校正者のざれごと――ファイトケミカル
私は、フリーランスの校正者をしている。
いま担当しているのは、管理栄養士国家試験の問題集だ。健康な人に栄養指導をする栄養士に対し、管理栄養士は病気を患っている人や摂食に問題のある高齢者などに、専門的な知識と技術を持って栄養指導をする。厚生労働省が免許を与える国家資格だ。高度な知識と技術を必要とするだけに、問題集の内容も非常に難しい。たとえば、「食べ物と健康」という分野では、こんな内容がある。
――しいたけの香気成分レンチオニンは硫黄を含む7員環の環状化合物で、前駆体のレンチニン酸にシステインスルホキシドリアーゼとγ-フルタミルトランスフェラーゼが作用して……
まるで呪文だ。とても素人には理解できない。管理栄養士は学ぶ内容が多く実習もあるので、夜間の学校や通信教育はなく、資格を取るには昼間の学校に数年間通う必要があるそうだ。校正者としては、法律の条文や統計資料の数字、食事摂取基準の数値などは確認するが、問題の内容にまで踏み込めないので誤字脱字などを中心に見ていく。
そして、この問題集の校正のときにいつも思っていることがある。おもに学生(若者)が読むからだろうか、文字が非常に小さいのだ。以前紹介した介護支援専門員(略してケアマネ)の問題集は文字がとても大きく読みやすい。ケアマネは実務経験が最低でも5年以上は必要で、実際の現場を長く経験してから受験する人が多く、年齢層も比較的高いのだろう。文字の大きさは読者層を反映している。小さい文字の校正は目が疲れやすく、肩も凝る。思わず「小さすぎて読めない!」とキレたくなる。でもそこはぐっと我慢して、見落としがないよう必死に集中して文字を目で追う。そして時には文明の利器にも頼る。
ここで、校正者あるあるをひとつ。
本文の小さい文字と格闘し、必死に誤字脱字を探す作業をして安心してしまうせいか、タイトルや見出しの大きな文字で見落としが起こりやすい。これはたぶん私だけではなく、校正者にはありがちなのではないかと思う。以前紹介した倉阪鬼一郎さんの『活字狂想曲』(彼の校正者時代のことを書いたエッセイ)のなかにも「『いせたん子ども夏休みカレンダー』という大きな文字の『いせたん』が『いたせん』になっているのに気づかなかった」という一節がある。実際目にしてはいないが、見出しの大きな文字の「チャレンジ」が「チャンレジ」になっていたのに念校あたりまで気づかなかったという話も耳にしたことがある。最近校正したある経済関係の本では「……といった市場の動きが再然する」という見出しがあった。一度は素通りして、でも何となく違和感を覚え、ようやく気づいた。正しくは「再然」ではなく「再燃」。危ない危ない。
解説のなかで「ファイトケミカル」という言葉が出てきた。これは健康をテーマにしたテレビ番組などで目にした人もいるかもしれない。ファイトケミカルとは、おもに植物が紫外線など有害なものから身を守るために作り出す色素や香り、辛味などの成分のことをいう。ブルーベリーや赤ワインに含まれるアントシアニンや、大豆のイソフラボン、お茶のカテキンなどもファイトケミカルだそう。抗酸化作用があり、老化や生活習慣病などのさまざまなリスクを低減させることが期待されている。なるほど。「ファイトケミカル」ね。なんか強そう。でも綴りは「phytochemical」なので「fight(戦う)」ではない。「ファイト」はギリシャ語で「植物」を意味する。「フィトケミカル」ともいわれる。
余談だが、少し前にブルーベリーの本の校正をした。おもにブルーベリーの育て方を解説したもので、土のつくり方から剪定、水やり、収穫までていねいに扱った本だった。この本で、ブルーベリーには驚くほどの種類があることを知った。写真とともに品種が細かく紹介されている。「パトリオット」「シャープブルー」「ホームベル」などなど。でも、どの写真も私から見るとすべて青紫色の丸い果実だった。どうしよう。これ、写真も調べなきゃいけないのかしら。このときは校正プロダクションの社長に「品種名と写真が合っているかどうかの確認はさすがに無理だと思うのですが」と泣きついて、そこは免除してもらった。たぶん専門家の方でないと区別は難しいと思う。
ブルーベリーは1本だけでは実をつけるのは難しい、というのにも驚いた。受粉する際、同じ系統の別の木がもう1本必要だという。家庭で育てるときも、2本用意してください、とあった。へえ、知らなかったな。私は植物を育てようという気持ちがそもそもなく、興味もなかった。でも、この本の校正をして、もしかしたら私でもできるかな、と一瞬思った。もちろん、家族には「いや、無理でしょ」と全否定されたが。言い換えれば、私のようなド素人でも思わずその気になってしまうようないい本だったということだろう。
管理栄養士国家試験の本は、分量も多いので時間がかかったが、何とか終わらせた。ほっと一息。そうだ、冷凍庫にご近所さんからもらった冷凍のブルーベリーがあったな。あれでジャムを作ってみよう。ブルーベリーの本には、美味しい食べ方としてジャムの作り方も載っていた。さっそく、台所に立つ。レシピを確認。
ブルーベリーのアントシアニンはファイトケミカルのひとつで、目にいいという。小さい文字を追って疲れた目にもきっと効くだろう。作り始めると、部屋は甘酸っぱい香りで満たされていく。砂糖は控えめに? いやいや、甘いものも大事。それに保存もきくしね。