1章10 Shoot the breeze ⑦
しかし、そんな時間の終わりを告げるチャイムの音がスピーカーから流れる。
その音にハッとなった少女たちはイソイソと自分の荷物を片付けて自席へと戻っていく。
まだいがみ合っている希咲と弥堂を置いて。
二人を見守る水無瀬さんの表情がハラハラとしだした。
「ちょっと! 乱暴に髪つかまないでっ! せっかく愛苗がなおしてくれたのに乱れるでしょ!」
「嫌ならとっとと離れろ。なんで頭押し付けてくんだよ、鬱陶しい」
「うっさい! あたしから止めたらなんか負けた気がしてムカつくのよ! あんたがそこどけ!」
「お前自分がなに言ってるかわかってんのか」
「そんなのわかってるわけねーだろ、ぼけぇー!」
段々とヒートアップし、ついには臨界まで怒りが高まった希咲は自分も手を伸ばして弥堂の顔面に掴みかかった。
「いてーな。おい、顏に爪をたてるな」
「うるさいっ! イヤなら離れればいいでしょ! このクソやろー!」
「お前がどけ。あまりナメた真似をするなよ、クソガキが」
「ガキはあんただっつってんだろ! ばかばかばーーっかっ!」
「やっぱガキじゃねーか。わけのわからんことばかり言って暴れるな」
「あんたが悪いんでしょ! 大体なんでこんなわけわかんないことになるわけ⁉ 絶対あんたのせい!」
「言いがかりをつけるな。お前が悪いんだろうが」
「あんたが絡むとわけわかんないことになるんでしょ! 昨日だってそうじゃん! あやまって!」
「しつこいぞ。大体それはこっちの台詞だ。お前と関わるまでこんなクソッタレな状況にはなったことがない。お前のせいだ、謝れ」
「誰があやまるかー! 変態っ! むっつり! 痴漢やろー!」
「うるせーんだよ、このメンヘラが」
「誰がメンヘラだぁっ⁉ このっ――もがぁっ⁉」
キャンキャンと喧しい希咲を黙らせるために、弥堂は彼女のおさげを掴んでその口に突っ込むという暴挙にでた。
そのせいでより一層熱くなった希咲は言葉にならない声をあげながら弥堂の顔面をぺちぺちしたり引っ掻いたりする。
そのまま二人でグイグイ身体を押し付け合いながら争っていると――
「――またやってるのかお前ら。実は仲良かったのか?」
横合いからそんな声が挟まれる。
それに気を取られたせいか弥堂の力が緩んだので、その隙に希咲は口内に突っ込まれていた自身のおさげを引き抜き、「ぷはぁっ」と喘ぐ。
そしてすかさず食ってかかった。
「誰がこんなヤツとなかよしかーーっ! 目ん玉腐ってんじゃないの⁉ ぶっとばされたいわけっ⁉」
威勢よく罵りながら首を回すが、その闖入者の姿を目に写した途端に勢いを失う。
そこに在ったのは肉塊だ。
肉の巨魁。
しかしそれは肥え太った肉ではなく鉄のように鍛え上げられた肉。
まるで大きさの違ういくつかの鉄球を繋ぎ合わせて人体を模ったかのような頑強な出で立ちから生じる圧迫感に、所詮はか弱いJKでしかない希咲は怯えた。
サァーっと顔を青褪めさせ同時にドッと冷や汗を流す。
この場に現れたのは、2年B組のこの後の授業である数学を担当する権藤先生だった。
「ぶっとばされたくはないな」
権藤はその並みの数学教師では至れない屈強な肉体をのそりと動かし二人に近づこうとしたが、女生徒である希咲が怯えていることに気が付きコンプライアンスの観点から立ち止まった。
権藤先生はプロフェッショナルな教師だ。
いかなる時も自身のキャリアに傷をつける可能性のある事柄には近づかない。
だが、そうとはいえ――
権藤はチラリと希咲の手を見る。
弥堂のような男子生徒の胸倉を掴みあげて怒鳴りつけるような威勢のいいギャルが、自分の姿を見ただけでこのように怯えた態度に変わるのは少々心にクルものがあった。
あらゆる負荷にも耐え抜きどれだけ筋線維を太く束ねようともメンタルは傷つくのだ。
権藤はその現実に己の鍛錬不足を自覚し、日課のトレーニングのメニューを増やすことを密かに決める。
「あっ……あのっ……その、あたし…………」
