アストラハーニェ王国
結果的に、敗者と思われた者たちが勝利者となり、その勝者を笑いものにしていた者たちが決定的な敗者となる「アリとキリギリス」の寓話を地で行くような話。
その幕開けとなったフランベーニュ王国で繰り広げられた狂騒劇が始まるよりも百日ほど前。
実をいえば、その地から北東の方角に位置するはアストラハーニェ王国でその前哨戦にあたるものがすでに始まっていた。
もっとも、こちらは激しさというものは皆無。
その理由は、もちろん買い手が単独だったから。
さらに言えば、売り手も実質ひとつ。
しかも、それなりの付き合いがある。
売買交渉は極めてスムーズにおこなわれ、記録的な速さで決着するのだが、もちろんこれにはそれなりの理由がある。
売り手側であるアストラハーニェにとって余りに余っていた穀物の多くを適正価格で引き取るという客が現われたのだから喜ばぬはずがなく、客の気が変わらぬうちに契約書にサインをし、対価を受け取ろうという思惑があったのだが、今から何が起こるかを知っている買い手の事情もほぼ同様。
つまり、双方の利害は一致していたのである。
ちなみに、ほぼ鎖国状態のアストラハーニェ王国との交易では、代金はそれに見合う商品でおこなういわゆる物々交換が主な支払い方法となる。
その理由は簡単。
最近はそれなりの交易はおこなわれてはいるものの、自らの交易使節を派遣できず、売り買いすべてがアグリニオンの商人たちに委ねられるという状態であるため、外貨などいくら貯め込んでも意味がないからというもっともな理由がそこには存在する。
そして、そのような事情があるアストラハーニェにとって、目の前にいる取引相手は最高のパートナーといえるだろう。
なにしろ、アグリニオンの商人である彼らは、この世界でつくられているものなら大概のものは手に入れてくるうえ、そのなかでも今回の交易相手であるアドニア・カラブリタは海賊とも取引をしており、彼らの特産物である陶器、磁器、ガラス製品から始まり、ゴム、さらに香辛料や南洋産の果実まで扱っていたのだから。
さて、買い取り交渉が終わってから五日後、驚くべきスピードで倉庫から持ち出され指定された場所に集められたそれを眺めながら、その引き取り主である少女に声をかける者がいた。
「カラブリタ殿。こちらは十分な見返りがあり、うれしいのですが……」
どこで覚えたのかは知らぬが流暢なブリターニャ語を操るアストラハーニェ側の代表、交易担当の通商官僚アレクセイ・ボグチャルがその人物となる。
「いったいこれをここからどうやって運ぶのですか?」
そう言ってから、ボグチャルは自問自答のように言葉を続ける。
「……もちろん馬車で運ぶことになるのでしょうが、待ち構える山賊どもにいい思いをさせるのはこちらとしても忸怩たるものはあります」
「しかも、これだけの量を運ぶとなれば、周辺の馬車を買い集めても数往復では済みますまい。その度に通行料を払うとなれば、いったいいくらを……」
「ご心配なく。これらはすべて転移魔法で運び出します」
「えっ?」
それ以外はないと確信し、少々の皮肉を込めて口にした自らの言葉をあっさりと否定されたボグチャルは少しだけ気分を害す。
だが、最低限の節度を守るように作り物のような笑みを浮かべて言葉を続ける。
「たしかにそうすれば山賊に大事な小麦を奪わることはないでしょう。ですが、そうなると、すべてを持ちだすまでに相当な時間が必要になりそうです」
ボグチャルとしては先ほどの言葉に対しての少々のお返しとして口にしたさらなる皮肉だったが、再び返り討ちに遭う。
なんと、外れようもないはずの言葉を少女が否定したのだ。
「いいえ。そうでもないのですよ。実は」
「と言いますと?」
「見ればわかります。そろそろ来る頃ですから」
さらなる疑いを抱くボグチャルに、その少女アドニア・カラブリタが、その言葉と、何度も届いた皮肉に対するお返しをするかのような黒い笑みでそう応じ、それに対してボグチャルが再び言葉を重ねようとした瞬間、それが現れる。
「……なんと」
それを見て度肝を抜かれ腰が引けたボグチャルは短い唸り声を上げたあとは押し黙る。
いや。
ここは声が出なかったと言ったほうが正しいだろう。
そこに突然現れたもの。
それはまさにそこにやってきてはいけないものだったのだから。
「カ、カラブリタ殿。これは……」
ボグチャルがようやく口にしたその言葉。
それを途中で遮るようにカラブリタはそれに答える。
「もちろんここに集められた大量の小麦を運ぶために用意したものです」
