第四話 本当の理由
僕が痩せたいと願うようになった本当の動機。
それはおおよそ一月前、馬車の中での会話に遡る。
彼女は舞台女優の見せる華やかなものとは違う、素朴な笑みを浮かべて言った。
「今日はわざわざ観劇に誘っていただいてありがとうございます。手に汗握る、大変素晴らしい舞台でしたわ」
ただでさえ女性と二人きりでデートなどしたことがなかったというのに、お互い目と鼻の先に向かい合って座っているこの状況に、僕の心臓は三倍速くらいで早鐘を打っていた。
「僕もあの劇団の公演は一度観たいと思っていたんだ。演技、音楽、演出、脚本、すべてがよかった」
「ええ。まったくその通りでしたわ」
薄紅色をしたふわふわのロングヘアが隙あらば目に飛び込んでくる。
彼女、タルト姫はその食べ物のような名の通り、甘ったるい声をしていた。
「マル様、今通過しているのはピスタの町でしょうか」
そんな甘い声で僕の顔を見ながら、タルト姫が言った。
「ああ、うん。その辺りだね」
「聞いた話によりますと、近場に美味しいお魚料理のお店があるようですが」
「そこなら一度行ったことがあるよ。取れたばかりの新鮮な魚を使っていて、味付けも最高だったと記憶している」
「もしお時間がおありでしたら、今から行ってみませんか?」
「しかし、先ほど上演前にパスタを食べたばかりでは」
「あのときはマル様がどうも物足りなそうなお顔をしていらしたので。私の分量に合わせて、遠慮していらしたでしょう?」
真っすぐな瞳に思わず目を逸らす。
最初に会った時から時折名探偵のように、彼女は内面を見透かした発言をした。
「はは、参ったな。確かに少し足りないなとは思っていた。君には隠し事はできないか」
「それじゃあ決まりですわね」
「でも、僕一人だけがご馳走を美味しくいただくなんて悪いよ」
「私もなにか軽めの品をいただきますわ。それに、どこか落ち着いたところでゆっくりと先程の劇についての感想をお話したいのですし」
「なるほど。それもそうだな。君がそう言うのならそうしよう。運転手、すまないが今から言う場所に馬車を向かわせてくれないか」
無論最初から分かっていた。彼女は僕なんかには勿体ないくらいに出来た人である。
しかしどういうわけか彼女とは将来結婚することが決まっていて、僕の人生はそのことが決まった日から大きく変わってしまっていた。
「あら、この方」
事件が起きたのはこのときである。
ふと彼女が先程の劇団のパンフレットを広げ、そこに印刷されていたとある男の肖像画を指差した。
「ヒロイン役の俳優さんって、男の方でしたのね」
「ああ、うん。クロウ・ブライトだね。あの劇団の看板役者らしい」
「マル様は知っていらしたのですね。私、てっきり女性の方かと」
「確かに遠目からじゃわかりにくかったかもな。声も仕草も完璧に女性の役になりきっていたし」
「この方。とてもスタイルが良くてかっこいいですわ」
紙面を見つめる、嬉しそうな横顔。
似顔絵に描かれた細身の男は、満面の笑顔で、贅肉の一切ない完璧なプロポーションを見せつけていた。
「やっぱり僕ももう少し、痩せた方がいいかな」
「マル様? なぜ、そのようなことを」
「遠慮することはない。正直に、忌憚なく意見してくれ」
「……ええっと。さあ、どうでしょう」
少し間を置いて、明らかに言いづらそうな返答だった。
この瞬間、ハンマーで頭をかち割られたような衝撃が僕の中に走った。
そしてこのときこそが、これまで気にも留めなかった体型を生まれて初めて改めようと思った瞬間だった。
「ダイエットの基本は熱量計算よぉん。熱量の仕組みを制したものが、ダイエットを制するの。毎食ごとの摂取熱量を知り、運動によって消費される消費熱量を知り、単純に消費熱量が摂取熱量を上回っていれば、おのずと痩せるわぁ。そこんとこオーケイかしらん?」
クロウに近しい体型を持つ細マッチョのトレーナーは、最初の座学で説明したことを野太い声で繰り返した。
「お……オーケイ……」
「マルネス王子の毎食のメニュー、チェックしたところ破滅的な暴食だったわぁん。王子は毎日食べていたご飯たちの熱量があまりにも強大であること、そしてこれまでの一日あたりの消費熱量があまりにも貧弱であったことを知りぃ、意識を改めるべきよぉ」
「ふっ……ふっ……ふっ……」
「ふん、どうやら受け答えができないほどにしんどいみたいねぇ。いい傾向だわぁん」
ただひたすらしゃがんでは立ち上がる行為の繰り返し。
このスクワットというメニューは効果的に下半身を鍛える種目らしい。
トレーナーの受け売りではあるが、痩せるためにはランニングなどの有酸素運動のほかに、筋肉を鍛えることによって基礎代謝を高めることが有効なのだという。
「代謝を高めるのに手っ取り早いのは大きな筋肉である下半身を鍛えることぉ、だからこそのスクワットってわけぇ。王子は私の言うことを聞いていれば確実に痩せられまぁす」
「だがこれは……少々……厳しすぎないか」
「ほらほらほらほら! 口答えをしている暇があったら体を動かす!」
「ふっ……ふっ……ふっ……」
僕の太ももはもう既に、生まれたての小鹿のように震えていた。
「ふふふ、い~ぃ追い込みだわぁん。今日はこれをあと六十回ねえ。もちろん食後にケーキを食べられるなんて思ったら大間違いよん」
「り、了解……だ……」
脳裏に浮かぶ美味しそうな料理たちの映像を強引に振り払い、気合いで上体を起こす。
もちろん背後にいるトレーナーの圧が怖いからそれをやるのではない。
まごうことなく、自分の意志で追い込んでいた。
「スクワットが終わったら腹筋に背筋、そして締めのランメニュー。地獄はまだまだ続くから覚悟しなさぁい」
「わ……わかった……」
「返事はサーイエッサー」
「サ、サーイエッサー……」
その瞬間、グキッという音ともに僕の腰は限界を迎え、その後しばらく休むこととなった。