3章03 その正しさの呼び名は ➀
「――セラスフィリアは正しいのか?」
聞き覚えのある声で紡がれたそんな言葉に引かれ、俺の意識が浮上する。
瞼を開けるような感覚で目の前に映像が拡がっていった。
それを一目見た瞬間に理解する。
これは夢だ――
右を見れば敷地と森林を区切るように真っ直ぐ木々が立ち並んでおり、正面と左には少し時代がかったような印象を受けるが、それでも豪華でしっかりとした家が建っている。
わざわざ記憶の中の記録を探さなくても、すぐに何処だかわかった。
ここはグレッドガルド皇都内にあるジルクフリードの邸宅――その敷地の中の庭園である。
足元は芝生のような草が綺麗に揃えて敷かれており、周囲に余計なオブジェクトなどはなく、絶妙なバランスで配置された庭木だけが必要最低限飾られていて外から庭の中は見えないようになっている。
そんな庭園の中心近くに一本だけ背の高い木がある。
その木の影になる場所にはさほど大きくはないティーテーブルが一つ。
これだけを見れば、この家の持ち主がどういったコンセプトでこの庭を造らせたのかがわかる。
つまりこの庭のコンセプトは、同類や同族に見栄を張ってバカ騒ぎをするためのものではなく、プライベートで読書やお茶を静かに楽しむためだけの場所だということだ。
その庭のテーブルに俺――過去の俺が座っており、そして――
『――セラスフィリアは正しいのか?』
――対面に座った庭の主にそう問いかけたのである。
この頃の俺は、ルビアを死なせて一人で皇都に逃げ帰り、新たな任を受けてそれなりに経った頃だったと思う。
一人でもナメられないようにと、ルビアや傭兵のオッサンたちの口調や振舞いを真似て、それがある程度板についてきた頃。
だが、今それをこうして見ている俺にはまだ為ってはいない頃。
今の俺に為ったのはおそらくエルフィーネが死なせた後だ。
だからこの頃の俺は日本の中学生だったクソガキと同じではないが、それでも俺と呼ぶのには少し抵抗がある――そんな微妙な頃合いである。
なので仮に『クソガキver.1.7』と呼ぼう。
2.0まで行くと大型アプデだからすごいと廻夜部長が言っていた。
それを鑑みればこの頃のクソガキはまだ1.7くらいだろう。多分それくらいだ。
所詮まだver.1.7でしかないこのクソガキには、今の大人の俺ほどには分別がない。
だから――
『――セラスフィリアは正しいのか?』などと、訊かれた相手を困らせるだけのくだらない質問を口にしている。
バカなクソガキだ。さっさとアプデしろ。
そして――
この時に、そんな困った質問を投げかけられたのは、クソガキの対面に座る男――
――ジルクフリードだ。
まぁ、ここはあいつの家なので、あいつ以外に客の対面に座るヤツが他に居るわけもない。
この邸宅はジルの所有物ではあるが、この家に彼の家族や親族は住んでいない。
最低限の使用人が住み込みで働いているだけだ。
ジルの正式な名前は、ジルクフリード・バロッグホルスト。
バロッグホルスト家は、このグレッドガルド皇国において古くから優秀な騎士を輩出し続けてきた名門の一族である。
ジルはそんな名門の家に生まれ、物心もつくまえに慣習に倣って教会で祝福という名の加護鑑定を受けた。
その瞬間から、バロッグホルスト史上不世出の天才と呼ばれ、そしてその評価・評判・期待に違わず成長し、若くして第一皇女の近衛騎士の座に指名された。
その任に就いた時に、皇都内にあったバロッグホルストの別邸であるこの屋敷をもらい受けたのである。
本当は彼専用の邸宅を新築するはずだったのだがジルはそれを固辞し、使われていなかったこの屋敷を質素に改築して使うことにしたらしい。
ジルは見た目に似合わず質実剛健で派手なことはあまり好まないのだ。
貴族としてはこういった時に金を使わないのはあまり良くないことなのらしいが、日本人である俺からの好感度は高い。
それに、ジルはあまりこの家には帰らない。
普段はほぼ付きっきりでセラスフィリアのクソ女を護衛しているので、実質的には皇城に住んでいるようなものなのだ。
なので、この邸宅は住み込みの使用人たちに管理を任せ、自身は本当にたまにあるオフの日に用事がなければ帰るくらいだ。
