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麦と米のはなし 

 アストラハーニェからアリターナへの小麦移送完了と、フランベーニュで起こる小麦争奪戦の開始との短い幕間期間中のアグリニオンの首都の一画。


「アリターナは何があってもこれで一息つける。もちろん私たちアグリニオンも……」


 すべての荷揚げが終了し、久しぶりに自宅で休養をとったアドニアだったが、その旺盛な勤勉意欲が理由なのか、それとも単純に若さの成せる技なのかはわからぬものの、翌日には何事もなかったかのように事務所に顔を出していた。

 そして、「アリターナは何があってもこれで一息つける……」というその言葉は自らが留守の間、アグリニオンでの業務を任せていた側近たちから報告を受けた直後彼女が呟いたものである。

 アドニアの独り言のような言葉はさらに続く。


「……ですが、同じ食料輸入国でも私たちのような手当のないブリターニャやノルディアは大変なことになりそうですね」


 少々の憐れみは込めてはいるものの、これは嫌味や皮肉ではなく、安堵の気持ちから漏れ出した素直な感想であった。

 だが、ここでそれに少しだけは反する情報が腹心のひとりエルピディオス・カルジッツアからもたらされる。


「アドニア様。それについて少々興味深い情報が手に入りました」

「興味深い情報ですか……」


 カルジッツアの言葉にアドニアは顔を顰める。


 当然である。

 小麦の輸出国であるアリターナでさえ、連作障害から生産量を落としているところに農地での労働者不足まで加わり、いつ食料不足が始まってもおかしくない状況に陥っているのだ。

 もともと小麦の輸入国であるブリターニャやノルディアにその状況がやってくればどうなるかは目に見えている。

 さらにいえば魔族の停戦をしたらしいノルディアはともかく、ブリターニャは魔族との戦いにアリターナ以上にどっぷりと浸かっている。

 チェルトーザの言う農業から始まる国家崩壊が真っ先にブリターニャで始まってもおかしくないのだ。


 ……もしかしてブリターニャでその兆候が出始めたのでしょうか。


 アドニアの心に黒い影が過る。

 聞きたくはないが、聞かずにはいられない。

 どこで、という言葉をアドニアが口にしかけたその時だった。


「どうやら、ブリターニャでは食事の大変革が起きているようです」


 ……はあ。


 もう少しで、その間の抜けた言葉を出すくらいにアドニアは驚く。


 当然である。


 食事の大変革。


 それはアドニアが考えていたものとはまったく違うものどころか、想像すらしていないものだったのだから。


 さらにいえば、間違いなくそれは自らの商売に関わることでもある。


 ……なるほど。たしかに興味深い。

 ……それはよく聞かねばならないことですね。


 見本のような苦笑を披露しながらアドニアは心の中で呟く。


 ……それにしても、最近は驚かされることばかり起きますね。

 ……ですが……。

 ……だから、楽しい。

 ……そして、これこそが……そう。これこそが……。


 ……生きていることを実感させるものなのです。


「カルジッツア。詳しく聞かせていただけますか?」


 それから、少しだけ時間が経った同じ場所。

 実を言えば、アドニアの驚きは、説明を聞いても解消されなかった。

 いや。

 むしろ、大きくなったといえるだろう。


「……小麦の収穫量が回復している?ブリターニャで?それはまちがいないことなのですか?」

「その話を聞いたとき、私も怪しいと思い確認させたのですが、どうやら本当のようです。それからカラブリタ様の言葉を少しだけ訂正させていただければ、小麦の収穫量ではなく、増えているのは穀物全体の収穫量です」


