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俺は普通の高校生なので、  作者: 雨ノ千雨
3章 俺は普通の高校生なので、帰還勇者なんて知らない
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3章04 5月8日 ➀

「――わぁ、すごいっ」



 水無瀬の歓声に意識が引き寄せられる。



 俺の手にはいつもの黒いナイフ。


 それから、リンゴ。



 リンゴの皮剥きをする俺を見て、水無瀬が喜んでいる場面のようだ。



 はて?


 あいつの見舞いにリンゴを買って行って、こんなことをしてやったことがあっただろうか。



 記憶の中を探そうとして、すぐに自分の勘違いに気が付く。


 ここは水無瀬が入院している病室ではなく、俺のアパートだ。


 だからこの記憶は彼女が入院する前のものだ。



 4月25日。


 水無瀬は知人だけでなく家族にすらその存在を忘れられてしまった。


 そのため、何処にも行き場を失くしてしまい路頭に迷っていた彼女を俺は拾って持って帰ってきた。


 これはその翌日の朝の食事のシーンだ。



 左手でナイフを持ってリンゴの皮を剥く俺に、彼女が「利き手は左なのか」と訊ねてきた。


 俺は「左利きではあるが右手でも出来る」と答え、左右の手に持つ物を入れ換えて同じように作業をしてみせた。


 それを見た水無瀬が「すごーい」とアホのように喜んでいる。


 そんな出来事だ。



 ちなみに俺は右利きなので、ここでは彼女に嘘を吐いている。


 いや、厳密に言えば嘘ではないのか?



 俺は元々左利きだったらしいのだが、幼い頃に母に右利きに矯正されている。


 だから大体の物は右手で扱うし、モノによっては左だとやり辛さを感じる作業もある。


 かと思えば、何か咄嗟に反応した時は左足が出ることもあったりする。


 なので俺自身、これは実際どっち利きになるのかあまりよくわかっていない。



 だから他人から「利き手」を訊ねられた時は、その時の気分によって「右」と言ったり「左」と答えたり適当に嘘を吐くことにしている。


 あくまで気持ち的には嘘を吐いているつもりだが、実際のところ何が本当で、何が嘘なのかは誰にもわからないのだ。



 そんなどうでもいいことを考えていると――



「――いいかい? 僕がキミのパパになり、そしてキミが僕のママになる。これで対等さ。なぁに、心配しないでくれ。オジさんこれでもお金だけは持っているんだ」



「で、でも、困りますっ! そんなのお母さんに怒られちゃいます……っ!」



――目の前の映像が別のものに変わる。


 周囲の風景もアパートの中から駅前のものに変わっていた。



 これは今見ていた場面の前日の夕方くらいか。


 学園を飛び出した水無瀬を探してバカネコと街を歩き回り、そしてパパ活広場で佐藤に売春の交渉を持ち掛けられている場面を発見したところだろう。



 記憶の中の水無瀬が取り落としたネコさんブザーが誤動作して『ニャーニャー』と警告音を発している。


 記憶の中の俺は大慌てする佐藤の背後からゆっくりと近付いて行った。



 丸みのある佐藤の背広が段々と近付き――



――そしてまた映像が暗転。



 うっすらと幕が開くようにして視界に光が入ってくる。


 その次に俺の眼に映ったのは、見覚えのある床だった。





「…………」



 床を見ながら少しの間、整合性をとる。


 周囲へ眼を遣ればいつものアパートの寝室だ。


 俺はいつもベッドの脇で床に腰を下ろしたまま膝を立てて眠っている。


 これは新しい別の夢の光景ではなく、いつも通りの眠りから醒めた後の現実ということだ。


 少しボーっとした頭のまま、俺は立ち上がってダイニングへ向かう。



 テーブルの上のスマホの画面を点ける。


 表示されたのは大体いつも通りの起床時間だ。


 それだけを確認してスマホをテーブルに放り冷蔵庫へ向かう。



 冷蔵庫の中から開封済みのペットボトルの隣に並んでいる未開封のペットボトルを取り出す。


 蓋を開けて冷たい水を喉に流し込み、無理矢理意識を覚醒させる。



 待てよ?


