静かなる商談
アグリニオン国。
商人国家、場合によっては悪徳商人国家とも呼ばれるこの国の舵取りをおこなうのは評議員という肩書を持つ三十六人の大商人。
そして、現在その評議員の代表を務めるのが十七歳の女性アドニア・カラブリタである。
そのアドニア・カラブリタであるが、実は理由を告げずに出かけたアリターナから帰国してからというものすでに三日にわたって屋敷に籠ったままだった。
公的には「疲労が原因と思われる発熱その他諸々の症状がみられる病のため、現在療養中」ということになってはいたのだが、実際はまったく違う。
「さて、アリターナ国内の小麦流通経路確保はこれで完了。問題は……」
「国外での購入計画でしょうね」
「一応アグリニオンの旗を掲げていれば通行できますが、アストラハーニェ王国と我が国の間に位置するマジャーラをはじめとした小王国群の存在が邪魔ですね。やはり」
「まったくだ。一割の通行料。しかも、実際はその数倍。奴らは我々を守銭奴と呼んでいるらしいが、その守銭奴から金品を毟り取る奴らはいったい何になるのだ?」
「山賊に決まっているだろう。奴らの祖先は山賊という噂は間違いではなかったようだな」
「まあ、彼らにとってその通行料が今は国の財政の大きな部分になっているのですから仕方がないといえるでしょう。ですが、それはあくまで彼らの事情。いつまでも彼らの酔狂に付き合う必要はありません。そろそろ別ルートを開拓する必要がありそうですね」
「そうは言いますが、カラブリタ様。アストラハーニェは例の断崖のせいで港というものを持っていません。ですから、商船での輸送は無理があります」
「そうかといって、残りは魔族領経由だけです。魔族と取引している大海賊ワイバーンを経由させればたしかにそれは可能ですが、今度はアストラハーニェから魔族領にどうやって小麦を運び込むかという問題が起きます。やはり今までどおりの方法しかないのではないかと」
「……そうですね。こうなると、歴代アストラハーニェ王が南下政策を進めていた気持ちが痛いほどわかります」
そう。
腹心たちとの会話のとおり、彼女は元気であり、さらにいえば、引きこもりの理由は更なる金儲けの算段に忙しかったからだった。
ちなみに、彼女たちの会話で出てきたので少しだけ説明を加えておけば、東の大国であるアストラハーニェ王国は魔族に国を除けばその版図は最大であり、大陸の東端に位置しているため長い海岸線を持っている。
ただし、それらはすべて断崖絶壁であり、密使や密入国などそれなりの危険を伴っても利益がある者以外には見向きもされない。
当然そのような場所であるため港などあるはずもなく、海上交通を使った交易はこの国には存在しない。
さらに北の海は氷に閉ざされ、西の国境の先はすべて魔族領。
彼らが他国との接触を持てるのは南側だけなのだが、そこには敵対する多くの小王国が点在しており、長い間望まぬ形での鎖国状態が続いていた。
そして、ブリターニャやフランベーニュといった文明国とのルートを確保するため、これまで何度も試みてきたアストラハーニェの南進。
その希望と野望を打ち砕いてきたのがその小王国のひとつマジャーラとなる。
アリターナの仲介で最近結ばれた協定によって、とりあえずアグリニオンの商人たちは通行料さえ払えばマジャーラをはじめとするその間に点在する国を通過してアストラハーニェと行き来が可能となったのだが、理由もなく国境が突然閉鎖されることが度々起こるうえ、なによりも通行料は非常に高い。
公的な文書を届けるにもブリターニャ金貨五枚。
交易をおこなう場合はさらに高く、公式な通行料だけでも品物の価値の一割をブリターニャ金貨で支払うか、商品の一割を物納するということになっている。だが、当然のようにそのほかに非公式な手数料が多数存在し、結局商品の二割から三割が消えることになる。
「……となると、やはりいつもの手を使うしかありませんか」
ため息交じりにアドニアが口にしたいつもの手とは、もちろん転移魔法となる。
これであれば、最大の問題である通行料の支払いがなくなり、商人にとっては万々歳のように思えるのだが、こちらはこちらで別の問題が存在する。
そう。
量が運べないのだ。
それでも貴石などであればそれでも十分に採算が取れるためそれでもいい。
だが、商品が穀物などとなればそうはいかない。
特に、今回の依頼は絶対に。
「実際のところ、アリターナ国内の小麦を抑え込み、フランベーニュで買い占めをおこなってもたかが知れている。つまり、この世界の穀物生産の四割を占めるというアストラハーニェと取引できるかが肝と言えます。そして、私があなたにお願いしたいのは今年の小麦はもちろんアストラハーニェが抱える在庫、そのすべてを買い取ることとなります」
チェルトーザが口にしたその目標。
それは少数の魔術師によって細々と運ぶことができる量ではないのはあきらかだった。
だが……。
「すでに出来上がったコネクションによってアストラハーニェの余剰小麦を残らず手に入れることは可能です。さて、問題はそれをどうやって運ぶかということなのですが……」
「それについては良い手があります」
そう言って、彼女、アドニア・カラブリタは笑った。