第五話 ハングリータイガー
その日、ノックとともに開かれたドアの向こうから出し抜けに漂ってきたある香りが、テロのごとく僕の精神を揺さぶった。
パットン料理長が手に持つトレイの上に乗っているのは、焼き立てほかほかのパンである。
「王子、新作パンの試作ができましたので味見していただけないでしょうか」
「ああ喜んで。じゃなかった。僕がダイエットしているのは知っているだろう?」
「承知しております。ですがこれくらいは」
「悪いが他をあたってくれないか」
言葉とは裏腹に、焼き目のついた艶々しい表面に目を奪われる。
おそらく中身はしっとりとしており、ひとたび口に放り込めばほんのりとした小麦の風味が心を満たしてくれることこの上ないだろう。
「最近の王子はどうにも我慢し過ぎているように見えます。少しくらいはいいんじゃないですか」
「気のせいだ、トレーナーが考えてくれた献立のおかげで栄養バランスも完璧だしな」
「しかし、料理人の私としてはあの方の提案したメニューだけを出すというのは、少々やりがいがありません」
「それはすまない。しかし理想の体型を手に入れるまで、気を緩めるわけにはいかないんだ」
「承知しました。いえ、私はただ満足そうに食べる王子の笑顔がまた見たかったものですから」
「気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」
「ところで王子、暑いのにそんなに着込んでどちらに行かれるので」
「少し走ってくる。体温を高めた方が代謝がよくなるらしいのでな」
パンの匂いで理性がやられてしまう前に、さっさと部屋を飛び出した方が正解そうである。
トレーナーの指導のもと、運動と食事制限を課してしばらく経つが、お腹は目立って引っ込んでいない。強いて言えば顔回りの張りが僅かになくなった気がするくらいである。
少々気合を入れて、僕はいつも以上のペースで風を切って駆け出した。
「はじめまして。ブロイツ王国王女のタルトです。よろしくお願いいたしますわ」
忘れもしない、お見合いの席にて彼女が放った第一声である。
ブロイツ王国とはわが国に隣接する小さな国であり、わが国との関係性は古くから良好と言われている。
しかし、規模の違いによる見えない力関係というものは否めず、たとえば外交上の都合で僕と気が進まない結婚が決まったとしても、彼女の立場でそれを拒否できたかは分からない。
本当は僕なんかよりもスタイルが良くて格好いい男と結ばれたかったのかも知れないが、そんなことは口が裂けても聞けるはずがない。
だからこそ頑張るのである。
外見も中身も文句のない男となり、彼女から僕と結婚して良かったと心から思われるために。
「とはいえ、さすがにパットンは僕のことをよく見ていると言わざるを得ないな」
先ほどは強がりを言ったものの、体に力が入らない。
不調の原因は分かっている。ダイエットメニューによる慢性的な空腹を感じるようになってから、どうにも体調がおかしくなっていた。
脚が妙に重く、まるで自分の脚ではないようである。
「杏仁豆腐、アイスクリーム、プリン、エクレア、カスタード……はっ。いかんいかん」
無意識に口ずさんでいた呪文を止め、無心を試みた。
ご馳走を思い描いても口にすることが叶わぬなら、それは余計に辛くなるだけである。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ」
代わり映えのしない景色の庭を、ただひたすら義務感のみで走る。
限界の到来は思っていたよりもずっと早かった。
ぐぅーっという腹の音とともに、脚がついぞ動かない。
脳裏に焼き付いて離れないのは、ただただ先ほどのパンの香ばしい香りである。
「おいおい。食べることしか能のない爆食王子が、一体なんの真似だい?」
背後から響いた女性の声。それは僕にとって、聞き覚えのある声だった。
「お前は、ユーラか」
「覚えてくれていたとは光栄だねぇ。うん? 心なしか少しやつれたんじゃないか」
「それは今の僕にとっては褒め言葉だな」
虎柄のタンクトップを着た、長身長髪の女性。
彼女こそが水牛一頭をたった一時間で完食するという噂の大食い女王、ハングリータイガーことユーラである。
「あたしがなんでアンタに会いに来たのか分かるかい、肉の王子様」
「まさかとは思うが、大食い勝負でリベンジに来たと言うんじゃあるまいな」
「そのまさかさ。分かってるじゃないか」
「やはりそうか。だが断る」
大食い勝負によって叩き出される摂取熱量のおぞましさを知った今の僕にとって、それは問題外の提案だった。
するとユーラの目つきが途端に険しくなり、あからさまに僕を睨んだ。
「なんだと? それは一体どういう了見だい」
「見ての通りダイエット中でね。大食いとかはもうしないことにしたんだ。悪いが諦めてくれ」
「ふざけるなっ!」
まるで咆哮する虎がごとく怒号が響く。タイガーの名の所以はなにも服の柄がそうだからだけではない。
「なにがダイエットだ、柄でもない。ふざけたことを言うんじゃないよ」
「ふざけてなどいない。僕は至って大真面目だ」
「だったら言わせてもらうけどさ、ちっとも痩せてないじゃん。なのに無理して死にそうなツラして、馬鹿じゃないのさ」
「そ、それを言われてしまうと苦しいが、成果はこれから出るんだ」
「ふん、だったら思い出させてやるまでだね。アンタの奥底に眠る大食いの本能をさ」
「なんだと」
「上を見てごらん」
「上?」
言われるがまま、空を見上げる。
最初はなにかの物体が降ってきているということしかわからなかった。
しかし次第にその輪郭がはっきりするにつれ、そのあまりに異様な光景に空腹のせいで幻覚を見ているのではないかと、思わず目ではなく頭の方を疑わざるを得なかった。
やって来たのは、屋台を牽引した白い翼の生えた馬だった。
「ぺ、ペガサスだと? いや、どこから突っ込んでいいのやら」
「伝説の生き物ペガサス、捕まえるのに苦労したんだよ。でもお陰で兄貴の店は大繁盛さ。なんせペガサスに牽引させて空飛ぶ屋台なんて聞いたことがないだろう」
「あるわけがないだろ」
「ふふふ、今日はあんたに兄貴のペガサス焼きをご馳走してやるよ」
屋台から強面の店主が顔を出す。筋肉質で極めて体格がよく、兄妹でコンセプトを揃えているのか、虎柄のバンダナを頭に巻いていた。
「兄貴、ペガサス焼きをありったけ焼いとくれ」
「あいよ」
男は腹ぺこの僕の目の前で、おもむろになにやら菓子のようなものを焼き始めた。