つまり、この日はそのたまにあるオフの日で、俺は彼に招かれてここに来ているというわけだ。
「うちの庭で一緒にお茶をしよう」と、誘われたのである。
ジルはクソガキの問いを受けて、一度キョトンと目を丸くした後、少し困ったように苦笑いをした。
そして答えるために口を開こうとして、それをやめる。
「――失礼致します」
ちょうどそのタイミングでこの屋敷のメイドがお茶を運んできた。
ジルは唇を閉じて彼女がテーブルに食器を並べ終わるのを待つ。
落ち着きのないクソガキは手持無沙汰になってハナクソを穿る。
獲れた獲物を親指で擦ってテーブルの上にパラパラと落とし、パンっと後ろ頭を叩かれた。
やったのはエルフィーネだ。
彼女は無言・無表情のままクソガキにお仕置きをし、エプロンのポケットから取り出した布巾でクソガキが汚したテーブルの始末をする。
そう、この時エルフィーネがクソガキのお付きとして着いて来ていた。
手早く作業を終えたエルフィーネがスッとクソガキの背後に控え直す。
叩かれた頭を撫でるクソガキのことをジルが苦笑いをして見ていた。
登場人物が俺たちでなければ、ありふれた日常のような光景にも映る。
しかし実はこの状況は異常というか、珍しいものなのだ。
セラスフィリアが居ないのに、この場にジルとエルフィが居る。
それはつまり、二人ともあのイカレ女の傍を離れていることを意味する。
この二人はセラスフィリアの護衛戦力の主力中の主力だ。
必ずどちらかはあいつの傍に付いている。
男が立ち入れない場所にはエルフィが。
下女やエルフの立ち入れない場所にはジルが。
そうやってシフトを組んでいる。
なのに、ジルのオフ日にエルフィがイカレ女に付いていないということは、セラスフィリアが二人のどちらも入れない場所に行っているということになる。
この日は確か魔術院の会合に参加している日だったはずだ。
魔術院の建物の中には、基本的に魔術師以外は立ち入れない。
剣を持つ者と剣を扱う者は特に立ち入りを規制される。
当然騎士はご法度で、そしてエルフも禁じられている。
この世界の魔術師というのは選民思想や優生思想が根強い。
自分たち魔術師こそが最も優れていて国や文明の発展に寄与しており、最も神に愛されていると思っている。
神など『世界』に存在しないので、それはただの思い込みだ。
存在しないモノに愛されていると思い込むメンヘラの精神異常者――それが魔術師という生き物だと俺はヤツらを見下している。
一見、この魔術師たちの思想はイキっているように思えるだろうが、俺は逆だと思っている。
フィジカルの強い騎士や自分たちより魔法・魔術に適性のあるエルフを恐れているからこそ、自分たちのナワバリに入れないのだ。
それはかつて自分たちの利権を守るためにダークエルフに魔族のレッテルを貼りつけて迫害・排除したこの世界の歴史が物語っている。
魔族を排除した後のナワバリで、強力な加護を持った騎士たちに居場所を奪われないようにビビっているのだ。
今見ているこの記憶よりも大分先だが、俺は魔術院とも揉めたことがあった。
ゴチャゴチャとナメたことを言ってきたので、それにムカついた俺は各種技術を駆使して夜中に魔術院の誇りだとかいうでっかい旗をパクってきた。
そして戦場で拾ってきた血で錆びた大量のナマクラ剣で、ズタズタに切り裂いた後に、その汚ねえ剣で騎士団の厩舎の屋根に串刺しにして晒してやったのだ。
その時にヤツらは血の涙を流しながらめちゃくちゃキレていた。
すぐに俺が犯人だとバレることはなかったが、しかし代わりにこのことで魔術院と騎士団が一触即発になってしまう。
ジルが「困ったなぁ」とぼやいていたので、俺はあいつに迷惑をかけるのは忍びないと思った。
なので、俺はこのケンカの主導者である魔術院のお偉いさんの娘を魔術学院から攫ってきた。
そしてスラムに落ちている適当な浮浪者の死体から腕だの足だのの部位を切り取って集めて市中に潜んだ。
そこから連日、余っていた錆びたナマクラ剣と一緒に、お偉いさんの屋敷の敷地に誰のものかわからない人体の部位と一緒に放り込み続けた。
何度か危ない場面もあったが無事にお偉いさんが発狂し、俺は勝利した。