 対魔族連合の提唱国であるブリターニャ王国は、アリターナと同じく、いや、それ以上に多くの農民を戦場に送り出していた。

 つまり、農地の広さに対してそこで働く者が不足しているという状況はアリターナよりも進んでいるはずである。

 それにもかかわらず収穫量が回復しているというのだから、カルジッツアからの説明を聞き終えたアドニアが大いに疑い、驚きの声を上げたのは当然といえば当然のことである。

 だが、それが事実というのだから、今度はそうなるための理由を確認する必要が出てくる。


 さて、その理由とはいったい何なのか。


「あなたが最初に口にしたブリターニャで起こっている食事の大変革という刺激的な言葉。それと穀物の収穫量の増加がどのように関わっているのですか?」


 前のめり。

 アドニアの様子を端的に表すのはこれ言葉以上にふさわしいものはないというくらいの勢いで尋ねるアドニア。

 それに少々気圧されながらカルジッツアが口を開く。


「……最近ブリターニャでは米食が人気になっているのです。つまり、米の需要が大幅に上昇しました。当然そうなれば、米をつくろうという生産者が増えて……」

「ちょっと待ってください」


「申しわけないのですが、ひとつ尋ねてもいいですか?カルジッツア」


 アドニアがカルジッツアの話を止めたのには当然理由がある。

 そして、その理由がこれである。


「米というのはアリターナで少々つくられているあれのことですか?」

「そうです」

「ですが、あれは暖かい地域ではできないはず。ブリターニャの遥か南に位置するアリターナでさえ南部でしか米は育たないと聞きました。そうであれば、米がブリターニャで栽培されることなどあり得ない話に思えるのですが」


 口から出かかった水稲や稲作という言葉を封印し、この国で使われている米を意味する言葉だけ組み上げたアドニアの問い。

 これはすべて正しい。

 そう。

 この世界で米、すなわち水稲が栽培できるのは、アリターナとフランベーニュのごく一部だけであった。

 すなわち、この世界での寒冷地に近いブリターニャでは米を栽培するのは無理なのである。

 だが、カルジッツアの言葉はそれを明確に否定したのだから、アドニアが慌てるのも無理からぬことである。

 そして、疑わしい気持ちをたっぷりと載せたアドニアからやってきた問いに、答えたカルジッツアの言葉がこれである。


「最近になってブリターニャでも栽培できる品種が見つかったのだとか」


「見つかった?」


 ……たしかに日本でも寒冷地に属する北海道でも稲作はおこなわれています。

 ……つまり、寒冷地にあった品種があってもおかしくはありません。

 ……ですが、それは長期間かけた品種改良の結果です。


 ……偶然であってもその辺にあったというのはおかしくはありませんか。


 これは偽らざるアドニアの気持ちである。

 体全体から疑惑の香りを漂わせたアドニアの心の声は続く。


 ……そもそもブリターニャで米が食されていたなど聞いたことがありません。

 ……それなのに、かの地でも栽培できる米が見つかった途端に米食が人気になるなど信じられません。

 ……米食が人気になったとたんその品種が見つかったというよりも整合性はありますが、それでも納得しかねる点では変わりません。


 ……米食の伝道師でもいるのでしょうか?

 ……そしてその伝道師こそその米の発見者ということなのでしょうか。


 ……まあ、それは後で考えることにして、とりあえずすべてを聞くことにしましょうか。


 一瞬。

 いや、百瞬ほどの間をあけてアドニアの口が開く。


「それで?」

「米をつくるため水を溜められる畑に小麦畑をつくりかえられました。ちなみ米作ができる畑は今も増え続けているのですが、これはそれだけ需要があるということを示していると思われます」


 ……水を貯める畑。つまり水田ですね。まあ、稲作をするのですから当然です。


 心の中でそう呟きながら、話を進めるように左手で合図を送ったアドニアに促されたカルジッツアは小さく頷き言葉を続ける。


「ですが、米は小麦のように年二回の収穫は難しい。そこで米の収穫後小麦を植えたそうなのですが、これが大成功。一回分のものとしては破格の量が収穫できるようになった。というより、多くの地域で一回の収穫でそれまでの二回分と変わらぬ小麦が収穫できるようになったというのです。つまり、米を収穫したうえで今までと同等の小麦も収穫できた。これがその穀物の収穫量が増えたという中身となります」

「なるほど」


 ……たしかに理に適っている。

 ……おそらく毎年二回の植えつけをやり連作障害が極まっていたブリターニャの耕地はアリターナの比でないくらいに収穫量が落ちていたのだ。

 ……そこに偶然始まった稲作によって輪作が始まり、耕地の健康が回復したのでしょう。ですが……。

 ……死にかけていた耕地が完全な健康を回復するには時間がかかるはず。

 ……その程度で急速に収穫量が上向きになるなどありえないことです。

 ……それに、干上がっているとはいえ水田での小麦栽培は純粋な小麦畑より収穫量が落ちる。

 ……それなのに収穫量が飛躍的に伸びた?

