瀬は、そんな勝ち馬ならぬ勝ち熊に乗ろうとしたのだ。
けれども、期待に反して熊五郎と共演しただけでは、百瀬の仕事は増えなかった。恩恵にあやかれると思っていただけに、こちらも拍子抜けする結果であった。
相手が人間であれば、色仕掛けでいくらでも取り入る自信はあったが、相手が獣ではそういうわけにもいかなかった。そこで対象を変えることにした。
その対象とは、土橋久造のことであった。
熊五郎を人気の動物タレントへと押し上げた土橋は、明らかに羽振りがよくなっていた。高級スーツや腕時計など、全身をこれ見よがしにブランド品で固めている。成金趣味丸出しの恰好ではあったが、経済力を測るには充分な指標であった。
収録があるたび、土橋が必ず現場を訪れることも百瀬は把握していた。そのため、本人に近づくチャンスはいくらでもあった。早速、百瀬は作戦を決行し、マネージャーの伝達ミスで送迎車が来ないという状況を作り上げた。そこへ通りかかった土橋に自宅まで送らせ、骨抜きにしようという魂胆である。
制作会社の駐車場で、百瀬が通話相手の存在しないスマートフォンに向かってしゃべっていると、それに気づいた土橋が声をかけてきた。
「君、どうしたんだい?」
スマートフォンを胸に当てた百瀬は、餌に引っかかった土橋に向かって、いかにも困っていますという表情を取り繕ってみせた。
「なんかマネージャーの手違いで、迎えの車が来られないことになっちゃったんです。今、代行が手配できるか確認してもらっているんですけれど、空きがないみたいで……」
もちろん、これは嘘である。
「なんだ。それなら俺が、家まで送ってあげるよ」
「本当ですか? 嬉しい!」
百瀬はいかにも喜んでいるふうを装ったが、初めからそれが狙いだったので、これは当然の結果であった。土橋が運転する外車の助手席に乗り込んだ百瀬は、あからさまに驚いた声を上げてみせた。もちろん、わざとである。
「内装が立派ですね。この車、外国製ですか? さぞ値が張るんでしょうね?」
「うん、まあね」
「すごーい、稼いでるんですね。いいな、わたしもこんな車に乗りたいな。……あ、わたし免許持ってないや」
「ははっ……。まあ、ドライブくらいだったら、僕がどこかへ連れてってあげるよ」
「本当ですか?」
「ああ、もちろん」
「そのあとホテルへ連れ込まれる――なんて嫌ですよ」
「はははっ……。まさか、そんなことしないよ」
土橋は下心が見え見えの笑みを浮かべているくせに、口ではそう紳士的に振る舞った。
「約束ですよ」
百瀬は猫なで声を出すと、運転席の土橋の太ももに手を置いた。
「ど、どうしたんだい急に?」
「いっそのこと、今日……うちに寄っていきません?」
百瀬がそう言うと、土橋の引きつった笑みが下卑たものに変わった。
こうして百瀬は、まんまと土橋をたらし込んだわけであるが、ここから先が彼女のしたたかなところであった。すっかりその気にさせておきながら、床を共にするのはお預けにしたのである。
「ダメですよ。今はまだダメ……」
「そんな殺生な。後生だから頼むよ、愛ちゃーん」
土橋になれなれしく呼ばれた百瀬は、不快感を覚えたが、その感情は決して表に出さないように務めた。
「女優として活動を始めたばかりだし、こんなことが事務所にバレたら……わたし、お仕事をクビになっちゃいます」
「ははっ、心配しなくていいよ。事務所を移籍すればいい。うちは今、景気がいいんだ」
「あの動物タレントのおかげですよね? どこで見つけたんですか?」
「実はね。あいつ、元は人間だったらしいんだ」
「え? 人間ですか?」
それは初耳だった。確かに人間的な仕草をするとは思っていたが、あの獣がまさか元人間だったとは思いもよらなかった。しかし、そう考えると妙に納得がいった。
「そのことって公表するんですか?」
「はっ、まさか! 誰が信じる? 俺だって信じられないのに。でも、あいつはこのままタレント活動を続けていれば、いつの日か元に戻れるかもしれないと思っている」
「それは……どうしてですか?」
「いや……有名になれば、みんなが注目するだろうから、医者にも診せてやれるだろうって俺が請け合ったのさ。でもさ、さっきも言ったけれど、誰がこんな話を信じるよ? 常識的に考えたって無理だろう?」
