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第一の視点

 なんだ、これは……。

 八ツ橋(やつはし)五郎(ごろう)は、鏡を覗き込んで絶句した。鏡の中には――()()()姿()ではなく、()()()()が写っている。

 一体全体、何がどうなっているのだろうか?

 そう自問した五郎は懸命に記憶の糸を手繰り寄せ、これまでの経緯を反芻し始めた。

 昨夜は〝華の金曜日〟ということもあって、夜更けまで酒をダラダラと飲みながら配信動画に興じ、眠りに就いたことまでは覚えている。ベッド脇のサイドテーブルにビールの空き缶が並んでいることからも、昨夜の体験が現実だったことは明らかだ。いつもと変わらぬ、いつもの日課であった。別に普段と何かが違っているという感覚はなかったし、カフカの小説のように気がかりな夢を見たわけでもなかった。

 にもかかわらず、五郎は目が覚めると〝変身〟してしまったのだ。トラでも巨大な毒虫でもなく、クマに――。

 もちろん、目覚めた瞬間から違和感がなかったわけではなかった。ベッドから起き上がると、なぜか身長が大幅に伸びていた。着ていたはずの衣類は足元に散乱し、なぜかシーツの上には大量の抜け毛が落ちていた。洗面台までのわずかな距離で、なぜかやたらと物にぶつかった。床を踏みしめるたび、なぜか普段は耳にしないミシミシという音が響き渡った。

 振り返ってみれば、変異の兆しはそこかしこにあったわけだが、おのれの姿を鏡で覗き見るまでは、自分でも確信が持てずにいたのだ。

 とはいえ、自分が〝人ならざる者〟に変身してしまったという事実は、すぐには受け入れられるものではなかった。

 これは夢だ、夢に違いない……。

 必死に、そう思い込もうとした。……無駄だった。どんなに頭を振っても、どれだけ瞼を瞬かせてみても、鏡の中の姿が人間に戻ることはなかった。

 夢か否かを確かめるため、頬をつねる真似事もしてみた。実際には、鉤状になった爪の先で頬を引っ掻いてしまい、痛みが走っただけであった。

 こうなると不本意ではあるが、目の前の現象を〝現実〟として受け入れないわけにはいかなかった。しかし、そうなると〝なぜ〟という疑問が頭をもたげてくるのだった。

 突如として異様な姿へと変わり果てた五郎は、こうなった原因を少しでも突き止めようと、今度は自らの過去を反芻し始めた。もっとも、五郎のこれまでの人生は、お世辞にも輝かしいものとはいえず、むしろ思い出すのもはばかられるような惨めなものであったが……。

 そもそも五郎は、幼い頃から〝不肖の子〟であった。数多くの神童を輩出してきた名門幼稚園の受験に失敗したその日から、五郎を見る父親の目つきが変わったことを、今でも鮮明に覚えている。

 五郎の父は、幼少の頃から華々しい経歴を重ね、企業の重役席に最年少で昇り詰めたほどの逸材であった。五郎の母親も才色兼備のいいとこ出で、一人息子の五郎は当然のように、そんな両親の期待を一身に背負うことになった。

 けれども、名門幼稚園の受験に失敗したのを皮切りに、五郎は小中学校の受験にも立て続けに失敗してしまい、高校受験に至っては名門校とは程遠い、定員割れを起こした学校への入学を余儀なくされた。

 この頃になると、両親は五郎に一縷の望みも懸けなくなり、父親に至っては一切の関心を示さなくなっていた。

 もちろん、五郎本人も両親の期待になんとか応えようと、努力をしなかったわけではなかった。しかし、どの名門校も五郎にとっては敷居が高く、身の丈以上の能力を要求されてしまうのであった。

 こうして一度は落伍者となった五郎であったが、高校では一念発起し、()()模試で二位になる快挙を成し遂げてみせた。それでも残念ながら、両親の心象を変えることはできなかったようだ。より正確にいえば、母親のほうは労いの言葉をかけてくれたのだが、父親のほうは「()()模試で一位でないのであれば意味がない」と取り付く島もなかった。

 昔どこかの国会議員が、公聴会で「二位じゃダメなんですか?」と尋ねたことがあったが、やはり二位では駄目だったようだ。すっかり気持ちが萎えた五郎は落伍者へと逆戻りしてしまい、その後も自堕落な日々から抜け出すことができなかった。