 水がよく冷えているというのは贅沢なんじゃないのか?


 いや、どうでもいい。


 今考えることじゃない。



 どうにも寝覚めが悪いというか、思考が散らかっている。


 正確には散らかったまま――なのかもしれない。



 原因はわかっている。


 夢だ。



 夢の中でいくつかの記憶のシーンを順不同な時系列で見せられたせいだろう。


 情報の処理や、自分自身の整合性が追い付いていない感覚がある。



 過去の記憶を夢に見るのはこれまでにもあったが、こんなにいくつもの違う記憶をハイライトのように繋ぎ合わせたような夢はあまり経験にない。


 そんな気がする。


 俺は普段夢を見たという感覚はあっても、具体的に何を見たのか覚えていないことも多い。


 だから今朝の夢のようなものは今までも見ていたが、単に俺が覚えていなかっただけで。


 今朝はたまたま覚えていただけ――そんな可能性もある。



 今日の夢で一番印象的なのは、ジルとの会話だ。


 これは多分廻夜部長との会話から、過去のこの記憶が引っ張り出されたのではないかと思う。



 次に印象的なのは、水無瀬とのいくつかのシーンだ。


 これは内容自体は別にどうでもいい。


 俺にとって印象的なのは、わりと最近の夢を見たという点だ。



 今までは夢を見てもその内容は殆ど――もしかしたら全て異世界での出来事ばかりで、こっちの世界に帰ってきてからの記憶を夢に見たことはない。


 だから単純にそれを珍しいと感じたというだけのことだ。



 あとは――


 なんだ?


 なんかムカつくことがあった気がするが。



 まぁ、いいか。


 気がしただけだから気のせいだろう。



 だが、この件とはおそらく別で。


 なんだろうか。



 なにか酷く苛々する。


 思考の鈍つきとは裏腹に神経が過敏になっている気がする。



 上手く説明がつかないが、俺は今とても不愉快だ。



「ちっ――」



 飲みかけのペットボトルを流しの中に放る。


 横倒れになったボトルの飲み口からトポトポと水が零れ、排水口へと吸い込まれていく。



 なんとなくそれを見つめていると、記憶が刺激される。


 魔眼はそれを映し出し、俺に視せてくる。



 記憶の中に記録されたその映像は牢獄だ。



 イカレ女に牢獄に監禁されそこへ毎朝ジルがやってきて、俺の目の前で死刑囚共の首を次々に斬り落としていくという出来事だ。


 ペットボトルから漏れる水を見て、首無しの死体から漏れる血でも連想したのだろうか。



「……っ」



 すると、記憶の映像が切り替わる。


 映っているのは同じく跪かされて首を落とされた者だが、その数が数万倍になる。


 周囲の風景も狭い牢獄から広いスタジアムのような処刑場へと変わっていた。



 夥しい量の血が流れ落ちて、石畳の溝を通って流れ出ていく。


 それは大規模な儀式魔法の為の人造の魔術回路。


 勇者召喚の魔法だ。



 俺を異世界に喚んだ時もああやって数万人の罪人を処刑して燃料を確保したらしいが、俺の記憶に残っているこれは“こっち”に還された時のものだ。


 異世界での最期の戦い。


 セラスフィリアを殺すために、魔族の処刑祭り中の皇都へ乗り込んだ時の記憶だ。



「――っ!」



 自分の額に掌底を打ち込んで、無理矢理その映像を切る。



「……なんだ?」



 なにか怪訝な思いを抱く。



 今までもこうやって目に映る現実の何かに記憶が引っ張り出され、それをつい再生してしまうということはあるにはあったのだが。


 今のはなんというか、あまりにも俺の意図や反射から外れすぎていてというか。


 漠然とした違和感があった。



「魔眼の暴走……?」



 もしかして俺は不調なのだろうか?


 わからないな。


 ただ、そうなってもおかしくない原因は数えたらキリがないくらいにはある。



 勇者のチカラへ覚醒。


 先日のオーバードーズ。


 身体や頭がイカレても仕方ないことばかりだ。



 勇者の方は考えたところでわからない。


 念のため何回か死んでおいたが、可能性があるとしたらオーバードーズの方か?