「それって……彼を騙していることになりませんか?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ、愛ちゃん。あいつをホテルのスイートルームに住まわせて、欲しい物は何だって与えてやってるんだ。その辺の動物たちよりも、はるかにいい暮らしをしてるんだぜ? そもそも俺は、餓死しかけていたあいつをゴミ屋敷から助け出してやったんだ。むしろ感謝してほしいくらいだよ」
ずいぶんと恩着せがましい物言いであったが、それだけに作り話をしている様子は見受けられなかった。だからこそ、百瀬は土橋の話が〝真実〟だと直感した。もっとも、熊五郎の正体については驚きはしても、正直なところ興味はなかった。いずれは週刊誌などにリークするときの保険として、情報が欲しかっただけなのだ。
しかし、百瀬の魂胆など露ほども知らない土橋は、その後も熊五郎の個人情報を含め、あろうことか事務所が所得隠しをしていることまでペラペラとしゃべった。
「なあ、愛ちゃん。君さえうちに来てくれたら、俺がいくらでも仕事を世話してあげるよ。なんだったら、ドラマの主役だって……」
お預けを食らった土橋の必死さがあまりにも滑稽で、百瀬は危うく笑い出してしまうところであった。それでも、なんとか〝しおらしい女〟を最後まで演じ続けた。
「本当?」
上目遣いをしながら、あざといポーズで誘うように百瀬がそう尋ねると、土橋は鼻腔を膨らませた。
「ああ、任せてくれ。大船に乗ったつもりでいるといい」
百瀬が事務所を電撃移籍し、土橋が住む〝億ション〟の合鍵を得たのは、それから間もなくのことであった。
※
こんなはずじゃなかった……。
百瀬は自身が陥った苦境を悲観し、途方に暮れていた。事務所を移籍し、土橋との同棲生活をスタートさせたまではよかったが、そこは安住の地どころか、恐ろしい地雷原であった。以前の事務所に在籍していたときは、なんだかんだアイドル時代のおこぼれで仕事をもらえていたが、土橋の事務所にはそうしたツテが何もなく、おかげで仕事は激減。おまけに新しいマネージャーは、スケジュール管理も満足にできない無能だった。熊五郎が出演していたバラエティ番組のコーナーも終了してしまい、百瀬はすっかり仕事にあぶれてしまっていた。それに比べると、熊五郎のほうは新しいCM契約や企業キャラクターへの採用などが続き、一向に人気が衰える気配がなかった。
ようやく土橋が取ってきた主役ドラマの話も蓋を開けてみれば、キー局ではなく地味なローカル局が制作する番組だった。しかも、ドラマの出来自体も酷評され、それを苦にした原作者が自殺を図るという醜聞まで加わって、百瀬のドラマ初出演は悪い意味で人々の記憶に刻まれてしまうことになった。
とりわけ批判の的となったのは、百瀬が演じた主人公のキャラクターが原作のイメージとは、あまりにもかけ離れていたことであった。ろくに演技のできないアイドル崩れに主役を演じさせるため、制作の段階で忖度があったのではないかという疑惑の目が向けられてしまい、土橋の事務所は連日、火消し対応に追われる羽目になった。
まあ、実際にそうだったわけであるが、今回は打った手がことごとく裏目に出てしまった。事務所やテレビ局、原作本を刊行していた出版社がそれぞれ出した声明も、世間からは責任のなすりつけ合いだと受け取られ、火に油を注ぐ結果となってしまった。しかも、この炎上騒動はすぐには収まる気配がなく、百瀬自身の進退問題にまで飛び火してしまったのであった。
折り悪く、この時は百瀬が土橋との婚約を発表したタイミングでもあった。この報道によって、それまで擁護していた彼女のファンがいっせいに手のひらを返し、百瀬を糾弾する側に廻ってしまったのだ。
もはや女優業を続けるどころの話ではなかった。今の百瀬にできることは騒ぎが収まるまで、ひたすら世間から隠れることだけであったが、劇的な勇退を望む彼女にとって、これは最悪の幕引きであった。当然ながら彼女の怒りは、この事態を招いた張本人に向けられることになった。
