荒廃する世界
ここで一旦舞台をフランベーニュへ移すことにしよう。
この国で奇妙な噂が流れ出したのは、実際にそれが始まる少し前のことだった。
「アグリニンの商人のひとりアドニア・カラブリタの商会に勧められるままに高額商品を次々と購入していたものの、その莫大な購入代金の支払いに行き詰まり、困り果てたアリターナ王は代金の代わりとして、国内の小麦取引権を差し出した」
「アグリニオンの穀物商人アドニア・カラブリタが手に入れた特権。その内容とは、アリターナの小麦生産者はアグリニオンの穀物商人にすべての小麦を売り渡し、小売り業者はアグリニオンの穀物商人から小麦を手に入れなければならないというものらしい。なお、この取引権は国外からアリターナに持ち込まれた小麦にも適用されることになっている」
「ただし、アグリニオンの穀物商人アドニア・カラブリタには、軍に対しては市場価格よりも低価で食料を供給す義務と、持ち込まれた小麦はすべて適価で買い取らなければならないという付帯事項がつくとのことだ」
その噂が流れるのと時を同じくして、フランベーニュ国内で小麦を買い漁るアリターナ商人が大量に現れる。
もちろんその大部分は付帯事項を利用してアリターナ国内での小麦流通を独占するアグリニオンの商人に小麦を高値で売ってひと儲けをしようと企てている者たちである。
だが、フランベーニュにやってきたアリターナ人のすべてが金儲けだけを考えていたわけではない。
そう。
この騒動によって小麦の価格が跳ね上がり、小麦やパンを購入できない者たちが必ず現れる。
そのような立場となるアリターナの同胞を救おうとする、いわば義憤に駆られる者たちだ。
だが、理由はともかく、小麦を手に入れるという目的は同じ。
当然激しい小麦争奪戦が始まる。
そこにアグリニオンの商人たちまで加わりその激しさを増すと、彼らが支払う、目が飛び出るような代金に釣られて、フランベーニュの商人も仲介業者として利を得ようと暗躍し始める。
そして、その狂騒劇はその噂がアリターナ王室からの声明として発表され実際のものとなったときに最高潮に達する。
もし、この世界で先物取引の制度が運用されていれば、さらに多くの者がその狂騒劇に参加し、カラ売りで儲け大金を手にする得る者、または大損をして首を吊る者が多数出ていたのは確実だったのだが、幸か不幸か、この世界は現物取引のみ。
そのような事態が起こることはなかった。
ところで、他の国はともかく、突出して商業が発展したアグリニオン国で先物取引という制度がなぜ採り入れられていないのかという疑問を感じる者もいるかもしれない。
たしかに別の世界の歴史をみればそれはやや奇妙な感じはする。
その答えであるが……。
実をいえば、この制度はかなり前から非公式には存在していた。
さらに公式なものとして取り入れようという動きも何度かあった。
そう。
この世界で先物取引制度は考案されていなかったのではなく、採用されていなかっただけなのである。
そして、それには当然それなりの理由があった。
「多くの利点があるのは確かです。ですが、最終的には先物取引というものは差額利益を得るために、購入するというそれ自体が目的となり当初語られた利点などはあっという間に片隅に追いやられることになるという先人たちの言葉は残念ながら正しいと思われます。そして、それを認めたうえでその事態を受け入れるかどうかが、この制度を始めるかどうかのカギとなるでしょう。まあ、私は実際に商品を確かめ、値段交渉をしながら必要な分だけ商品を購入するという先人たちの守ってきた取引方法が好きですし、この世界の経済の仕組みから考えればそれで十分だとも思っています。つまり、私も偉大なるアグリニオンの先人たちと同様、先物取引の制度は不要だと考えます。少なくても現在は」
この出来事からしばらく後。
商人国家であるアグリニオンにおいて若手商人のひとりベニゼロス・ネステリオによって多くの利点とともにこれまで何度も提案されその度に拒否されたこの制度が再び提案されることになる。
そして、前述したその言葉は、実際に公式に運用されたそれに触れた経験を持つこの世界唯一ともいえる人物であり、先物取引によって巨額の富を生み出していた経験を持つ者でもある女性商人が意見を求められたときに口にしたものである。
そして、このときこの人物は最後にこうも付け加えていた。
「まあ、仮にそれが始まってもそこで利益を得る目的で手を出すことはやめたほうがいいですね。これで得をするのはほんの一部の者のみ。そう。先物取引とは大部分が損をする側に回るという実に不思議な仕組みなのです」
この世界の先物取引について少しだけ語ったところで話を戻そう。
カラブリタの商会によるアリターナ国内での小麦取引の独占権付与から始まるフランベーニュ王国を舞台としたその出来事。
それは一見しただけでは、愚かなアリターナ王がアグリニオンの強欲商人に大事なインフラを奪い取られ、その結果アリターナ国民が高価な小麦を買わされるようにしか見えなかった。
そのため他国の為政者やその周辺に住む者たちはこれからアリターナ国民にやってくる惨状を憐れみながら、冷ややかにその狂騒劇を眺めていただけだった。
だが、そのうちの何人かは表面上、他の者と同じようにアリターナ王の醜態を笑いながらも、言い知れぬ不安、つまりこの事態に対してある疑いを持っていた。
その疑い。
それは……。
これは茶番ではないのか。