「それはそうでしょうが、なぜ……」
「船なのですか……」
そう。
アドニアが大量の小麦をアストラハーニェから運び出すために用意したものは大船。
しかも、ふたりの目の前に現れたのは二百隻。
いや。
後方にさらに多数の船が姿を現わす。
「……いったいどれくらいの数を用意したのですか?」
「あわせて四百隻ですね。この場所の積み下ろし施設の許容範囲が二百隻分だったもので」
「この大きさの船を四百隻?」
「はい」
「……た、たしかに考えようによっては悪い策ではありませんが……ここは海から遠く離れた場所。このような場所に海から船を持ち込むなど考えもつきませんでした。いやはや驚きです。このような発想ができるとはさすがカラブリタ殿。噂に聞く『枯れることのない知恵の泉』の持ち主とはカラブリタ殿のことだったのですね」
「ふふっ」
「……過分なまでのお褒めの言葉、ありがとうございます」
……実をいえば、私だってそのアイデアを聞いたとき驚きました。
……本当に。
心の底から驚いたボグチャルからの称賛の声に、やや照れ気味に応えながらアドニアは心の中でそう呟いていた。
実をいえば、海を行きかうはずの船を大陸内部まで転移させ小麦を詰め込むというこのとんでもないアイデアを思いつき、提案したのは彼女とは別の人物だったのだ。
……こうやってみると、たしかにこれ以外には方法がないような気がしますが、それでも考えつくのは常人ではできません。
……船をこういう形で利用するなど。
……しかも、海に生きる者からこの提案が出るとは。
……さすがです。
……そして、この大きさの船なら九百トンの小麦は積める。
……一人当たり年間三百キロ消費するとして、それの十年分とはすなわち三トン。
……ということは、一隻あたり三百人分の小麦を運搬できる。
……四百隻を二グループに分けて編成して、一ターンあたり十二万人分。
……つまり二十ターン弱で当初想定していた二百万人分の小麦の移送がほぼ完了できる。そして……。
……三十ターンで契約した量のすべてを運び終えられるわけです。
……まあ、契約した小麦の量は当初予想していたものより圧倒的に多いのですが、少ないよりはいいでしょう。
……どんなに高値になろうとも引き取り手は決まっていることですし、問題は何もありません。
アドニアは自らが立てた搬出計画を確認するようにもう一度数字を並べるが、こういうことになると、頭の中でいきかうのはこの世界とは無縁な単位となってしまうのは、いまだ抜けない前職の影響というものなのだろう。
まあ、誰の迷惑になるわけでもないのでご愛敬といえるものではあるのだが。
……さて……。
この世界とは無縁な単位で諸々の計算を終えたところで、少女は心の中で呟く。
……とにかくこれによって、目の前に宝の山がありながら手をつけずに帰るなどという商人としてあるまじき行為をしなくて済んだのですから、やはり十分な礼をいっておく必要はありそうですね。
……自らが持つ船をすべて投入しただけではなく、他の大海賊にも参加するように声掛けをしてくださったあなたの功績は大きい。
……本当に感謝しています。
……麗しき大海賊ユラ。ジェセリア・ユラ。
そう。
普段は海上を航行する船。
それを大挙して大陸奥地へ転移させる。
その突拍子もないアイデアは、チェルトーザとの会談を終えアグリニオンの港へ帰る船上、アドニアが開いた三人の大海賊との昼食を兼ねた慰労会での会話の最中に生まれたものだった。
そもそも、大量の小麦を運び出す方法としてアドニアが用意していたアイデアは多くの魔術師を使うというごくごく常識的なものだった。
ただし、極秘でおこなうことを求められていたため、アグリニオンの商人が抱える魔術師を借りだすことはできない。
同じような理由で在アリターナのフリーの魔術師も使えない。
かろうじてアリターナの宮廷魔術師に依頼することはできるが、彼らはプライドが高くこちらの指示通りに動くかどうかは大いに不安があり、とりあえず保留。
そうなると、もう残りは大海賊に頼るしかない。
……経費は相当高い。
……ですが、彼らに支払う手当はすべてアリターナ王家持ち。私が気にする必要はない。
……それに、彼らが抱える魔術師を使えば、話が諸国に漏れる心配もほぼない。
……やはりこれが理想に一番近いです。
頭の中での損得計算が終わったアドニアは、その本当の理由はつげず、ただ「アストラハーニェからこっそりと大量の小麦を運び出すために魔術師を借りたい」と海賊たちに要請する。
