1章15 舞い降りた幻想 ⑧
この新美景は治安が悪いと有名だ。
先に述べた理由から一般的にもそう知れ渡っている。
だが、俺に謂わせれば、かつて俺が過ごしていた場所に比べれば遥かにマシと謂えるだろう。
メインストリートからこうして路地裏に入っても、すぐに大人・子供入り混じった物乞いに囲まれ財布をスラれることもない。
そこから一つ角を曲がっても、そこにはすでに抜刀済みの武装したチンピラの集団が待ち受けていたりもしない。
ここにはさっきの奴らのように、敵と戦闘状態に入ってから慌ててエモノを取り出すようなマヌケばっかりだ。
さらにもう一つ角を曲がっても路上に座り込んだり横たわったりしている麻薬中毒者や餓死寸前の者も一人もいない。
ここまで奥に歩いて来ても死体の一つも見かけはしない。
この街はとても綺麗だ。
足を止めて道の奥を、路地裏に入ってから3番目となる角を視る。
この奥は一層と汚れている。
そしてそれに懐かしさすら感じる。
だが、この奥に進んだところできっと何もないのだろう。
水無瀬 愛苗に一層干渉され、希咲 七海に頻繁に絡まれるようになり、どうしてこうなったと嘆いてみたとしても、それは所詮日常の延長であり範疇だ。
ここでの日常であり、かつての日常ではない。
そう安易に考えて不用心に足を進める。
ある程度歩を進め曲がり角に近づくと、頬と耳の付け根あたりにピリッと微弱な静電気のようなものが走ったような感覚がした。
いつだったか。
6年前だか7年前だったか。
あの時もこうして暢気にアホ面下げて道を歩いていて、不意に闇の中へ引きずり込まれたというのに。
『世界』の路地裏、ヒトの闇の中へ。
まったくを以て学習をしない。
そのように反省をするのはこの時よりもう少し後なのだが、この時点での俺は曲がり角に近づくに連れて大きくなる異変の気配に気をとられていた。
それでも足を止めなかったのは、ガキのように日々に退屈していて刺激でも求めていたか、それとも別のなにかを求めていたのだとは決して認めたくはないが、しかし後から何を思おうが起こった事実は変えられない。
最初に異変を伝えてきたのは音だ。
音というか声。
人間の話し声ではなくナニカの鳴き声。
甲高く、ガラスを擦った時のような不快で耳障りな鳴き声。
それとともに何かが破砕するような破壊の音に、重量のあるものが駆けまわっているような振動。
距離が縮まるに連れて大きくなる異音とともに、ドッドッドッドッ――とこの胸に納まった心臓の音が頭蓋骨の中で反響していく。
眼球の裏側に鈍痛を感じながら、それを無視して角を曲がった。
そこはちょっとした広場のようになっていた。
無計画に無秩序に適当に建てたようにしか思えない4つの雑居ビルの壁で描かれた、不格好で歪なひし形のような場所。
広場とは言ったが、そこまで面積があるわけでもない。
そこの入り口に立つ俺からは全体が十分に見渡せる。
しかし俺はその全体を俯瞰することはなく、その中の一点を凝視していた。
一瞬、思考を失う。
俺がこの広場に入ると同時くらいだろうか。
広場の中央付近の上空から何かが落下してきて、それは地を滑って向こうのビルの壁に激突をした。
そいつに視線を奪われる。
それは獣。
四つ足でほぼ全身に毛の生えた――体長1m前後だろうか――かなりサイズのある大型犬よりも大きな獣。
ギィギィと耳障りな声を鳴らしている。
先程からの異音はこいつのものだったのだろう。
しかし、俺が瞠目しているのは、その大きな獣は犬などではなく、サイズを考慮しなければどう見てもドブネズミにしか見えなかったからだ。
ネズミにしか見えないがネズミには有りえない大きさ。
珍種や変異種などではなく、誰が見ても一瞬で理解出来るほどの純粋な異質。
この空間において圧倒的な存在感を放ちながらも、何故か生命力を感じさせない歪さ。
その姿を目にした者に、この世にいてはいけない生物だと直感的に悟らせる異様さと悍ましさ。
血走った目玉、歯の隙間から零れる涎。
