3 フェアウェル
一道のいる場所は分かった。いや、実際のところはそこまで分かっていない。つまり、住所がわからない。今みたいにGoogle Mapsなんて便利なものがあるはずもない時代、だいたいの方角しか俺たちは分かっていなかった。和義の後輩の話を聞いた後、外に出ていこうとした俺を見て、誠司が声を掛けてきた。「どこ行ってるの?」「両替」「両替?」「うん。電話するからさ、10円玉がいる」スーパーに向かう俺に、優しい誠司は付いて来てくれた。レジで両替して10円玉を50枚ほど用意した俺は、車を持っている先輩に片っ端から電話をかけた。現代の様に携帯電話もスマホもないので、家電にかけるしかないが、だいたい先に親が出る。「あ、すみません。バンブー君いますか? ……そうですか、ありがとうございます」当時は、家に居る事の方が珍しい時代だった。みんなが外で遊んでいた。「すみません、ウンチン君いますか?」年が近い先輩は、あだ名に君付けで呼んでいた。「夜分にすみません、山田さんいますか? ……わかりました」歳が4、5歳以上離れている先輩は、さん付けで呼んでいた。絶対という訳ではないが、だいたいこんな感じだった。「次は誰にしようか……」友人や先輩、そして、肉体関係がある女や狙っている女の電話番号はすべて暗記していた。たぶん100件ほどは覚えていた。下手にメモ帳なんて持っていると警察に捕まった時、交友関係が全てバレてしまうからだ。
今でも、当時仲良かった友人の番号をまだ数件は憶えているが、もうその番号に電話をかけても繋がることは無い…… そして、残念なことに、覚えている番号の記憶は、年々減ってきている。
電話をかけまくったが、車を持っている先輩は全滅だった。困った俺は、あっちゃんという三つ上の先輩に電話した。「はい、もしもし?」電話に出た声は、あっちゃんの声だった。「あ、すみません、俺です、信一です」「おー、どうした?」「実は……」事の次第を説明すると、車を持っている奴を探してやると言ってくれて、30分後にまた電話くれとのことだった。あっちゃんは汐江中の先輩で、3つ上で一番喧嘩が強かった。そのあっちゃんは中学3年の時、教室で芋を焼こうと焚火し、消防車が来てしまって、その日を休校にしてしまった人だった。イケメンで足も長くてスタイルが良くて、彼女さんも美人で、おまけに頼りになる俺の憧れの先輩だった。
30分後と言われたが、時計など持ってないから、近所の空いている店で確認するか、通りすがりのおっさんに声をかけて聞くか、それか117番に電話して確認するしかなかった。だが、時報を聞くと10円かかってしまうから無駄にできないと思った俺は、通りすがりのおっさんに声を掛けた。「ねぇ、今何時?」「え? ああ、8時12分だよ」手をひらひらとさせながら「ありがとう、おじさん」と礼を言った。誠司はしばらくそのおじさんが離れていくのを見ていた。何故かというと、昭和のおっさんは喧嘩っ早い奴が多かったからだ。だから今みたいな時でも「おいクソガキ! よくよく考えたら、なんで俺がお前に時間教えないといけないんだ!」と、後からでも怒鳴ってくる奴がいたからだ。物怖じしない俺は、誰にでも話しかけていたので、よく知らないおっさんとも殴り合いになっていた。断っておくが、別にオヤジ狩りをしていた訳じゃなくて、ただ喧嘩になっていただけだ。たぶんまだ10分ぐらいしかたっていなかったけど、憧れていた先輩が言った30分の時間をキッチリ守りたくて、次に通ったおっさんにも俺は声をかけようとしたら、誠司が先に「俺、時間見て来るよ」と言って、さっき両替したスーパーに戻ろうとしてたから止めた。「いいよ、そんなことしなくても」誠司を止めたその口で「おい、おっさん。