そもそも何故魔術院と揉めてこんなことまですることになったのかは、ちょっと記憶の中の記録を探してちゃんと見ないと思い出せない。
どうせ大した理由じゃないだろうから、どうでもいいか。
最後に口封じのために攫ってきた娘を始末しようとしたところで俺はエルフィーネに発見され、ボコボコにされてお縄についた。
一応事件は身元不明の誘拐犯によるものとされた。
俺にとって重要なのは、そういうことにするためにセラスフィリアが魔術院に多額の賠償金を支払ったことだ。
あの女が損をしたということは、俺が勝ったということになる。
そう言って嘲笑ってやったら、あの女が支払った金を俺の借金に足されてしまった。
おまけに、俺が発狂させたお偉いさんはどうもイカレ女の政敵だったようで、ヤツが使い物にならなくなったおかげで派閥の力が削がれたという。
さらに、イカレ女が進めようとしてヤツらに阻害されていたプロジェクトが無事に通ることにもなったようだ。
なんてことだと、当時の俺は愕然とした。
結局俺はあの女の掌の上で、勝ったのはあのクソ女だったということだ。
クソ。俺はあんなことしたくなかったのに、あの女に利用されたせいで罪のない親娘が犠牲になってしまった。心が痛む。
俺は絶対にあのイカレ女を許さない。
ちなみに被害者の娘は、すっかり心を病んでしまって元の日常生活に帰れなくなった。
多分腐った浮浪者たちの死体と一緒に狭い部屋に閉じ込められていたからだろう。可哀想に。
他所にいって今回の件を喋られても困るので、彼女はルナリナの助手として皇城で勤務することになった。
だが彼女は時折正常な判断が出来なくなることがある。
主に俺を見掛けた時だ。
彼女は俺を見ただけで失禁して泣き喚くようになってしまったのだ。
それもこれも全てはセラスフィリアのせいだ。
俺はあいつに利用されただけなので悪くない。
最終的にあいつが得をしていたから犯人はあいつだということになる。
俺はあの女から何の指示も受けてはいなかったが、きっとあの悪魔的な頭脳を持った女に無意識の内に操られて、このような非道な行為をさせられてしまったに違いない。
『――ンなワケねェだろ。頭おかしいのか? アァン?』
『どう考えても頭おかしいことしているのに、何故か最終的にセイラ様の成果になってしまうから「始末するに始末できない」とお悩みになられていましたね……』
なんか聴き覚えのある女どもの声が聴こえた気がしたが、気がしただけなら気のせいだろう。
それより話が逸れたが。
この時はセラスフィリアは魔術院に出向いており、護衛兼秘書としてルナリナが同行していた。
後から聞いた話だと、今しがた思い出した話の中にあったプロジェクトとやらを最初に提案しに行って、お偉いさんの派閥にチクチクとネガティブな嫌味を言われて帰されたのがこの日だったらしい。
というわけで、ジルもエルフィもセラスフィリアの傍を離れて、ついでだからとジルはオフをとった。
しかし、だからといってエルフィーネが俺に着いてくるのは不自然なことだ。
あいつは護衛に付いていなければ、城でメイドの仕事をしているのが常だ。
なのに俺にくっついてここに来ているのは、これもまた憎きイカレ女の指示だった。
セラスフィリアめ。
俺とジルの休日を邪魔しやがって。
『私が居ると不満なのですか?』
「…………」
気がしただけだ。
何故あの女が俺にエルフィをつけたのかというと、俺を一人で外に出すと何をやらかすかわからないから――などという白々しい理由を言っていた。
それは嘘だ。
何故ならこの時の俺は、魔族の大将軍だとかいうヤツの首を持ち返ったとはいえ、依然として大したチカラはない。
何かやらかそうにも力不足で大それたことなど何も出来ないのだ。
これはきっと俺への嫌がらせだ。
あの女は俺へ常に精神的負荷をかけて、俺を疲弊させ逆らう気力が湧かないように追い込んできやがる。
これもその一環に違いない。
『いやいやオメェよォ。つい今自分で思い出してた出来事をもう一回喋ってみろよ。バカなのか?』
『どう考えてもそんなことが出来るチカラがないはずなのに、何故かとんでもない大事を巻き起こして……。わけがわからないんですけど、何故か最後は勝っていたりするんですよね……』