「ちなみに、どれくらいの量の小麦を運び出すつもりなのかな?」
当然のようにやってくるその場にいる三人の大海賊のひとりワシャクトゥンからの問いに、アドニアは少しだけ呼吸を整えてからそれに答える。
「目標としている量でいけば、それはアグリニオン中の人々が十年間暮らせるくらいにはなると思います。もちろん相手がどれだけの小麦を抱えているかにもよりますが、私たちとしてはそれ以上であっても彼らが売ると言ったものはすべて買い取るだけの気概で交渉に臨みます」
……約二十万人のアグリニオン国民の十年分だけなら三百万トン。
……交易等での来訪者等々のあり、実際に我が国が自国分としてアストラハーニェから毎年輸入している小麦の量は年間約八万トン。そのほかに穀物商人として私はブリターニャのための百九十万トン、ノルディア用には二百二十万トン、それから海賊たちのために七十万トンを輸入している。
……それに人口九千万人といわれる自国消費分が二千七百万トン。つまり、正式な発表がないため推測ではあるものの、三千五百万トンから四千万トンと思われるアストラハーニェの年間の小麦生産量から軍や民間の備蓄などを差し引いたアストラハーニェにとっての余剰小麦は毎年五十万トン程度と見積もり十年分で五百万トン。
……つまり、それが手に入れられる量ということです。
少女は事もなげにそういうものの、この三百万トンという量はこの世界の輸送規模としてはとてつもない数字である。
「ちなみにそれは十セネジュ袋でどれくらいになるのか?」
「三千万袋ほど」
「……多いな。それは」
はっきりとわかる驚きの表情。
そして、そこからは想像できないあまりにも控えめなワシャクトゥンの感想。
だが、それこそが彼、というか彼らの驚きの大きさを表していると言える。
もちろん、本来であれば「そんな量の小麦を買い入れて何とする?」という問いが続いてやってくるところである。
だが、いつまで待ってもそれは来ない。
……驚きのあまり尋ねることもできない?
……まあ、彼らに限ってそれはない。
……彼らに仕事を依頼している時点でそれが内密におこなうものであることはあきらか。
……たとえ尋ねても真実はやってこない。
……時間の無駄と思っているのでしょうね。
……それに彼らにとって陸上のことは守備範囲外。
……その辺の線引きはしっかりしているのかもしれません。
……それにこのタイミングでそれを話せば、私の依頼主がアリターナ王国そのものということは簡単に導くことができる。
……さらに国家が必要ということであれば、この量でも納得できるし、それなりの理由だって思い浮かぶ。
……そして、その理由はどうせろくでもないことだ。
……そうであれば、わざわざ尋ねる必要はない。
……まあ、そういうことなのでしょうね。
実は問われることを予想し、それらしい答えも用意していたのだが、それが無駄になったアドニアは少しだけ残念そうな笑みを浮かべながら大きく頷き、ワシャクトゥンからやってきた言葉に答える。
「そういうことなので、多くの魔術師を貸していただくほかに、実はもうひとつお願いがあります」
「何かな」
ワシャクトゥンの問いにアドニアが再び答える。
「その大量の小麦を短期間で運び出す妙案をあれば教えていただきたいのです」
「具体的には?」
「開始から百日以内で作業終了できるようなもの」
アドニアから依頼。
魔術師を借りるという前者については、両者の信頼関係の深さを考えれば、金さえ出せば比較的容易に実現するだろう。
だが、それほどの量の小麦を運び出すということになれば相当な数の魔術師を呼び寄せないかぎりとんでもない時間を要することになる。
その理由。
それは転移魔法にかかわる枷のひとつが関係してくる。
そう。
術者が触れていなければ術の範囲外になってしまうというあれだ。
つまり、それをクリアできる良い策はないか。
だが、彼女が口にしたもうひとつの依頼であるそれはさすがに簡単にはやってこない。
「たしか間接的にであっても触れていれば転移は可能でしたよね」
転移魔法を使った交易品の運搬を何度もおこなっていた経験を踏まえて促すようにそう尋ねるアドニアの言葉に、表情を険しいものに変化させていたワシャクトゥンが言葉を返す。
「たしかに可能だ。だが、それと同時にもうひとつの制限が問題となってくる」
「もうひとつの問題?」
「一度に転移させられる数の問題だ。おまえはどう思う?ボランパック」