怯え混乱する女子生徒に対して、権藤は無言で、しかし彼女を刺激しないようにゆっくりと教室内の壁掛け時計を指差す。
教師の導く先に視線を動かした希咲は現在時刻を認識する。
午後の授業はとっくに始まっていた。
ようやく自分が授業開始のチャイムにも気付かないほどに熱くなっていたことを自覚した希咲はハッとなり周囲を見回す。
ついさっきまでそこらへんで茶化すようなことを言っていた女子4人組はいつの間にか居なくなっていた。
すぐ背後で自分へ向けて片方のお手てを力なく伸ばし、もう片方のお手てを口元に添えてあわあわしている親友の姿に気が付いた。
彼女を見て七海ちゃんはふにゃっと眉を下げた。
彼女を見て愛苗ちゃんもふにゃっと眉を下げる。
教室内をよく見れば自分たち3人以外の生徒は全員着席をしている。
希咲の記憶では教室内の生徒は疎らだったはずだが、クズ男といがみ合っているうちにいつの間にか全員戻ってきていたようだ。
当然その中にはさっきまでここに居た女子4人組もいる。
あれだけ自分たちの諍いを面白がっていたくせに、彼女らはあっさりとこちらを見捨てて自席へと戻っていた。
しかし彼女たちは責められない。
女子とはそういうものだし、そもそも授業が開始する時には席に着いているのがルールだ。これは明らかに希咲の過失だ。
そして、ここまで気が付かないようにしていたが、そろそろ限界だ。
教室内を見渡すと全ての目が自分たちへ向いている。
その目玉のほとんどに宿る好奇の色に希咲は身を縮こまらせた。
そうすると無意識に今まで身を寄せていたものに、より強く身体を密着させてしまう。
自身の肌に伝わる違う温度と骨ばった感触に、内心ではもう気付いてはいるけれど、ワンチャンに賭けてその正体を見る。
無表情ヅラに貼り付いた湿度ゼロの瞳が自分を冷酷に見下ろしていた。
希咲の羞恥メーターが一瞬でレッドゾーンへ振り切る。
再びハッとなった希咲は慌てて弥堂をドンッと突き飛ばす。
その細い肢体の見かけによらず割と力の強い彼女に強く押された弥堂はよろけ、すぐ近くにある自席の天板の角が腿の筋線維の隙間に突き刺さり激しく苛ついた。
「希咲」
権藤が彼女の名を呼んだのは咎めるためではなく、弥堂が希咲へ何か報復行動に出るのを牽制するためだ。
しかし、教師の心知らず、生徒である希咲はビクっと身体を震わせるとその形のよいアーモンド型の瞼を歪め、じわっと涙を浮かべる。
「――ご……」
「…………ご?」
「――ごめんなさいぃぃぃぃっ‼‼」
もう授業が開始されている他の教室にまで響き渡るほどの音量で、希咲は心からの謝罪の言葉を絶叫すると、両手で顔を覆いワッと泣き出した。
権藤先生と弥堂は白目になった。
やがて、水無瀬に一頻りよしよしされて泣き止んだ彼女は自席へ戻っていく。
弥堂は自席に座り、痛む腿を擦りながら数学の教材を机に並べる。
その作業をしながら、遠くの出来事のように聴こえる彼女らの会話が耳から微かに這入ってきて、勝手に記憶に記録される。
野崎さんの号令がかかり、授業が開始された。
権藤の野太い声で読み上げられる魔法の呪文のような数式を聞き流しながら、それから意識を逸らすための無自覚の逃避なのか、希咲と水無瀬の会話を視る。
なんでもないような会話。
二人の少女がただ約束を確認するだけのやりとり。
「旅行終わったら」「ちゃんとお話しようね」「お泊り」「来月の」「いつかね」
次の日が。次の週が。次の月が。
いつかが来ることが当たり前の者たちの会話。
自分にはそのいつかが訪れることが当然だと思いもしていない。
そうでない可能性を考えもしないほどの、今の日常の先にある未来への信仰。
平和に惚けているし、暢気なことだとも思う。
しかし、そんな彼女たちが普通であり、そうであることが当たり前の生活を送っていることが正しいのだ。
そうは考えられない自分が普通でなく、それが当たり前だと感じられない自分の方こそが間違っているのだ。
教室内に響く権藤教師の声に少し疲労が滲んでいるような気がする。
気のせいだ。