『アタシャここで見てて頭おかしくなりそうだったぜ。なんでそれでそうなるのかマジで理解できねえ』
『一緒にいる私たちもいつも混乱してしまって……。見えるところに居ないともう気が気じゃなく……』
『アイツよ。マジでよく生き残ったよな。そこらの“神意執行者”におんなじこと全部やらせようとしてもよ。100回死んでも無理だろ』
『本当に……。元の世界に帰れたからやっと大人しくしていてくれると思ったんですけど……』
うるせえな。こうなっちまったもんはしょうがねえだろ。
これもどうせセラスフィリアの差し金だ。
あの女が悪い。
『それはいくなんでも無理筋だろうよ』
『貴方のせいでセイラ様が心労から生理不順になって、侍女たちが大騒ぎしていたんですよ?』
知ったことか。そのまま閉経して血が途絶えて一族ごと滅びろ。
ともかく、セラスフィリアは俺を疑っていて、そのお目付け役にエルフィを寄こしたというわけだ。
だが、俺のやらかしだけを警戒したわけでもないのは事実だ。
あの女は俺とジルの仲を疎んでいたからだ。
俺とジルはダチだ。
この記憶の時点でもそう思っているし、今ここに居る俺もそう言える。
最終的に俺とジルは殺し合うことになったが、その斬り合いをしている最中ですら俺はあいつをダチだと思っていた。
そして、もし何かの間違いであいつと再会することになったとしても、その時にも同じことを言える。
男同士で気恥ずかしいものがあるので、俺はあいつに直接ここまでハッキリと言ったことはないが、きっとあいつも同じだろう。
俺はジルに何度かバラバラに解体されたりもしたが、あれはイカレ女の命令でやっただけでジルは悪くない。
あの女という大きな障害があったとしても、それを乗り越えて俺たちはずっとダチなのだ。
そして、イカレ女はそんな俺たちの関係に気付き、疎んでいた。
たまに俺たちのやりとりを苦虫を噛み潰したような顔で見ていたことがある。
あの鉄面皮が、だ。
あいつだけじゃなく、その側近たるエルフィーネも同様の表情で俺たちを見ていたことがある。
あの人形女が、だ。
きっと俺たちの友情を引き裂こうと画策していたに違いない。
『い、いえ、それはそうじゃなく――』
――うるさい黙れ
女のくせに男同士の話に口を出すな。クソが。
セラスフィリアの送り込んだ工作員め。
つまり、だ。
セラスフィリアは自分の見ていないところで、右腕である騎士ジルクフリードが俺に取り込まれないかを警戒していたのだ。
そしてその絶好の機会となるこの場に、俺の邪魔をさせるためにエルフィーネを送り込んできたに違いない。
確かに、為政者としてそういった可能性を考慮し対策の手を打つのは正しいだろう。
しかし、だ。
それでもこれは間違いであり、そしてジルクフリードへの侮辱だ。
俺はなによりそれが許せない。
俺が裏切ることはあるだろう。というか何度も裏切っている。
しかし、ジルがセラスフィリアを裏切ることはない。
これは絶対だ。
例えばジルがセラスフィリアより俺の方に親近感を持っていたとしても、なんならセラスフィリアを憎んでいたとしても――
それでもジルはイカレ女を裏切らない。
なにがあったとしても。
それはあいつが騎士だからであり、その在り方があいつの表現する忠誠だからだ。
今の俺はジルのその在り方に一定の理解がある。
この時のクソガキにはそこまでの理解はないが、それでもジルが主を裏切るような男ではないとわかっている。
そもそもそんな可能性を少しでも考えること自体が彼に対する侮辱なのだ。
それは俺のダチをナメているということにもなる。
なにより、そのジルの忠義を受けているイカレ女自身がそんなことを考えているとなると尚更許し難い。
今こうして思い出しても怒りが湧く。
『ホントかよ? オマエどうせあの冷血女をバカに出来ればなんでもいいってダシにしてるだけだろ?』
本当に決まっている。オラ、この焔を喰らえ。
『うおっ⁉ あぶねっ⁉ テメエこのクソガキッ!』
俺の怒りを思い知ったか。失せろ悪霊め。
『おい見たかよ? このカス、マジでアタシを燃やそうとしやがったぜ? 親不孝がよ』
