2章36 Debriefing
美景旧港――
《――驚いたぜ。本当にあった》
倉庫を脱出したアレックスたちは貨物船が停泊している地帯に移動していた。
大きな船と船の間に潜むようにして波に揺れている小舟を発見しての言葉である。
《てっきりオレらを囮にして一人だけ逃げる気なんじゃねェかと思ったんだが……》
逃走のアシを用意したという弥堂の言葉に従って彼らはここに逃げてきていた。
だが、今日その目で見た弥堂の立ち振る舞いから、素直に彼の言葉を信じ切ることは難しかった。
ビアンキは尚も懐疑的な表情をしている。
《なぁ、アレックス。アイツの言う通りにして大丈夫なのか?》
《……まぁ、取引を持ち掛けたのはこっちで、それで実際オレら助かっちまったしな》
《また流儀かよ》
《まーなー》
ビアンキにはそう返しつつ、しかしアレックスは昏い海面に少し前の記憶を写す。
『――オレらは傭兵だ。時にクライアントを裏切ることはあるが、同業との取引きを反故にしたりはしねェ』
アレックス自身が弥堂へ言った言葉。
その考え、スタンス――流儀は今も何一つ心変わりはしていない。
だが――
《――取り消すわ》
《ア?》
ポツリと、一つ否定をする。
《アイツを初めて見た時……、街でな? あの時よ、「同じニオイがする」って言っただろ?》
《ん? あぁ……、そういや言ってたな》
《あれ、取り消すわ。オレの見る目が無かった》
《な、なんだ? どうしたんだよ……?》
彼には珍しい自戒の強い言葉。
ビアンキはつい気味の悪いものを見るような目を向けてしまう。
《アレは……、オレらよりももっとクソな地獄……、深いカオスで生きてるヤツだ……》
《…………》
《アレは、戦争が生み出した“バケモン”だよ――》
眉間に皺を寄せてそう漏らした時、貨物船の隙間に浮かぶ釣り船に小さな灯りが灯る。
こちらの話し声が聴こえたからだろうか――船室から誰かが出てきた。
日本人の男で漁師のような恰好をしている。
しかし雰囲気でわかる。
ガラの悪い男だ。
それはアレックスたちにはむしろ馴染みの深い雰囲気だった。
漁師の男は甲板に立ちながら声をかけてくる。
「驚いたぜ。ガラの悪い外人どもが来るって聞いてたんだが、ほんとに来やがった」
愛想のいい挨拶ではなかったが、アレックスはむしろ笑ってしまった。
つい今しがた自分がイタリア語で言ったことと、ほぼ同じことを彼が言ったからだ。
《クックック……》
「おい……?」
そうしていると訝しがられてしまったので、アレックスは日本語で返事をする。
弥堂から聞いていた合言葉を――
「――よォ兄弟、クソみてェな夜だな? レモネードで乾杯しようぜ」
「フン、漁船にそんなシャレたモンはねェよ。アイスクリームでもナメてなお嬢ちゃん」
お互いに想定通りの言葉を言い合い、ニヤリと笑い合った。
アレックスは舟に飛び乗り、漁師に右手を差し出した。
「――アレックスだ。急でワルイな。よろしく頼む」
「オレぁ、浜野っつーモンだ。たまにこういうこともするが普段は本当に漁師をやってる。だから舟を降りたら忘れてくれ」
「オーケーだ、誰だか知らないフィッシャーマン。短い付き合いだが頼むぜ」
彼らが全員乗り込むと、浜野は舟を発進させた。
アレックスたちは甲板で適当に車座になる。
何人かは疲労困憊で寝転がってしまった。
アレックスも懐から煙草を出し、火を点ける。
「やっとひと心地つけたな……」
船主に怪しまれないよう日本語で喋る。
彼もまた仰向けになり、自身が吐き出した煙が夜空に浮かぶのを眺めた。
誰も喋らないまま少し時間が流れて――
「――クソ……ッ、こんなに……、みんな死んじまった……ッ!」
船べりを叩き、ビアンキが苦々しく吐き出す。
アレックスはその言葉を受けて周囲を見回した。
ここまで辿り着けたのは――
アレックス、ビアンキ、フェリペ、ダニー、エマ。
それと福市博士。
たったの6人だ。
ダニーはビアンキへ同情的な目を向ける。
「……ホテルから逃げたヤツもまだいるはずだ」
そう気遣うが――
「そんな時は外人街に逃げ込む手筈だったが、何人落ち延びられるか……」
「オレらだってもう、外人街には戻れねェしな……」
