動き出す者 Ⅲ
王とアントニオ・チェルトーザのふたりだけの会話がおこなわれてから八十九日後。
いや。
ここはこう訂正しておこう。
王とアントニオ・チェルトーザのふたりだけの会話がおこなわれてから僅か八十九日後。
突如始まる。
それが。
アリターナ国産の小麦の買い取り業者の指名制度。
というより、ある商会への取引独占権の付与。
さらに、フランベーニュ国内で小麦を金に糸目をつけず買い漁る謎の業者の出現。
そう。
アントニオ・チェルトーザが「赤い悪魔」に示した三つ目の策とは、食料、特に小麦の備蓄。
国内産の小麦の海外流出を止め、さらに隣のフランベーニュや、魔族の国を除くこの世界で生産される小麦の四十パーセント、人によっては七十パーセントを生産するともいわれるアストラハーニェ王国での大量買い付け。
そのすべてがその策の一端となる。
それから、さらに十日。
「どうやら、うまくやっているようだな」
渡された資料を眺めながら、チェルトーザは安堵の表情を浮かべる。
それに別の香りが漂う言葉で応じたのは、側近のひとりで、商売上で起こる様々な事案を担当することが多いアンジェロ・エスピリーアだった。
「……今さら言っても栓亡きことではありますが……」
そう前置きしたエスピリーアが口にしたのは、自ら、というよりも多くのアリターナ商人の強い思いを言葉にしたものだった。
「我が国の商人ではなく、アグリニオンの守銭奴に大役を任せて本当によかったのですか?」
「というか、陛下から勅命を受けたのは公爵様。当然我々が直接関与するのかと思っていました」
「不満か?」
「い、いえ。そういうわけではないのですが……」
一応は否定したものの、不満の表情を浮かべるエスピリーアをチェルトーザが宥めるように言葉を紡ぐ。
「実を言えば、私自身も本来これをやるのは我々自身であるべきだと考えるし、やりたかった問題でもある。陛下の前であれだけ大口を叩いたのだからなおさらだ」
「であれば……」
「だが、これは間違いなく商売の、しかも、専門的実務が伴ったもの。商売の経験がない者がやるわけにはいかないのだ」
「では、なぜ国内の商人ではなく、アグリニオンの、しかも、あんな小娘などが家長をやる商会など……」
「エスピリーア」
エスピリーアを制するチェルトーザの言葉。
それはそれほど大きなものでもなく、熱量も感じなかったが、それ以上は語らせないという意志を感じさせるものだった。
「かの国の有名なこの格言を知っているか?」
そう言って、ひと呼吸開けたチェルトーザはその言葉を口にする。
「無能な男より有能な女。役に立たぬ年寄りの経験より、商機を見つける若き才」
「そして、彼女は二十歳にも満たないにもかかわらず、かの国の評議員の長を務めている。その格言は彼女のためにあるようではないか」
「ですが……」
「評議会の頂点に立っているのは上位の者が醜態を晒したうえ死んだからではないのですか?」
「そうだ。だが、その中で彼女と彼女の商会だけは無傷だったという事実もある。さらに言えば、彼女は大海賊ふたりの知己というのは有名な話。実際、多くの大商人が死んだ例の騒乱のときも大海賊は彼女の護衛に兵を割いているという」
「色仕掛けで落としたということですか?」
「……私も最初そう思ったのだが、会ってわかった……」
「あれは本物。いや。化け物だ。少女の姿をしているが、中身は正真正銘多くの修羅場をくぐりぬけた卓越した才を持つ商人だ」
「そして、彼女の商会は穀物取引を専らとしている。つまり我々がやろうとしていることは彼女の利害と重なるところが大きい。大海賊を仲間にしている化け物商人と揉め事など起こしたら負けるのはこちら。必ず潰される。負けることが絶対に許されない我々にとってそれは避けなければならない。だが、逆に考えれば、多少の利を認めても彼女が持つ才と力を利用すれば成功間違いなし。我々が持つ選択肢の中でそれが一番良いものということになる」
「それに、彼女は磁器やガラス製品を通じて王族や大貴族にも食い込んでいる。必ずしも知らない者ではない」
「たしかに」
「……公式にはかの商会に小麦取引の独占権を与えたのは陛下であり、実際に商売をするのは小娘。我々は商人たちの直接的な恨みは買わなくて済みます」
「そういうことだ」
この日のふたりの会話はそこで終わる。
もちろんその一方であるアントニオ・チェルトーザは知らない。
自らが高く評価し、自国にとって非常に重要な案件を任せることにしたアドニア・カラブリタという名のアグリニオン国の女性商人。
その正体が、自分とともにこの世界に飛ばされた仲間のひとりであるということを。