『やめておきなさい、ルビア。この子がセイラ様の文句を言っている時はなにを言っても話が通じないんですから』
そのような事実はない。
『確かにあの姫サンもアレだけどよ。コイツなにがなんでもあの女をこの世全ての悪の根源に仕立て上げようとしてっよな』
『気持ちはわからないでもないですが……。まるで初恋の執着みたいですね』
うるさい黙れ。俺の初恋はシャロだって言ってんだろ。
『うおっ⁉ またやりやがったな!』
『ユウキ! 調子にのっていると殺しますよ?』
うるさい女どもを俺は蒼い焔で追い払い、記憶の映像に眼を向け直す。
そこでは、この時のクソガキも俺と同じ怒りを覚えているようだ。
テーブルの上にのせた弱っちそうな拳をギュッと握ってプルプルと震わせる。
すると、その手に白い大きな手が重ねられた。
ジルの手だ。
このテーブルは小さめのサイズで対面の席への距離が近い。
手を伸ばせば届く距離だ。
ジルはクソガキが何を考えているのかを察したのだろう。
だがその忠義から言葉にはせず、ただ柔らかく微笑んだ。
『自分はなにも気にしていないから、キミも何も気にするな』と。
クソガキはイッチョ前に「ふっ」とか笑い、ジルの掌の下から自分の手を抜いた。
口の端を持ち上げながら男同士見つめ合う。
そんな二人を記憶の中の方のエルフィがゴミを見るような目で見ていた。
ふん、所詮は女か。
『いえ、ですから――』
うるさい。
そこで配膳の終わった知らないメイド女が一礼をしてテーブルを離れる。
その際にこっちの知ってるメイド女にさりげなく目線を送った。
知ってるメイド女――エルフィは小さく頷く。
後は任されたという意味だろう。
ジルはテーブルの上のティセットに手を伸ばす。
並べられた食器には茶は注がれていない。
なんならティポットの中にも入っていない。
ジルは喫茶店の砂糖が入ってるやつみたいなちっさい陶器の蓋をいくつか開ける。
それらには何種類かの茶葉が入っていた。
ジルは木の匙のようなスプーンで茶葉を掬い、目分量で測りながらポットに入れる。そうして何種類かの茶葉を混ぜていった。
真剣な目でその作業を行っている。
彼がやっているのは茶を淹れる工程だ。
通常、貴族であり家の主でもある人間がこんな作業をすることはない。
本来なら茶が出来た状態で持ってきてカップに注ぎ配膳をするのがメイドの仕事だ。
しかし、ジルはそれを自分でやりたがった。
オリジナルのブレンドをして茶を淹れるのが趣味なんだそうだ。
だけどその趣味を行える機会は彼には多くない。
皇城での勤務中に自分の仕事を放ってメイドの仕事を奪う訳にもいかない。
休憩中にやろうにも、その時間は他の騎士や他の貴族とのコミュニケーションにあてなければならないことが多い。
その時にもっぱら彼をお茶に誘うのは他の貴族の家の子女だ。
あいつらは基本的にジルの身体と太い実家が目当てのクソ女で蛭のような連中だ。
そのような連中にジルが手ずからお茶を淹れてやるようなサービスをすれば、おかしな勘違いをさせてしまうことになる。
だからなかなか自分でお茶を淹れられる機会がないのだと苦笑いをしていた。
そんなジルが気兼ねなくお茶を淹れられるのは、あまり機会は多くはないが俺と二人で休憩をしている時だ。
他じゃ出来ないから付き合ってよと頼まれ、俺は快諾していた。
だからこの日のお誘いも、ヤツの趣味に付き合うことの一環のつもりで訪れていた。
この時だけはお互いに勇者や騎士の役目を忘れ、ただの友人同士として時間を過ごしている。
その証に、この日のジルはいつもの騎士服も着ていないし、当然騎士の甲冑なども身に着けていない。
それどころか、騎士が片時も離さない剣すらも屋敷の中に置いてきている。
服装もラフなものでゆるやかなシャツにスラックス。
この光景だけを見ればどこか外国の田舎の金持ちの家の中の風景のようにも見える。
俺は外国の田舎など行ったことないから実際のものを知らないが、それでも一見で異世界の光景には見えないだろう。
これを傭兵の流儀に準えた場合、『俺はお前を信用しているし害意もない』というのを示す行為だ。
映像の中のクソガキも遅れてそれに気が付いたようで、自分もジルに倣うようにする。