「そうだな。アドニア嬢はおそらく積み上げた袋を術者が触れて転移させることを考えているのだろうが、今回の桁外れの量を我々が抱える魔術師だけでやろうとすれば驚くほどの時間がかかる。ハッキリ言えば百日などでは終わらない。期限を延ばすか、量を大幅に減らすか。早めにそのどちらかを考えていた方がいいだろう」
……やはり。
実をいえば、アドニアには小麦の運搬を転移魔法でおこなった過去があった。
そして、そこでも問題になったのはワシャクトゥンが口にした例の枷だった。
だが、陸上輸送ではとんでもない額の通行料が待ち構えているうえに、秘密裡に運搬したいという趣旨から大幅に外れる。
……ここは保有人員で時間をかけて運搬するか、この三人から他の大海賊が抱える魔術師の貸し出しを打診してもらうかしかない。
……増員できたところでもう一度再計算をして、できる範囲の量を契約することに……
アドニアが腹をくくりかけたその時だった。
「ひとつ提案がある」
そう言ったのはこの三人のなかで一番多くの魔術師を抱えるボランパックだった。
「小麦を入れる袋を大きくするという手はある」
「これは我々の経験に基づいていることだが、転移制限は基本的に数だけだ。大きさや重さは関係ない」
「ああ。たしかにそうだな」
「……では、袋を大きくすれば……」
「余計に運べるだろうな」
……ですが、その袋を用意し移し替えるという手間がある。
……さらに量を考えれば、それでも焼け石に水の感はぬぐえない。
……まあ、非常に良い手ではあるし、今後の参考にはなりますが、今回使うのは無理です。
……残念ながら。
「小麦が入った袋を特大の箱に入れればいいでしょう」
ハッキリとわかる否定的な感情を顔に浮かべ思案するアドニアにそう声をかけてきたのはそれまでひとことも発せず、三人の会話をBGM代わりにしながらひたすら飲み食いをしていたもうひとりの大海賊だった。
「箱……ですか?」
その意味がすぐに理解できなかったアドニアに対して、ふたりの大海賊はすぐに反応し賛成にまわる。
「それはいい」
「たしかに。詰め込みさえすれば転移できるのは実証済だ」
……なるほど。そういうことですか。
ボナンパックのその言葉に導かれアドニアもだいぶ遅れてそれに辿り着く。
……大きな袋を用意するのではなく、大きな箱に袋を乗せる。
……これなら移し替えの手間も大幅に緩和されるから悪くない。
……いいえ。最高です。
……ですが……。
「ユラ様。非常にいい案なのですが、運搬作業はすぐに始めたいのです。同業者が嗅ぎつけてこないうちに。その箱をつくる時間は残念ながら……」
「そうでしょうね。でも……」
「現在ある、大きな箱の代わりになるものを使うことにすれば問題はまったくないでしょう」
「代わり?では、何を代わりにするのでしょうか。ユラ様」
「決まっている」
「これ」
そう言ってテーブルを叩く。
……船?
もちろんユラは箱の話を持ちだした時点で船ごと転移させ、運搬に使用することを思いついていたのだ。
そこはわかる。
わかるのだが……。
アドニアにとってそれは信じられないことだった。
……常識的にはありえない。
……船を陸上に転移させるなど。
……いや。王都近くに川や湖はある。そこに転移させるということですか。
黙りこくるアドニアのもとにユラからの更なる言葉がやってくる。
「まあ、これを大きな箱だと思えば問題ない」
「ですが……」
「私たちが海上の移動の際に転移魔法を使うことはそう珍しいことではない。しかも、大量の荷物や通常の転移魔法では不可能な数百人の仲間とともに。つまり、これは私たちの中ではすでに使われている技術。心配は不要よ」
「それにこれならば船に小麦を運び込む人間も連れていけるでしょう」
……たしかにそれは一石二鳥。
出かかったその格言を抑え込むアドニアのもとにさらなる言葉がやってくる。
「ということで、あなたは……」
「早急に転移先を探してきて。言っておくけど、大船が大挙移動できる場所なら水の上でなくても構わない。優先すべきは小麦の集積場所から近く。積み込みが楽なことだからね」
「えっ?」
やってきた言葉にアドニアは再び驚きの声を上げる。
「湖などでなくてもいいということですか?」
「そう。私は陸上もいいと思っている。陸上に上がった船なんか早々見られるものではないのだからそれも一興というものでしょう」
「……もちろん陸上に転移すればそれなりに損傷する。その修理代は別途もらうようになるけど」
「もちろんそれは構いませんが……」
……川や湖ではなく、陸上でも構わない?
