2章32 DEMONed I Scream ③
弥堂と博士は床を離れ一直線に飛ぶ。
かなりの力がかかっている。
弥堂はともかく、戦闘者でもない普通の人間である福市博士はただでは済まないだろう。
どうにかしなければと考えたところで、弥堂の視界に飛来物の接近が映る。
ヨギの死体の近くに落ちていたトランクケースとズタ袋だ。
このままでは身体の前で抱えている博士に直撃するだろう。
「ち――」
舌打ちをしながら身体を捻じり、弥堂は飛来物を蹴り飛ばした。
その衝撃を利用して、博士の身体にかかっている“威”も引き取る。
博士を床に置き、二人分の衝撃を以て弥堂は加速した。
さらに身を捻じり掌を床に叩きつけ膝をぶつけ、力の方向を操りながら床を転がりつつ、“威”の減衰を待つ。
「――よっ……と!」
すると、物凄い勢いで転がる弥堂の腕を掴む者があった。
アレックスだ。
しかし――
「――う、うおおぉぉ……ッ⁉」
思っていた以上の力に巻き込まれ、アレックスも弥堂諸共に床を転がることとなる。
6,7回ほど転がって、二人はようやく止まった。
「お、おぉ……、キモチワリィ……ッ」
「……なんの真似だ?」
車酔いでもしたように顔を青褪めさせたアレックスが膝を立てて身を起こすと、床に倒れたままの弥堂の眼がジロリと向く。
「ダハハー。なんとなく目の前に来たから掴んじまったんだよ。まぁ――」
いい加減な表情で彼は笑い、そしてレイスを見た。
「――こうなっちまったらもう、敵も味方もねェだろ」
嗤い謳い死を振りまく亡霊を見るその目には、諦観の色があった。
“死の嘆き”を浴びて身動きのとれなくなった者たちは、次々に殺されていっている。
“G.H.O.S.T”だろうと、傭兵だろうと、関係なく等しく殺される。
或いは死ぬまで魔力を吸い尽くされ、或いは瓦礫をぶつけられたり、或いは吹き飛ばされたり、など――
(――人間の時のような魔術は使えない……?)
異世界で遭遇したレイスとの相違点を弥堂が分析していると――
――チンッと、小気味のいい鉄を打ち鳴らす音がする。
そちらへ眼を向けた時にはシュボッと音が続き、小さな火がアレックスの口元を照らした。
煙草に火が移り煙が漏れ出すと、またチンッと鳴って火は閉ざされる。
「ン? よォ、オメエも吸うか?」
「いらねえよ」
弥堂の視線に気づいたアレックスが煙草の箱を向けてくる。
にべもなく断り、弥堂はまた戦場を焼く火へと眼を戻した。
「――あぅ……っ!」
床にお尻を落とした福市博士は痛みに顔を顰める。
しかし、弥堂のようにその後も転がされることなくただの尻もちで済んだようだ。
「そ、そうだ……! あの人、腕が――」
遅れて弥堂の重傷を思い出す。
弥堂に助けられたことに気付かないまま、彼の姿を探そうとした時――
「これは――」
床に座り込む自身の膝の近くにあるトランクケースに気が付いた。
この中には“賢者の石”が入っている。
手元に戻ってきたことへの安心感を覚えようとしたら、その前にもう一つの物にも気が付いた。
そっちは汚いズタ袋だ。
カルトの魔術師の持ち物だったもの。
だが、彼女の気を引いたのは袋自体ではなく――
「さっきの……、怪物を……」
袋の口は開いていて、恐らくそこから転がり出てきたのだろう小瓶が落ちている。
ガラスの中には白濁した液体が入っていた。
「…………」
福市博士は“ソレ”から目線を動かさないまま、トランクケースに手を伸ばす。
慣れた手つきで暗証番号を入力し開いた。
このような悲惨な戦場で――
怪物のことも――
弥堂のことも――
“G.H.O.S.T”のことも――
テロリストのことも――
そこらに転がる死体のことも――
亡き祖母のことも忘れて――
その白い液体だけを見つめた。
トランクから取り出したのはアムリタではなく、その検査薬と試験紙だ。
福市博士は右手にそれらを持ち、左手を床の小瓶へと伸ばした――
「――博士を確保しなきゃ……!」
茫然とした様子で床にヘタリこむ博士を見ながらミラーは焦燥する。