諦観の強いフェリペの言葉に、アレックスがヘラっと笑って同調をした。
ビアンキはさらに喉を震わせる。
「ちくしょう……ッ! こんな大敗けは初めてだぜ……! 今まで上手くやってたはずなのに……!」
「なに言ってんだビアンキ。オレらァ勝ったんだぜ?」
アレックスの言葉にビアンキは信じられないといった顏をした。
「オマエこそ何言ってる。こんな……、こんなに仲間が死んで……、こんなののどこが勝ちだってんだ……ッ⁉」
「オレらが受けた依頼内容は?」
声を荒らげるビアンキへアレックスは横目を向けて問う。
その目はどこか冷たく渇いたものだった。
答えのわかりきった問いに苛立ちながらビアンキは返すが――
「そんなの、博士を奪って逃げて来いって……あ――」
途中で言葉を失い愕然とした目で、所在なさげに膝を抱える福市博士を見た。
「ごめんなさい……」
ここに居る連中は自分や“賢者の石”を奪いに来た者たちで、争いを仕掛けてきた者たちだ。
しかし、何故だか博士は罪悪感を覚えてしまい、口の中で小さく謝る。
舟のエンジン音でその声は誰の耳にも届かない。
だからそれに気付かぬまま、彼らの話は続いた。
「――だろ? カタチ上は達成してる。ま、報酬までは望めないがナ」
「なんなんだよこれ……」
放心しかけたビアンキの横顔へ言葉を向け、アレックスが続きを聞かせる。
真剣な声音で。
「覚えとけ。戦場じゃたまにこういうことがある」
「…………」
「誰一人死んでねェ。傷一つ負ってない。だがそれでも敗けになることもある。今回はその逆だ――」
「そんなバカな……」
「こんな風にボロボロのメタメタにされたってのに、何故か勝ってるなんてこともな」
「いみ、わかんねェよ……」
膝の間で俯いてしまったビアンキへ向ける目を、アレックスは少し緩めた。
「こういう時にはな、大抵“居る”んだ」
「居る……?」
「アァ。その戦場に。ああいう“バケモン”が。ゴーストのことじゃあねェ。わかるだろ?」
「……アァ」
「アレが居るとな、こういうワケのわかんねェことになって。勝ったとしてもこんな風にクソみてェな気分になる。そういうモンなんだ」
「……あんなのが他にもいるのか?」
ビアンキは視線だけをジロリと向ける。
その奥に不安を隠す彼に、アレックスは殊更軽薄に肩を竦めてみせた。
「さァな? あそこまでイカレたのはオレも初めて見たぜ。だが、よ。あんなのと出遭っちまって――しかも最初は敵だったんだぜ?――それでも生き残れたのはよ、運がよかったと思っとけ」
「……思えねェよ」
「そう思わなきゃあ、やってらんねェよ。傭兵なんざな――」
哀しみと屈辱。
感情の波に揺られながら、それでも彼らを乗せた舟はそれを乗り越えて、港から離れて行く。
戦場跡で回り暴れる赤色の灯りは、置いて行ったモノと共に段々と遠くへ――
「――任務完了だ」
ポートパークホテル美景。
その前庭にて、戦場から生還した弥堂 優輝は堂々と言い放った。
「か、完了って、キミ……」
“清祓課”の現場責任者である佐藤 一郎はまず、ボロボロになった弥堂の服装を見てギョッとし、それから彼のあんまりな報告にあんぐりと口を開ける。
弥堂の近くに居るのは佐藤、黄沙、そしてウェアキャット――誰しも一様に戸惑いを浮かべていた。
何せ、護衛対象であった福市博士は攫われ、それを追った“G.H.O.S.T”部隊と指揮官のミラーは音信不通。
そこから唯一人生還した男は『任務成功』だと言う。
誰一人として理解が追い付かなかった。
周囲では他の者たちが忙しくなく駆けまわっている。
その中には清祓課と似ているが少し違う制服を着た者たち、それからこのホテルに残留していた“G.H.O.S.T”の隊員たちも居た。
どうやらこちらの戦闘も終着しているらしい。
現在は捕虜とした敵の拘束と送致、それから怪我人や一般人の避難対応に追われているようだ。
弥堂はそれらを一瞥だけして興味は持たず、自分に必要な作業をする。
「“G.H.O.S.T”は壊滅。博士はテロリストに奪われた。だがカルトの魔術師はイカレてたから博士と心中した。博士を乗せた車ごと海に飛び込んで爆発した」
「あぁ、うん」
「ということで、博士は誰にも渡さなかった。任務達成だ」
「あぁ、うん」
