第二の視点
なんだ、こりゃ……。
土橋久造は、開け放ったドアの前で顔をしかめた。部屋の中は散乱したゴミが通路にまであふれ返り、物が腐ったような嫌な匂いが鼻先まで漂ってきた。なかなか強烈なゴミ屋敷である。
わざわざ足を運んだことを後悔するような光景であったが、ここで引き返してしまっては、それこそ骨折り損のくたびれ儲けである。土橋はジャケットの袖で口元を覆うと、こわごわ部屋の中へと足を踏み入れた。
彼は新進気鋭の芸能プロモーターだった。もっとも、それは本人がそう名乗っているだけで、実績は皆無であったが……。
元々、土橋はお笑い芸人を目指して上京し、養成所で一緒になった相方とコンビを組んでデビューした若手芸人だった。もっとも、本人がお笑い芸人を目指したのは、人を笑わせるのが好きだったからではなく、単に異性にモテたいからであった。しかし、異性を魅了できるようなルックスでないことは自覚していたため、妥協策として〝芸人〟を目指したにすぎなかった。
そのため、ネタ作りはすべて他人任せ。口達者ゆえに、漫才ではツッコミ役を担当するも、致命的に空気が読めないことが災いし、観客を笑わせるどころか失笑ばかりを誘ってしまい、相方にも愛想を尽かされる始末であった。あげくはコンビを解消され、それならばとピン芸人を目指すも、これまでネタ作りを他人任せにしていたことが災いし、肝心なネタが何も思いつかず、早々に芸能事務所を干されてしまった。
それならばと独立し、芸能事務所を旗揚げしたはいいが、そうそう都合よく仕事が舞い込んでくるはずもなく、経営は火の車状態。そこへパンデミックが襲来し、いよいよもって首が廻らない状況へと追い込まれてしまったのだ。
このままでは事務所をたたまなければならないばかりか、借金取りに追われる日々がやって来ることは火を見るよりも明らかであった。
このような状況に置かれた場合、大抵の人間であれば、年貢の納め時だと観念するだろうが、彼はそうではなかった。元から空気が読めない性格ゆえ、いつも我を通すことを最優先にしてきたからだ。
土橋にとって、他人の意見は要らぬお節介でしかなかった。一度こうと決めたら、戦車のごとく邁進する。善くも悪くも、それが土橋という人間であった。そんな土橋が、自らの窮状を打開するために考えた秘策が、話題性のある〝新人〟を発掘することだった。
常識人であれば、もっと堅実な方法を模索していたことだろう。しかし、彼はそうではなかった。とにかく目立つこと、すぐにでも話題になる逸材を見つけることが、自らの窮地を救うと信じて疑わなかったのだ。それに相手が〝素人〟であれば、無知ゆえにこちらの言いなりにできるという思惑もあった。
いかにも打算的で、お粗末な計画ではあるが、だからこそ事務所が抱えるタレントは〝人間〟でなくとも構わないぐらいであった。そんな愚かではあるが、行動力の化身である土橋が文字どおりの意味で新人を〝発掘〟することになるのは、ある意味では必然だったのかもしれない。
きっかけは巷で騒がれていた、ある都市伝説だった。
なんと都会の真ん中に「クマ男」が生息しているというのだ。雪男であれば聞いたことはあるが、クマ男というのは初耳だった。しかも単に、全身が毛だらけの男というわけではないらしい。もっとも、ネットの世界は常に流言蜚語が飛び交っているため、真偽のほどは定かではなかったが……。
普段なら、この手の話は一蹴するところであったが、SNSでの盛り上がり方が尋常ではなかったため、土橋は興味をそそられたのだ。
クマ男の住処を特定するのに、さほどの労力はかからなかった。SNS上では、クマ男の住所が、まるで心霊スポットのごとくさらされており、インフルエンサーたちがこぞって動画を投稿していたからだ。
問題の場所は、アパートの一室にあった。心霊スポットにありがちな廃墟やトンネルではない。そのため、土橋自身も最初は半信半疑であった。実際、動画に関しては投稿者たちの自作自演を指摘する声も少なくなかったのだ。
アパートの外観は古びた鉄筋コンクリート製で、バブル時代の残り香が漂ってくるような一棟であった。表通りから離れているせいか、アパートの周辺は人通りも少なく、建物自体も南向きではないため、昼間でもエントランスは薄暗かった。また、オートロックや監視カメラの類が見当たらず、管理人室らしき小部屋もあるにはあるが無人という、昨今では考えられない造りの建物であった。だからこそ、どこの馬の骨とも知れない輩が簡単に侵入できてしまったのだろう。