だが、今は下手には動けない。
目立つことをしてあの死霊に目を付けられるとマズイ。
しかし、博士やアムリタを放置しておくわけにもいかない。
あの日本人の魔術師がどうにか博士を助けてくれたようだが――
ミラーは弥堂の方へ目を向ける。
「――マッドドッグはもう戦えない……」
テロリストたちの近くで弥堂は床に倒れたままだ。
彼らと戦闘になる様子はないが、それで安心できるわけでもない。
彼は常軌を逸した戦いで、人狼と魔人を仕留めた。
しかしそのせいで負傷をしている。
片腕まで失ってしまったのだ。
これ以上の戦闘は望めないだろう。
まだ生きているだけで驚嘆であるし、なんなら今の吹き飛ばされた衝撃で死んでしまってもおかしくない。
代わりの戦力はと周囲を見る。
“G.H.O.S.T”の隊員たちは統制も戦術的行動もなく、死霊に襲われ阿鼻叫喚だ。
あのダリオという男も気付けばいなくなっていて、近くにいるのは動揺を浮かべたエマだけだった。
その現状にミラーが爪を噛もうとした時――
「え――?」
――一周巡らしてから戻したミラーの視線の先に信じられないものが映る。
「――お、おい……っ?」
片手だけで身体を支えフラフラと立ち上がった弥堂に、アレックスは信じられないといった風に目を見開いた。
近くで諦めたように座り込んでいたビアンキも瞠目している。
「オマエ……、まだやる気なのか……? 片腕まで失くして……」
弥堂は気怠げにビアンキに顔を向け何かを答えようとしたが、バランスを崩して倒れそうになる。
どうにか踏ん張って体勢を戻した頃には面倒くさくなっており、結局何も答えなかった。
「勝ち目なんてねェぞ?」
続けてアレックスが声をかけてきたので、代わりにそっちを向く。
「そうだな」
「それでもまだ諦めねェのか?」
「諦めるのは戦場に来る前にやっとくことだ。違うのか?」
「そりゃあそうだが……、それでもやるのか?」
「止める理由がないからな」
弥堂は懐から“WIZ”を取り出そうとして、さっきので3本全部を使い切ってしまっていたことを思い出した。
舌打ちをする弥堂へアレックスが尚も問う。
「死ぬぜ?」
「そうしたら止める理由が出来るな。それより――」
弥堂はアレックスの座る場所のすぐ横に眼を動かす。
「――使わないんなら、くれよ。それ」
アレックスは弥堂が示唆した拳銃に手を乗せて、だが掴まずに質問を続けた。
「オマエは“G.H.O.S.T”や清祓課の正式な隊員ってワケじゃあねェんだろ? オレらと似たようなモンだ。なのに、逃げねェのか?」
「似たようなもんだから、戦うんだ」
「そこまでアイツらを守りてェのか? そんな風には見えねェが」
「あいつらのことなどどうでも……、待て。今なんて言った?」
「アン?」
バッサリと斬り捨てようとして、だが弥堂はアレックスの物言いに何か引っかかりを覚えた。
言葉を聞き返す弥堂にアレックスは怪訝そうな顔をして、もう一度言い直す。
「アイツらを守るために死ぬまで戦う義理なんざねェだろって、そう言ったんだ」
「あぁ……。そりゃないな」
しかし、もう一度聞いた言葉には特に何も思うところはなかった。
だからもう、話を終わらせにかかる。
「守るものを戦場に連れてくる馬鹿がいるかよ」
「オマエ……」
「似たようなもんだ。ガキを守る。その為に敵は全て殺す」
「……なんだよ。オマエもバカ野郎かよ」
アレックスは皮肉げに笑って、拳銃を拾って弥堂へ投げた。
弥堂はそれを受け取り、後は無言でこの場を離れる。
敵の居る方へと歩いて行った。
<――ユウくん!>
その道すがら、今度はエアリスからの念話だ。
「ダメだ」
用件は見当がつくので聞く前に却下する。
愛苗をこの場へ連れてくるということだろう。
<……それなら妥協するわ>
「妥協……?」
だが、エアリスは諦めたような声で提案を変えた。
<ネコにワタシをそこまで運ばせるわ。聖剣ならレイスにも攻撃が徹せる。それまでどうにか粘って>
「論外だ」