佐藤は弥堂の報告に何とも言えずに生返事を繰り返し、そして何とも言えない顔をした。
「いや、ね? 港に行ってる警官からもそういう報告が上がってきてる。そう聞いてはいるよ。海に転落して爆発した車の調査はこれから――」
「――あれでは助からない。金をくれ」
「い、いや、だからね? あげるけど。あげるけれども、それには――」
「――これは領収書だ」
「え――?」
弥堂はあくまで相手の話を遮り金銭を請求し続け、さらに佐藤に領収書を一枚渡す。
佐藤は手渡された紙きれをジッと見た。
『MAX TAXI』と書いてある。
常にお客様のために全力の“ハシリ”を心掛けることで有名な、地元のタクシー会社が発行しているものだ。
「ここまではタクシーで戻ってきた。経費だ。金をくれ」
「……キミ、こんな大変なことになっても自分のお金のことしか言わないんだね……。スゴイなぁ……、最近の若い子は……」
「主語がデカイんだよなぁ……」
佐藤の感想に思わず口を挟んでしまったのは、沈痛そうな雰囲気のウェアキャットだ。
その声に反応して弥堂はウェアキャットをジッと視る。
しかしスッと目を逸らされてしまった。
弥堂の方も、特に“彼には”言うことがないので、佐藤へ向き直る。
すると、佐藤は咳ばらいをして場を纏めた。
「とりあえず――今夜はもう戦闘は起こらないだろう」
港の方には友軍も敵軍も生き残りはいないし、このホテルの敵も制圧済みだ。
「オジさんたちはこれから現場検証やら事後処理に、逃げた敵の追跡などなど――徹夜確定だ。キミたちの仕事はここで終わり。先に撤収しちゃっていいよ」
「おい金を――」
「――それはまた明日ね」
この世に存在する大人など誰一人信用していない――
――そういった視線を青少年から向けられて、佐藤は苦笑いをする。
「そんな目をしないでおくれ。オジさん傷ついちゃうよ。報酬はちゃんと払うよ。その報酬額を評価するにも、まずはちゃんと事件を終わらせなきゃいけない。明日の昼頃にでも御影さんの探偵事務所に行くからさ。その時に、ね?」
「いいだろう」
「安心してよ。なんせオジさん公務員だからさ。アコギな真似は出来ないのさ」
「そうだな。『公務員なんだからな』、悪いことは出来ないだろう」
「ん……?」
納得はしてくれたようだが、何処か含みを持たせた弥堂の言い様に佐藤は首を傾げる。
弥堂はそれ以上は何も言わずに踵を返そうとする。
だが、その前に立ちはだかった者がいた。
清祓課の獣人の少女、黄沙だ。
黄沙は弥堂の前でクンっと鼻を鳴らし、表情と眼差しを険しくさせる。
「キョウケン、オマエ、何人、殺ッタ?」
「さぁ?」
弥堂は適当に肩を竦める。
「俺は敵も味方も全員の無事を祈っていたんだが、馬鹿どもが勝手に殺し合って勝手に死んだんだ」
「…………」
嘯く彼に黄沙は何も言わず、ただ「グルル」と喉を鳴らした。
弥堂は自身の記憶を正確に思い出すことが出来る。
その為やろうと思えば記憶を辿って死人の数を数えることは可能だ。
面倒だし意味がないのでそれをすることはないが。
しかし、今夜――
弥堂がこの戦場に居たが為に生命を落とすことになった人数は二桁ではとても収まらないだろう。
黄沙はその死と、血のニオイを、彼の身から感じ取っていた。
弥堂もそれを騙ることはしないが、語ることもしない。
黄沙の横を通り抜け、次の目的を果たすためにその人物の前に立つ。
ウェアキャットだ――
弥堂が目の前に来ると、ウェアキャットは少し身体を緊張させた。
「――解除しろ」
「え……? あ、テレパシーか……、うん」
用件を伝えると少し安心したように弛緩する。
しかし、弥堂へ向けて手を伸ばし、その手が近づくとまた少し緊張を浮かべたように見えた。
「……また、少しショックがあるよ?」
「構わない」
弥堂の手を握ると、ウェアキャットはそう断りを入れてくる。
「繋いだ時よりもちょっとだけ痛いかも……」
「そうか」
それにおざなりな返事をしながら、弥堂はただ視ていた。
「じゃあ……」
やがて、繋いだ時と同じビリっとした電気のような感触の後に、続けてズクリと――
なにか、もっと。
自分の奥の、芯のような部分まで何かが届いたような――
そんな感覚を覚える。
(なんだ……?)