……ですが、船の専門家が大丈夫だと言っているのだ。
……ここは信用すべき。
……ゴーだ。
「わかりました。では、よろしくお願いします」
そして、やってきたその日。
ボグチャルと別れ、小麦の積み込み作業を眺めるアドニアの隣に立つ、美しいが、あきらかに毒があり、さらに言えば彼女より一回り以上年上の女性……。
と言っても、この世界には干支というものは存在しないのだから、これはあまり適切な表現ではなく、十歳以上と表現した方がより正しいのだが、とにかく自らよりかなり年上の女性が口にした安堵の成分が含まれるその言葉に同じ思いのアドニアは素直に応じる。
……おそらく、陸上に転移すれば、船底の損傷だけではなく、傾き、最悪横転していた。
……それでも、ヴァルペリオ港沖に再転移させればなんとかなるという計算だったのでしょうが、そうならずに済んだのは助かりました。
……それにしても……。
……私だけではなく大海賊の船四百隻を国の奥まで呼び込むことを簡単に許すとは王も大胆な決定をしたものだ。
そう。
持参した珍しい品々を直に献上したいという名目でアストラハーニェの王への拝謁に成功したアドニアは、人払いを求めたうえで例の計画を明かし、広い敷地を提供するように直談判をおこなったのだが、難航するという彼女の予想は大きくはずれ、大いに乗り気になった王が即座に用意するとした場所がそこだったのである。
……まあ、貢物の効果は十分にあったということでしょうか。
王子のひとりに案内されてそこを訪れたアドニアは心の中でそう呟いていた。
そして、その用意された場所。
そこは、王都の北方に位置するもはや内陸にある海と表現できそうなとんでもない広さを誇るサルトラン湖だった。
事実上海を持たないため海運というものは存在しないアストラハーニェだったが、その代わりではないだろうが水運は非常に発達していた。
広すぎる国土に舗装した街道を整備するのは困難なことなのは当然なのだが、そうであっても人や物は滞らず移動できるようにしなければならない。
そのためにはどうした良いかと考えた歴代アストラハーニェの王と側近が辿り着いた方策が水運だったというわけである。
ありがたいことに国内を流れる多くの河川の源流の多くは王都近くの山岳地帯。
それを最大限に利用し、さらに、いくつかの巨大運河をつくり水運による見事な物流ネットワークを構築していたのだ。
そして、今回の転移先となるサルトラン湖は川を遡って王都へやってくる北方からの物資の集積場所となるため大掛かりな物資揚陸施設がある。
王は、その施設の利用をアドニアの商会に許可したのである。
しかも、前日より百日間サルトラン湖を一般の立ち入りが禁止とするという王令を発布し、事実上アドニアたちの貸し切り状態にしたのだから、あの呟きが出るのは当然といえるだろう
だが、王には便宜や献上品に対する礼以外にもそれをやる理由があった。
王は用意した場所の概要を説明し終わると、こう言葉をつけ加え、アドニアに釘を刺した。
「この件は私とおまえ、おまえの従者たちの秘密だ。他の誰に伝えることは禁じる。特に我が国の者には」
「ボグチャル様にも、でしょうか?」
「当然奴にも教えてはならぬ。私から何も聞かずただ各地からかき集めた小麦をかの地に積み上げておけと言っておく」
「すべて承知しました」
「ところで、この緘口令の理由はわかるかな?」
実際のところ、その理由を想定することはできる。
だが、それはどれもこれもあまり良い内容のものではない。
場合によってはそれなりの対策を講じなければならないような。
余計なことを言って商談が吹っ飛ぶ、いや、自分の首が飛ぶことを恐れたアドニアは首を振る。
「……わからぬか?」
表情を変えぬまま王は短く尋ねる。
もちろんここはヒントを引き出すのが最優先。
アドニアは恭しさでだけでつくられた表情で「はい」と応えると、王の険しい表情はその厳しさを増す。