 当然ながら、成績は下降の一途を辿り、大学進学は望むべくもなかったが、かといって就職の口がすぐに見つかるわけでもなく、このままではいよいよプー太郎に成り下がるしかないとなった矢先、母親が見つけてきたのが、とあるIT専門学校の入学案内だった。

 このままでは定職に就くこともできず、よくてブルーカラーの仕事しか得られないと危惧した母親の精一杯の救済措置であった。

 正直、五郎にとってはどうでもよかったが、ここが無理なら家を追い出すと脅されたことやわずかに残っていた羞恥心から、とりあえずは入学を承諾することになった。

 専門学校での日々は楽しくはなかったが、資格取得を謳っているだけあって、五郎レベルでも在校中、就職に有利な資格を取得することができた。また、就職先の斡旋に熱心であったことも幸いし、大手企業の下請けを(なり)(わい)としているIT企業にどうにか雇ってもらうことができた。もっとも、その会社は新入社員教育がパワハラ的で、実務に至ってはかなりブラック寄りであったが……。

 とはいえ、ここで逃げ出してしまうと、さすがに両親に――父親ではなく、母親に対して――顔向けができないため、歯を食いしばって耐え抜き、なんとか今日まで生き残ることができた。

 そうこうしている間に会社の体制も変わり、買収や合併を経てトップの首がすげ替わると、以前のブラックだった気風はだいぶ薄れ、働きやすい環境へと変わっていた。薄給だった雇用体制も改善され、貯蓄ができるようになった五郎は、念願だった一人暮らしを始めることができた。

 一方、この頃から世間の様相も変化し、世界的にパンデミックが流行すると、人同士の接触が制限され、勤務形態もリモートワークへと切り替わっていた。

 とはいえ、こうした諸々の変化が五郎を〝獣〟に変える理由になるとは思えなかった。目が覚めたら〝別人〟になっていたという話は、それこそ創作物ではよく耳にするが、それはあくまで別の()()であって、別の()()()などではなかったはずだ。それがどうして、よりにもよって〝クマ〟なんぞに変わらなければならないのだろうか?

 そういえば、ある映画で〝ハエ男〟になってしまった元人間の男性は結局、最後まで元に戻ることはなかった。

 自分も、もう元に戻ることはできないのではないか……。

 そんな考えが頭に浮かんだ途端、五郎の全身を恐怖が駆けめぐり、鏡の中の獣がブルッと身を震わせた。もはや疑う余地はなかった。その残酷な事実が、五郎を失意のどん底へと突き落とした。

 思わず頭を抱えた五郎は、突如として異常な空腹を感じた。時計を見ると、目覚めてからすでに一時間以上が経過していた。光陰矢の如しであるが、いかに姿が変化しようと、生き物の生理的な欲求というのは、そうそう変わるものではないようだ。とにかく腹が減っては考えも何もまとまらない。

 不都合な事実をいったん脇へと追いやり、五郎は食事を取ることにした。……いや、それはむしろ〝摂る〟行為であったと形容したほうが適切だろう。文字どおりの意味で、五郎は冷蔵庫の中の食料品を食い散らかしていた。元からテーブルマナーには疎いほうであったが、人間であったときもここまで行儀は悪くなかったはずであった。それが今や冷蔵庫の中を隅々まで漁り、食べられる物は手当たり次第に胃袋へと詰め込むありさまだった。品も何もあったものではないが、それでも空腹感は一向に収まらなかった。

 しかし、この姿のまま買い物に出かけることは、いろいろな意味で問題があった。そうなると、あとは出前を頼むしかないが、今の五郎は電話をかけることすら容易ではなかった。

 そもそも広がった手のひらと鉤爪のせいで、五郎はスマートフォンをタッチ操作することができなくなっていた。幸いにも固定電話は押しボタン式だったため、そちらでどうにか電話をかけることはできたが、これまでのようにスマートフォンから店舗を検索し、気になった店に電話をかけることができなくなったのは不便だった。

 おまけに五郎は、ここで新たな問題に直面することになってしまった。なんと()()()()()が話せなくなってしまったのだ。こちらは言葉を話しているつもりでも、五郎の発した言葉が、相手には唸り声の類にしか認識されなかったのである。