 だがそれも違う気がする。



 オーバードーズによる中毒症状は何度か経験がある。


 しかしあれは精神の方もそうだが、それよりも肉体的な不調の方も激しくなる。


 今の俺は身体の方はなんともない。


 ただ、なんとなくちょっとイライラするだけだ。


 “馬鹿に付ける薬(ドープ・ダーヴ)”が抜けた後はかなりダウナーになる。


 精神的な不調があったとして、やはりそれとは違う気がした。



 というか、そもそも俺は本当に不調なのか?


 自分の不調に気付いたという考え自体が間違っていたような気がしてきた。



 ふとしたことで過去の記憶を“魂の設計図(アニマグラム)”の記録から引っ張り出してきて再生してしまう。


 同様に夢の中でも過去の記憶を見る。


 これらは以前から起こっていたものだ。


 別になにもおかしくなどない。



「なんだ……?」



 口にした後で、同じ言葉を繰り返してしまったことに気が付き舌打ちをする。



 だが、これはなんだ?


 別になにもおかしなことなどない。


 なのに何故俺は自分が不調だと感じる?


 それにこの苛立ちはなんだ?



 決着を前に気が立っているというのか?


 俺が?


 いまさら?



 それはないような気がする。


 確かに重要な決着をつける局面ではあるが、こんなもの過去に経験した戦いの比するものでもない。



 魔王の首を狙って魔族の国に潜入した時。


 セラスフィリアの首を狙ってグレッドガルドに挑んだ時。


 水無瀬を背にして悪魔の大軍勢に挑んだ時。



 これらの戦いよりも遥かにとるに足らない。


 この程度で気が逸ることもなければ、ましてや緊張することもない。



 しかし、それと違うのなら理由は何もないことになる。


 それもおかしな話だ。



 だって、明確な理由もないのにただなんとなくイライラするだなんて、まるでメンヘラではないか。


 俺はメンヘラではないので、それはおかしいことになる。



 ということは――そうか。


 そういうことか。



「セラスフィリアめ……ッ」



 あの女の仕業だ。


 いや、仕業かどうかは知らんが、理由が他に見つからないのならあの女が悪いということになる。


 だが、待て。


 今は以前とは少し状況が違う。


 希咲か?



 俺がムカついているなら、イカレ女かクソギャルのどっちかが悪いということになる。


 どっちだ?