 ……これはどう考えてもおかしい。

 ……そうなるためには輪作以外にも何か理由があるはずです。

 ……機械化ということでなければ、土地改良か品種改良ということになりますが、どちらにしても一朝一夕でできるものではありません。


「ちなみに、米の栽培を指導した人物はわかっているのですか?」

「もちろん」

「どのような人物なのでしょうか?」

「どのようなというか、その人物はブリターニャ王国、第一王子アリスト・ブリターニャです」

「ほう」


 ……女好きで軽薄だが、知識は非常にあるという噂のあの男ですか。


 女好きで軽薄。

 アリスト本人がそれを聞いたら大笑いし、フィーネは大きく頷いて嘲笑し、ブラコン王女ことホリー・ブリターニャが聞いたら怒り狂いそうであるが、実を言えば、フランベーニュやアリターナでの彼の評価とは実際にこのようなものであった。

 もちろんそれは、アリストが王の代理として赴いたそれらの国でその噂に違わぬ数々の武勇伝を築き上げてきた結果なのだが、それがアリストの本性なのか、偽りの姿なのかは見る者によって変わる。

 もちろん関係者の大部分は前者の側に立つのだが、たとえばフランベーニュ王国第三王子ダニエル・フランベーニュは「あれは相手を油断させ情報を引き出すための擬態である」と断定している。


 さて、怪しげな香り漂うその噂だが、今のアドニアにとって問題なのは、もちろん女好きというところではなく、自らが口にしたその噂の後半部分、つまり豊富な知識を持つというところだった。


 ……連作障害や輪作についての知識があったということなのでしょうか。

 ……ですが、それをどこで手に入れたのか気になります。

 ……まあ、偶然が重なっただけとも考えられますが。とりあえずここでは判断できません。

 ……もう少し聞いてみましょう。


 少ない材料ですべてを判断するのは愚者のやること。

 まずは出来るだけ多くの判断材料を集めることを心がける。

 この世界に来る前にはそうやって生きてきたアドニアはここでは判断を下さない。

 その代わりといわんばかりに、あらたな問いの言葉を口にする。


「それを指導したのがアリスト王子というのは何か根拠はあるのですか?」

「直接的なものはありませんが……」


 そう言ったところで、言葉を切ったカルジッツアはわざとらしく間を取ると、再び口を開く。

 ニヤリと笑いながら。


「ブリターニャにおける米作はアリスト王子の領地で愛人が管理する畑で始まったという事実があります」

「愛人?」

「はい。ブリターニャ貴族ではないようですが、かなり若く、そして美しい方だとか」

「なるほど」


 ……やはり噂どおりということのようですね。


 アドニアはこう断罪しアリストを軽蔑した。


 だが、その機会も与えられないまま「女たらし」という看板を首にかけられたアリストの代わりに弁明しておけば、この世界では彼の母国ブリターニャに限らずどの国の王も正室以外の妻を持ち、さらに王子たちもそれぞれ多くの愛人を抱えている。