今何時?」と聞いたら、誠司の恐れていた通りになってしまった。「あ~? お前、もういっぺん言うてみ?」俺は言われた通りもう一度聞いた。「今何時?」そのおっさんは急に笑い出した、「フフハハ。おい~。俺を誰や思うとるんや?」「初対面なのに知るか! それで今何時?」「ふふふ、お前、なかなか面白いな?」この時俺は、殴り合いになる事は分かっていた。「……そんな事どうでもいいから時間教えろや!」俺がわざと声を荒げると、そのおっさんも声を荒げて俺に突っ込んで来た。「コラァー、糞ガキ!」怒りで我を忘れて、ただ真っ直ぐ突っ込んでくるおっさんを見ながら、俺は心の中で思っていた(はい、計算通り)ってね。俺はその場で真上に跳び上がり、空中で素早く体を丸めた。次の瞬間、勢いよく横へ両足を蹴り出し、カウンターのドロップキックを食らわした。すると見事に顔面に当たり、鈍い音と共におっさんはグッタリと倒れ込んだ。俺も倒れ込んで背中を打ったが大した事無かった。俺は、この手をよく使っていたが、このドロップキックは面白いようにいつも当たった。「おー、面倒くさい。時間聞いただけなのに」そういって、俺はそのおっさんの腕時計を見た。「やっぱりまだ10分ぐらいだったか……」すると、突然笑い声が聞こえてきた。俺はおっさんがまた笑ってると思ったけど、笑っていたのは誠司だった。「ぷふふ、お前は~、ぷぅーぷぷっ」誠司は吹き出してしばらく笑っていた。「で、このおっさんどうするの?」そう聞かれた俺は「場所変えるか?」そう答えた。「ほら~、俺がスーパーに時間見に行った方が良かっただろ?」「そうかも知れないけど、お前をパシリみたいにしたくなかった」そう言うと、誠司は薄っすらと微笑みながら俺を見ていた。俺たちは「うー…… うー、お前…… 覚えとれよ」と唸るおっさんをその場に残して、別の公衆電話に移動した。その移動した先でも、通りすがりのおっさんに時間を聞く俺を見て、誠司はクスクスと笑っていた。その笑い声が、なぜだか俺には心地良く感じていたんだ。
そして、キッチリ30分後に電話をした。「おー、車もってる奴見つかったから、そこに行かせるから」「ありがとうございます!」「場所どこ?」「はい。青園中の正門にお願いします」「わかった。たぶん2、30分で着くと思うから」「はい。あ、あっちゃん」「どうした?」「その施設の場所なんですけど……」「わかってる。もうそいつに経緯は伝えてるから」流石俺の憧れの先輩、抜かりはなかった。「本当に、ありがとうございます!」電話なのに、俺は頭を深く下げながら礼を言った。「おい!」「はい!」「たまには汐江に戻って来いよ。ゆか(彼女さん)も心配してたぞ」「……はい! 戻ったら顔出します。ゆかさんに宜しく伝えて下さい」「おう。あー、それとな」「はい」「お前の変な噂、俺は1ミリも信じてないから。じゃあな」「ガチャ。プープープー」あっちゃんが電話を切っても、俺はしばらく受話器に耳を当てていた。(ありがとうございます)心でもう一度礼を言ってから、俺は受話器をゆっくり置いた。あっちゃんがいてくれたことで、本当に俺の心は救われていた。今も、ずっと感謝してる。
……けれど、あっちゃんは、もうこの世にはいない。数年前、病気で他界した。