 正直、これはショックだった。おのれが〝人間とは異なる存在〟になってしまったことを、否が応にも痛感させられた。

 とはいえ、出前自体は電話を使わずとも頼むことが可能だった。ネット注文をすればいいのである。主にオンラインゲームで使用しているデスクトップパソコンを起動させ、キーボードを爪で傷つけながらも、どうにか注文を確定させた五郎は、情報化社会のありがたみを改めて実感することになった。

 ネット注文の利点は、これだけではなかった。ひと昔なら考えられなかった〝置き配〟の恩恵にあやかることができたのだ。これはむしろ、パンデミックの影響といえるのかもしれないが、おかげで五郎は配達員と顔を合わせることもなく、荷物を受け取ることが可能であった。もちろん、食べ物を扱っている以上、置き配そのものに問題はないのかという社会通念上の疑問はあったが、金さえ払えば、問題視すらしない飲食店や配送業者が増えていることは、かえって好都合だった。

 また、立地的な面でも五郎が住んでいる場所は都合が良かった。五郎が賃貸契約しているアパートにはオートロックが存在せず、基本的に出入りは自由であった。建物の入り口も裏通りに面しているため、よほどのことがない限り人目につく心配もない。そのため、五郎は今の姿を人目にさらすことなく、荷物を受け取ることが可能であった。住み始めた当初は、陽当たりの悪さに閉口したこともあったが、こうなってしまうと結果オーライであったと認めざるを得ないのはなんとも皮肉である。

 とりあえずは、この方法で飲食物を確保することはできた。しかし、出すゴミについては、さすがにそうはいかなかった。そもそも論として、鋭い鉤爪の生えた手で家事をこなすことは不可能だった。そのため、週末の間に部屋の中は、すっかりゴミ溜めと化してしまったのであった。

 これじゃ、敷金は戻ってこないな……。

 自身の容姿が変異してしまったにもかかわらず、五郎はこの時、呑気にそんなことを考えていた。

 問題は、ほかにもあった。風呂に入れないのは仕方がないとしても、トイレで用を足すのに苦労しなければならないのは困りものだった。獣となった身の上では、人間サイズの便器はあまりに小さすぎた。おまけに尻を拭くことすらままならなかった。

 鉤爪の付いた手では、どうあがいてもトイレットペーパーをミシン目でうまく切り分けることができなかったからだ。力加減を少しでも間違えると、凶器と化した五本指が紙を無残にも引き裂いてしまった。おかげで、ペーパーを何ロールも無駄にしてしまった。たまりかねてバスタオルで拭いてはみたものの、今度はそのタオルの処分に困ることになったため、やはり使用後は流すことを前提としなければならなかった。

 結局、この問題はティッシュペーパーを代用することで、どうにか切り抜けることができた。もちろん、事前に箱からペーパーを出しておく手間はあったが、いったん取り出してまとめておけば、不自由な獣の手でも尻を拭くことぐらいは可能だった。

 着る服がないことにも頭を悩ませたが、これは結果的にあきらめることにした。どうせ今の体に見合う服など、オーダーメイドで作らない限り、どこにも存在しないのだ。そのため、五郎は〝裸〟で過ごすことを余儀なくされたが、全身が体毛に覆われていることもあってか、最初のショックが収まった後は意外にも気にならなくなっていた。

 こうして五郎は、なんだかんだ獣と化した()()()を日常生活に適用させていったが、鼻が利きすぎるのだけは、どうにも我慢がならなかった。用を足した後もそうだが、自分で出したゴミの匂いが、いつも以上に鼻についた。また嗅覚だけでなく、聴覚も敏感になっていた。そのため、普段は聞かないアパートの生活音がやたらと耳に障った。かといって苦情を申し立てるわけにもいかず、辛抱するしかないのは難儀であった。とにかく慣れるまでは(ほお)(かむ)りをするなどして、外から入ってくる情報を遮断することに努めた。

 試行錯誤を繰り返し、どうにか週末を乗り切った五郎ではあったが、週明けは当然ながら、別の問題が浮上することになった。会社勤務が始まるのである。もっとも、今の勤務形態はリモートワークのため、家にいながら仕事をこなすことが可能だった。望んで就いた仕事ではなかったとはいえ、変わり果てた自分の姿を人前にさらす必要がないのは不幸中の幸いであった。