 しかも、アリストはもうすぐ三十歳。

 それこそひとりくらい愛人がいてもおかしくはない年齢である。

 さらに言うのなら、アドニアたちにアリストの愛人とされているのはいうまでもなくフィーネであり、少なくてもこれについては間違いなくアリストは潔白である。


 まあ、そういうことでアリストに対して、誤解だらけのよからぬ感情を抱いたアドニアの問いはさらに続く。


「ということは、そのブリターニャでも育つ米とやらも、どこから見つけ出したアリスト王子が提供したものということなのですか?」

「そのようです。ついでに言えば。その米はアリターナやフランベーニュで育てられているものとは少々形状が違うようです。小さいというか、かなり短い粒とのことです」


 ……つまり、ジャポニカ種ですか。ん?ということは……。

 ……うまくすれば懐かしい白飯の味にありつけるということではありませんか。


 ……こちらに骨を埋めると決めたときに、きっぱりと捨て去ったつもりだったのですが、目の前にそれが現れると猛烈に里心が盛り返します。

 ……ということで……。


 ……何と言われようが、これは譲れません。


「……興味深いですね。その米を取り寄せてみてください」


 ……よし。


 心の中で盛大に言い訳をしながら、手配をし、そのうちやってくるその米が炊き上がる様子を早くも思い浮かべ、なにやらうれしそうな表情をするアドニアを少しだけ奇異に感じたカルジッツアだったが、楽しそうに物思いに耽る主の楽しいひと時に水を差すことを申しわけなさそうに言葉をつけ加える。


「それと……」


「信じがたい話なのですが、実は今まで通り小麦をつくり続けている農家のなかでも収穫量が目に見えて増えているところがあるそうです」


 ……ん?


 もし、それがたいしたものではなかったのなら、アドニアはそのまま白飯を食べる妄想を続けていたのだろうが、さすがにこれはそういうわけにはいなかい。

 すぐさま正気に戻る。


 ……輪作もせずに収穫が増える?

 ……さすがにこれはありえない。ありえないことです。絶対に。


「……その理由はわかりますか?」


「それはなんとも。ですが、その場所はアリスト王子の領地、またはその周辺に限定されているそうです」

「なるほど」


 ……間違いなく何かある。


「それについては調査が必要のようですね」


「まあ、とりあえず米作と小麦の生産量増加については承知しました。ついでに、その発端となったその食事の大変革とやらについても教えてください。まあ、米を食べる習慣が出てきたということなのでしょうが」


 その言い回しとは裏腹にかなりの熱量を感じるアドニアからやってきたその言葉に応えるように、カルジッツアが再び口を開く。


「ここで登場するのが再びアリスト王子です」


 ……いよいよ怪しい。


 すでにアリストに対して好意的ではない評価を下しているアドニアは露骨に嫌な顔をしてみせる。


「どういうことですか?」

「先ほどのアリスト王子の愛人が王都で料理屋を始めたのですが、そこで出された料理がきっかけとなって、米食が大人気になっているのだとか。特に女性の間では『米食は美容と健康によい』という評判が広まり、庶民だけではなく貴族の女性もパン食から米食に切り替える者が続出しているとのこと」

「ほう」


 ……どの世界にもありそうな一時的な流行と斬り捨てたいところですが、カルジッツアの話にあった水田が増え続けているという状況はパンから米へ主食を変更している者が間違いなく増えていることを示している。