和義を迎えに行ってから、俺たちは青園中の正門の前に立っていた。すると、遠くから「ボォオオオ」と、直接脳に響くような音が聞こえて来た。そして、白のハコスカ(日産スカイラインGT-R)が、俺たちの前に停まった。「うっわ! しっぶ!」キラキラと目を輝かせながら和義が思わず叫んだ。当時なら100万もあれば買えたが、令和の現在なら2000万~4000万もする車だ。「お前らか?」運転手が声をかけて来た。「はい。あっちゃんの……」「おう、乗れよ」和義は「俺助手席!」と言ってササっと乗り込んだので、誠司と俺は後部座席に乗った。「陽光の家へ行ったらいいの?」陽光の家とは、一道が拉致られた施設の名前だ。俺たちが乗ったハコスカは、停車している間も「ドロロロロロォ」と渋い音を立てていた。「はい、お願いします。あの、お名前は?」「俺? カボって呼んでや」「はい、カボさんですね。宜しくお願いします」そのあだ名の意味は直ぐに分かった。アクセルを踏むと「ガボガボォォ」と凄まじい音をたてながらハコスカは走り始めた。つまり、この人のあだ名は、ハコスカのマフラーから聞こえてくるサウンドだった。助手席に座っている和義は子供みたいにハシャいでいた。それが嬉しかったのか、カボさんは上機嫌でスピードを出してコーナーを攻めてくれた。和義が「うわー、すげー!!」と叫んだ瞬間、ルームミラーにはカボさんのニヤけた顔が映っていた。ハシャぐ和義とは裏腹に、俺は外に目を向けた。施設までの道を覚えたかったからだ。車は市街地から外れ、どんどんと山の方へ向かっていた。「遠いんですね」と言った俺にカボさんは答えた。「おう、山の上で周囲は田んぼだらけの所だ」「行った事あるんですね?」「お前らみたいにツレが入ってて、何年か前に見に行ったことがある」カボさんも俺たちと同じで、16歳の頃、友人が同じ施設に入っていた。その時にバイクで見に行ったことがあった。そして、その施設がどんなに酷い所か話し始めた。「起床は朝四時半。直ぐに掃除。箸の持ち方もだけど、飯一粒、おかずを少しでもテーブルや床に落としたり残しても殴られる」(……一道はそんなところに……)「勉強も毎日、その日の復習のテストを最後にやらされて、点数が悪かったら殴られる」和義はハコスカに乗れて浮かれていたが、俺はその施設に腹が立って仕方なかった。何が勉強だ! そんなに大切か!? 俺がそのテストを受けてやるよ! 当たり前のように100点取ってやるから逆に殴らせろよと心で思っていた。4~50分ほど走って、脇道の山道を上ると、カボさんの言う通り田んぼだらけで何もない場所に、ひっそりと二階建ての校舎の様な建物が見えた。その日は満月だったので目視することができたけど、満月でなければ建物を確認することは出来なかっただろう。それほど暗い場所に建っていた。近づくとフェンスと生垣が見えて来た。その生垣が目隠しになって、近付けば近づくほど建物は見えなくなった。(ここに、一道が……)そう思っていると、カボさんが口を開いた。「ほら、出て来たぞ」ハコスカのライトに照らされていたのは、施設の職員だった。「ガボガボボボボー」と、派手なマフラーの音を聞いた職員が外に様子を見に出て来ていたのだ。その職員の手には、木刀が握られているのが見えた。俺はその時、歯をギリギリと食いしばっていた。ふさけやがってぇ、ぶっ殺してやる。そう思っていたよ。ハコスカは停車することなく職員の横を通り過ぎていった。すれ違う時、職員の口がパクパクと動いているのが見えた。何を言っているのか聞こえなかったけど、だいたいの想像はつくさ。その施設には、ツレの様子を見に、よく単車や派手に改造した車が来るらしい。その度に職員が外に出て来るというわけだ。「もう帰るぞ」「はい……」あまり長居をすると、警察に通報されてパトカーが来るらしい。その施設に通じている道は一本。山を西から上るか東から上るか、その違いだけ。なので通報されてパトカーがたまたま近くの国道にでもいた場合、帰り道で鉢合わせになる。そうなると狭い道なので、パトカーが真ん中で停車すれば、すれ違うことが出来ず車を止めるしかないらしい。
