第八話 桜の木の下で
「まあ、なんて綺麗なのでしょう」
タルト姫による注目の一言目はそれである。
すかさず家来に吹き込まれたばかりの知識を惜しげもなく披露する。
「チェルリ桜という種類らしいんだ。伝説によれば、地上の人々の怨念を吸えば吸うほどに綺麗に咲くらしい」
「まあ。そのようなお話が」
「大昔の伝承だから本当かどうかはわからないけれどね。でも、背筋が凍るような話だと思う」
今回デート場所に選んだこの公園にはその桜が一万本植えられていると謳われ、我が国指折りの花見の名所として知られている。
残雪の山を背景に、見渡す限りに咲き誇る薄桃色の花々。その圧巻たる光景は確かに綺麗と言う以外にない。
しかしそれは僕から言わせてみれば、ひと際お洒落に着飾られた彼女の姿を見るのも同じ感想であった。
タルト姫は小首を傾げ、言った。
「本当に背筋が凍るような話でしょうか。この桜が怨念を吸ってくれるおかげで地上の人は誰かを呪わなくて済むのでしょう?」
「確かに。そう言われてみればそうだな」
「でも本当に綺麗ですわ。私の国にはこの種の桜の木は原生しておりませんので、いつしか目にしたいと思っておりましたの」
まるで花びら一枚一枚の質感まで丹念に鑑賞するように、彼女は目を細めていた。
「気に入って貰えたようで良かったよ。君は花や植物が好きだっていうから」
「わざわざ私の好みに合わせていただいて感謝いたしますわ」
「いやいや、僕自身もこの景色が観たかったんだ」
「あら? てっきりマル様は花より団子なタイプかと思っていましたが、意外とお花もお好きなのですね」
「ああ、いや。まあそれなりに」
この景色を目にして真っ先に連想したものが桜餅であったことは内緒である。
実のところ本音を言ってしまえば花など然程どうでもよく、ただ彼女と一緒ならばどこでもよかった。
「あのさ、タルト姫」
「はい?」
「今日の僕を見て、なにか気づくことはないかな」
「気づくこと、ですか」
「うん。どんな些細なことでも、変わったと思ったところがあったら言ってくれ」
タルト姫はしばらく僕の顔のあたりを凝視して言った。
「うーん。よくわかりませんが髪型、でしょうか?」
「ああうん、今日の髪型はいつもより決まったんだ。そこに気づくとは中々やるな」
「よかったですわ。当てることができて」
昨夜はダイエットメニューの質素な晩餐だった。今朝も朝食は抜いてきているし、出発前に半身浴で小一時間汗を流した。
現在の僕は以前会ったときよりも間違いなく痩せているはずではある。しかしそれでもまだ彼女の目から見ると、目に見えた変化とは言えないらしい。
もはや自分から聞きにいってしまった時点で負けなような気もしなくもないが、現状を知ることができただけでも収穫である。
気を取り直して、彼女との貴重なデートの時間を満喫することにした。
「あら、蝶々ですわ」
「本当だ。可愛らしいね」
「なんだか幻想的で、現実から切り離された空間にいるみたいですわね」
「まったくだ」
わざわざ人の少ない時間帯を選び、付近一帯を貸し切りにした甲斐はある。
静かでのんびりとした風に身を任せ、他愛もないやりとりをしているだけで、時間はあっという間に過ぎ去った。
「マル様、そろそろお昼にいたしませんか?」
「そうだね。そうしようか」
「ふふっ私、このお出かけのためにお弁当を作ってきましたの」
タルト姫が抱えていた風呂敷包みから美味しそうな匂いが漂っていたのはもちろん最初から知っていた。
彼女の膝の上にて風呂敷が広げられ、可愛らしい弁当箱が顔を出す。そして上蓋が外された瞬間、眩いばかりの黄金の輝きが放たれた。
「おおっ! 玉子焼きにきんぴら、春巻き、煮魚! なんて豪華な内容なんだ。これを全部君が?」
「ええ。私こう見えてお料理は結構自信がありますのよ。さあさ、召し上がれ」
細く小さな手で差し出された弁当箱の中から、まずは玉子焼きを摘み、口に入れる。
ほろほろとした食感の玉子はしっかりと出汁が効いており、普通に無難に美味しかった。
「どうですか、お味は」
「すばらしく美味いっ! お店を出せるレベルだよこれは」
「ふふふ、気に入っていただけてなによりですわ。他の品もどんどん召し上がってくださいな」
ふいにすべての品を食べた場合の総摂取熱量が頭に過ったが、そんなものは忘れることにした。
彼女の手料理を遠慮するなどという選択は、仮に天地がひっくり返ってもあり得ない。
「美味いっ! 美味いよ本当に!」
ただ食事をしているというだけでも幸せであるというのに、目の前に彼女がいるというこの状況は極楽という表現すら生温い。
箸は進みに進み、弁当を彩るおかずの数々はあっという間に消えてなくなった。
「それだけ美味しそうにしていただけると作った甲斐があるというものですわ。私、マル様が夢中になって食べているお姿を見るのが好きですの」
「そりゃ夢中にもなるさ。冗談抜きに美味しいからね」
「まあまあまあ。嬉しいですわ。次のお出かけの時にはまた作って参りますね」
タルト姫はまさしく天使のような笑顔でそう言った。
穏やかで優しくて器量も良く、料理も出来る。
非の打ちどころがなさ過ぎて逆に怖いくらいである。彼女のことを知れば知るほどに、僕は自分のこの堕落の象徴たる膨れた腹が卑しく思えた。
「マル様? 怖い顔をなさっていますが、どうかなさいましたか」
「ああいや、それより次会うときを楽しみにしていてくれ。多分、今とは一味違う僕になっていると思う」
「はて? なんのことかは見当がつきませんが、楽しみにしますわ」
口に出して宣言したのは、自分自身を追い込むため。
僕は魔女に言われた痩せ薬の材料を手に入れるため、ブロッケンヒルデの森に乗り込む決意を固めた。