しかし、違和感を覚えたのも一瞬だけ。
少しの喪失感がする。
テレパシーを繋いでいた時には気付かなかった繋がりのようなものが喪われた――そんな感覚だ。
他には特に何もない。
今日ここに来る前のいつもの自分と同じのように感じる。
自身の裡を探っているうちに、ウェアキャットの手がそっと離れる。
「どう? テレパシー切れてるか試してみる?」
「いや、いい」
そう言いつつ――
(――このカマホモ野郎)
頭の中では念話を試してみる。
しかし、目の前のウェアキャットにはなにも反応はない。
どうやら――
<――ん。大丈夫。ちゃんと切れてるみたいよ、ユウくん>
<そうか>
――エアリスの方でも確認出来たようだ。
念話以外にも、自分が監視されているような感覚もない。
言葉どおりちゃんと能力を解除したのだと弥堂は判断した。
それならもうここには――
「――じゃあ、ボクはもう帰るね」
――用はないと立ち去ることを考えると、弥堂よりも先にウェアキャットが身を離す。
「おつかれ――」
そしてこちらを振り返らずにそう短く別れを告げて、ウェアキャットは大きく跳躍した。
一気にホテルの2Fよりも上に跳び上がるとその壁を蹴り、隣のビルへと移動しながら高度を上げていく。
「…………」
キャップを深く被り後頭部で結んだ長い髪が、跳躍の度にシッポのように大きく踊る。
その華奢なシルエットが夜空に溶けていくのを、弥堂は黙って視送った。
――蹴って、跳ねて。
何度もそれを繰り返して、戦場だった場所から遠く離れて行く。
やがて十数階以上のビルの屋上からさらに高く空へ跳び、ウェアキャットは適当なビルの屋上へと着地をした。
先程までいたホテルとはもう何区画も離れている。
屋上に立ち尽くしたウェアキャットは徐にガクッと膝を着いた。
「――ハァ……、ハァ……ッ」
荒く息を吐く。
今しがた行った派手な移動法によるものではない。
ずっと感じていた重圧感――そしてそれから解放されたことで安心し、気が抜けると同時に膝からも力が抜けてしまったのだ。
まるで逃げるようにあの場から離れて――
そして思い出す。
今夜、見たものを――
「――殺した……っ! 人を……、あんなに、簡単に……っ!」
それは弥堂 優輝の所業。
そういう種類の仕事では元々あった。
それをちゃんとわかっていなかったのはむしろ自分の方だ。
しかし。
それにしても――
「――あんな、あんなに、ためらいなく……っ!」
――彼の殺しには一切のそれがなかった。
生命を一つ奪う前に、何一つ考えることもなく。
ごく当たり前に、ごく自然な所作で。
人間から生命を奪う。
さらに、ただ殺しただけではない。
敵を殺すだけではなく、味方まで。
襲われて――
生命を奪われそうになって仕方なく――
そういった反撃ではない。
今夜の戦いの口火を切ったのは、彼からだ。
彼から殺し始めた。
犯罪者よりも、テロリストよりも先に――
彼が最も速くその手を血に染めた。
その為に敵も味方も、無関係な人さえも――
全員を戦場――自分のフィールドへと引き摺り込んだ。
今夜の地獄を創り出したのは、彼なのだ。
自分は――
自分だけがその真実を知っている。
それらの映像が次々と浮かぶ。
だけど、リアルタイムでは無理矢理押さえ込んでいた動揺がここで一気に膨れ上がってしまい、上手く思考を纏められない。
今、わかるのは――
彼の恐ろしさと――
そして自分が何も出来なかったこと。
だが――
だけど、それでも――
「――でも……、打ち込んだ……ッ! マーキング……、あいつに……ッ!」
――なけなしのプライドで膝を叱咤し、ウェアキャットは勢いよく立ち上がる。
「……【猫被り】、解除――」
小さく呟くと――
これまでどんなに飛び跳ねてもビクともしなかったキャップが、仮面が剥がれるようにポロリと落ちる。
