第二話 生クリームのごとく甘い認識
「ぜぇっ、はあっ、ひぃっ、ふぅーっ……やはり……慣れないことはするものじゃないな……」
庭の外周が無駄にだだっ広いことを差し引いても、ようやく大杉の前を通過したということはまだ一周の半分程度。それなのに呼吸は乱れ、足元も定まらない。
見送る家来たちの微妙な表情の理由が分かったような気がしながら、ひとまず休憩のため地面にへたり込み、空を見る。
突き抜けるような美しい青色は、前にいた世界のものとなんら変わりない。
実を言うと僕はかつて別の世界で一度死に、この世界で生を受けている。
死んだ瞬間の記憶は定かではないが、そのとき神と思しき存在に会ったことだけは確かである。
『あなたは自分の人生を振り返り、善人であったと思いますか? それとも悪人であったと思いますか?』
それは形を持たない温かな光で、優しい声をしていた。
そのとき僕は偽らず、正直に答えた。
「悪人でも、善人でもなかったと思います」
『あなたは生前、道端で見つけた死にかけの猫を介抱したことがありますね』
「ええ、まあ……」
『長らく人々から放置されていた古びた祠を掃除したことがありますね』
「多分、そんなこともあったかと思います」
身に覚えがあるようなないような話であったが、言われるとそんなような気がした。
『あなたは幸運なことに、次の人生においてあなたの望む世界に転生する権利を得ました』
「えっ?」
『聞かせなさい。あなたはどのような世界を望みますか』
それほど長い時間ではないにせよ、それなりに考え、こう返答したことだけははっきりと覚えている。
「美味しいものを好きなだけ食べられて、楽な暮らしができる世界がいいです」
こうしておそらく、今の僕がある。王族、それも第二王子として生まれてきたのはきっと第一王子ほど責任もなく、ほどよく自由で裕福な身であるからだろう。
多くの家来たちに囲まれ、何一つ不自由のないこの暮らしは確かに楽そのものであり不満もないのだが、一つだけ贅沢なわがままが許されるのであれば、少しばかり退屈な毎日でもある。
だからこそ、日々口にする絶品料理こそが、今の僕にとって唯一無二の娯楽であった。
「あのときの願いの弊害がもう一つあったな。それはまったく動かなくていい故に体力が絶望的になることだ」
重い腰を上げ、再び走り出す。このまま一周もせずに帰ろうものなら、さすがに家来たちに合わせる顔がない。
しかし休んで回復した分の体力は、あってないようなものだった。
仕方なしにと僕はここでとっておきの、魔法の呪文を詠唱することにした。
「はあっ、はあっ……ハンバーグ……コロッケ、ラーメン、チョコレートパフェ……ピザ、メロンパン……」
頭の中に美味しいご馳走の絵を思い描き、食べている自分の姿をイメージする。
すると少しだけ力が湧きあがり、鉛のように重かった足がわずかに軽くなった。
「カツ丼、カレー、ピラフ……寿司、ケーキ……!! ケーキ!」
この瞬間電流が走ったかのごとく、現在自分の体が最も欲しているものを理解した。
雪面のような純白のクリーム上に、ふんだんに苺を乗せたあの洋菓子を口にすれば、疲れも吹き飛ぶこと請け合いである。
「ケーキ、ケーキ、ケーキ……! ケーキを食べよう!」
屋敷に戻ると、家来たちは門の前で僕の帰りを待っていてくれていた。
「聞いてくれ……はぁ、はぁ……庭の外周をちゃんと一周走ったぞ」
「おお! 大儀でありますぞ王子!」
「はは……大袈裟だな……だが、お前たちがそうやって全肯定してくれるからこそ、僕もやる気が出るというものだ」
「それが我々の役目ですから。お風呂の用意が出来ていますがどうなさいますか」
「ありがとう。それと風呂から出たら苺のケーキが食べたいから、パットン料理長にそう伝えてくれ」
「ケーキ、ですか?」
「ああ。生クリームたっぷりのやつな」
「あのぅ王子。お言葉ですが、ダイエットをなさるというのに甘いものは」
「問題ない。この汗だくの身体を見てくれ。ケーキの一つや二つ食べたところでお釣りが出るくらいに走ったんだからな」
「そ、そうでしょうか」
「うむ。それじゃあひとっ風呂浴びてくるとするか」
颯爽と浴場に向かい、服を脱ぐ。
鏡に映し出された腹は相変わらず張り出ている。
まあ、今しがたダイエットを始めたばかりである。この調子で毎日ランニングを続けていれば、一週間もすれば目に見えて体型が変わっているのは間違いない。
ということでその成果を実感するためにも、汗を流す前に脱衣所の片隅に置かれていた体重計に乗っておくことにした。
そして一週間後。
「嘘……だろ……」
思わず金属製の針を二度見する。故障でもない限り、機械が嘘をつかないことくらいさすがの僕でも知っている。
それは見間違いでもなんでもなく、目盛りは一週間前に計った時よりも先に進んでいた。
「王子。どうでしたか、今日のお湯加減は」
「湯加減? それどころの話じゃないぞ」
「と、いいますと?」
「いや実はな、ついさっき自分の体重を確認したんだが」
「はい」
「その……。増えていたんだ」
家来たちはなんとも言えない表情でこちらを見つめていた。
「それはまあ、という感じですね」
「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
「その。申し上げにくいのですが、最初から失敗する典型的なパターンだと思っていましたよ」
「なっ! どうして」
「だって王子。運動した以上に食べていましたからね」
「……そ、そんなに食べていたか?」
「食べていましたよ」
あらためて、肩を落とす。
自分に対する厳しさというものを多少なりとも持ちあわせていない限り、どうやらこの世界の僕は際限なく堕落してしまうらしい。
「王子。本日もケーキのご用意が出来ていますが、おやめになりますか?」
「いや貰おう。いつものコーヒーも一緒にな」
「ではダイエットはお諦めになると」
「そうは言っていない。うまく痩せるための、なにかもっと効率のいい方法があるはずだ。それを今から考える。そして考えるには糖分の摂取が必要だ」
決して誘惑に負けたわけではないと言い聞かせ、ケーキの一切れを口に運ぶ。
口いっぱいに広がる甘味とほんのりした酸味は胸の中の不安や苛立ちを忘れさせ、クリアな思考を提供してくれた。
「それで、妙案は思いつきましたか」
「ああ。どうやら僕のダイエットに対する認識は、ややもするとこの生クリームのように甘かったのかも知れない」
「それはつまり、どういうことで?」
「やはり、食事の量を減らすしかない」
「王子!? しょ、正気ですか!」
「できれば僕もそんなことしたくない。だけどこのままやっていても痩せないのも確かだ」
「お言葉ですが、フローゼ様の発言などにあまり執着なさらなくてもよいのでは。王子が食事制限をなさるお姿は考えられませんが」
「いや、やる。男の決めたことだ。やると言ったらやる」
ダイエットを諦めるわけにはいかない本当の理由。そのためには人生の楽しみを少しくらい我慢することもやむを得ないのかもしれない。そんなことを考え始めていた矢先だった。
ある男が、豪快に窓から身を乗り出して現れた。