第七話 ヘルゴルゴの丘の魔女
ヘルゴルゴの丘は屋敷から街を経由して山をひとつ越えたところにあり、近くもなければ遠くもない。
僕らは馬に乗り、朝から休まずに向かっていた。
ユーラの話によれば魔女の秘術がありさえすれば、いくら食べてもすぐに痩せるとのことらしい。現にあの勝負の後、彼女の膨れ上がった腹もわずか数分で元通りになっていた。
つまりこれからは好きなものを好きなだけ食べても、太る心配をしなくてよくなるというわけである。
空はまるで僕の心に同調しているかのように晴れ渡っていた。
「王子。……王子!」
「はっ、なんだどうした」
「何か考え事でありますか?」
「ああいや、なんでもない」
手綱を握りしめ、きりりとした顔を作って家来を見返す。最初に食べるご馳走を何にしようか考えていたことなどを悟られては、さすがに格好がつかない。
「しかしそろそろ目的地付近ですが、家がありそうな気配なんてどこにもありませんね」
家来の一人が怪訝そうに言った。
確かに景色はもっぱらどこまでも続く草原のみであり、建物のひとつでもあれば遠目からでも分かりそうなものである。
「ユーラの話によれば魔女の家は結界に守られていて、普段は見ることができないらしい。それがある特定の日時、時間帯のみ合言葉の呪文を唱えることで入ることができるそうだ」
「なるほど。それが今日この時間というわけですか」
「そういうことだ。噂をすれば、お出迎えの霧がおいでなすったようだな」
突然濃霧が辺りに立ち込め、視界を奪う。
雲一つなかった空はたちまち白一色に染まり、少し先の景色も見えなくなった。
「王子、この霧は?」
「家のある辺りには濃い霧が出るらしい。ここで合言葉を言えば家が出現するらしいんだが」
「ま、待ってください」
「どうした」
「考えてみたのですが、もし魔女を怒らせてしまったりしたら、恐ろしい魔法で攻撃されるのでしょうか」
「怒らせなければ大丈夫な話だろう」
「ごもっともです。しかしもし魔女が魔法で王子を攻撃してきた場合、お守りできるかどうか不安なのです」
「よほど変なことを言わなければ平気だと思うぞ。それにユーラからの紹介もあることだし、彼女を信じようじゃないか」
前々から薄々感じてはいたが、どうも僕の家来たちはここぞというときに頼りにならないらしい。
「では合言葉を言うぞ」
「わぁっ王子、ちょとまっ」
「どうした。気持ちの整理がつかないというのなら一旦やめようか」
「な、なにを言いますか。怖いだなんてとんでもない。王子のダイエットの成功のため、わざわざはるばる来たのですから」
「怖いかだなんて一言も言っていないが。ではいくぞ。西方の彼方より来たりし風、猫の爪とカラスの羽を携えしとき、開かずの扉は開かれん」
嵐のような強風が吹き荒れ、瞬く間に霧は消え去った。
そして代わりに僕らの前に現れたのは、古びた洋館風のいかにもな建物だった。
「ほっほっほ。ユーラ嬢の言う通り、本当に客人が来たのう。お前さんがマルネス王子かい?」
この世のすべてを見透かしたような、妙齢の女性の声である。声は確かに頭の奥まではっきりと響いたが、姿はどこにも見当たらない。
僕は一歩前に出て、叫んだ。
「そうだ、僕がマルネスだ! 実はあなたに頼みごとがあって来た」
「ほぅ。噂に違わぬ丸々太って美味しそうな見た目じゃな。じゃが人に物を頼む口の聞き方がなっとらんようじゃ」
「失礼しました。本日は魔女殿に頼みごとがあって参りました」
「よろしい。入るがよい」
奇妙な模様の描かれた木製の扉が独りでに、音を立てて開いた。
「しかしどうにもとっつきにそうな女ですね。本当に大丈夫でしょうか」
「僕の勘ではあの手のタイプは逆にツボを押さえてしまえばやりやすそうだが」