そして高所に吹く風に乗ってどこかへ飛んで行った。
後ろ髪を結ぶゴムを引き千切るようにして毟り取る。
長い髪が強風に煽られた。
茶色よりは金色に近い亜麻色の髪が拡がり、その波に浮かぶピンクゴールドがキラキラと夜空に煌めく。
「これで、もう……、逃がさない……! 全部、あいつのしたこと、してきたこと……! 愛苗のこと……! 全部丸裸に出来る……ッ!」
自分を奮い立たせるために、自分に言い聞かせるように、今夜唯一の戦果を口に出す。
それが無ければ今夜は完全に敗けとなってしまい――
そうでなければあの冷酷で残虐な殺人者への恐怖で竦んでしまいそうで――
何故ならもう――
「――逃がさない……。あたしだってもう、逃げられない……ッ!」
――今更退く道はないのだ。
いつだって思い出せる、大切な親友の笑顔を胸に――
ウェアキャットは――
希咲 七海は――
その親友との思い出に、誓う。
決着を――
弥堂 優輝との――
ここまでの全ての出来事との――
――その決着を。
「――はぁ~……、あのキモオヤジ、しこたま呑ませやがって……」
自宅であるマンションに帰宅した『CLUB Void Preasure』のNO.1キャバ嬢である華蓮さんは、誰の目もなくなったことで安心し、素のヤンキー口調で愚痴を漏らす。
今夜はいつもよりは早い帰宅だ。
今しがた漏らしたとおり、指名客に過剰に酒を勧められ、その客が帰ったところでちょうど指名も途切れたので、いつもよりは早く上がらせてもらったのだ。
送りの車から降りて、たった今部屋に入ったばかりである。
そんなタイミングで――
「――ん?」
“ピンポーン”っとインターフォンが鳴る。
今は深夜3時前。
来客が来る時間ではなく、こんな時間に来るような客なら間違いなく真っ当な人間ではない。
「……はい?」
少し警戒をしながらインターフォンを繋ぐと――
『――俺だ』
そんな真っ当ではない答えが返ってくる。
その来客は、オートロック付きのこのマンションのエントランスにあるインターフォンのカメラに映らないように隠れて喋っている。
その所作で真っ当でないことがわかる。
さらにその声には聞き覚えがよくあった。
その人物が誰であるかわかると、やっぱり真っ当な人間ではないことが確定する。
「キミね……」
華蓮さんは呆れた声でそれしか言えない。
『中に入れてくれ』
「はいはい……」
言いたい文句はたくさんあったが彼をあそこに長居させると、偶然出くわした他の住人と喧嘩をするかもしれないので、素直に通してやることにした。
そして彼はこの部屋までやってくる。
その彼とはもちろん、弥堂 優輝である。
「なにそれ――」
彼の姿を見て開口一番、華蓮さんは絶句した。
「ちょっとな」
「ちょっとでそうはならないでしょ……。半ズボンになっちゃてるじゃない」
彼の着ている洋服はボロボロ。
袖も肘の先から無く、ズボンの片足も膝から下が無い。
よく見ていると、それは元はスーツだった物だとわかる。
華蓮さんはジト目になった。
「……その服、どうしたの?」
「転んだら破けた」
「そうじゃなくって、どうやって手に入れたの?」
「買った」
「それもウソ――」
彼の言い分は全く信用せず、彼女はその生地に触れる。
現在は酷い有様だが、元はとても仕立てのいい物のように感じた。
「……これはヤクザの趣味ね。山南さんかしら?」
「…………」
一発で見破られたが弥堂は黙秘した。
華蓮さんもそれ以上は何も言わず、スーツから手を離した。
「それで? なにしに来たの?」
「服をくれ」
「は?」
「こないだここに置いて行ったジャージを返せ」
「……着替えに寄ったってこと?」
「この恰好で歩いてると職質される可能性がある」