 しかし、作業を始めた五郎は、すぐに困難に直面してしまうことになった。

 リモートワークの一日は、会社の仮想サーバーに遠隔でアクセスするところから始まる。割り当てられたIDとパスワードでログインすれば、誰が自社のシステムに接続しているのか特定できるというわけだ。これがタイムカードの役割も担っているのだが、いつもなら数秒で完了する操作が、この日は十分以上も四苦八苦する羽目になった。

 その原因は、五郎がブラインドタッチをできなくなってしまったことにあった。そもそも獣サイズと化した手に、人間サイズのキーボードはあまりに小さすぎた。出前を頼むだけなら、それでも事足りたのだが、仕事となるとそうもいかなかった。

 会社での五郎の仕事は、主にソフトウェアのソースコードを記述することだった。この業務はある程度のスピードが要求されるため、キーを見ながらでは絶対に間に合わない。また現状では、爪を立てた状態でキーを打たねばならず、うっかりキートップを破損させてしまう恐れがあった。

 実はすでにやらかしてしまった後で、五郎は使い慣れていない予備のキーボードを使用する羽目に陥っていた。そのため、嫌でも慎重にならざるを得ず、キーを打つのにも異様なほど時間がかかってしまっていたのだ。

 このザマでは、コーディングはとても無理だった。しかも、週の初めにはリモート会議が開かれるため、これをどうにかしてやり過ごす方法を考えなければならなかった。

 悩んだ末、五郎はカメラもマイクも故障したことにして、チャット形式で会議に参加することにした。

 前述したとおり、キーを打つだけでも今の五郎にとってはひと苦労であったが、キー操作を「かな入力」に変更することでなんとか乗り切ることができた。いつもの「ローマ字入力」では、キーを打つのに時間がかかるゆえの苦肉の策であったが、これが思いのほかうまくいった。しかし、かな入力はソースコードを記述する手助けにはならず、五郎は本日分のノルマを達成することができなかった。

 すでに開発は予定よりも遅れている。このままではデバッグに割く時間が取れず、納期に間に合わなくなってしまう恐れがあった。

 ただし、これは五郎のせいばかりでなく、プロジェクトのほかの工程に遅れが出ていることにも理由があった。ソフト開発の工程は、各自の作業がきちんと噛み合わないと、結果的にプロジェクト全体に悪影響が出てしまうのだ。

 とはいえ、自分の割り当て分の作業がこなせなかったというのは、これはこれで問題だった。おまけにこの問題は、すぐには解決できそうな気配もない。

 さまざまな言い訳を考えた末、五郎はこのままでは埒が明かないと判断し、担当部署の所属長に次のメッセージを送ることにした。

〈諸事情でぎょうむのけいぞくが困難となりました。まことにかってながら当面の間、休職させてください〉

 一部の語句を変換しないまま送ったのは忘れたからではなく、人間であったときの感覚でキーを打つことができなくなっていたらかだ。

 すると突然、五郎の携帯電話が鳴り始めた。発信元は所属長であるが、残念ながらその電話に五郎が出ることはできなかった。

 しばらくすると電話が鳴りやみ、今度はチャットの画面に応答を求めるメッセージが表示された。

〈どうした、八ツ橋君? 電話に出ないようだが、何かあったのか?〉

 何かあったのかどころの話ではなかったが、あいにく今の五郎は説明するすべを持ち合わせていなかった。何せ、自分でも何が起こっているのか把握できていないのだ。それにしゃべれない以上、電話で状況を説明することは不可能だった。けれども所属長は、こちらの事情など知る由もないため、不審に思われても無理はなかった。

〈本日のしんちょくを見ていただいてもわかるとおり、週末から腕や喉の痛みになやまされ、おもうようにカラダが動かせないんです〉

〈それは大変だったね。しかし、どうしてそのことを週次会議の際に報告しなかったのかね?〉

 もっともな疑問である。

〈すみません。開発スケジュールが遅れているため、穴を空けたくなかったんです〉

〈だったら、なおのこと報告をするべきだった。今からでも遅くはない。コロナウイルスに感染している疑いもあるのだから、医療機関での検査をお勧めするよ。診断書を提出してもらえば、私傷病休職として受理することもできる〉

 そんなことは百も承知であるが、今の五郎にはできない相談だった。この世界のどこに〝クマ〟に変身する病気があるというのであろうか? そんな奇病が存在するのであれば、ぜひとも病名を知りたいところだ。