そして、最終的に自分たちもこの騒動に巻き込まれ、強制的に最後尾に並ばされた自分たちのもとにやって来るものこそが本当の災難なのではないのかというものだった。
たとえば……。
「……アリターナ国王がアグリニオンの穀物商人に小麦の流通経路を差し出したのは間違いない。だが……」
「どう考えてもこれはおかしい」
「どういうことでしょうか?」
フランベーニュ王国の第三王子ダニエル・フランベーニュの言葉にそう問うたのは執事兼相談役であるアーベント・ボローニャだった。
予定通りにやってきたその問いに、第三王子が苦り切った表情で答える。
「情報によれば、それはアグリニオンの守銭奴が望んだものらしいが、彼らはそれをやってどのような得があるというのだ?」
……とりあえず、ここは常識的な答えを返すところ。
忠実な執事は多くの選択肢の中から主が望むものを見つけ出し、それを言葉にする。
「アリターナ国内で流れる小麦の流通経路のすべてを抑えるということは、アグリニンオンの商人が自由に値をつけられるということになります。つまり、いくらでも金儲けができる。そう考えたのではないでしょうか」
執事からやってきた、事態を肯定する極めて常識的な意見にフランベーニュ王国の第三王子が頷く。
「たしかに表面上ではそのとおりだ。だが……」
「それをやるということはアリターナ国民の強烈な恨みを買う。場合によっては暴動が起き、命の危険だってある。私が奴らなら、絶対にやらない。たとえそれによってどれだけの利益を得られるとわかっていても。まあ、これは国を動かす王族と目先の利益を第一とする商人の感覚の違いということもある。とりあえずそれはよしとしよう。だが、これに関する一番の問題はそこではない」
「と言いますと?」
「好きな売値をつけられるかもしれないが、その代わりに買い取り義務と供給の責任を持たなければならなくなる。これが問題だ。買い取り義務については言うに及ばず。供給に関する責任に関していえば、アグリニオンの商人が扱う小麦は、民に対してのものだけではなく、軍に対しても含まれるわけだが、これが守銭奴たちにとっては相当な負担となる」
……つまり、軍に対して食料の安定供給をする義務を負った。
……しかも、相手が軍となればそれ相応の値段で届けなければならなくなるため、儲けが出ない。
……そこで手下を使って、古い小麦に手を出した。
……だが、それも競争相手が現われ、とんでもない値段になっている。
……逆ザヤ。
……そう。目算が狂ったのだ。
……さらに、ダニエル様のおっしゃるとおり、買い取り義務だって相当な負担。
……アグリニオンの守銭奴にとって得するどころか大損になる可能性は十分にある。
ボローニャは自らの主が言外に言ったことを心の中で反芻し終わると、その結論だけを口にする。
「失敗でしょうか?」
その言葉にダニエルは頷き、続いて補足の言葉を口にする。
「もし、守銭奴が本当にこの仕組みで利益を出そうとしたのであれば、大失敗といえるだろう」
「だが、相手はアグリニオンの守銭奴商人。しかも、例の騒動の際にもまったくの無傷。それどころか力と富を増やしたあの小娘が率いる商会。我々が気づかぬ安全かつ儲けが出る何かしらのものを見つけた可能性がある。そうなれば……」
「公表されていない、つまり、外からは見えていない大いなる利益のために苦労を承知でそれを受けたと考える方がわかりやすい」
……商人が目の前の利益以外で動く?
……さすがにこれの意味はわからない。いや。
……それよりも、ダニエル様の言葉が正しければ、この件はアグリニオンの守銭奴が一方的な得をするのではなく、アリターナも利益を得る側ということではないのか。
……いったい、それはどのようなときに起こりえるものなのだろうか?
自らの脳をフル回転させたものの、その意味するところがわからないボローニャはおそるおそる主にその意味を尋ねることにした。
「それはどのようなものなのでしょうか?」
もちろん主はその答えを持っていることを前提に。
だが、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「そこまではわからないが、あれだけ利に対して鼻の利く商人が、我々のような商売に関しては素人でもわかるような不安要素を持っているものに手を出すはずがない。つまり、彼らの懐には発表されていないアリターナとアグリニオンの裏取引が書かれた契約書がある。そのような疑いの目を持ってあの仕組みを見るべきだろうな」
「では、かの者たちによる我が国での小麦買い取りをやめさせるのですか?」
目的は定かではなくその根拠もないが、疑わしさが満載の取引。
今回の件をそう断定した主の言葉を引き継いのだボローニャがそう問うと、ダニエルは先ほどよりも数段階レベルを引き上げた渋い表情でそれに答える。
「陛下にはそう進言したのだが、この機会に国の倉庫に眠っているだけの在庫を売って軍資金を増やすべきだという意見を抑えるまでの根拠を私も持っていなかったのは今の会話でもわかるだろう」
「では、このまま様子見ということですか?」
「寝かせているだけで使い道がないような古い小麦でも高く買い取ると言っているものを拒むだけの理由が見つからないのだから仕方がない」
「……そんな私を無能者と笑ってもいいぞ。ボローニャ」
もちろんこれは冗談である。
だが、この後にアリターナとアグリニオンに大海賊まで加わった企みの全貌があきらかになり、さらにある出来事によってとんでもない事態に陥ったとき、ダニエル・フランベーニュは自らが口にした言葉を思い出すことになる。