 いや、めんどくせえな。どっちか決めるの。


 どっちも悪いでもういいか。



 クソが。


 俺を不当に虐げる女どもめ。


 俺は貴様らなどに決して負けない。



 ムカつく顔を2つも思い出したせいで何か適当に眼についた物を壊したくなってきた。


 引っ越し前に余計なゴミを増やしたくないから、もう学園へ行く準備をしよう。



 なにが学園だ。


 何でこの俺が今更学校なんぞに通わなければならない。


 異世界で散々戦争してきたクソッタレのくせに、なにが普通の高校生だ。


 バカじゃねえのか。


 それもこれもきっとイカレ女とクソギャルのせいに違いない。



 いかん。


 思考と憎しみがループしている。


 キリがないからとりあえず着替えよう。



 教室までの道中で目に付いたカスを適当にぶん殴ろう。


 幸いあの学園はカスには事欠かない。


 人を殴ればきっと気分は落ち着くはずだ。



 そう決めて思考を切り替えて、俺は登校の準備を行った。








 5月8日 金曜日。


 G.Wが終わって授業が再開されたばかりだが、今日が終われば明日からの土日はまた休日となる。



 学生どもめ。


 休みすぎだろ。ナメてんのか。


 俺はまたイライラする。




 適当に誰かぶん殴ろうと考えて家を出た俺だが。


 こんな時に限ってという言い方が適切かはわからんが。


 ぶん殴れそうなヤツには会えずに俺は2年B組の教室まで着いてしまった。


 運がなかったのだろう。


 それなら仕方ない。



 ガラっと――


 教室の戸を開ける手にいつもより力が入ったことを自覚した。


 思わず舌打ちをしそうになって、それは自制する。



 教室に入ってすぐ左手――



 そこの席とその周辺には今日も誰もいない。


 今度は舌打ちが出た。



 今日は朝練がない。


 だから朝練がある日よりは早い時間に俺は教室に来た。



 足を踏み出していつも通りのルートで自席へと向かう。


 そう何歩も進まない内に、俺の前に立ち塞がる男が現れた。



「…………」


「よぉ、弥堂……」



 その男はクラスメイトの小鳥遊だ。



 不良の鮫島や須藤とツルんでいるヤツだが、こいつ自身は別に不良生徒ではない。


 どちらかというとあまり気が強いヤツではなかったはずだ。



「オメェにいいものを見せてやるよ……」



 だが、今朝の小鳥遊はどこか自信ありげな顔で、まるで俺に対して勝ち誇るようなナメた態度だ。



 そうか。


 ノコノコと俺の前に間抜けヅラを晒しやがって。


 いいんだな? 


 ぶん殴って。



 これ幸いと俺は拳を握るが、小鳥遊に近寄ってそれをヤツの顔面に叩きつける前に、先に相手が動いた。


 ヤツは懐から取り出した本のようなモノを俺の前で広げてみせる。



「…………」



 踏み出しかけた左足を止めて、俺は眼を細めた。



 なんだ?


 なんの真似だ?



「……これでどうだ?」



 あ? なにがだ?



 小鳥遊が俺に向かって広げている本に印刷されているのは写真だった。


 意味がわからずに俺はそれを注視する。



 その写真に写っているのは女だ。


 金髪で小麦色の日焼けした肌。


 白いビキニの水着だか下着だか、それしか身に着けていないあられもない姿だ。


 さらにそのような破廉恥な姿であるにも関わらず俺の方――つまりカメラに向かって尻を突き出している。



 アップで映し出されたそのケツは殊更大きく見えた。


 だが構図に工夫があるのか。


 腰や背中の曲線から顔までもが一枚の写真の中に見事に写っている。



 だが、それがどうした?


 これを俺の前に出して、「……これでどうだ?」とはどういう意味だ。


 わからない。


 わからないから俺は魔眼を起動してそれを視徹してみる。



 いや、わかんねえよ。



 視ても考えてもわからないので俺はイライラしてきた。


 なので、その感情をこめて小鳥遊をジロリと睨む。


 ヤツは何故かコクリと満足げに頷いた。



「掴みは成功したようだな……」



 そう言って小鳥遊は息を吸いこむ。


 そして――



「おはシリーーッ!」



――そんな挨拶のようなものを元気いっぱいに俺に向かって投げかけてきた。



 不快感と不可解さが一層俺の眉間を歪める。


 なんだこいつ。


 ラリってんのか?



「おい。早くオレに挨拶返せよ!」



 どうやらおちょくっているようだな。



「――あっ⁉」



 俺は小鳥遊の広げているエロ本をグシャッと握り潰し――



「――あいてッ⁉」



――それをすぐ近くに座っている鮫島の間抜けヅラに叩きつけた。


 そして連中を無視して自分の席に向かう。



 次は早乙女に絡まれるのかと警戒したが、彼女は日下部さんとなにやらコソコソと相談している。


 そうしながら彼女らはチラチラと俺に視線を向けてくる。



 なんだよお前ら。


 ムカつくな。



「あいてェ……、小鳥遊のせいでオレが八つ当たりされたぜ」

「自信があったようだが失敗したな? 小鳥遊よォ」



 鮫島と須藤の話し声が聞こえる。


 あいつら昨日言ってたこと本当にやってきやがったのか。



 しまったな。


 相手をしたくない思いの方が先に出て無視をしてしまった。


 せっかくの殴れるチャンスだったのに。



 小鳥遊が二人に答える。



「いや、失敗じゃねぇよ」

「なんだと?」

「なんだと?」


 なんだと?