事前に動画を視聴していたため、目的の部屋はすぐに見つけることができた。一階の奥まった場所は、ただでさえ陽当たりの悪い建物の中でも最悪なエリアで、立っているだけでも気分が滅入りそうになる。
それでも土橋は気を取り直し、ドアをノックした。元からなのか誰かが壊したのかは知らないが、インターホンを押してもチャイムは鳴らなかった。
「ごめんくださーい」
何度か扉を叩いてみたが、応答らしき応答はなかった。
留守だろうか……。
しかし、ノブを引いたら、あっさりとドアが開いた。
「ごめんくださーい。入りますよ」
断りの声をかけながら、土橋は部屋の中へと足を踏み入れた。
室内の汚さについては、先に述べたとおりであるが、部屋の間取り自体は典型的な単身者向けの造りだった。玄関を入ってすぐに廊下が突き当たりまで伸びており、通路の間には風呂場やトイレなどが並んでいる。おそらく、突き当たりはリビングかダイニングが兼用になった部屋だろう。
廊下には明かりも何も灯っておらず、ドアを閉めると途端に暗闇に包まれてしまった。手探りで壁際のスイッチを押してはみたものの、電灯が点く気配は一向になかった。
土橋は自身のスマートフォンのライトを点灯させると、それを懐中電灯代わりにして通路を突き進んだ。あっちこっちにゴミが散乱し、足の踏み場もないようなありさまだったが、どうにか突き当たりの間仕切り扉の前まで辿り着くと、土橋は再びドアをノックした。
「ごめんくださいよ」
三度、声をかけながら扉を開けたが、こちらも部屋の中は真っ暗であった。厚手のカーテンが引かれ、外の光を遮っている。壁際のスイッチを押してはみたものの、やはり電灯が点く気配はなかった。どうやら、完全にライフラインが止まってしまっているようだ。
換気扇も止まっているせいか、廊下よりもひどい悪臭が充満している。片手で鼻と口を覆った土橋は、もう片方の手に持ったスマートフォンのライトで室内を照らした。
この時、土橋はスマートフォンのカメラをナイトビジョンモードに変更し、レンズ越しに室内を見廻していた。別にインフルエンサーを気取っていたわけではない。カメラのレンズを通すことで、少しでも良好な視界を確保しようとしたのだ。実際、カメラのレンズを通すと、室内の様子がありありとわかった。ご多分に漏れず、この部屋もゴミだらけであった。
そうやって室内にカメラを向けていると、部屋の隅に何やら大きな塊が鎮座しているのを発見した。最初は衣類の山かと思ったが、その山がもぞもぞと動き出したため、土橋は少なからず驚いた。
すると――。
山から布がずり落ち、暗闇に光る獣の目がカメラに映り込んだ。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
思わず大声を発した土橋は、逃げようとして足元のゴミに躓き、そのままゴミの山へと突っ込む羽目になった。慌てて身を起こし、落としたスマートフォンを拾い上げる。その間も暗闇から獣が近づいてくる気配を肌に感じ、土橋は恐怖に慄いた。急いで入ってきたドアに向かおうとしたものの、すでに行く手には獣が立ちはだかっていた。それなら窓だと方向転換し、カーテンが閉じられた窓辺に向かおうとした。しかし、障害物のゴミが邪魔でなかなか辿り着くことができず、とうとう獣に腕をつかまれてしまった。
お、終わった……。
さすがの土橋も匙を投げ、瞼をギュッと閉じた。このまま自分は、獣の餌食に成り果ててしまうのだと観念した。
けれども、いつまで経っても自身の肉体が切り裂かれたような痛みを感じることはなかった。死を覚悟していただけに、いささか拍子抜けではあったが、ゆえに状況を目視する必要に迫られた土橋は、恐る恐る目を見開いた。
相変わらず室内は暗かったが、手元だけはライトの光で妙に明るかった。てっきりスマートフォンの光源だと思ったが、タブレットが放つ光であることが間もなくわかった。拾い上げたと思っていたスマートフォンは、実際はゴミの中に埋没してしまっており、土橋は手ぶらであった。また、てっきり獣に腕をつかまれたと思い込んでいたが、実際に体に食い込んでいたのは鉤爪ではなく、タブレットの角であった。そして、そのタブレットの画面には次の一文が表示されていた。