ガンっと――
テーブルの上に黒いナイフと聖剣のネックレスを雑に放り――
そしてパンっと――
またエルフィーネに後ろ頭を叩かれた。
エルフィは淀みのない動作でクソガキが放ったナイフ類を回収し、大事に手に抱える。
そしてジルに人殺しの目を向けた。
すると、蒸らし終わった茶葉にお湯を注ぎ直していたジルも、俺には向けたことのない冷たい眼差しでエルフィを見返している。
なんだよ、お前ら仲良くしろよ。
三人で協力してセラスフィリアをぶっ殺してこの国滅ぼそうぜ――
――みたいなことをこの時のクソガキは考えていたような気がする。
今でも理由はよくわからないが、この二人はずっと仲が良くない。
最初はそうでもなかったような気もしたが、気がしただけなら気のせいだろう。
『こいつ本当にバカだよな』
『本当に……。行儀が悪いのも結局直らなかったですし……』
一応ジルに倣って武装を解除したが、しかし実はこれはいらない工程だ。
俺とジルの仲だからというのもあるが、それ以外にはそもそも意味が無いというのもある。
「――これ。ボクが焼いたんだ。よかったら」
「お、サンキュー」
映像の中でジルが皿に乗せたクッキー的なものをクソガキに差し出す。
クソガキはそれを受け取り、躊躇わずに口に入れた。
この時には俺は他人から出された食い物は全て毒入りだと決めつけて生活をしていた。
だが、ジルから出されたものは普通に食う。
それにも同じく二つの意味がある。
ジルが俺に毒を盛るわけがない。
それは友情や信用という面もあるが、先に述べたのと同様、それを警戒する意味が無いのだ。
どういうことかというと、まずジルが俺に毒を盛る理由がない。
それは彼がそんなことをする男ではないということなのだが、そもそもあいつが俺を殺そうと考えたならば、そんな回りくどいことをする必要がないからだ。
ただ剣を抜いてそれを振る。
たったのそれだけで事は足りる。
それにあいつは騎士だ。
主の敵を滅するのに剣以外を使うことは無い。
だから、ジルがそんなことをするわけがない――というのには2つの意味が存在するのだ。
とはいえ、以前にはセラスフィリアの命令でジルは顔のいい若いメイドを俺の元に連れて来て。
そのメイドが事あるごとにクソガキにおぱんつを見せつけたりなどをし。
そしてクソガキがメイドに情を持ったところで、そのメイドに毒を盛らせ。
その後に、ドッキリの看板を持った人のようにジルが現れ、クソガキの前でメイドを殺す。
たまにクソガキも解体したりする。
――なんて出来事もあったので、今更信用がどうとかというものでもないという話もある。
だがそれらは全部セラスフィリアのせいなので、俺とジルは悪くない。
結論ジルは俺に毒を盛ったりするわけがないということだ。
ジルはティカップにポットからお茶を注ぎ、それにスプーンで砂糖を5杯入れる。
それから懐から白い小さな紙の包みを取り出した。
その紙を開き、中に入っていた謎の白い粉もカップに注いだ。
ジルは念入りにスプーンでカップの中をかき混ぜてから、それをクソガキの前に置く。
砂糖いっぱいのクソガキ仕様だ。
今はもう俺は甘いものが得意ではないが、この時はまだ日本気分が抜けきっておらず、甘いものが摂れる機会があればその時にまとめて摂るようにしていた。
なにせあの世界には庶民が口に出来る嗜好品が少ない。
なんなら貴族の家で出てくるようなメシよりも、日本のコンビニ弁当の方が美味いと感じる時もあったくらいだ。
この一年後くらいには、俺は考えを完全に改めた。
嗜好品どころか美味いもの全てを食うのをやめた。
何故なら、人間は美味いと感じるものを度々口にすると、不味いものを食べたくなくなる。
美味いもの以外は不味いものだと認識するようになるのだ。
この文明の未発達な世界――おまけに度々戦場に出ていた俺はいつでもどこでも美味いものが食えるわけではない。
劣悪な環境下では不味いものでも食い物が手に入るだけで幸運なのだ。
しかし、美味いものに慣らされていると、不味いものは食えなくなり、また食った時に満足感も得られなくなる。
それは生物として弱体化していることを意味する。