 ……つまり、一時的な流行なのではなく、はっきりとした流れが出来たということになります。

 ……ですが、主食を変更するというのは余程なことになるわけで、それを促したというその料理は余程のインパクトがあったということなのでしょうね。

 ……興味が涌きます。

 ……聞いてみましょう。


「……ちなみに女性たちがパン食から米食に切り替えたくなったというその料理はどのようなものなのかわかりますか?」

「蒸した米、豆のスープ。それに強烈な匂いのする豆と乾燥させて黒い海藻。それに少々の焼き魚だそうです」


 ……蒸した米ということは、白飯ということでしょうか。

 ……豆のスープとは味噌汁ということはないでしょうね。

 ……ですが、そう考えると、匂いの強い豆とは納豆で、黒い海藻というのは海苔にも思えてきます。


 実をいえば、アドニアが推理したものは以前別の場所で同じ店の料理が話題になったときに大海賊ワイバーンが思い浮かべたものとほぼ同じである。

 ここはやはり同じ元日本人というべきなのかもしれない。


 さて、本来の目的を忘れ、完全に意識はそちらの側に傾いたその元日本人はそこからさらに思考を進める。


 ……白飯、味噌汁。それに納豆と海苔に焼き魚。


 ……まさかとは思いますが……。


 ……なんだかそれは……。


「その店の常連になっている王族や貴族の女性たちも皆それを注文するそうで、名前はたしか……アサテイとか言っていたような」


 自らの思考を遮ってやってきたカルジッツアが届いた瞬間、アドニアが椅子からずり落ちかけた。

 言うまでもない。

 彼女自身心の中で口にしかけた言葉こそ、その「アサテイ」、正確には朝定なのだから。

 だが、事情を何も知らないカルジッツアは大きな勘違いをする。


「まあ、私から言わせれば貧相な食事ですし、そんなものを食べていれば健康はともかく太りはしないでしょうね。ですが、この店の名物はこれだけではないのです」


 もうこうなると、もう止まらない。

 いや。

 止まれない。


「う、伺いましょう」


 そちらへ踏み出し、その言葉以上に表情で続きを催促するアドニアの言葉にカルジッツアに答える。


「ここの焼いた肉は絶品だそうです。評判を聞きつけて試しに食べた部下によればそこで出される牛肉はこの世のものとは思えぬもので、それをひとことで表現するならば口の中で溶けるのだそうです。まあ、あの牛の肉に対して溶けるという表現を使うのはいかがなものかとは思いますが」

「……まったくです」


 不信感満載のカルジッツアの言葉にはとりあえず同意した。

 だが、彼女は知っている。

 そのような肉がこことは別の世界にはあることを。


 ……先ほどのアサテイと合わせて考え合わせれば、まちがいなくそれは和牛。しかも最高級の。

 ……ということは……。


「その肉は高いのでしょうね」

「最低でもブリターニャ金貨五枚。高いときには目が飛び出るほどになるとか。ですが、それだけの価値はあるそうです。それと合わせる米からつくる酒もなかなかの絶品とのことで……」


 ……それは間違いなく日本酒。うまくすれば焼酎もある。


 ……決まりだ。


 ……アリスト・ブリターニャ。


 ……この男はまちがいなく日本からやってきた者だ。

 ……そうであれば、連作障害の対策として、米作を加えた輪作の実施したことも辻褄が合う。


 ……機会をつくり会ってみましょう。

 ……小麦の収穫量が突然増えたカラクリと、寒冷地に適した米を手に入れた経緯を聞くために。


 ……いやいや。心の中で嘘をついてはいけません。


 ……今興味のあるのはその最高級の和牛の肉をどこから手にいれているかということです。


 ……と、とにかくついでに他のすべてもしっかり種明かしをしてもらいますよ。アリスト・ブリターニャ。


 色々と雑音は混ざっているが、とりあえずアドニアはアリストが日本からやってきた者であると確定した。

 だが、残念ながらそれは大きな間違い。


 まあ、すぐ近くに該当者がいるのだからニアピンとはいえなくもないが。


 ……まあ、たとえ彼に会えなくでも一度その店に行く必要はありそうです。

 ……アサテイ……いえいえ、せっかくなら和牛のステーキと白飯。それに日本酒を味わいたいです。


 ……ですが、私はまだ十七歳……は、この世界では成人ですから飲酒も大丈夫ですし。


 ……ですが、まさかこの世界で日本食や和牛が食したうえ、大好きだった焼酎まで飲める可能性があるとは……。


 ……すばらしい。


 さて、この件を終わりにする前に、言った本人が忘れかけている小麦増産の仕掛けについて触れておこう。


 ブリターニャの農家の小麦収穫量が急激に増えた理由のひとつは、アドニアの推測どおり、それまでの小麦の二期作から、輪作のひとつである米と小麦の二毛作を開始したことで間違いない。

 つまり、輪作による土壌改良による増産である。

 だが、二毛作だけでは急速な土壌改良などおこなえるはずがないうえ、そもそも一部地域とはいえ今まで通り小麦だけを作付けしていた農家も収穫量が増えているという事実もある。