〈たすけて〉
いや、助けてほしいのは、こっちなのだが……。
恐怖心が消え去ったわけではなかったが、予想外の展開になったことで、土橋は思いがけず冷静さを取り戻すことができた。状況が俯瞰的に見られるようになると、土橋は獣がこちらの腕をつかもうとしていたのではなく、タブレットを差し出しただけであったことに気がついた。どうやら獣は、タブレットをこちら側に渡そうとしていたらしい。
土橋は獣に向き直ると、改めてタブレットを受け取った。妙な話であるが、この時はそうすることが正しいことのように思えたのだ。
すると獣は、抱え持ったキーボード――あきれるほどビッグサイズであったが、目の前の獣が持つ分にはちょうど良い大きさだった――に何事か打ち込み、それがタブレットの画面上にテキストメッセージとして表示された。
〈こわがらないで〉
いや、この状況を怖がるなと言われても……。
「悪いけれど、カーテンを開けても構わないかな? 暗くてよく見えないんだ」
土橋がそう尋ねると、獣が肩をすくめた――ように見えた。
了承を得たと判断した土橋は、ゴミを掻き分けながら窓際まで移動し、控えめにカーテンを開けた。西陽が差し込み、土橋は眩しさに目を瞬かせる。
ようやく光に目が慣れると、土橋の目の前には――クマがいた。
SNSでは「クマ男」などと騒がれていたが、そんな生易しい見た目ではなかった。目の前にいたのは――獣そのものであった。
再び大声を上げそうになった土橋であったが、その獣が胸にキーボードを抱えてうな垂れている姿を目の当たりにしたことで、喉まで出かかった悲鳴を慌てて呑み込んだ。
「君、俺の言葉がわかるんだよね?」
そう尋ねると、獣が首を縦に動かした。
間違いない。このクマは人間の言葉がわかるのだ!
まさかの事態に、先ほどまで土橋の頭を支配していた危機感は、すっかり鳴りを潜め、代わりに彼の頭を占有していたのは、とんでもない逸材を見つけたかもしれないという高揚感であった。
こんな動物は見たことがなかった。芸をする動物は、それこそ世の中に掃いて捨てるほどいるが、人間とコミュニケーションを交わせる動物というのは、そうそうお目にかかれるものではない。
ひょっとしたら、こいつは〝金の卵を産むガチョウ〟になるかもしれないぞ……。
卑しくも土橋の頭には、そんな思惑が浮かんでいた。もっとも、見た目はガチョウでなく、完全にクマであったが……。
おのれの身に危険が及ぶ心配がなくなると、土橋は早速、持ち前の行動力を発揮させることになった。
「君、さっき『たすけて』ってメッセージを送ってきたけれど、何を助けたらいいんだい?」
まるで子供に話しかけるような調子で尋ねると、クマ公は自分の腹部に手を当てた。
「なんだ? 腹が減ってるのか?」
そう尋ねると、クマ公が首を縦に振った。よくよく見れば、目の前の獣はずいぶんと痩せ細っていた。
「よっしゃ、任せておきな」
そう請け合うと、土橋はアパートを飛び出し、表通りに店舗を構えるファストフード店に駆け込んだ。そこでラージサイズのハンバーガーを一挙に二十個購入する。
すぐにアパートまで引き返すと、クマ公は一気にすべてを平らげてしまった。なんとも気持ちの良い食べっぷりである。
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
そう尋ねると、クマ公が首を横に振ったため、土橋は再びファストフード店に駆け込み、同じサイズのバーガーを新たに二十個購入した。しかも、今回はサイドメニューのおまけ付きである。ちなみに土橋は、一度目の来店の際も店員から奇異な目を向けられたが、二度目の来店の際はあからさまな驚きをもって迎えられた。
スマイルはどうした、スマイルは……。
少しばかり居心地の悪い思いをしながらも、土橋は購入した〝餌〟をクマ公のもとに届けた。追加分の食料もペロリと平らげると、獣はようやく満足したようにゲップの音を響かせた。
すると気持ちに余裕が出たおかげか、こちらがまだ何も尋ねていないにもかかわらず、クマ公が唐突に身の上話を始めた。
はたして、その内容はいかに――。
「いやはや、そりゃ大変だったね」
獣の話を聞き終えた――実際は、タブレットに打ち込まれた文書を延々と読まされ続けた――土橋は、同情的な声色でそう応じた。