だから俺はあらゆる美味いものを俺の生活から除外し、己を高めた。
基本的にはチャチな干し肉だけを食うようにし、もしも体調が悪くなったら死んで治すという日々を過ごした。
『また頭おかしいこと言ってるぜ』
『修業は真面目にやらないくせに、こういう変な方向にばかり意識が高くなってしまって……。困ったものです』
今は日本に帰って来たわけだが、それでも俺はこのスタンスは変えていない。
運がよく“enegy bite”という神の創造物に出逢えたので、それだけを食うようにしている。
もしもこの日本の贅沢な食料品に慣れてしまったら、次に異世界に放り込まれるようなことが仮にあった場合、また同じ苦労を負う。
そうはならないよう俺はサバイバル部員として意識高く日々を過ごしているのだ。
だが、この時のクソガキはまだver.1.7くらいなので、嬉しそうに糖分たっぷりの紅茶をガブ飲みしている。
取引の際に相手に出された茶を飲むというのは、相手を信用しているというサインだ。逆に応じる気が最初からない場合には絶対に出されたものに手をつけない。
そういう傭兵の流儀もあるのだが、この時のクソガキはそんなものは関係なしにただ糖分に脳を支配されているだけだ。
猫舌のガキに合わせて淹れられたぬるめのお茶をゴクゴクと飲んでいる。
ジルはどこか熱っぽい眼差しで、自身が淹れたお茶が通る際に動くクソガキの喉を見つめていた。
マナーも何もなく、下町のバーでエールを一気飲みする傭兵のように高価なお茶を飲み干したクソガキは空いたカップをジルへ渡す。
ジルはそれを受け取るとまた新しくお茶を注ぎ直し、そして砂糖を今度は4杯入れて、それから紙に包まれた謎の粉も入れた。
そういやあの粉なんなんだろうな?
砂糖はその前に入れてたから別のものなんだろうが。
その正体は今でもわからない。
多分隠し味的なものなんだろうが、茶が美味いから別にどうでもいいか。
ジルは再びお茶をクソガキの前に置く。
既に喉が潤っているクソガキは一口だけ飲むことにする。
自分が渡したカップにクソガキの唇が触れるのをジルがジッと見ている。
コクリと喉が動くと、クソガキの頬に僅かに赤みが差す。
ジルがブレンドしたお茶は多分健康にいいのだろう。
あれを飲むと身体がポカポカしてくるのだ。
遅れて頭もボーっとしてくるが。
『ユウキ! ですからあの男は貴方が思っているような清廉潔白な男では――』
うるさい黙れ。
女が俺のダチをディスるな。
『こいつホントにバカだよなァ……』
『まったく……! どうせもう会うことはないからいいですが……』
なんだこいつら。
事あるごとにジルの文句を言ってくるんだよな。
記憶の中のエルも、お茶を飲むクソガキをうっとりと見つめるジルへ人殺しの目を向けている。
クソガキがカップを置くと、ジルは自分の分の茶を淹れ始めた。
澄んだ冷静な目で茶器を扱う。
その瞳の前で揺れる金色の髪を木漏れ日がキラキラと輝かせていた。
その佇まいだけでなく、ジルは顔の造型も美しい。
こっちの学園では紅月 聖人の野郎がイケメンだなんだと持て囃されているが、俺は断然ジルの方がイケている男だと思っている。
おのれ紅月 聖人。
ジルのいない世界で調子に乗りやがって。
見ててくれジル。
紅月にトドメを刺す時には「このブス」が口汚く罵ってからヤツの顔面を聖剣でズタズタに切り裂いて、二度と見れたものじゃないようにしてから殺してやる。
『コイツらホント気持ちワリィよな』
『記憶の時の体調に引っ張られるんでしょうか……?』
女どものブツブツとした愚痴が終わると同時――
「――さて。そろそろキミの質問に答えようか」
ジルは自分の分のお茶も用意し、それを一口飲んでから口を開いた。
そういえばそんな話だったな。
というわけで、この時の場面がどういう出来事だったのかというと――
ジルクフリード・バロッグホルスト。
騎士の中の騎士。
騎士とは勇者に似て、正しさの体現者だ。
そんなジルに――
まるで勇者に相応しくない――
少しも正しくない俺が、彼の思う『正しさ』の意味を問いかけたのだ。
ジルは真っ直ぐに、そして真剣な目でクソガキを見ながらその正しさの意味を口にする。
 