〈ご心配をおかけしてすみません。ただ、今は病院にいくのはむずかしいです〉

〈それはどうしてかね?〉

 この姿のせいであるが、それをそのとおりに伝えるわけにはいかなかった。

〈すでにお伝えしたとおり、カラダがおもうように動かせないため、家から出ることができないからです〉

〈そこまで重篤だったら、救急車を呼ぶべきではないかね?〉

 それができるのであれば苦労はない。

〈発熱はしていないため、コンビニ受診だと思われたくないんです〉

〈何を言っている。君は医者じゃないんだ。重症の度合いを自分で判断するのは間違っているよ。本当に緊急であれば、救急車を呼ぶのは恥じゃないぞ〉

 所属長は善意から、そう勧めてくれてはいるのだろうが、それができない五郎にとって、このやり取りは苦痛でしかなかった。

〈医療機関には、かならずどこかで受診するようにします。ただ、いまはプロジェクトをはなれる許可をいただきたいのですが……〉

〈残念だが、病状がはっきりしない以上、それは認められない。自分じゃどうにもならないようなら、誰かを見に行かせようか?〉

 いや、それは困る。非常に困る。

〈いえ、そこまでご迷惑をおかけするわけにはいきません〉

〈これでは堂々巡りだ。八ツ橋君、はっきりさせよう。病院からの診断書がなければ、会社として休職を認めることはできない。病院に自力で行けないようであれば、救急車を呼ぶか親御さんに連絡をしたまえ。とにかく、それまでは有給扱いにしておくから、その間に身の振り方をよく考えておくことだ〉

 そのコメントを最後に所属長とのやり取りは終わった。とりあず要望を伝えはしたが、それに対する上司の回答はさもありなんであった。おまけに状況は何も解決しておらず、問題を先延ばしにしたにすぎなかった。

 さて、素直に病院へ行くべきか、それとも両親に相談をするべきか……。

 正直、どちらもリスクが高い上、下手をすれば〝害獣〟として駆除されてしまう恐れがあった。しかし、このまま有休を使い果たすまで家に閉じこもっているわけにもいかなかった。ここは悩みどころである。

 五郎の心境としては、何もかも投げ出してしまいたいところであったが、それでおのれの肉体が変異したという事実が覆るわけではないことはとっくに承知していたし、何よりゲームや漫画、ネットサーフィンや動画閲覧など、あらゆる現実逃避の手段が、今の五郎にとっては目障りでしかなかった。これらは所詮、人間のために生み出された娯楽にすぎないことを、人ならざる者へと変身した五郎は嫌でも痛感させられた。

 問題は、どうやって外界の人間と意思疎通を図るかである。五郎自身、言葉を発することはできなくなっていたが、相手の言葉を認識することはできるし、チャットのような文面でのやり取りであれば、疑似的に言葉を交わすことも不可能ではなかった。

 考えた末、五郎が取ったのはタブレットの画面上に打ち込んだ文字を表示させる方法だった。タブレットと無線キーボードをブルートゥースで繋ぎ、タブレット側のメッセージアプリにキー入力した文字を表示させるのだ。タブレットを玄関先に配置し、部屋に足を踏み入れた人物がそれを目にすれば、五郎の言葉を理解できるという仕掛けだ。五郎本人は部屋の奥に隠れることで、理屈上は対面でやり取りをする必要がなくなる。

 これを実現させるため、五郎は通常サイズの二百倍のゲーミングキーボードを新たに購入した。重さは二キロ以上もあるが、獣サイズと化した五郎にとっては、大した重荷ではなかった。併せて、キートップを傷つけないように丈夫な革製の手袋を購入した。もちろん、そのままでは手袋をはめることはできないため、指の付け根部分をカットし、その中に梱包材の発泡スチロールを詰め、爪の先端に被せることにした。おのれの両手に指サックがはまった光景はなかなかシュールであったが、とりあえず準備は整った。

 五郎は早速、この方法を食べ物や荷物を運ぶ配達員相手に実践し、そこそこの手応えを感じた。支払いの際にキャッシュレス決済ではなく、代金引換を選択することで、配達員を家の中へと招き入れるようにしたのだ。