完全に興奮状態だ。
本来であればとっとと逃げるなり身を隠すなりするべきなのだろうが、間抜けにもヤツに見惚れたように棒立ちで俺は突っ立っていた。
こんな所にこんなモノが居るのかと、意外というか、感心したというか、どう表現していいかわからない感情の処理に手間取っていた。
ギョロリとヤツの目玉がこっちを向く。
完全に目が合った。
こんな所にボーっと突っ立っている脆弱な人間など、ヤツにしてみれば割のいいエモノ以外の何物でもないだろうが、特にこちらに襲いかかってくるようなことはなかった。
異質な獣の目玉が俺よりも上にずれて上空を向く。
俺がヤツに夢中になっていたように、ヤツもまた何かに夢中のようだ。
他にも何か異質な存在がいるのかと、ヤツの視線を追って俺も上空へ眼を向けた。
しかし、そこに居る者を視界に捉えるよりも速く、空から光が堕ちる。
光といってもそれは光弾。
サッカーボールほどの大きさだろうか。
ピンク色の球体がネズミ目掛けて落ちてきた。
それはネズミの立つ地面の手前に着弾し、アスファルトの地面を弾けさせごく小規模なクレーターを生み出しつつ、衝撃で破片ごとヤツをビルの壁に叩きつけた。
そのショックとダメージからヤツが立ち直るよりも速く二の矢が迫り、今度は獣の身に直撃した。
ガラスを擦り合わせたような不愉快な断末魔をあげ、ソレはあっさりと絶命した。
乾いた泥人形が崩れるように細かくバラバラになりながらネズミは砂に還っていく。
その砂のような粒は空気に溶けるように消えていき地に積もるようなことはない。
どう見ても尋常な現象ではなかった。
そうして、ネズミの化け物だったモノはその存在が解けて無に帰した。
ヤツが居た場所にはその存在の、魂の欠片すら残っているようには視えず、ただピンク色の光弾により抉れた地面と、砕けたビルのコンクリの壁が残っているだけだ。
その現場を凝視していると、信じられないようなことが起こる。
スマホでもPCでもTVでも、何でもいいが、映し出されていた映像が次の映像に切り替わったかのように、パっと今しがた俺が視界に捉えていた破壊跡が綺麗さっぱり消え失せた。
地面も壁も元通りに戻っている。
まるでこの場には何も居なかったかのように、何事もなかったかのように。
なかったことにされた。
在ったはずのモノがなくなる、あるはずのない出来事。
そんなよくわからないことが目の前で起こった。
俺はもう一度上空に視線を動かした。
先程は視ることの叶わなかった、恐らくこの現象を起こしたと思われる存在がそこに居るはずだと。
そこに居たのは、空中に立つように浮かんでいたのは少女だった。
俺のほぼ頭上、そこにこちらに背を向けて立っている。
背というか尻か。
地面に立つ俺から見れば下から覗く恰好になるので、角度的にまともに視認出来たのはヒラヒラとした短いスカートの中のピンクと白の縞々おぱんつだ。
空飛ぶ尻という在りえない存在がそこに居た。
ここでもおぱんつが俺の前に立ち塞がるのかと場違いな感想が浮かびうんざりとするが、これも希咲のせいだと脳内でここには居ない彼女に責任を擦り付け、改めて頭上をよく視る。
無秩序に建てられた4つのビルの隙間から覗く空。
歪な四角形で切り取られたその空は、まるでヒトの魂を閉じ込めた牢獄に空いた眼窩の窓から覗く外の『世界』のようだった。
そこに舞い降りたその少女は、惨めに収監された俺という罪人を救いに来た――のではないのだろう。
きっと、俺という罪人を断罪しに訪れた天使なのだと、直感的にそう思ってしまった。
そいつを睨みつけてみれば、それはただの錯覚だとすぐにわかる。
彼女の姿恰好から見覚えのあるものを連想させられる。
あのネズミが何で、この少女が何なのか、確定的な事実は何一つわからない。
一つだけわかることは、退屈で代り映えのない日常は今この瞬間に終わったのだということだけだ。
だが、それでも、これが意味のあることなのかは、それもまだ俺にはわからない。