「よく考えてみろよ。何故かオレは殴られてねぇ」



 小鳥遊の言葉に鮫島と須藤がハッとする気配がした。



「そういえば……」

「まさか……」

「あのヤロウ。多分まんざらでもなかったんだよ。オレは惜しかったんだ」



 勝手なことを言うな。殺すぞ。



「やっぱアイツはケツ好きだ」

「いやまだ決まったわけじゃねェ」

「月曜見てろよ。次はオレの番だ。その時に証明してやるぜ。アイツもオレと同じでオッパイ星人だってことをな……」



 ふざけるな。


 やっぱり戻って殴るか?


 いや、足を止めると早乙女たちにも絡まれて余計に面倒になる。



 ちっ、命拾いしたな。


 それにもしかしたら月曜の俺も今日のようにイライラしている可能性がある。


 その時にぶん殴ってもいいヤツという保険にしておくか。



 いいだろう。


 ケツでもシリでも何でも持って来い。


 その時が貴様らの死ぬ時だ。



 無視を貫いたことで、幸い俺はそれ以上誰にも話しかけられることはなく無事に席に到着する。


 椅子に座り、雑な手付きで机の横に鞄を引っ掛けたところで昨日のように目の前に人影が現れる。



「弥堂君。おはようございます」


「…………」



 今日も現れたのは野崎さんだった。


 一瞬イラっときたが、彼女はバカどもとは違って俺に迷惑をかける人ではない。


 きっと風紀委員の仕事だろう。


 彼女に八つ当たりをするのはよくない。



「……おはよう。昨日の会議の件か?」


「おはよう。うん。そうなの。今お話しても大丈夫かな?」


「……問題ない。聞こう」



 めんどくせえな。


 しかし仕事だからこれは仕方ない。



「予定の変更とかは特になかったんだけど……」


「なにかトラブルが?」



 参ったな。


 今はあまり余計な面倒事には関わりたくない。



「あ、うん。そうなんだけど……」



 野崎さんは口ごもる。


 そういえば昨日も似たようなことがあったな。



「どうした? なにか言いにくいことなのか?」


「えっと……」



 これも昨日と同じ。


 彼女はまた目線を彷徨わせた。


 その態度に俺はカチンとくる。


 そして反射的に――



「――ごめんなさい。なんでもないの」


「あ?」



――俺の反射的な行動よりも先に、彼女はそう言った。



「なんでもないようには見えないが?」


「あ、うん。なんでもないってよりは……」



 喋りながら視線をこちらへ向けた彼女の言葉がまた止まる。


 だが、それは先ほどとは違った理由でだ。



 野崎さんの目線は俺の手に向けられている。


 拳を握って肩の高さくらいまで上げられた俺の右手にだ。


 彼女はその手をジッと見た。



「――失礼。それで?」


「……あ、うん。なんでもないってよりは、問題はないって言った方が正確だったなって」



 俺が振り上げかけた右拳を左手でスッと隠すと、野崎さんはパチパチとまばたきをしてからそう言い直した。



「そうか」



 どう考えてもそうではないと思うが、どう見ても不自然だった俺の右手について聞かれても困るので、俺は適当に流すことにした。



「それと、月曜日の放課後なんだけど」

「あぁ」


「予定通りに放課後に会議をすることになりました」

「わかった。他には何かあるか?」


「特にはないけど……、えいっ」



 彼女は少し目線を上げて考え、それから上げたままだった俺の右手を徐に両手で握った。


 そしてその手をニギニギと動かしてくる。



 なんのマネだ?