 ドアのところに〈鍵は開いてますので、玄関に品物を置いてください〉と張り紙を貼っておけば、ほとんどの配達員は部屋の中まで入って来てくれることがわかった。こちらがコロナウイルスに感染している疑いがあるため、接触を避けていることを明言しておけば、五郎の対応を不審に思う者は少なく、また不審がっていたとしても現金がきちんと見える場所に置いてあり、なおかつそこに〝心づけ〟も加えておけば、大方の配達員はタブレットを使ったコミュニケーションにも快く応じてくれたのであった。こうなる以前の五郎は、あまり現金払いをしないほうであったが、パンデミックを経験したことで、不意の出費に備えて自宅に現金を用意しておいたことが、ここでは大いに役立った。

 やり方を工夫しさえすれば、他者とコミュニケーションを取ることも不可能ではないことがわかったのは、五郎にとっては喜ばしいことであった。しかし、それを身内の人間にも適用できるかは別問題だった。姿が変わる前から両親との間には軋轢があった。もっとも、実際にギクシャクしていたのは父親との関係であったが、仮にそうでなかったとしても、今の五郎を受け入れてくれるとは思えなかった。

 それは五郎が属している会社にしても同じだった。所属長は立場上、心配をしているそぶりを見せてはいるが、今の五郎の姿を目にしても同じ態度でいられるかは疑問であった。

 とはいえ、どうにかしなければならないことに変わりはなかった。所属長の言葉ではないが、このままでは堂々巡りで何も解決しない。それに生活費の問題もあった。このままのペースで出費が続いていけば、五郎の決して潤沢とは言えない貯蓄はすぐに底を突いてしまうだろう。

 少なくとも両親には、五郎が置かれた状況を理解してもらい、元に戻るための治療を受ける必要があった。戻ることができればの話であるが……。

 ただ、やはり身内と配達員とのやり取りでは勝手が違うことは否めなかった。まず、連絡を取ろうにも両親とはメッセージアプリでのやり取りがないため、連絡は基本的に電話を使わなければならなかった。しかし、電話では現状、五郎は意思疎通を図ることができない。こちらは言葉を発しているつもりでも、相手には唸り声の類にしか聞こえないのだ。そのため、電話以外の方法で両親とコンタクトを取る必要があった。

 いろいろと思案した結果、両親のために以前、五郎が作成したメールアドレスを使うことを思いついた。今も両親がそのアドレスを使っているのか定かではなかったが、ほかにいい案が浮かばなかったのだ。

 不安な心持ちで近況を知らせるメールを送信すると、幸いにも返信が届いたため、五郎はホッと胸を撫で下ろすことになった。どうやら両親は、今もこのアカウントを使い続けているらしい。五郎はメールで自身の困窮具合を伝え――当然ながら、姿が変わった件については曖昧にした――父親はともかく、母親の同情を誘うことに成功した。

 こうして母のほうが訪ねて来てくれることになり、五郎は少なからず希望を抱くことができた。もっとも、息子の容姿が変異したという肝心な情報を伝えそびれていたため、騙したようで少しばかり気が咎めたが……。

 それでも誰かがパイプ役になってくれない限り、この状況は解決のしようがないのだ。無理やり自分をそう納得させることで、五郎は罪悪感から逃れようとした。

 だが――。

 現実は、そう甘くはなかった。五郎の思惑に反し、母との邂逅は結果的に()()を生むことになってしまったからだ。確かに息子の変わり果てた姿は、母親でなくともショックを受けただろう。けれども五郎の母は、あろうことか卒倒してしまったのだ。タブレットの存在に気づかず、部屋の奥まで進入してしまったことが母にとっては仇となった。これではタブレットで会話を試みるどころの話ではなかった。

 しかし、今の五郎は救急車を呼ぶことすら満足にできなかった。体を揺さぶったり、水を吹きかけるなどして、なんとか意識を取り戻させることはできたが、目覚めた後も母は気が狂ったように泣きわめくだけで、コミュニケーションを取ることも叶わなかった。まるで幼児退行してしまったかのようなありさまである。

 困り果てた五郎は、父親のほうに助けを求めざるを得なかった。幸いにも五郎が身に着けている革手袋はタッチパネルに対応していたため、どうにか母親のスマートフォンを操作し、SOSのショートメッセージを送ることができた。

 駆けつけた五郎の父は、最初こそは唖然としていたものの、さすがに母のように取り乱すことはなかった。また、五郎がタブレットを使って家族以外は知り得ないはずの情報を開示すると、目の前の獣が〝自分たちの息子〟であることを、ようやく認識させることができた。もっとも、父親はそれを認めることが不本意な様子であったが……。