「簡単なことだ。私は皆を驚かせたいのだ。どこかともなく船が現れる様を見せたら全員が腰を抜かす。私はそれが見たいのだ。実際のところ、私自身も腰を抜かすかもしれないが、それでも、それが来ることを知っているのだから多少は有利。何事もなく眺め威厳を保つ。いや。つもりだ。どうだ?すばらしいだろう」
そこまで言うと、それまで「ザ・威厳」と言わんばかりの表情だった王の顔は、突如別人のようになり、大笑いを始める。
……なるほど。
……つまり、これはつまらぬ政治的な思惑などはない。
……ただ皆で楽しみたいということですか。
「なるほど。それはたしかに面白そうですね」
そう言葉を返しながら、アドニアは思った。
……アストラハーニェは魔族との戦いに本格的参戦をしていなかったので、アリターナやフランベーニュで起こりつつあるという農民不足という問題は起きていなかったのだろう。
……だから、気前よく小麦を放出した。
……莫大な対価と引き換えに。
……そのあとはその宴というわけですか。
アドニアはこっそりとため息をつく。
……厳しいだけのようなこの国の王も、そして、凡庸の見本とされるアリターナの王もそう。
……見た目はともかく、この世界で一国を率いている者には愚かな者はいないようだ。
……まあ、当然か。
……ここは本当の意味での弱肉強食の世界。判断を誤ったら国は一瞬で滅びるのだから。
……つまり、権力を私利私欲にしか使わないどこかの政治家どもはこの世界の為政者にはとても務まらぬ。そういうことです。
「……とりあえず、この調子なら港に運び込むことは可能でしょう。それでこれだけ大量の小麦を保管する場所なんて本当にあるのですか?」
少し前の出来事を回想していたアドニアを現在に引き戻したその声。
もちろんその声の主はこのすばらしいアイデアの提供主である。
……おっと。
……すっかり、終わった気になっていたが、まだ始まったばかりだった。
自らに気合いを入れ直したアドニアは一瞬だけ間を置いて、女性の問いに答える。
「もちろんです。ユラ様をはじめとした大海賊の皆さまの大事な船を倉庫代わりにする愚は犯しませんのでご安心を」
「まあ、抜け目のないあなたならそういうことはないと思うけど、アグリニオンにあるあなたの商会の倉庫は常に品物で満ちていると聞いたわよ。もしかして、それが手に入れた小麦をアリターナに運ぶ理由?」
アドニアは少しだけ思案する。
……さて、とりあえず話しても問題はおきないでしょう。
……それにここまで関わらせたのだから当然察しはついているはず。
考えを一気にまとめ上げると、アドニアはそれに答える。
「ヴァルペリオ港で小麦を下すまでが今回の私が請け負った仕事。それ以降は別の方々がおこないます」
「なるほど……」
疑いも驚きもせずその言葉を返したその女性麗しき大海賊ユラの長ジェセリア・ユラは冷たい視線をアドニアに向ける。
「その別の方が誰かも聞いてもいいのかしら」
「もちろんです」
「では、教えて……まあ、十中八九アリターナの王家に関わる者なのだろうけど」
「さすがです。そして、今回その立ち合い人としてやってくるのは、アリターナ人としては王の次に有名な方です」
……ん?
ここで初めてユラの頭にクエスチョンマークがつく。
「それこそ思い浮かばないわね。誰かしら。その有名人とは」
「アントニオ・チェルトーザ。有名な交渉人集団『赤い悪魔』の創始者で、彼らに何度もひどい目に遭っているフランベーニュの為政者たちにとっては名前も聞きたくない大嫌いなアリターナ人の筆頭に挙げられる人物です」
「そして、今回の仕事を私に依頼してきた者でもあります」
「つまり、あの時の相手ということね。だけど、それはあくまで王家の代理人としてやっていたのではないの?」
もちろん交渉を依頼されたのであれば、その男が会談に現れるのはわかる。
だが、なぜ作業の確認をその有名人がわざわざおこなうのだ?