 ふざけてるのかと一瞬思ったが、しかしそんなわけはない。



 野崎さんは悪ふざけをする人ではない。


 それにこんな風にスキンシップのようなものをしてきたことはこれまでに一回もなかった。


 彼女の性格や普段の行いを考えると非常に不自然な行動だ。



 だから、俺も反射的に振り払うようなこともせず、彼女の顔を見てその真意を探ろうとした。



 野崎さんは俺の顔を見ていない。


 ただ、両手の中の俺の右手をジッと見ている。


 思いの外真剣な目で。


 まるでそこにその手があることを確かめるかのように。


 やがて、彼女は納得するように頷いて手を離した。



「……うん」

「もういいのか?」


「あはは、急にゴメンね? 今日も頑張ろうね」

「そうか。わかった」



 彼女は苦笑いをしてペコリと頭を下げると踵を返す。


 俺は面倒なので適当に流した。


 特に何も訊かず、だが離れて行く彼女を視線でだけ追う。



 これもまたどう考えても何も理由のない行動なわけがない。


 それに。


 女が普段と違う様子を見せた時は――



「――ちっ……」



――野崎さんの姿の前に、記憶の映像が割り込んでくる。



 異世界の聖都。


 市場へ続く道。


 町娘のような恰好をしたエルフの女。



 意識して魔眼を止める。


 無理矢理記憶の再生を切った。



 その間に野崎さんは俺が開けっ放しにしていた教室の戸を閉めて、窓際一番前の自分の席へと戻った。


 そこまでを見てから、俺は視線を逆サイドへ振った。



 教室の出入り口に一番近い席。


 紅月 聖人の座席。


 今日もあいつらは来ていない。



 イライラする。



 なんだろうかこれは。


 苛立ちが収まらない。



 敵だとわかっているヤツが居て。


 戦うことがわかりきっているヤツが居て。


 だが姿を現さない。



 さっさとケリをつけさせろ。


 ムカつくぜ。効率が悪い。



 あいつら今週は登校しないのか?


 明日からの休日に仕掛けてくるつもりか?



 めんどくせえと思う。


 だけど、そんなのは常套手段だ。


 タイミングをズラして敵の意を削ぐなんてことは俺だってやる。



 そんなことはわかっているし。


 そもそも俺は素人じゃない。


 この程度のことで今更焦れるわけもない。



 なのに――



 だけど――



 それでも――



 どうして俺はこんなにも苛立っているんだ――










――美景近海の船上。



「もう少し……」



 ボートの甲板上で紅月 聖人(あかつき まさと)はそっと呟く。



 彼は少し前の時間からこうして船室の外に立ち、ずっと船の向かう先を見つめていた。


 その視線の先にあるのは美景市。


 陸地はもう見えていて、船は美景の港へとあともう少しで到着する頃合いだ。



 聖人の表情は少し険しいものだ。


 これは彼という人物にしては珍しいものだ。



 いつも柔和な雰囲気で、人によっては昼行灯とさえ揶揄する。


 そんな彼がずっと真剣な表情で、どこか焦れているようにも見えた。



(アイツ……、なにをイラだってやがる……?)



 そんな聖人の姿を背後から見て、そう心中に浮かべたのは蛭子 蛮(ひるこ ばん)――聖人の幼馴染で親友の大男だ。


 聖人の様子に尋常でないものを感じ、しかし蛭子はわざと軽い調子で声をかけることにした。



「よォ、聖人。着岸前には船室に戻っとけよ」


「あ、うん。ごめん。ありがとう」



 聖人は振り返らずに相槌の言葉だけを返してきた。


 その態度に蛭子は一瞬眼つきを鋭くさせるが、すぐに表情を戻した。



「オマエ随分と夢中だな? そんなに早く帰りてェのか?」


「……そうだね」



 それには少し苦笑い混じりで言葉が返ってきた。



「早く帰らなきゃ……」


「オマエが焦っても船のスピードは上がんねェぞ?」


「わかってる。だけど、僕は早く知らなきゃいけない。確かめなきゃいけない……」


「……それはなにをだ?」



 聖人はやはり振り返らずに答える。



「僕たちが居ない間に美景で何が起こったのか。それと――」



 その時、一際聖人の視線と声に力がこもる。



「弥堂のことを――」



 今度は蛭子も表情を偽らず、聖人の視線の向く先を鋭い眼つきで睨んだ。


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― 新着の感想 ―
稀咲のスキルの後遺症なのか?
「夢の懸け橋」の効果か……七海はいないのに、そこかしこに七海の気配が漂っているね(笑) セラスフィリアは弥堂を送り返す際、やはり数万の国民を犠牲にしたんだ。国家と弥堂の間で后者を選んだのか……ジルが…
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