「ふぅ~ん……?」
華蓮さんの機嫌が悪くなったことを弥堂は察した。
だが、ここで引くと女は調子に乗るのであくまで高圧的な態度を崩さない。
しかし――
「――ていうか。ワタシがあげた服はどうしたの?」
――非常にマズイことを訊かれてしまった。
「……失くした」
「は?」
弥堂がほんの僅かに踵を下げると、華蓮さんの圧が増す。
「……落とした」
「服を落とすの意味がわからないわ。キミ、全然言い直せてないじゃない。で? どこにやったの? あの服」
「……忘れた」
「どこに? まさか女の家とか言わないわよね?」
「……ヤクザの家に」
「……へぇ?」
「システムが悪い」
「は?」
「着替えると元の服がなくなるシステムなんだ」
「…………」
すぐに言い募られて吐かされてしまうが、しかし彼女も慣れたもの。
「ハァ……」と溜め息を吐いて、それ以上は言わないでくれた。
「それにしても。いつもなら職質なんて気にしないくせに。どういう風の吹き回し?」
「今夜はマズイんだ」
「ふぅん? どこで何してきたの?」
「人助けだよ」
「もうちょっと頑張ってウソつきなさい」
「嘘じゃない」
全くを以て信じていない彼女に、弥堂は堂々と言う。
「悪い男たちに寄って集って手籠めにされそうになっていた女を助けたんだ」
「はいはい。それで、その女のところで脱いできたとか言わないわよね?」
「俺は脱いでいない」
「『俺は』?」
「……誤解だ。確かにその女を脱がせはしたが、ちゃんと服を着せた。別の女から脱がせた服を」
「……もういいわ。今夜は呑み過ぎたから、あんまり頭が痛くなるようなこと言わないでちょうだい……」
幸い華蓮さんのコンディションもよくなかったので、弥堂は運よく許された。
華蓮さんは眉間に指を押し当てて頭痛を堪えながら踵を返そうとする。
そうしながら――
「――で? それだけのために来たの?」
「もちろん違う――」
「え――むぅっ⁉ んむぅ……ッ」
彼女が自分から目を離した隙に弥堂は玄関から土足のまま片足を踏み出し、彼女の唇を奪う。
驚きに見開く彼女の目を無感情に見下ろしながら、唇で押し込むようにして華蓮さんを壁際に追い詰めた。
「んんぅ……っ、ぷぁっ、ちょ、ちょっと……⁉ いきなり、やめ――」
「――うるさい」
文句を言ってくる唇を塞ぎ、無理矢理に黙らせる。
唇が合わさり、離れ、水音が弾ける。
その合間に「やめて」「どうしたの?」という華蓮さんの声が。
口では抵抗をしているようで、彼女の身体はその逆の行動をする。
脚を絡めながら爪先を伸ばして、弥堂の踵に当てる。
そうして彼が革靴を脱ぐのを手伝ってやった。
「……ヤりたくなったから来たの?」
「そういうわけでもない」
彼女の腰に手を当てて体重を引き取りながら弥堂はその作業を続ける。
「もしも誰か――」
「え――?」
「――男を知らないようなバカなガキが覗き見ていたら。目ん玉引ん剥いて大騒ぎするような、そんなことをしてやろうと思っただけさ」
「な、なにそれ……っ。ぁんむぅ……、ちゅっ――」
説明できないことを訊かれないように、彼女を黙らせにかかる。
理知的だった彼女の瞳が段々と蕩けていく。
「……酒くせぇな」
「ん……なぁに? もう酔っちゃったの?」
「酔ってない」
「じゃあ……、酔わせてあげる……。立てなくなるくらいに――」
蠱惑的な瞳で挑発されると言葉とは裏腹に――
弥堂の手に彼女の体重が完全に乗る。
弥堂はグッタリとした彼女の身体を寝室まで運んで行った。
翌朝――
リビングで流れるTV。
ローカルニュースで、美景の新港で深夜に謎の爆発事故があったことが報道される。
死傷者についての詳しい情報は現在調査中とされ、そして――
誰かしらの身元が読み上げられることもなかった。
 