 つまり、プラスアルファが絶対に必要ということになる。


 アドニアはそれをアリストがなにか特別な仕掛けを施したと推測したのだが、こちらについては彼女の推測ほぼ完全に外れている。

 つまり、特別な仕掛けを施したという部分については部分的には当たっているのだが、それ以外はすべてにおいて正解から遠い場所にあった。


 では、どこがどう違うのか。

 言うまでもない。

 アドニアや彼女の部下であるカルジッツアがアリストの愛人だとしか思っていなかったフィーネことフィーネ・デ・フィラリオ。

 彼女こそがその仕掛けどころか、今回の件のそのすべてを仕切っていた者。

 つまり、根本部分から違うのだ。


 そして、アリストではなくフィーネが施したその仕掛けとはもちろん魔法。

 もう少し言えば、彼女が使用したのは、通常の治癒魔法と、治癒魔法の完成形であり、この世界でただ一人彼女だけが使用できる「死者蘇生」の応用魔法「完全再現」である。


 前者については、その魔法を弱り切った土地に対して使用した。

 もちろん土地に対して治癒魔法をかけるという行為はこれまで誰もおこなっていなかったものなのだが、これについては少々の説明が必要であろう。


 二十一世紀の日本に住んでいれば、連作障害という言葉はどこからともなく聞こえてくるため、朧気にでもその原因と対策は想像できるが、こちらの世界の人間はそのような知識は皆無。

 土地が弱っているという発想がないため、ある程度の魔力のあり治癒魔法が扱える魔術師であればそれは誰でもおこなえることだったにもかかわらず、実行した者はいなかったのである。


 逆に、元二十一世紀の日本で暮らしていた人間であるアドニアは連作障害の知識はあったものの、魔法に対する知識が乏しかったため、土地に対して治癒魔法を使うという発想が思い浮かばなかった。


 それに対して、フィーネは連作障害の知識があるうえ最高級の治癒魔法が扱える。

 さらに彼女はこの世界に蔓延る「治癒魔法は人間や家畜に対して使用するもの」という固定概念に囚われることもない。

 当然のように魔法を農薬代わりに作物に使用し、さらにその魔法によって自らが所有する弱り切った農場の土地を元の状態に戻し、さらに最高のものへと進化させた。


 もちろん誰にも内緒でこっそりと。


 ついでに言っておけば、カルジッツアが「アリスト王子の領地」と言ったその大部分はフィーネが個人で購入所有している農場である。

 もちろん購入にあたってアリストが後ろ盾になっていたのは事実であるし、最近手に入れた勇者ファーブの故郷ラフギール近くの旧ショーモア領は間違いなくアリストの領地内であるのだが。


 では、なぜカルジッツアがそのような勘違いをし、アドニアがその間違いを見逃したのかといえば、答えは簡単。

 彼女がアリストの愛人という衆目一致の前提条件があったから。

 もちろんフィーネはそれを不満に思っていたが、それを口にする他人に対して大声で訂正を求めることにしなかったのには理由がある。

 そう。

 アリストの愛人が管理する土地。

 イコール、ブリターニャ王国第一王子の領地。

 それによる特典が馬鹿にならぬほど大きく、そして驚くほど多かったからである。


「……私がアリストの愛人だと思われていることには不満はありますが、どのようなものでも利用できるものは利用します。当然」


 フィーネは以前自らが口にしていたあの言葉を見事なまでに実践していたのである。


 それからもうひとつの魔法である「完全再現」であるが、こちらをどのようなものに使用したかについては詳しく述べる必要はないだろう。

 彼女はこの世界に存在するインディカ米から、「材料さえ揃えば姿かたちはもちろんその内容まで望み通りにつくりあげる」というその究極魔法のひとつを使って北海道でも作付けできるあの品種の米を生み出し、そこからさらに酒づくりに最適な品種の米までつくりだしていた。

 つまり、アドニアの言う長い時間が必要となる品種改良をその魔法を使って一瞬で終わらせていたのである。

 

 もちろん、魔法の出し惜しみをしない彼女は、土地改良の際にもこの魔法を使用している。

 最後の仕上げとして。


 まあ、こちらについては、いつもどおりといえばいつもどおりのことであるのだが、とりあえずこれがブリターニャにおける小麦増産の真相となる。

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