長文を読まされたせいで目がしょぼしょぼして仕方がなかったが、おおよその状況は把握することができた。けれども正直なところ、朝目覚めたらクマに変身してしまったという話は、にわかには信じ難いものがあった。世界でどれだけの奇病が蔓延していたとしても、こんな病状は医者だって目にしたことがないはずだ。ゆえに土橋が見せた同情は、あくまで表面的なものでしかなかった。
とはいえ、そのせいで仕事を失い、実の親にも見捨てられ、ボロアパートの片隅で〝一匹〟寂しく死に瀕していたというのだから、本人にとってはたまったものではなかっただろう。だからこそ土橋は、ここへやって来た本来の目的を果たすため、ある取引を持ちかけることにした。
「なあ、君。話はわかったが、このまま隠れているわけにもいかないぜ。だが、この姿のまま外に出たら、害獣として駆除されてしまうかもしれない。そこでだ――」
土橋は芝居がかった口調でそう前置きすると、懐から名刺を取り出した。上質紙に金の縁取りをあしらった本人自慢の名刺である。なかなか高価なため、滅多なことでは配らないが、そんなありがたい名刺を受け取ったにもかかわらず、クマ公は話が見えていない様子で首をかしげた。
「いいか? よく聞いてくれ。俺は芸能事務所の者だ。君を、ぜひともプロデュースさせてほしい」
クマ公は、まだ話が見えていない様子で、キーボードにこう打ち込んだ。
〈なぜ?〉
「言ったろう? 君が、その姿のままで外を歩いたら、ただの害獣として処分されるのがオチだ。でも、タレントとして認知されていたら? 君をすぐには殺せなくなる。人気者になれば、なおさらだ。そうすれば、医者にだって診てもらえるようになるし、君の病状を真剣に調べてもらえるようになるかもしれない。そしたら、いつの日か元に戻れる日が来るかもしれないぞ」
土橋の言葉に、獣が目を輝かせるのがわかった。ちょろいものである。
「ただし――」
話に食いついてきたところで、土橋は再び芝居がかった調子で声を落とした。
「それには、君が単なる〝獣〟じゃないということを示さなきゃダメだ。芸ができて、人とコミュニケーションが取れることを示せば、みんなに興味を持ってもらえる。タレント活動をすることが、君にとっても最善の道なんだよ」
口八丁とはまさにこのことであるが、クマ公は土橋の話に大いに乗り気になったようであった。
〈元に戻れるのなら、何でもするよ〉
タブレットに表示された文面を目にし、土橋は心の中でガッツポーズをした。
「よーし、そうと決まれば『芸名』がいるな。君、名前は?」
土橋の問いに対し、クマ公が鉤爪の間に挟んだ運転免許証を差し出してきた。そこには〝彼〟が人間であった頃に撮影したとおぼしき写真と、本人の姓名が記載されていた。なんとも平凡な見た目であったが、名前を目にした途端、土橋は思わず笑い声を上げそうになった。
八ツ橋五郎――。
平凡な見た目にそぐわぬ、いかつい名前である。おまけに古めかしい。まあ、古めかしさでいえば、土橋の名前も似たり寄ったりであったが……。
「五郎か……。君の今の見た目だと『熊』五郎だな。……そうだ、芸名もそれにしよう。そのほうが、わかりやすくていいだろう?」
そう問うと、クマ公が肯定するように頷いたため、土橋は声高に宣言した。
「よっしゃ、決まり! 今日から、君は『熊五郎』だ!」
こうして土橋は、事務所の栄えある第一号として〝動物タレント〟を獲得したのであった。
※
「頼むよ、木下。同郷のよしみでさ、なあ?」
「ダメダメ。俺を担ごうったってそうはいかないぜ。そもそも俺たちは、とっくにコンビを解消してるんだ。なんだって俺が、おまえのためにわざわざ番組プロデューサーに口利きをしてやらなきゃならんのだ?」
土橋が訪れたのは、かつての相方のところであった。彼は土橋とコンビを解消した後、ピン芸人として活躍のチャンスに恵まれ、全国ネットのバラエティ番組で司会を務めるまでの人気を獲得していた。土橋は、そんな元相方に取り入り、熊五郎をデビューさせようと画策したのである。
残念ながら、元相方の反応は芳しくはなかったものの、そんなことは百も承知であった土橋には、ある秘策があった。
「なあ、木下。嫁さんは元気か? 今はフリーアナウンサーだっけ?」
「な、なんだよ。俺の嫁が、どうして出てくるんだよ?」
「あの件って、話したことあるのか?」