ユラの言葉は言外にそう問うていた。
……当然そうなりますよね。
心の中でそう呟いたアドニアが口を開く。
「たしかにそのとおりですし、私も単なる交渉役として雇われたと思っていたのですが、どうやらチェルトーザ氏は王から今回の件のすべてについて任されられているようで、差配はすべてチェルトーザ氏の自由裁量でおこなっています。しかも、かなりの権限を与えられて」
「……そうなの」
大海賊の長で唯一の女性はほんの少しだけ考え込んだ表情を浮かべたものの、それは解け、口を開くと、その答えになるものがやってくる。
「せっかくだから、私にその男を紹介してくれる?」
「もちろんです」
そして、その時はすぐにやってくる。
……あれは。
商品の搬出が始まった報を受け王都からやってきたその男は口にしない言葉でそう呟き、一気に緊張を増す。
その原因は目の前に現れたふたりの女性。
もちろんふたりの女性のうちのひとりはすでに会っているアドニア・カラブリタ。
つまり、自らがこの仕事を依頼したアグリニオンの商人である。
問題は派手な装飾を施した細身の剣を腰に差したもうひとりの女性だった。
……三十歳前後。
……アグリオン人でもアリターナ人ではない。フランベーニュ人かその血が濃い者。
……十分に美人に入る部類。
……だが、そんなことはどうでもいい。
……見つけている豪華なドレスには不似合いなこの女性が持つ禍々しい雰囲気。
……疑いようもない。
……大海賊のひとりジェセリア・ユラ。
……事前に携わっていることを知らされていたからよかったが、そうでなければこれ程平静ではいられなかったな。
だが、そのような心の声などどこにも存在しなかったかのようにその男アントニオ・チェルトーザは目一杯の笑みと大げさなアクション。
それから、それにふさわしい仰々しい歓迎の言葉を披露する。
「我が国の危機を救ってくださったカラブリタ殿。感謝です。そして……」
「そちらが今回の件に尽力されてくださったジェセリア・ユラ様ですか。私はこちらの国で交渉人をしているアントニオ・チェルトーザ。よろしくお願いします」
……軽いな。軽薄そのもの。
……だが、これが見せかけなのは、それだけは隠しようもない纏う雰囲気が教えてくれる。
……油断させながら、私の値踏みをするつもりなのですね。
……まあ、この男の値踏みはアディーグラッドでのものとはだいぶ違うだろうから許してあげましょう。
……いや。
自らの言葉をあっという間に覆した大海賊の女性が口を開く。
「さて、アントニオ・チェルトーザ。それだけじっくり眺めたのだ。そろそろ私の評価は固まりましたか?」
……ほう。
やってきた言葉にチェルトーザは表情にこそ現さなかったものの少し驚く。
もちろんストレート過ぎるその言葉に対してもだが、それを上回るのは、やはりそれを察知する洞察力。
……どうやら、小細工など不要のようだな。
……では、遠慮なく。
心の中でそう呟くと、笑顔をなくした表情に変えると口を開く。
「率直な感想を言わせてもらえれば……」
「あなたはたしかに美しいが、その才に比べれば数段劣る」
「……どういうことかしら」
「今回の策を提案したこともあなただと伺っている。さらにこの世界において多くの男を配下として従えている事実。それらを総合的に判断すれば……」
「海賊をさせておくのがもったいない。実現は難しいだろうが、一国を統治する姿が見たいほどに。それが私の評価だ」
「ほう」
……私を大海賊のひとりと知っても、臆する様子がまったくない。
……どうやら噂以上のようですね。この男は。
……そして、この男にこれ以上観察されては私の本質が丸裸にされる。
……つまり、ワイバーンの言うところの、君主危うきに近づかず。
……さっさと逃げた方がよさそうだ。
「まあ、話半分でも褒めていることはわかった。とりあえずありがたく受け取っておきましょう。そして、近いうちにまた話ができることを期待しています。アントニオ・チェルトーザ」
その言葉を残してユラは踵を返してしまったため、残されたふたりだったが、実はここから本題に入る。
本題。
それはもちろん船から下した小麦の行先である。
アドニア自身が口にしたとおり契約上は港から先についてはアリターナの管轄となり、本来はアドニアが関与できる権利はない。
だが、この仕事に請け負うにあたってチェルトーザに示された取り決めがある。
将来それが起こった場合に対するアグリニオンの備蓄もアリターナの負担によっておこなう。