しかし、弥堂はそれにすら聞く耳を持たない。
「あいつの傍を絶対に離れるな。破ったらお前も敵だ」
<だけど……ッ!>
「クソネコとオマエが離れた間に何が来るかわからない」
<それは……ッ>
ついさっき、病院はゴミクズーの襲撃を受けたばかりだ。
あれが自然発生的なものなのか、意図的に送り込まれたものなのかはわからない。
だからエアリスは咄嗟に効果的な反論を思いつけなかった。
<でも……、ユウくん。アレに通じる攻撃手段が一つも……>
「どうでもいい。そこに居るんだ。殺せるだろ」
<……ユウくん。アナタはもしかしてまだ……>
「……【falso héroe】」
続きの言葉を聞くことを拒否するように、弥堂は自分を『世界』から引き剥がす。
その間だけは弥堂は『世界』の何処にも存在しない。
しかし、これは一時的なもの。
また『世界』に戻らなければならない。
地獄と化した戦場を突っ切って、弥堂は死霊と繋がる未だ実体を持ったままの人狼の躰の前に姿を現す。
もしもこちらが本体なのだとしたら――
その可能性を確かめる為に“零衝”を狙う。
だが――
左拳を当てて爪先を捻る前に、レイスが叫びをあげた。
「――っ⁉」
絶叫に呼応するように人狼の躰から数匹の霊体の蛇が伸びてくる。
弥堂に向かってきて大きく口を開けた。
弥堂は慌てて跳び退りそれを躱す。
一匹の頭が掠ると、ガクンっと膝から力が抜けた。
その隙を狙って、大きな獣の頭が迫る。
「くっ――!」
弥堂はそれをギリギリのところで躱した。
擦れ違い様にレイスの本体とも謂えるソレに試しに零衝を打ち込んでみる。
すると――
先程蛇の方に触れられた時と同様、霊体に触れると力が抜ける。
触れた箇所から体温を奪われるようにして脱力していった。
「これは……」
どういう現象なのかを考えようとした時、弥堂の手足に3匹の蛇がそれぞれ絡まる。
余った1匹は首に巻き付いてきた。
(マズイ――)
――と思った瞬間にはもう力が抜けていく。
霊体に触れるだけで魔力を奪われてしまうようだ。
身動きの出来なくなった弥堂の目の前に獣の顔が近づいてくる。
嬲るような目で弥堂を観察しながら見下し、そしてニヤァッと哂った。
牙と歯茎を剥き出しにしてニンマリと笑う。
生物的な要素など残っていないはずなのに獣臭が伝わってきた。
ジャッカルの形をした顔にまるで人間のような厭らしい表情が浮かんでいる。
それが酷く悍ましく映った。
ジャッカルの姿をした死神はもったいつけるように弥堂に流し目を送りながら「アァ~ン」っとゆっくり口を開ける。
歯と歯を繋ぐ涎が糸を引く様も霊体で表現された。
人間の恐怖を煽るための仕草なのだろう。
だから弥堂はその口の中にベッと唾を吐き捨ててやった。
『ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙――ッ!』
レイスは即座にぶちギレて口の中に弥堂を呑み込んだ。
すぐに上顎と下顎が閉じられる。
レイスの口の中から外の光景が透けて見えた。
弥堂の身を貫いているはずの霊体の牙は物理的な傷を齎さない。
しかし、急速に魔力が吸われていく。
<ユウくん! “魔力吸収”よ! 逃げて……ッ!>
「出来るものならな……!」
焦るエアリスを悪態でおちょくりながら、弥堂はどうにか藻掻こうとする。
しかし、ジャッカルの頭も蛇もどちらも振り払えなかった。
「クソが……!」
拳銃を人狼の躰に向けて発砲する。
弾は何発か当たったが、また頑強さを取り戻したようで毛皮に弾かれてしまった。
それがわかっていたようにレイスは嘲笑う。
「どうせ、吸われるなら……!」
――使い切ってしまえばいいと、弥堂は蒼い焔に全てを焚べた。
【燃え尽きぬ怨嗟】
爆ぜる怨嗟が死霊の怨念を焼く。
パンっと弾けるようにして獣の下顎を消し飛ばした。
レイスは弥堂から離れる。
だが、それは痛みやダメージからでなく、驚いてしまっただけのようだ。
何やら恨み言をブツブツと呟きながらその辺の兵士たちに蛇を食いつかせて魔力を吸う。