俺たちを青園中の前で降ろし、「それじゃ」とだけ言って帰ろうとしたカボさん。運転席の開いている窓に、俺はポケットから有り金すべてを取り出して差し出した。「これ…… 全然足りないですけど、ガソリン代の足しにしてください」両掌には、電話のために両替して余った山ほどの10円玉と他の小銭。それを見たカボさんは、フッと笑いながら俺を見て「いいよ」と一言だけ残し「ガボガボオォォー……」と渋い排気音を響かせて走り去っていった。いつか必ずこの恩は返します。と、そう呟いて心に刻みつけた。「しかしよ、一道あんなとこにいるのかよ」和義がつぶやいた。俺は、あの施設に腹がたったのと同じぐらい一道に会いたかった。
翌日、施設に入っていた和義の後輩から、一道が寝てる部屋を教えてもらった。二階の、左端から二番目の窓。その部屋は6人部屋で、一道以外にも人がいた。その日の夕方、俺は和義の家を後にした。和義にも誠司にも、何も告げずひとりで出かけた。出発して5分ぐらいたったとき、後ろから「おーい」と声が聞こえた。振り返ってみると、誠司だった。「一道の施設に行くの?」と、聞かれた。「……うん」俺は、小さく返事をした。「誘ってよ」「カボさんのハコスカで4、50分かかるんだぞ。自転車ならその倍以上かかる」無用なトラブルを避けるため、バイクでも車でもなく自転車で向かっていた。「それでも誘ってよ、薄情な」「……ごめん」俺は素直に謝った。和義は情が薄い訳ではないが、めんどくさがり屋なところがあった。誘っても足が自転車なら来なかっただろう。俺は、誠司と二人で昨日行った施設に向かった。予想していた通り、2時間以上かかった。国道沿いの脇道が見えて来た。そこに入ればあとは一本道。道なりに行けば嫌でも施設に着く。辺りは真っ暗だけど、まだ時間は早い。対向車が来れば、徒歩ならすぐに藪の中に隠れることができる。そう思って自転車を国道沿いに置いて歩いて坂を上った。「ハァハァ……」「はぁはぁはぁ」二時間以上自転車を漕いで、その後徒歩で坂上り。そりゃ息も切れるさ。幸いなことに、誰とも会うことなく施設が見えて来た。まだ夜の九時ぐらいなのに、一道がいると聞いた部屋の窓に明かりはなく、真っ暗だった。昨晩と同じように、近付けば近付くほど建物は見えなくなってゆく。昨日の光景が頭に浮かんだ。木刀を持った職員の姿が。マジックアイテムの鉄パイプは持っていなかったけど、現れたらやってやると心に決めていた。負けてもかまわない。けど、一発だけでも入れてやる。と…… 「誠司」「うん?」「ここで待ってる?」「はぁ? 行くに決まってるだろ。なにそれ?」「……ごめん」俺はまた謝った。そんな俺の手には、ある物が握られていた。だいたいのことは和義の後輩から聞いていた。職員は夜に懐中電灯を持って見回りに来ると。その懐中電灯で、わざと寝ている者の顔を照らして嫌がらせをして遊んでいると。フェンスの足元にふせて、生垣の間から建物に目を向ける。1階の右端の部屋だけに照明が灯っていた。そこは職員室だ。真っ暗な場所に懐中電灯の明かりが見えるのを誠司と二人で待った。どれぐらい時間がったのか分からないけど、真っ暗な窓のカーテンの隙間から微かに揺れる光が一瞬見えた。間違いない、懐中電灯の光だ。和義の後輩の話では、一度見回りに来ると、異常がない限り、次の見回りは数時間空くと言っていた。懐中電灯が完全に見えなくなったのを確認した俺たちは、和義の家から持って来ていたボルトカッターでフェンスの一部をパチンパチンと切った。そしてそこから施設に侵入した。建物の下に張り付き、雨どいを伝って二階の庇に登った。コンクリートの庇を音を立てずに歩いて一道のいる部屋の窓の前に着いた。