「一体どうなっているのよ! あんたが任せておけなんて言ったから、わざわざ事務所だって移籍したのに、仕事は全然来ないし、せっかくの主役番組もあんなヘボいドラマだなんて、わたし聞いてないわ!」
「まあまあ、落ち着いてよ、ハニー」
「ハニーなんて気安く呼ばないでよ!」
「なあ、今は辛抱してくれよ。幸い、熊五郎のほうの仕事は順調なんだ。俺も今度のことではまいったけれど、いい骨休めだと思ってさ、二人で温泉にでも行かないかい?」
「はぁ? ふざけんじゃないわよ! この状況を見なさいよ! 温泉なんかに行ってる場合じゃないでしょうが! ふん、何が大船に乗ったつもりでいるといいよ! これじゃ、泥船じゃない! 全部、あんたのせいよ!」
怒り心頭の百瀬はヒステリー気味に叫ぶと、追いすがる土橋を突き放して億ションを飛び出した。もっとも、どこか行く当てがあるわけではなかった。以前のマンションは引き払ってしまっていたし、今さら元の事務所に戻るわけにもいかなかった。おまけに炎上騒動のおかげで、百瀬は完全な孤立状態にあった。頼れる人物は誰もいない。自身のそんな境遇を、百瀬は大いに憂いた。
その時ふと、闇夜に輝くデジタル看板が目に留まり、何気なく覗き込んだ百瀬は息を呑んだ。それはとある企業のデジタル広告であったが、百瀬を動揺させたのは、その内容ではなく、そこに熊五郎の姿が映っていたからであった。デジタルの熊五郎は両腕を上げ、例の決め台詞である「ク~マ~」を連呼している。土橋の言葉どおり、百瀬が大変な状況にもかかわらず、熊五郎の仕事は順調なようだ。
そのことが妬ましくなった百瀬は、熊五郎のもとを訪ねることを思いついた。皮肉にもおしゃべりな土橋のおかげで、熊五郎がどこで〝飼われている〟かは知っていた。目的のホテルに辿り着いた百瀬は、エレベーターで建物の最上階に向かうと、スイートルームの前に陣取る屈強そうな飼育員たちを押し退け、部屋の中へと踏み込んだ。
バラエティ番組で共演したときは、さして気にも留めなかったが、こうして対面してみると人間であったときも、大してモテ男ではなかったであろうことがうかがえた。おどおどしていて、いちいち挙動が不審なのだ。こういうタイプは、アイドル時代にうんざりするほど遭遇した。そのため、百瀬は熊五郎も簡単にマウントが取れる相手だと、すぐに見極めがついた。
「ねえ、あんた。わたしのこと、知ってるわよね?」
いきなり現れた百瀬の姿に、熊五郎はしばらくの間、石造のように硬直していたが、ようやく頭を上下に動かして肯定の意を示した。
「あんた、元は人間だったんだって? 本当なの?」
百瀬の問いに、熊五郎が再び頷いてみせた。
やっぱり、そうなのか……。
すでに聞き知っていた情報ではあったが、本人から改めてそう認められると、怒りのぶつけどころを見失ってしまったというが正直なところだった。もしも自分が同じ目にあったら、とても正気ではいられないだろう。
こうなると、さすがの百瀬も矛を収めざるを得なかった。自分でもそんな感情を抱くことになるとは予想外であったが、それくらい百瀬は目の前の獣に強いシンパシーを感じてしまったのだ。
それゆえ、熊五郎が辿ったであろう人生も容易に想像がついた。彼は人間に戻る当てが何もないまま、必死に人々の前で〝道化〟を演じていたのである。これは百瀬がアイドル時代に、人々の前で必死に媚びを売っていたのと同じ状況であった。
勢い勇んでいた百瀬は、図らずも熊五郎に対する同情心が芽生えてしまったことで、当初の目的を見失うことになった。体から急に力が抜けてしまい、百瀬は手近にあったソファーへと座り込んだ。
これから一体、どうすればいいのだろう……。
ぼんやりと室内を見廻した百瀬は、無意識にこう呟いた。
「いい部屋ね」
実際、部屋は広くて高級感があった。残念ながら、百瀬はホテルのスイートなど、私生活ではおろか仕事でも泊まったことがなかった。動物の分際で、そんなところに宿泊しているのが気に食わなかったが、熊五郎が元人間であることが明らかになった今は、不思議と責める気持ちにはならなかった。