つまり、保管されている場所さえわからなければ、本当に必要になったときにその文言が空虚なものになる。
保管場所を知るのはそれを防ぐための手立てとなる。
もっともそんなに心配しているのであれば、自国に持ち帰ればいいだろうということになるのだが、略奪に対する安全性を考慮し、アドニアはアリターナ側の保管庫にすべて貯蔵することにしたのだ。
さらに、表面上はアリターナの小麦の流通を抑えているのはアドニアと彼女商会ということになっているため、どうしてもというときにはその義務を盾に備蓄されたものを放出せねばならないという事情もある。
「それで、実際にこれだけの量の小麦を保管するのに適する場所はあるのですか?」
「もちろん」
アドニアからやってきた問いに、すべての事情を把握しているチェルトーザはその言葉とともに大きく頷くと、さらに言葉を続ける。
「ありますよ。素晴らしい場所が」
「それはよかった」
とりあえずそう応じたものの、アドニアには思い当たる場所がなかった。
疑わしそうにもう一度口を開く。
「もしかして、それは王城ということですか?」
「いいえ」
「まあ、王城にも備蓄しますが、王城のものは王族の方々が使用するためのもの。今回買い入れたものは別の場所に保管します」
「それは……」
「今は本来の目的では使用されていない多くの城塞。そこにある倉庫となります」
「使われていないということは随分古いものなのでは……」
そんなところで本当に大丈夫なのかという言葉が続く。
いや。
はずだった。
だが……。
アドニアがその言葉を口にしないうちにチェルトーザは答えとなるものでそれを制す。
「たしかにつくられたのは随分前ですが、まったく問題ありません。自信をもってアリターナ一の保管場所と言えますし、おそらくあなたがたアグリニオンの商人の方々が所有しているどの倉庫よりもすばらしい。少なくても堅牢とはいえるでしょう」
「それはたいした自信ですね」
「なんなら、今から見学していきますか。そのすばらしさを確かめるために」
そう。
これまでの言葉はすべてここに辿り着くため。
つまり、チェルトーザは自慢したかったのである。
その要塞と、その建築者を。
だが、その願いは叶わず。
「……いいえ。私も作業を監督する必要がありますので。それはまた今度ということで」
この言葉とともにその誘いはバッサリと斬り捨てられる。
深い意味はないのはわかるが、とにかく時間がない。
そのうえ、機能第一主義のアドニアには古い建物を愛でるという趣味がない。
「それは残念。ですが、食事くらいは大丈夫でしょう」
盛大に残念な気持ちを表したものの、すぐにビジネスモードに戻ったチェルトーザが食事に誘うと、こちらはあっさりと受け入れられる。
若い女性らしく、少々の、いや、盛大な空腹。
それが、その誘いをアドニアが受け入れた理由となる。
「では、行きましょう」
「はい」
ということで、この件の話はここで終わる。
だが、もしアドニアがチェルトーザの誘いに応じ、小麦が保管されるという古い要塞を訪れたのなら、このふたりの歴史は大きく変わったかもしれない。
なぜなら、その要塞を設計、さらに工事の監督をしていたのは、彼らと同じ場所からやってきた者。
さらにいえば、彼らの共通の友人でもあった。
そして、その建物の外観はその友人の深い造詣を持つドイツの要塞そのもの。
そのオーパーツ的姿を見れば、彼女は間違いなくそれなりの反応をし、それを初めて見たときに同様の反応したチェルトーザはすぐに気づくのは間違いない。
目の前にいる人物がどのような者なのかということを。
一方のアドニアであるが、彼女が一瞬でチェルトーザが古い友人であることに気づいたかどうかは微妙ではあるのだが、少なくても同じ瞬間に転移しても、必ずしも同じ時間軸に転移するわけではないというあらたな知識を得られたはずである。
そこにチェルトーザの言葉が加われば……。
だが、それはすべてが仮定の話。
ただし、この時点でもお互いに相手の正体に気づいていないものの、利害が一致しているため今後も接点を持ち続けるのは確実である。
つまり、改めてその地を訪れる可能性はあるわけである。
では、それはいつになるのか?
いや。
最大のチャンスを逃したふたりに本当にそのような機会が与えられるのか?
これについて今の時点で述べることができない。
だが、どうしてもということであれば、こうなるのではないだろうか。
神のみぞ知る。