俺はいつも無意識のうちに、人差し指と中指の爪でテーブルや壁をカタカタと連続で叩く癖を持っていた。音の大きさに気を使い、窓をカタカタカタと高速で2秒ほど叩いた。一道が起きててこの音が聞こえたなら気づいてくれると思っていた。だけど、何の反応もなかった。もう一度同じ事をしようと指を窓に近付けたその時、カーテンが動いた。ジッと見ていると、隙間から顔が見えた。それは、満月の月明かりに照らされた一道だった。一道は驚いて目を見開いていたが、直ぐにくしゃくしゃにした笑みを浮かべた。俺も誠司も同じだった。けど、俺の笑みは一瞬消えた。なぜなら、一道の顔は明らかに腫れていた。当然、職員に殴られて腫れたのだろうと、容易に想像できた。言葉を出せない一道は、変顔をして俺たちを笑わせようとしたから、俺も誠司もやり返して頬を手で引っ張った。誠司はタコみたいに口をとがらせていた。一道は両手で口を押えて体が揺れていた。俺と誠司も必死で口に蓋をして、笑い声を押し殺した。俺たちの影が一道の顔にかかって暗くなったから、俺は月明かりを避けた。すると、一道の視線が満月に向けられていた。それに気づいた俺と誠司も、同じ様に満月を見上げた。あの時、三人で見上げた満月を、俺は一度も忘れた事などない。今でも満月を見ると思い出す。本当に、本当に美しかった…… ずっとこの庇の上にいたかった。だけどそうもいかない。もし職員に見つかれば、一道がどんな目に合うか。後ろ髪を引かれながら、俺と誠司はその場を後にした。生垣の間に身体を入れてる時に振り返ると、まだカーテンは開いていた…… その時俺は、心に決めたことがあった。待ってろよ一道。お前が暇しない様に、面白いものを見せてやるから。そう心で呟いて、施設を後にした。
それから一週間後、俺は和義の後輩たちが練習用に使っていたXJ400を借りていた。傷だらけでタンクの凹んだXJ。もちろん盗難車だ。カワサキ派だった俺は、FX400とZ400GPが好きだった。けど、その次にXJが好きだった。いつもはノーヘルなのに、珍しくフルフェイスのヘルメットを被り、ボロボロのシートのベルトにマジックアイテムの鉄パイプを三本挿して、後ろには誠司を乗せて深夜にある場所に向かった。国道から脇道に入ると、直ぐにエンジンを切って坂道をくそ重いXJを二人で押しながら上った。準備が整うまで、出来るだけ気づかれたくなかったから。誠司と二人でひぃひぃ言いながらあの施設の建物が見える場所まで押して上って来た。後は平たんな道だ。そこで10分ほど休憩をとってから、またXJ400を押した。そして、カボさんと来た時に、職員が木刀を持って立っていた場所に着いた。そこは、建物の玄関に続く道で、そこに道路側に向けてXJを止めた。シートに挿していた鉄パイプを抜いてから、誠司と目を合わせた。「早くやろうぜ!」驚いたことに、誠司からそう言って来た。俺はXJのセルを回してエンジンをかけた。「フオォーーン。フォフォフォーーーン」規制前のRPMのマフラーを装着していたXJは最高の音を奏でていた。案の定、木刀を持った職員が一人ガラスの玄関ドアを開けようとしたのが見えた。俺は鉄パイプを振り上げ、その職員目がけて突っ込んだ! すると、職員はそれに気づいて、一旦開けたドアを閉めた。俺がそのドアに一発食らわしたら、ガラスが割れて落ちる音が響き渡った。職員はビビッて建物の奥に引っ込んでただ見ていた。どうやら、手にしていた木刀は、ただのお飾りだったらしい。「こいや、オラー! お勉強でも、チャンバラでもどっちでも勝負してやるよ!」そういくら挑発しても、職員は距離を取ってただ茫然と両手に鉄パイプを持っている俺を見ていた。