「何の話だよ、あの件って?」
「赤坂のホテルで合コンしたときの話だよ。確か、ユイちゃんだったよな? おまえが熱を上げてたのは?」
「な、何の話かわからないが……」
「そうか? だったら、思い出させてやるよ」
そう言うと、土橋はスマートフォンを掲げた。画面には半裸の男が、コンパニオンらしき女性の上で馬乗りになっている写真が映し出されている。その写真をひと目見た途端、先ほどまでおざなりな態度を続けていた木下の表情が青ざめた。
「お、おまえ! どこでこんな写真を!」
叫び声を上げた木下は、慌ててスマートフォンを取り上げようとしたが、土橋にあっさりと身をかわされてしまった。
「おっと、ダメダメ。これ以上は見せられないぜ」
まるで意趣返しのように土橋がそう言うと、木下は忌々しそうに鼻を鳴らした。
「ふん、どうせハッタリだろう? 大体、それは俺が結婚前にした火遊びだ。昔の話を今さら――」
そう取り繕うとする木下を、土橋はニヤニヤ笑みを浮かべながら遮った。
「いや、結婚後だろう? 調べは済んでるんだよ。仮にも人気番組の司会者の醜聞となれば、週刊誌はいくらでネタを買ってくれるかな?」
「この野郎……」
土橋が番組プロデューサーと面会を果たしたのは、それから間もなくのことであった。
一方、週刊誌に暴露されたスクープ記事によって、木下が人気司会者の座を引きずり降ろされることになるのは、熊五郎がメディアに登場してからすぐのことであった。
※
いよいよだ……。
もうすぐ収録が始まる。これは土橋にとって一世一代の大勝負であった。これが失敗すれば、本当に後がない。そのストレスのせいか、自分が出演するわけでもないに、胃がキリキリと痛み始めた。思い返せば、芸人だった当時も本番前はよく腹を下していた。我の強さが売りの土橋ではあるが、所詮は〝人の子〟ということであろうか。
途中でトイレに駆け込むことがないよう常備していた下痢止め薬を慌てて飲み下すと、土橋は腹をさすりながら、ここまでの道のりを反芻した。
土橋がスカウトした獣のクマ――もとい〝熊五郎〟は、出世払いでホテルのデラックスルームに宿泊させていた。とにかく、あのゴミ屋敷から当人を連れ出す必要があったからだ。ホテルへの宿泊は、前職の仕事で宴会芸を取り仕切った際に、そこの支配人と飲み友達になったことで実現した。
当然ながら、熊五郎の存在は秘密である。そのため、一部の従業員を買収し、リネン回収カートに忍ばせるなどして、どうにか熊五郎をホテルまで運び込むことができた。室内清掃をしないことを条件に、連泊で部屋を借り切っているため、なんとしてでもその間に、熊五郎の出演契約を取りまとめる必要があった。
ゴミ屋敷から出してまともな食事を摂らせると、熊五郎はみるみる元気になった。人前に出た際に、少しでも受け入れてもらえるよう芸もいくつか仕込んだ。獣臭さもひどかったため、バスタブで何度も全身を洗い、高価な香水まで付けさせた。番組プロデューサーに会わせるためには、それぐらいの下準備が必要だったのだ。
とはいえ、番組プロデューサーがわざわざ出張ってくれるほど、土橋は業界で顔が利くわけではなかった。だからこそ、あらゆるツテを頼って、時には拝み倒したり、時には脅したりしながら、ようやく面会の約束を取り付けたのだ。
面会当日は、ホテルの別の部屋を借り、室内にビュッフェや高価な酒、出張コンパニオンの女の子たちを並べた。そして、プロデューサーとその同伴者を大いにもてなした。そうして彼らがくつろいでいるところに、熊五郎をセンセーショナルに登場させたのだ。
言うまでもないが、この演出はかなり驚かれた――というより、パニックになった。
しかし、そうした反応は最初から予想していたため、土橋は事前に出入り口の扉の前にテレビモニターを設置し、逃げ道を塞ぐ対策を講じていた。そして混乱状態のギャラリーに向かって、熊五郎のメッセージを映し出させたのだ。
〈こわがらないで〉
土橋と邂逅を果たしたときと同じ文言が画面上に表示されると、怯えていたギャラリーの動きがぴたりと止まった。全員がキーボードを打つ熊五郎の姿を、あんぐりと口を開けて凝視している。
目の前に突如として現れたクマが、まるで人間のようにキーボードを小脇に抱え、キーを入力する姿はシュールですらあったが、インパクトは絶大であった。おかげで、ギャラリーの警戒心を一挙に解くことができた。そこから先は、熊五郎の独擅場であった。特に、あれほど怯えていた女の子たちが、最後は「クマちゃーん」と親しげに熊五郎を愛撫する姿は必見だった。