けれども、そうして部屋を眺めていると隅のほうで机がひっくり返り、高そうな料理が床に散乱しているのを見つけた。どう見ても食事をしていたような雰囲気ではない。おまけに料理だけでなく、調子に乗って土橋が作らせた熊五郎のキャラクターグッズも床に散乱していた。
「何か嫌なことでもあったの?」
そう尋ねると、熊五郎が肩をすくめてみせた。人間臭いと思っていた仕草が、実は熊五郎が人間であったことを示唆する重要な手がかりであったことに、百瀬は今さらながら気がついた。
「ほら、突っ立ってないで座りなさいよ。あんたの部屋でしょう」
促された熊五郎は、いったんは一人掛け用のソファーに腰を落ち着けたが、すぐに立ち上がると、テレビモニターを百瀬の見える位置まで移動させ、キーボードを取り出してこう打ち込んだ。
〈じつは僕、あなたのファンなんです〉
「あら、そうなの?」
〈恋するフォーチュンクッキーのアルバムは二十枚かいました。けっきょく握手券は付きませんでしたけれど〉
「あれね、三十枚に一枚の割合なのよ」
〈そうなんですか。もっとかえばよかったです〉
「残念だったわね」
〈引退ライブのときも応援上映にいったんですよ。ぶしつけかもしれませんが、あとでサインをいただけませんか?〉
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
口ではそう応じたものの、熊五郎がただのアイドル〝オタク〟だったことがわかり、百瀬は嫌悪感を抱いた。彼女にとって、オタクどもは忌むべき存在でしかなかったからだ。たかが握手券のために同じCDを何十枚も購入するなど、百瀬に言わせれば正気の沙汰ではなかった。
とはいえ、その感情を顔に出すほど、百瀬は間抜けではなかった。代わりに満面の営業スマイルを浮かべてみせる。これはアイドル時代に、彼女が体得した技であった。この笑みを向けられると、大抵の男はいい恰好をしようとする――もちろん、獣と化したクマ男にも効果があるのか定かではなかったが、前述の印象ゆえ、百瀬は無意識のうちに自らの〝武器〟を発動させたのだった。
「わたしのファンなら、なんで番組で共演したときに声をかけてくれなかったの?」
あざといくらいの猫なで声を出した百瀬であったが、期待に反して熊五郎のリアクションは淡々としたものであった。
〈土橋さんから、あまりほかの人とかかわるなって、クギを刺されていたんです〉
あの男の性格を鑑みれば、さもありなんであった。
「あいつの言うことなんて、いちいち耳を貸さなくてもいいのよ」
百瀬がそうアドバイスすると、熊五郎は不思議そうに首をかしげた。
〈でも、あの人が僕をたすけてくれたんですよ〉
どうやら熊五郎には、百瀬の言わんとしていることが伝わらなかったようだ。初々しいところは、それはそれで愛らしいが、そんなお人好しでは、この世界で生き残っていくことはできない。他人を押しのけ、相手を踏みつけにするくらいの非情さがないと、こちらがやられてしまうのだ。
視線は上目遣いであっても、百瀬は完全に熊五郎を下に見ていた。わずかに顔を覗かせていた〝仏心〟はすっかりと鳴りを潜めてしまい、今の彼女は男を惑わす性悪女の〝本性〟が色濃く表れていた。
「あいつは自分の目的のためだけに、あんたを利用したの。わからない? タレント活動をしていれば、いつか医者に診せてやるって言われたみたいだけれど、あいつは初めからそんな気なんてさらさらなかったのよ」
百瀬の言葉に、熊五郎が激しく動揺するのが見て取れた。姿は獣でも仕草があまりにも人間的だったので、熊五郎の反応はわかりやすいくらいにわかりやすかった。
恩人である土橋が自分を裏切っていた。そんなこと、今の今まで考えもしなかったといった様子で、熊五郎は百瀬の話を熱心に聞き入った。その姿は、まるで女郎蜘蛛の糸に絡め取られた〝獲物〟そのものであった。
何も知らない相手を、こちらの意のままに操ることぐらい楽しいことはない。彼女のサディスティックな一面が露わとなり、百瀬は熊五郎にあることないこと吹き込んだ。
すると――。