すると、欠けた霊体が徐々に戻っていく。
弥堂はそれを視ながらも、今も蛇に魔力を吸われ続けている。
不自然な速度で弥堂の肌が渇いていき、皮膚や唇が割れた。
その姿を愉しげに眺め、レイスは弥堂を床に叩きつけるようにして投げ捨てた。
「……っ、……ぁっ」
弥堂は喉も渇き切って呻き声すら漏らせない。
立ち上がるどころか最早身体に力を入れることも出来なかった。
レイスは可笑しそうに笑いながら、その弥堂の前で見せつけるようにして他の兵たちを殺していく。
どうやら嬲るつもりのようだ。
しかし、それに関してだけは無駄なことだった。
これまでに何万以上の敵や味方の死を視てきた弥堂にとって、今から何人何十人が死のうとも誤差に過ぎないからだ。
只人が死ぬというだけの現象に今更新たに思うことなど何も無い。
だが――
「――マッドドッグッ!」
「ダメよジャスティン……!」
――こちらへ走ろうとするミラーと、それを止めるエマの姿が見えた。
(なるほど……)
弥堂自身に効果がなくとも、ああいった間抜けを誘き寄せる餌にはなるのかと得心する。
(だが――)
それもやっぱり意味が無いと断じた。
何故なら、弥堂には――
(味方などいない――)
――こういった窮地にかけつけるような者など用意していないからだ。
魔力は生命力だ。
それがなくなれば気力もなくなり活力も失せる。
そして涸れ尽くせば生命も尽きる。
弥堂は残った力を振り絞って拳銃をコメカミに近づけた。
虚弱状態に陥ったとしても死ねば――
<――ダメよユウくんッ!>
――『死に戻り』を使おうとしたが、エアリスがそれを止めた。
随分と切羽詰まった声だった。
<魔力が空なの……! 今死んだら『死に戻り』は多分起動しないわ……ッ!>
「チッ」と舌を打とうとして音が鳴らない。
どうやら八方塞がりのようだ。
そして――
<もう、ワタシとの念話も――ッ>
言葉の途中でプツッと切れる。
――とうとう本当に魔力が尽きてしまったようだ。
【身体強化】【治癒強化】の刻印も停止する。
筋肉が緩み、各所の傷口から血が漏れるように流れ出した。
(判断、ミス、だ……)
レイスに仕掛ける前に『死に戻り』を使っておくべきだった。
迂闊に霊体に触れるべきではなかった。
残った魔力は【燃え尽きぬ怨嗟】ではなく【falso héroe】に使って逃げるべきだった。
何ならこの戦場には聖剣を持って来るべきだった。
などと――
――枚挙に暇がない。
今までとは違って、今の弥堂は完全にはいつ死んでもいいとは考えられない。
死ぬこと自体は構わないし惜しくもないが、今は愛苗を守るという目的がある。
そのため、どうしても今居る戦場の先のことを考えなければならない。
だが、それは余分な思考なのだ。
(出し惜しんだ結果がこれか……。相応しい死にざまかもな……)
視界が上から幕を下ろすように黒くなっていく。
『――ユウキ!』
エアリスではない女の声。
聞き慣れていたその声を聴いて視界に光が僅かに戻る。
床に頬を擦って当てずっぽうに顔の向きを動かす。
するとそこには――
『“神薬”を使いなさいユウキ……!』
――ひどく焦燥した顔の彼女が居た。
「……エル……? 魔力なくてもお前は……」
魔力はもう尽きて魔眼も機能していないはずだ。
なのに死霊よりもずっと実在しない彼女が何故見えると不思議に思う。
『いいから早くっ!』
だが、その答えはもらえず、弥堂は叱られてしまった。
切羽詰まったエルフィーネの顔と態度に弥堂は思わず笑ってしまった。
エルフィーネは普段は能面のような無表情で、抑揚のない声で喋る。
弥堂も人のことを言えたものではないが、しかし弥堂は彼女のそんなところがあまり好きではなかった。
それは教会が彼女に被せた仮面だからだ。
だからと言いたくはないが――
弥堂は彼女を怒らせたり焦らせたりすることが好きだった。
その時だけは欠けた仮面の隙間からその下の素顔を覗けた気がしたから。
