交渉人ホルムと執事との会話
ベルコークの説得に成功し、あまり上品とはいえない笑みを浮かべながらノルディア王国の王都ロフォーテンの一等地に建つ屋敷兼オフィスに戻ってきたホルムに声をかけてきたのは、彼の部下となるエーリク・トロルヘッダンだった。
「……何か喜ばしいことでもありましたか?男爵様」
トロルヘッダンの問いに対して、ホルムは過程を完全に削り落とし結果だけを伝える。
「陛下が私を子爵にしてくれるそうだ」
「そ、それはおめでとうございます」
「うむ」
そして、トロルヘッダンから祝いの言葉が届いてからようやく最も重要な部分を口にする。
非常に短い言葉で。
「まあ、それは無事に仕事が終わってからの話なのだが……」
「仕事?」
「ああ」
そう言ってから、ホルムはベルコークから伝えられ、その後自らによって大幅に修正が加えられたその仕事の内容を説明し、最後に失敗した場合にはそれなりの処分があるという、実際には聞かさせていなかったものの、過去の例から確実に待っている厳しい現実まで口にする。
……王命を拒否したうえで、提案をしてきた?
……つまり、失敗すれば、爵位剥奪。下手をすればすべての責任を負わされて処刑ということになりかねない。
……しかも、私には男爵様が自信満々に提案したというそれが、成功よりも失敗する可能性が高いように思えます。
……それなのにこの浮かれよう。
……男爵様はいったい何を考えているのでしょうか。
すべてを聞き終え、その全容を理解したトロルヘッダンは少しだけ不安気な表情を浮かべ、遠慮気味に口を開く。
「男爵様。尋ねたいことがあるのですがよろしいのですか?」
「もちろんだ」
「では……」
その言葉を待ちかねていたかのように嬉々として了承する主の顔を眺めながらトロルヘッダンは自らの胸にあるものをゆっくりと吐き出していく。
「……状況は日々聞かされていますし、小麦価格を半値にしろというこちらの希望内容を考えれば、もちろん小麦価格の値下げ交渉が成功する確率は非常に低いというのはわかります。ですが、それは王命。交渉に失敗しそれなりの処分があっても次回の功績で十分に取り返すことができるでしょう」
「ですが、王命を拒否したうえで、こちらから提案したからには失敗したときの処分は先ほどのものとは比べようがなく重いです。しかも、相手はあの魔族。さらに、こちらが有利になる条件がないところでの交渉。私から言わせれば、交渉が成立する確率は小麦価格の交渉と変わらぬか、それより低いように思えますが……」
「表面上はそのとおりだ」
トロルヘッダンの言葉にそう応じながら、ホルムは心の中で呟く。
……この男も、そしてベルコーク伯爵も実際に魔族と顔を合わせていないから当然そうなる。
……だが……。
ホルムが思い浮かべるのは、もちろんあのときの交渉相手である若い人間種の男だった。
……あれが相手では交渉で圧倒することはたしかに難しいが、とにかく妥結までこぎつけられさえすれば、目的は達成できる。
……なぜなら魔族は契約書に書かれたことは必ず守る。
……彼らにとって契約とはそれだけ重要であり、守るべきものなのだ。
……そして……。
……安い小麦を大量に供給してもらうこと。
……これが今回の我々が交渉で手に入れなければならない成果である。
……一見すると難しいように思えるが実はそうでもない。
……奴らは交易を拡大した暁には金や銀をその対象にしてもよいと申し出ている。
……まあ、魔族が我が国特産の貴石に興味がないということもあり、現在は我が国にそれに見合うものが用意できないので実現していないが。
……だが、それくらいの提案をするのだ。もし小麦が余っていればそれを弓矢の代金にすることを拒むとは思えない。
……つまり、私の勘では、魔族はあっさりと我々の提案を受け入れる。
……そして、切り札がまったくない、こういうときは余計な小細工をせず、包み隠さず我々の現状を話したほうが交渉は進むものだ。
「まあ、どちらにしても始まればすぐにわかる。ところで……」
「おまえはこの交渉のどこに問題があると思う?」
成功を確信し、ついでとばかりに意地悪そうな表情でそう尋ねるホルムに対し、トロルヘッダンが瞬時に口にしたのは、先ほど伯爵から聞いた言葉と瓜二つのものだった。
……まあ、常識人であればそうなるな。
心の中で呟いたホルムが口を開く。
「……なるほど。では……」