誠司は近くの窓ガラスを全て割って回ってた。ガシャンガシャンと音が静かな田園地帯に響いていた。そのうち、奥からもう一人の職員が現れたが、同じ様に立ち止まってこっちにやってこない。恐らく、警察への通報が終わって様子を見に来たのだろう。あまり長居は出来ない。俺も誠司と同じように窓ガラスを割りまくった。ガシャガシャと。玄関に置いていた花を挿していない花瓶も割ってやった。深夜だったけど、恐らくその施設に収容されていた全員が窓に張り付いて見ていただろう。きっと一道も…… そろそろ頃合いだと思って「いくぞ!」と誠司に声を掛けた。俺の声は聞こえているはずなのに、誠司は止めなかった。大人しくて、喧嘩は観戦専門の誠司が…… 誠司も当然一道の顔の腫れに気付いていただろう。お互い口にはしなかったけど。俺は、誠司が本気で怒っているのを初めて見た。だから止めずに気が済むまでやらせた。割る窓が無くなった誠司は、職員のものと思われる車を殴り出した。その時、一人の職員が「あっ」と言って手を差し出した。恐らくそいつの車だったのだろう。その仕草を見て、俺は思わず笑ってしまった。「うおおお!」と雄叫びを上げながらフロントガラスを割った誠司は、やっとXJの方へと走り出した。俺は持っていた二本の鉄パイプを、玄関の二階の窓に放り投げた。「ガチャーン」と窓に当たった音が聞こえた。もちろん指紋なんて残してないさ。キッチリ手袋もしていた。俺は走らずに、余裕を見せて歩いてゆっくりとXJにまたがった。そして「フォーンフォーンフォン」とアクセルを吹かした後、来た道を戻っていった。後ろの席で、誠司がずっと笑っていた。フルフェイスのヘルメットを被っていたけど、それなのに聞こえるほど大声で笑っていた。その笑い声を聞いて、俺も笑みを浮かべていたさ。下り坂を降りて脇道から国道に出ようとした瞬間、パトカーが凄いスピードで飛んできた! 恐らくたまたまパトロールで近くにいたのだろう。あと2秒遅ければ、国道に繋がる入り口を塞がれて、Uターンを余儀なくされていただろう。もしそうなっていれば、東側の入り口も塞がれて万事休すだった。パトカーは狂ったように追いかけて来た。けど誠司は後ろで相変わらず笑っていた。そして、俺にこう言った「お前の運転だから余裕だろ」ってね。親友の厚い全幅の信頼。その言葉は、俺にあるフレーズを思い出させた。今宵の斬鉄剣はなんちゃらって有名なセリフだ。そう、今宵の俺の運転も、一味も二味も違うぞってね。結局俺は、途中から合流した2台も含め、3台のパトカーをぶっちぎった。誠司は、俺の肩に手を乗せて、後ろで立ち上がった。そして、あの時の俺と同じように、夜空に向かって吠えた。「アオーーーーン」と、まるでオオカミのように吠えていた。何度も何度も。流石親友。やはり俺たちは気が合う。そうだろ? なぁ、誠司……
だけど…… この三カ月後……
……誠司は亡くなった。
俺は和義と、とあることで揉めて殴り合いの喧嘩をした。そして、一時期袂を分かち汐江の自宅に戻っていた。誠司も一道も俺もいなくなった和義の家から離れ、ブレイクダンスの仲間と遊ぶようになっていた。誠司が汐江にこなかったのは、ややこしい先輩が多いからだ。