それまで微動だにしなかった熊五郎が突如として動き出し、部屋を飛び出していった。後を追いかけると、百瀬は扉の外で彼女の入室を阻止しようとしていた飼育員たちが、今度は熊五郎の退室を阻止しようとしている光景を目の当たりにすることになった。二人の飼育員は、どちらも見た目は屈強であったが、相手は仮にも獣のクマである。おいそれと人間が立ち向かえるような相手ではないはずだ。案の定、すぐに返り討ちに遭ってしまい、二人の飼育員はたちまち事切れてしまった。
百瀬の言葉を真に受けた熊五郎は、どうやら理性が完全に崩壊してしまったようだ。おそらく、薄氷の上でかろうじて保たれていた正気が、彼女の言葉によって砕け散ってしまったのだろう。惨劇が起きてしまったことは予定外であるが、それ以外は百瀬の目論んだとおりの展開であった。
ただの獣と成り果てた熊五郎は、勢いそのままに非常階段を駆け下りていく。その姿を見送った百瀬は、満足げな笑みを浮かべながら受話器を取ると、フロントに電話をかけた。そして今しがた見た光景――錯乱した熊五郎が飼育員たちを惨殺し、ホテルを飛び出していった様子を涙ながらに伝えた。
たちまちホテル内は上を下への大騒ぎとなり、警察や消防、救急隊が現場を取り囲む事態となった。百瀬は唯一の生存者として事情聴取に応じ、ショック状態の被害者を熱演した。火のないところに煙は立たないの法則で、熊五郎が逃走したことを嗅ぎつけた報道関係者が姿を見せると、百瀬はカメラの前でも悲劇のヒロインを演じ続けた。彼女の演技は迫真で、まさに主演女優賞ものであった。この時ばかりは、誰もが彼女の言葉を信じ、誰もが彼女に同情した。
この状況はある意味、彼女が待ち望んでいた瞬間であった。今なら彼女を起用するプロディーサーや演出家は大勢いるだろうし、移籍先の事務所も引く手数多であろう。どのみち土橋の事務所は、もう終わりである。それに唯一の稼ぎ頭である熊五郎は、今や人気の動物タレントなどではなく、人間を襲った害獣でしかなかった。遅かれ早かれ、いずれは駆除される運命にある。
自分の狙いどおりに事が運び、百瀬はすっかり上機嫌であった。
警察の事情聴取やマスコミのインタビュー、病院での検査などがひと段落すると、百瀬は人目を避けるようにして貸倉庫へと足を運んだ。以前、土橋が所得隠しの自慢話をした際、脱税した金銭をどこへ隠したのか、当人が語っていた保管場所の在り処を、彼女はきちんと覚えていたのだ。もっとも、貸倉庫の鍵は億ションの合鍵とは異なり、さすがに百瀬に渡されることはなかったが、したたかな彼女は密かに合鍵を作っておいたのだ。
どうせ土橋は、熊五郎の件で警察に逮捕されるか、もしくは逆上して理性を失った熊五郎本人に八つ裂きにされるのがオチだ。そうなってしまえば、もはや土橋に隠し金は必要なくなる。だったら、そうなる前に有効活用すべしというのが彼女の言い分であった。
間もなく土橋が借りている貸倉庫を見つけた百瀬は、扉を解錠して中の荷物を検めた。さして広くもない倉庫内には無造作に木箱が積まれ、どれも厳重に封がしてある。バールか何かを持ってくるべきであったが、それでも一つだけ開封された木箱があった。
何気なく中を覗き込んだ百瀬は、思わず息を呑んだ。なんと木箱の中に木毛に包まれた〝金の延べ棒〟が入っているではないか!
まったく予期していなかった掘り出し物に、百瀬は言葉を失った。生まれてこのかた、金塊など目にしたことも触れたこともない。それが今、目の前にあるのだ。とんでもない幸運に、百瀬は興奮を抑えることができなかった。
一瞬、なぜ現金ではないのだろうかという疑問が頭をもたげたが、以前ベッドで、土橋が資産として持つなら〝金〟が一番安全だという持論を得意げに語っていたことを思い出し、すぐに納得することになった。
金の延べ棒はいくつかのサイズに分かれており、手のひらサイズから牛乳パック大のサイズまで揃っていた。試しに牛乳パック大の金の延べ棒を手に取ってみると、ずっしりとした重みが腕に伝わった。女の細腕では少々きつかったものの、盗人猛々しい百瀬はより大きな〝獲物〟を手に入れようと欲を出した。
けれども、倉庫の出口まで辿り着いたところで、百瀬の前に思わぬ障害が立ち塞がることになった。
――貴様ぁ!