「その問いについて私の意見を言っておこう」
「そもそも弓矢は防御魔法の発達によって時代遅れの武器となっている。その時代遅れの武器が、現在の我々にとってもっとも必要としている食料になるのであればいくらでもくれてやる。これが第一の疑問に対する私の答えだ」
「なるほど」
「ですが、魔族が要望を出した最低でも一万の弓と三十万の矢というその数は異常です。魔族は弓矢を有効に活用できるなんらかの策を見つけたと思うべきでしょう」
……ここも伯爵と同じ意見。
……それは魔族に対する武器供与にあたる。
……つまり、背信行為。
……それも、人間という種族を裏切る最大級の。
「まあ、その言い分は正しい。だが……」
「そうであっても……」
「それがノルディア人に向けられるのでなければこの際構わん。もちろん大義的にはおまえの考え方の方が正しいと思う。だが、その大義とは、自らが飢え、国が崩壊しても守ることなのか?」
「では、男爵様は違うと?」
「当然だ」
「……私はこう考える。我々ノルディア人が生き残ること。これこそが何をおいてもこの国を動かす者が優先すべきものだ。そして、それは我々のような末端の者であっても心に刻むべきことでもある」
そう言って、トロルヘッダンを完全に沈黙させたホルムはふた呼吸程してから薄く笑い、再び口を開く。
「それから、もうひとつの問題だが……」
「こちらについては、あると思って交渉するしかないのだが……」
「我が国にとっては忌々しいだけの例の金貨の元手になったクアムート戦での捕虜。私は交渉中に捕虜収容所を見た。そこでは王族や上級貴族だけではなく下級兵士たちに対しても魔族は有り余るほどの食料を提供していた。それは何を意味するのか?言うまでもない。自軍の兵の食料を削り敵軍兵士に食わせたなどということがなければ、考えられるのは魔族の食料事情は非常によいということだ。そこから推測すれば、彼らの主食の材料である小麦は輸出するだけの量は十分にあると思われる」
「たしかに」
「ですが、食料があるから我々に提供するとは限らないでしょう。それどこか我々の食料事情がひっ迫していることを知ったら別の何かを要求してくるのではないでしょうか?」
つまり、交渉序盤に手の内を明かす、それどころかこちらの弱みを見せると、相手の要求は上乗せされるのではないか。
トロルヘッダンの言葉はそう主張していた。
だが、一見すると正しいと思えるその言葉を彼我の事情をよく知るホルムは鼻で笑う。
そして、問う。
その言葉を嘲るように。
「別の何か?たとえば?」
「たとえば、領土」
「奴らがその気なら捕虜返還交渉時にそれを要求できた。そして、それを要求されたら我々は飲まざるを得なかった。それにもかかわらず奴らはそれをおこなわなかった。あのときにおこなわなかったのだ。今さらそのようなことを要求すまい。さらにいえば、そうなった原因をつくったのだから当然奴らは我々が貧乏なのは知っている。過大な要求しても空しいだけだと思っていることだろう。それから……」
「その後の状況を考えると……」
「奴らは我々が貧乏であっても安定した状態で存在することを望んでいる。もう少し言えば、ノルディア王国が存在することを彼らは自分たちの利と考えている節がある」
「今回の交渉で、私は奴らが考えているその利を利用する」
「魔族が考えているその利を利用する?それはどのように?」
「言葉に出してそれを伝えるのは少々恥ずかしいのだが、十分な量の小麦をよこさないと我々は滅びると言って必要な分を奴らから手に入れる」
「……本気ですか?」
「ああ。だが、今の言い方は言葉がまったく足りなかった。もちろん我々は代金代わりに弓矢は好きなだけ奴らに渡すのだからこれは正当な取引であり、決して施しをもらうわけではない。そこだけは勘違いするなよ」
トロルヘッダンは察した。
……冗談に聞こえるが、この人は本気で言っている。
……そして、これを間違いなく実行し、この策で交渉を成功させるつもりでいる。
それと同時に彼はこうも思った。
……あなたは盛大に取り繕ってはいますが、どこをどう見ても、今からやろうとしていることは魔族に泣きついて余っている小麦をわけてもらうようにしか思えません。
……国家が形だけとはいえ敵に対してそれをおこなうというには、少々、ではなく、非常に恥ずかしいことです。
……そこだけはお忘れなきよう。
「交渉成功を期待しています。未来の子爵様」