そんなある日、朝の四時半ごろだった。家の電話がなった。起きていた俺は、出ようかどうしようか迷っていた。なぜなら、こんな時間にかかってくる電話なんて、経験上ろくな用事じゃないからだ。そのうち、「ジリリーン、ジリリーン」という音は止まった。だけど、直ぐにまた「ジリリーン、ジリリーン」と鳴り始めた。俺は何となく受話器に手を掛けて電話にでた。「……もしもし」「お、信一か?」その声は、俺の嫌いな先輩だった。やはり出ない方が良かったと後悔していたが、予想外の名前をその先輩は口にした。「お前、誠司って知ってるよな?」……え? 「誠司って、岡赤の誠司ですか? それなら知ってますよ」俺はそう答えた。「そうか……」「どうしたんですか?」「バイクで事故ったらしい」「……え!?」「今愛宕病院だって。行ってやれよ」俺は何も言わず直ぐに電話を切って自転車で愛宕病院に向かった。事故の時一緒に居た誠司の仲間は、ブレイクダンスの友達で、誠司はそいつらと数台のバイクで走っていたらしい。そして、誠司と後ろに乗って居た二人が事故で愛宕病院に運ばれた。他の奴らは無事で、そのうちの一人が、電話をかけて来た先輩の知り合いだった。そいつが病院から先輩に電話をした。誠司と仲良かった俺に連絡が取れないかって…… そして、今に至る。
病院に着いた俺は、自転車を止める事なく歩道に投げ出した。そして救急用と書かれたドアから中に入った。そこには誠司のツレが4人いた。その中の一人だけ見たことがあった。みんな廊下のソファーでうつむいて足を組んで小さく丸まっていた。それを見た俺は、なんとなく嫌な予感がしたんだ。けど…… けど…… 勘に科学的根拠なんて無い。ハズれるものだ。そうだろ? きっと今回もハズれるさ。そうだよな…… 俺もソファーに座って、何かを待っていた。ずっと、一言もしゃべらず、ずっと待っていた。すると、救急の入り口から、私服の刑事が二人入って来た。そして、俺たちに向けて口を開いた。「大変なことに、なったな……」 と…… 意味が解らなかった。いや、理解を拒絶したと言った方が正しいのかも知れない。そして、警察の後に、黒く肌が焼けた夫婦が入ってきた。その二人は、漁師をしている誠司の両親だった。警察の一人が、ノックをしてから診察室に入っていった。しばらくして、ガラガラという車輪の音が耳に届いた。ベッドがゆっくりと運ばれていく、その音だった。
そのベッドには、顔に白い布をかけられ、胸の上で手を合わせたまま、テープでそっと固定された、誠司の亡骸が、静かに横たわっていた。
それを見て、みんなが泣き始めた。泣いていなかったのは、俺だけだった…… 誠司の両親が、俺たちに向かって頭を下げてから、誠司の亡骸と一緒に消えていった。俺はいつの間にか、ソファーから崩れ落ちていた。床に額を押し付けて泣いた。「うあああああああ、嫌だああああああ、誠司いい嫌だああああああああ」大声で泣いて喚いた。「嫌だああああ、誠司いい、誠司いいい」
誠司は、洋楽が好きだった。
誠司は、ブレイクダンスが上手かった。
誠司は、友達思いで優しかった。
そして誠司は、本当に良い奴だった……
あれから40年。俺は、55歳になった。物忘れがひどくなってきて、同じ話を何度もすると周囲から言われるようになった…… よく自分で置いた物をどこに置いたか忘れて探すようになった。
けど…… だけど…… あの時のことは、鮮明に覚えている。40年経った今でも、鮮明に…… そして、今日も思い出して泣いていた。たぶん、一生忘れることは無いだろう……
一道と再会することなく、誠司は旅立った。だけど、誠司の生きた証は、俺の記憶の中に刻まれている。誠司が存在したという事実が消えることは、決してない。
後で知ったけど、施設に突撃した日は、誠司の誕生日だった。「あー、最高だったぁ~」そう口にした誠司に、俺は微笑みを浮かべて返事をした。「あぁ」「一道も絶対見てたよね?」「うん、絶対見てたよ」「戻って来たら、直ぐに教えてやろうな」無事和義の家に戻って来た誠司は、子供みたいに無邪気にハシャいでいた。
あの笑顔を、ずっと、ずっと俺は覚えている。誠司、お前も俺の笑顔を覚えているだろ? なぁ…… 誠司……