現れたのは、興奮状態の土橋であった。怪我をしたらしく額から血を流していたが、本人はお構いなしに百瀬のほうへと詰め寄ってきた。
残念ながら、この状況は誰がどう見ても、彼女が金塊を盗み出そうとしていたようにしか見えなかっただろう。さすがの百瀬も言い訳のしようがなかった。
そうです、わたしが金塊を盗もうとした犯人です……。
本来であれば、そう認めて兜を脱ぐところであったが、百瀬は違った。彼女は最後まで悪あがきをする性分であった。
「無事だったの? よかった、心配してたのよ。熊五郎が急に暴れ始めたから――」
「黙れ!」
百瀬の言葉を土橋が大声で遮った。言葉尻から察するに、今さらカマトトぶるのは無駄なようだ。土橋が浮かべた鬼の形相からも、猫かぶりが通用する状況でないことは一目瞭然だった。
「よくも抜け抜けと、この泥棒猫が!」
吐き捨てるように侮辱の言葉を口にすると、土橋が延べ棒を取り上げようとしたため、百瀬は慌てて身をひるがえした。
「あら、生きてたのね。残念、熊五郎が首尾よく仕留めてくれると思ったのに……」
すっかり化けの皮が剥がれた百瀬は、もはや敵意を隠そうともせずに土橋を睨みつけた。土橋のほうも百瀬の言動にすべてを悟り、気も狂わんばかりに怒りを爆発させた。
「おまえか! あいつに余計なことを吹き込んだのは! この野郎!」
怒鳴り声を上げた土橋に飛びかかられ、百瀬は倉庫の床に押し倒されてしまった。後頭部をしたたか打ちつけ、痛みに悶え苦しんでいると、今度は土橋が馬乗りになって首を絞めてきた。百瀬は必死に逃れようとしたが、マウントポジションを取られた状態で体重も勝っている相手に、少しばかり爪を突き立てたところで敵うはずがなかった。
こ、呼吸ができない……。
薄れゆく意識の中、百瀬は藁にもすがる思いで周囲に腕を伸ばした。
すると何かの塊が手に触れた。その感触から、倒されたときに落とした金の延べ棒であると見当をつけた。無我夢中で金の延べ棒をつかみ、土橋に向かって叩きつける。普通の状況であれば、持ち上げることすらままならなかったであろうが、火事場の馬鹿力を発揮させた百瀬は、自分でも驚くような勢いで金の延べ棒を振り廻していた。
そうして辛くも土橋の魔の手から逃れた百瀬は、絞められた喉元をかばいながら壁際まで避難した。反撃に備え、手にした延べ棒を野球のバットのように構える。けれども、床に倒れた土橋は操り人形の糸が切れたかのように、ぴくりとも動かなかった。
さすがに心配になったため、恐る恐る近づくと――。
「ひっ!」
百瀬は思わず恐怖に慄いた声を上げた。それもそのはずで、なんと土橋は目を見開いたまま絶命していたのだ。手の中の金塊をよくよく見れば、角の部分にべったりと血痕が付着しているのがわかった。どうやら、クリーンヒットならぬクリティカルヒットとなってしまったようだ。
真っ青になった百瀬は、しっかりと握り締めていたはずの金の延べ棒を取り落とし、その場から何も持ち出さずに逃げ出した。
すっかり気が動転していたからであるが、この逃走劇は百瀬にとって、結果的に不利に働くことになった。
不運だったのは、現場に遺留品を残していたことに加え、貸倉庫の防犯カメラに当人の姿がばっちりと収められていたことだった。その映像を観た管理人からの通報で、警察はすぐに百瀬が殺人事件の容疑者であることを特定し、彼女は逃げ出す算段をつける間もなく逮捕された。裁判では弁護士が正当防衛を主張するも、被害者の土橋と婚姻関係にあったことや事務所の隠し金の在りかを知っていたことなどが災いし、彼女は実刑判決を受けることになった。
かくして人々にちやほやされ、誰よりも注目を浴びたかった百瀬は、あろうことか〝犯罪者〟として世間に認知されてしまったのだった。