「ですがあやつ今、王子のことを美味しそうとか言いましたよ。取って食うつもりなんじゃ」
「さすがに冗談だろう。なにせあのユーラにペガサスの手懐け方や痩せの秘術を教えるような親切な魔女だからな」
とはいえ、恐怖心がないと言えば嘘だった。
部屋は全体的に薄暗く、目的の人物たる魔女は正面のテーブルに座っていた。漆黒のドレスを着用した若い黒髪女性の姿をしているが、魔女ゆえに実年齢はわからない。
会釈をすると、魔女は怪しく微笑んだ。
「ようこそわが家へ、といったところかの。お前さんが美味しそうというさっきのアレはただのジョークだから安心していいぞえ」
「そうでしたか。正直な話結構びっくりしましたが」
「さて話は早速だが、お前さんには私がいくつに見える?」
「二十代前半くらいでしょうか」
「ほっほっほ。百点満点の解答じゃ。話くらいは聞いてやろうぞ。お前さんがここに来た用件を話すがよい」
魔女は明らかに上機嫌そうに口角を上げた。
心の中でガッツポーズを掲げつつ、要件を口にする。
「単刀直入に言いますと、僕はもっと痩せたいのです。僕にもユーラと同じ秘術をかけていただけないでしょうか」
「ふむ、なるほどのう。……タダでか?」
「えっ。あ、もちろんお礼はいたします」
「では成功報酬、金貨五枚で手を打とうかの」
「金貨ですか」
「どうした?」
「いえ、魔法のエキスパートが現金を欲しがるのが少し意外でしたので」
「そう不思議がることもあるまい。魔女とはいえ人里に降りて買い物もするのでな。それで、払うのか払わないのか、どっちなのかい?」
「もちろん払います」
「よろしい。しかしお前さん、あの子に嵌められたね」
「と、言いますと?」
「あの秘術は女性にしか効かないんじゃ。そのことはあの子もよく知ってるはずだがねえ」
「えっ」
「じゃが他に方法がないわけじゃない。どうしてもあの子と同じ秘術で痩せたいというなら、どうじゃ? 魔法でいっそ女の子になってみるかの?」
「いや……それは本末転倒というか」
「ならあの子のやり方とは違うが、食欲を完全に消滅させる指輪をやろうか?」
「食欲を、消滅?」
「なんじゃ。都合が悪いのか」
すると今まで借りてきた猫のようになっていた家来が、まるで自分のことのように声を張り上げた。
「悪いに決まっているだろう! それでは王子が王子でなくなってしまう」
「ふぅん。注文の多いやつらよのう。ではあまりお勧めはしないが、老若男女即効で痩せるかわりに五割の確率で死ぬ魔法なんてのもあるが」
「し、死……?」
「じ、冗談じゃない! き、貴様っ、この王子の命を何だと思っている!」
家来たちの怒声は言葉面だけみれば勇敢そのものであるが彼らの手足は震え、視線も完全に魔女と合っていなかった。
「ほっほっほ。冗談じゃよ。まあ私もユーラ嬢からなるべくお前さんの力になってやってくれって頼まれているからねえ。協力してやりたいのはやまやまじゃが、これらの手段が駄目となると、今ここで私がすぐにしてやれることはないねえ」
「まるで今ではなければ、方法はあるみたいな言い方ですね」
「ほほう。わたしゃおデブちゃんは好みじゃないが、勘のいい子は嫌いじゃないよ。実はちょいと手間をかければ一番いい方法がある」
「一番いい、方法?」
「ああ。お前さんたちが材料を集めて来さえすれば、特別に究極の痩せ薬を作ってやるよ」
魔女はにこりと笑顔を見せてそう言った。
「やりましたね王子。これできつい食事制限ともおさらばですぜ」
「ああ。だが薬が完成するまではくれぐれもトレーナーには内緒だぞ」
「わかっています。早速、明日にでも素材集めに行きますか」
「いや、明日は駄目だ。タルト姫との大事なデートの約束がある」
屋敷に戻るなり明日の服を選ぶと、その日は死んだように眠りについた。