 こうして五郎は自身の置かれた状況を、ようやく自分の家族に伝えることができたわけであるが、それは()()()()悲劇を生んだにすぎなかった。

 結局、錯乱状態に陥っていた五郎の母は、入院を余儀なくされた。急激なストレスによって精神を病んでしまったらしく、回復の見込みも立たない状況だという。

 これだけでも気が滅入る話であったが、五郎の仕事に関しても問題が発生していることが明らかとなった。所属長は五郎を有給扱いにすると言っておきながら、実際は無断欠勤扱いにしていたことが判明したのだ。どうやら所属長は、チャットでのやり取りをなかったことにして、本人とは一切の連絡が取れない状況にあると、会社に虚偽の報告をしていたらしい。

 そのことを五郎は、オンラインゲームを通じて唯一親しくしていた会社の同僚からのLINEメッセージで、初めて知ることになった。

 この無断欠勤が問題視され、五郎は職務怠慢を理由に、会社を一方的に解雇されてしまったのだ。

 慌ててパソコンを起動した五郎は自身のアカウントがロックされ、仕事で使っているメールアドレスに安否確認のメールが何通も届いていることに今さらながら気づいた。携帯のほうにも着信があったが、会話ができないために電源を切ってしまっていたのだ。

 他人と意思疎通を図ることに夢中になるあまり、それ以外のことがすっかり疎かになってしまっていた。もちろん、これが人間であったときの話であれば、不当解雇だと訴えることもできただろうが、今の姿ではそれも叶わなかった。後悔先に立たずである。

 それでも五郎の父親が、何らかのアクションを起こしてさえくれれば、話は違ったのかもしれない。しかし、その父親はあろうことか、息子が――人間の姿でなくなったことは別にして――目の前にいるにもかかわらず、行方不明者として警察に〝捜索願〟を届け出てしまったのだ。

 正直、これはショックだった。確かに五郎の父は昔から、自分の都合で物事を推し進める節があった。一人暮らしを始めたのも、そんな父親から逃れたからであるが、さすがにこの仕打ちは実の息子に対して残酷すぎやしないだろうか?

 とはいえ、これは予想すべき事態であったのかもしれない。なぜなら五郎の父は、自分の理想を子供に無理やり押し付けるような〝不寛容な親〟だったからだ。ゆえに、その息子が期待外れだとわかれば、存在自体を疎ましく思うのが必定であろう。おまけに人間の姿ですらなくなったとなれば、最初(はな)から息子など存在しなかったと見なすほうが、はるかに気持ちが楽になるというものだ。五郎の母は変異した息子の存在を受け入れようとして精神を病んでしまったが、父親のほうは息子の存在を葬り去ることで、おのれの正気と体面を保とうとしたのだ。

 ただ、それでも五郎が抱える財務的な問題を本人に代わって処理し、数日分の水や食料を残していくなど、親としての最低限の務めは果たしてくれたのだが……。


 ――二度と私の前に現れるな。


 去り際に五郎の父が放ったひと言は、事実上の絶縁宣言だった。

 何も好き好んでこんな姿になったわけじゃない。それなのに、どうして自分ばかりがこんな責めを負わなければならないのか?

 勘当されたも同然の扱いを受け、五郎のかろうじて保たれていた精神の均衡は、もろくも崩れ去った。もはや人間として〝声〟を上げることは叶わなくなっていたが、それでも五郎は世界中に罵詈雑言を――それこそウイルスのように――撒き散らしてやりたい心境だった。自分にこんな仕打ちをした世界を呪ってやりたかった。

 けれども部屋を飛び出して、人前にその姿をさらけ出すほど向こう見ずにはなれなかった。かといって自ら命を絶つほど捨て鉢にもなれなかった。おのれの不甲斐なさに、ただただ涙するのみであった。

 本当は、ずっと父親に息子として認めてもらいたかった。たとえ、不出来であったとしてもだ。

 だから、仕事もやめなかった。しかし、五郎の父は一度として息子に向き合おうとしなかったばかりか、最後は存在そのものを葬った。

 わずかに残されていた希望も打ち砕かれ、五郎は深い絶望の底へと突き落とされた。感情の泉からは、もはや生きようとする気力すら湧いてこなかった。あとはただ、おのれの死を待つのみであった。

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