それがバレるとその隙間すら埋められてしまいそうだから本人に伝えたことはなかった。
表情が動いたことで頬が罅割れ、唇も裂けてしまう。
下唇に滲んだ血を舌先で舐めとる。
その潤いで最期に彼女と話す力だけ戻ったような気がした。
『なにを笑っているのです! “神薬”がまだあるでしょう!』
「あ……?」
そういえば、押し入れで見つけた何時の物かも定かではない飲みかけの“馬鹿に付ける薬”を持ってきていたことを思い出した。
「はや、く……、言えよ……っ、クソが……っ」
『あ、貴方はこんな時にまでそんな口を……っ。もういいです……! あとでいくらでも謝ってあげますから……っ! だからおねがい! はやく……っ!』
驚き呆れて悲しみ諦める。
だけど泣かれるのは嫌だなと、弥堂は緩慢な動作で懐に手を入れた。
“WIZ”とは別に内ポケットに突っ込んでおいた小瓶を取り出す。
結構な衝撃を何度も身体に受けたが――
「よく、割れなかったな……」
――“馬鹿に付ける薬”の入った小瓶は無事だった。
瓶の半分ほどを埋める液体がチャポンっと揺れる。
『ユウキ! はやく! しんじゃう……っ!』
「うるせえな……、今やろうとしてんだろ……」
今度は割と本気で苛つきながら、弥堂は瓶に封をしているコルクを噛んだ。
力の入らない手と顎を叱咤しそれを引き抜こうとする。
しかしその時――
何か危険を感じ取ったのか、死霊がまた絶叫を上げて弥堂を吹き飛ばした。
「――ぐ……ぅっ……!」
『ユウキ――ッ⁉』
弥堂は成す術もなくまた床を転がされる。
受け身を取る力もなく、何度も頭を床に打ち付けると手から力が抜けた。
近くに置いていた拳銃は床を滑り、手に在った小瓶は宙を舞う。
そのどちらも同じ方向へと飛んで行った。
倒れながら弥堂は視線の先に右手を伸ばそうとした。
だが、右腕はもうそこには無い。
先には福市博士が居た。
「ひ――っ⁉」
床を滑ってきた拳銃が爪先に当たり彼女は転んでしまう。
しゃがんで何かをしていたのか、驚いて尻もちをついた。
弥堂が倒れる方へ向けて股を開く形で尻を床につける。
その脚の間に、宙を飛んできた小瓶が落ちてきて床に当たって砕け散った。
まるで失禁でもしたかのように、博士の股の前に麻薬の水溜まりが出来上がる。
『あぁ……っ⁉』
エルフィの悲愴な声を聴いて、身体からいよいよ最期の力も抜けていった。
これで今度こそ打つ手はなく、終わりだ。
『ユウキ……っ!』
途端に瞼が重くなる。
眠るように視えるものを閉ざそうとする。
きっとこれは醒めない眠りで。
目醒めなくてもいい眠りだ。
誘うように、迎えるように、歓ぶように――
死霊が嘆きを謳う――
「――うるせえ……っ。知った風な……っ」
それへの反発心から無理矢理瞼を開ける。
だが――
『ユウキ……、ユウキ……っ! ダメ! だめです……っ!』
――だけど、暗くてもう何もみえない。
「……エル……、おまえ、どこに……」
朝でない時間は夜。
夜はずっと昔から明けないまま続いている。
夜は暗いから。
だから火を灯して明かりを。
「ルヴィ……、たのむ……」
本当に最期の最後の――
僅かに残った生命を焚火にくべる。
左手の指先に小さな蒼い火が灯る。
その明かりで彼女の姿を探す。
もしもそれが叶うのなら。
最期は彼女を見つめていたいから。
小さな火が暗闇の中に彼女を浮かび上がらせる。
僅かな光が、メイド服を着た年上の少女を照らした。
だけど、その火はすぐに縮んで何もみえなくなってしまった。
今度の最期も。
やっぱり彼女は泣いていた――
その死を。
別れを。
死霊が悼む。
その痛みに泣きながら嗤う。
せめて死後は迷わず歩けるよう。
死霊は彼の――彼女の嘆きを謳う。
ーーー
Tine, tine
Go lonraí an tine do shlí go lár an tSolais síoraí,
Ag dó an croí a fhágtar,
Ionas go mbeidh do sheoladh saor.
火を、火を