熊五郎のほうも、まんざらではない様子で、人間に警戒されずに接してもらったことがよほど嬉しかったのか、教えてすらいないアクロバティックな芸を次々と披露し、ギャラリーを大いに沸かせた。
こうして土橋の思惑どおりに話は進み、放送中のバラエティ番組内で枠をもらえることが決定したのだ。
その収録日が、とうとうやってきたのである。残念ながら、土橋が仕込んだ芸は放送向きではないと判断され、すべてボツになった。その代わり、新たに構成作家が付き、番組内で熊五郎に披露させる芸を手取り足取り仕込むことになった。土橋が現役であったときも、ここまで手厚く面倒は見てもらえなかったため、それだけでもプロデューサーたちの力の入れ具合がわかるというものであった。
ちょうど番組の人気に陰りが見え始めていた時期で、彼らにとってもテコ入れが必要だったらしい。そういう意味では、番組の成否は熊五郎の芸に懸かっているといっても過言ではなかった。
収録が始まった――。
ひな壇芸人たちが当たり障りのないトークを挟みながら、自身の持ちネタで番組を盛り上げ、それを司会者が軽妙な調子で捌いていく。
今回、出演者たちには熊五郎の存在は伝えず、新人芸人が持ちネタを披露することだけが伝えられていた。それを芸人たちが批評するわけだが、これには最初から台本があり、決まったリアクションをするように、あらかじめ示し合わせてあった。
とはいえ、台本には人間ではない存在が現れた場合のリアクションについてまで事細かに書かれていたわけではなかった。そういう意味では、やらせなしの本物の反応が見られるというわけだ。
収録も後半に差しかかり、とうとう熊五郎の出番が廻ってきた。今回は、いわゆる寸劇形式である。男女がハイキングの途中に〝クマ〟に遭遇してしまい、逃げようとする過程で、さまざまなコントを繰り広げるという内容だった。
もしも現実の世界で本物のクマに遭遇してしまったら、とてもじゃないが笑い事では済まされないだろう。それをパロディにする以上、批判は避けられないだろうが、一方で話題になればしめたものである。とにかく、今の時代は話題性ありきなのだ。熊五郎がスターダムにのし上がれるか否か、土橋が金持ちになれるか否か、すべてはここで決まる。
男女のカップルに扮した芸人が、安っぽい山林のセットを歩いていると、突如として熊五郎の姿が現れる。すぐに芸人カップルの顔に緊張が走った。どう見ても着ぐるみのクマではない。その反応は、現場のスタッフたちも同様であった。その場の誰もが硬直していると、熊五郎が両腕を上げ、間の抜けた声を響かせた。
「ク~マ~」
獣の咆哮とは思えぬ声を耳にした途端、会場の全員がどっと吹き出し、同時に笑い声が上がった。期待どおりのリアクションである。場の空気が一気に和み、熊五郎は手はずどおりの流れで芸人カップルコントを繰り広げていく。
熊五郎の発する〝声〟自体は、事前に仕込んだものであった。それをタイミングよく流すことで、あたかも熊五郎が鳴き声を上げているように見せかけたのだ。残念ながら、熊五郎の地声では相手が身をすくませてしまう恐れがあった。うまくいく確証はなかったが、どうやら結果は良いほうに転がったようだ。
正直、コント自体は〝芸〟と呼べるほどの出来栄えではなかったが、受ければ何だって構わないのだ。コントが終わると、ひな壇芸人が次々とコメントを述べ、熊五郎の動物にしては出来の良い芸を褒め称えた。しかし、本当に驚くのはこれからである。
芸人たちのコメントに対し、熊五郎がタブレットを使って応じると、会場からどよめきの声が上がった。まさか意思疎通ができるとは、誰もが夢にも思わなかったようだ。
そんな調子で収録は大盛況のうちに終わった。間違いなく、会場で今日一番の話題をさらったのは熊五郎であった。
大満足の結果に、土橋は明るい未来が目の前に開けたような気がした。
さあ、これから忙しくなるぞ!
土橋は早速、関係者全員に自慢の高級仕様の名刺を配り始めた。
頭の中で「歓喜の歌」が鳴り響いていた土橋であったが、実はそれが自身の破滅を招く序曲であることに、当の本人はまだ気づいていなかったのであった。