あなたの逝く先を永遠の光の中心へ照らし、
残された心を燃やし、
あなたが自由に旅立てるように。
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Seo an pháirc chatha —
Seo do chríoch, a ghrá.
Tá deatach fós ag éirí as an gcré,
Sin tine a d’ith do chroí.
ここは戦場だ—
ここがお前の終わり、愛しい人よ。
まだ土から上がる煙がある、
それはあなたの心を食い尽くした火だ。
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An Bás, an Bás
Gan eaglais, gan sagart,
Croí fágtha gan slí abhaile,
Ní thiocfaidh sé choíche ar ais.
死よ、死よ
教会も聖職者もない、
心は帰る道を失い、
二度と戻ることはない。
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Seo an pháirc chatha —
Críochnaíodh tú, mo stóirín.
Agus anseo, fanfaidh tú—
I bhfothain an laistigh den tine nach múchfar.
ここは戦場だ—
終わったのだ、愛しい人よ。
ここにいる、
消えぬ火の残り火の中に。
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Tine, tine
Dóigh na rianta, na cuimhní, na rudaí a cheanglaíonn,
Gan mearbhall, gan fánaíocht,
Ionas nach bhfillfidh do spiorad ar ais.
火よ、火よ
痕跡や記憶、縛り付けるものを焼き尽くし、
迷わず、彷徨わず、
魂が帰らぬように。
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Tine, tine
Chaill tú mise, agus fágadh tú sa dorchadas,
Gan solas sa teach, gan fuaim ach do anáil féin.
Lig don tine dul tríd na ballaí,
Chun do bhrón a ghlanadh — agus mise a mhothú fós ann.
火よ、火よ
あなたは私を失い、闇に置き去りにされた、
家には光がなく、息遣いだけが響く。
この火を家中に通わせ、
あなたの悲しみを清めさせて——そして私はまだここにいる。
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Cuir do lámh chugam,
Bain teagmháil liom,
Mothaigh mé sa tine seo.
手を差しのべて、
私に触れて、
この火の中に、私を感じて。
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Tine, tine
Is róbheag mo lámha,
Ní choinníonn siad an fhuil a shileann,
Má mhaireann an pian,
Glac an tine seo —
Agus lig dúinn codladh go síoraí, le chéile.
火よ、火よ
私の手は小さく、流れる血を受け止めきれぬ、
もし苦しみが続くなら、
この火を抱きしめ、
共に永遠に眠ろう。
ーーー
魂は導かれる。




