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じしゃくちゃん

作者: 天透 奎

最後の授業が終わって、ホームルームが終わって、やっと開放された、って気だるげな空気で満ちた教室を出て廊下を歩いて、溝に埃が溜まった階段を降りて、靴箱で上靴からローファーに履き替えた時、いつのまにかその子は隣に居る。右腕にぴっとりくっついて、じっとこっちを見ている。長くて癖ひとつない黒い髪、もう夏も近いのに学校指定の薄鼠色のセーターを着ていて、白い肌の上にちょんと乗っかった二つの目は瞳孔も見えないくらいに濃くて、水の一滴も混じっていない墨みたいだけど、視線の先にいるのは自分だとはっきり分かる。

私はその子と歩き出す。セーターと同じ色の雲がのっぺり乗っかった空は、ここのところずっと太陽を隠している。


「雨、降るかな」

私はその子に話しかける。返事はない。頷いたり首を振ることもしない。私はその子と、意思疎通をしたことがない。

「ずっと雨か曇りだもんね。梅雨、早く明けるといいね」

その子が何も言わなくても、私は話し続ける。もう慣れていたし、それに肯定も否定もされないから、他の子みたいに気を使って話を合わせる必要がなくて、私にとっては楽だった。その子も離れずにずっと隣にいるから、多分、嫌ではないんだと思う。

駅まで十五分。長いような短いような道をその子と歩いて、私が一方的に話し続ける。それが始まったのは一週間くらい前。それまで私はその子のことを知らなかったし、学校で見たこともなかった。いや、今も私は、その子について何も知らない。帰りの玄関以外で見かけたこともない。


駅に着く。私とその子は同じホームに向かう。いつも同じ電車に乗るのだ。出会ったあの日までは同じ電車に乗っていたなんて知らなかったし、見かけたこともなかったけれど、今では当たり前のように一緒に乗る。

「もう少しで、電車来るね」

電車が参ります、の文字が点滅しながら光る。聞き慣れたアナウンス。危ないですので、黄色い点字ブロックまでお下がりください。まもなく電車が…

遠くから車輪の重い音。同時に、トッ、と軽い足音と、隣から離れていく体温。

その子は、ふらふらと前に進んで行く。誰も見向きもしない。進んで、進んで、足先が点字ブロックを越えそうになった。

「危ないよ」

セーター越しのその子の手首は、折れてしまいそうなほど細い。でも、決して折れないことを私は知っている。あの日、動転して強く引っ掴んだ時も、大丈夫だった。

その子は足を止めて、振り返る。真っ黒い瞳でじっと見つめてくる。電車がホームにすっぽりと収まっていく頃には、その子はもう私の隣にくっ付いていて、離れない。

私はその子の名前を知らない。ずっとくっ付いているのに、突然引き寄せられるみたいに、ふらふら線路の方に向かったりする、その子。

私はその子をじしゃくちゃんと呼んでいる。



じしゃくちゃんと初めて会ったのも、ぼんやりした曇りの日だった。

駅のホームでぼうっと電車を待っていたら、隣に女の子が立っていることに気づいた。もう暑いのに、なんでまだセーターを着ているんだろう。そう思いながら彼女を見つめていた。

ぴくりとも動かずじっと線路を見つめるその子。しばらくして、電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。車両の頭が遠くから迫ってくる。

あっ、と声が出た。女の子が、覚束無い足取りで前へと進み出した。爪先が点字ブロックに触れて、通り越そうとしている。周りの大人達はスマホの画面を見たり、どこ吹く風と遠くを眺めていた。どうして誰も止めないの、と混乱しながらも、その場でただ立ち止まっている自分も例外ではないと気づく。誰かじゃない、私が止めなくちゃ。特段正義感がある訳でもないのに、その時だけは強くそう思った。

片足が完全に線路内へ踏み入ろうとした瞬間、ぐいっ、と力を込めて彼女の腕を引っ張る。その身体は想像の何倍も軽く、全体重をかけて引き寄せていた私は、彼女の身体と一緒に勢いよく後ろへ倒れ、尻もちをついていた。

周りからの不審がる視線が刺さったけれど、私の目には無事助け出せた少女と、その後ろを駆けていく電車だけが映っていた。あと一秒でも遅れていたら、きっと彼女は助からなかっただろう。

「大丈夫?」

その子の下敷きになって座り込んでいる私がそう聞くのもおかしな話だが、声をかける。返事はない。

「あ、そうだ腕、強く掴んじゃったけど、怪我してない?」

返事はない、けれど特に痛がる素振りもないから、きっと折れていない。奥から扉が閉まる音がして、乗れなかったな、と少しだけ落胆した。

女の子がゆっくり起き上がったのに合わせて、私も起き上がる。彼女は、線路を見つめていたのと同じようにじっと私を見つめている。

この子は、私に何を求めているんだろう。ふらついていたから不注意だったのか、それともこの子の意思で線路に身を投げたのか。引き止めた私に怒っているのか。けれど、止めたことに対して謝るつもりは無い。正しい行いをしたんだ、と自分の中で確固たる自信があった。

「何があったのかは知らないけど、良くないよ。私で良かったらさ、話聞くよ」

我ながら陳腐な言葉だと思った。でも何もしないより、きっとマシ。このまま別れて、次の日この子が飛び込んでしまったら、一生後悔するだろう。

彼女は怒るでも泣き出すでもなく、ただじっと視線を合わせ続ける。ふいに、ふらり、とよろけるようにして、彼女が近付いてくる。今度は線路の方じゃなくて私の方に、セーターに包まれた華奢な身体が引き寄せられる。そのまま、ぴったりと右腕にひっついた。

「えっと、あの」

ちょっと身を捩ってみても、離れない。あんなに軽かったのに、ちっとも動かないのだ。

投げかけた言葉への返事は一向に返ってこないけれど、懐かれた、のだろうか。不思議な子だ。あっちへこっちへ引き寄せられて、ぴったりくっついてきて、まるで磁石みたい。

「ねぇ、名前は?」

口はぴくりとも動かない。もしかするとこの先も、私はこの子の名前を知ることはできないかもしれない、と思った。

私はこの子をじしゃくちゃんと呼ぶことにした。



じしゃくちゃんと一緒の電車に乗る。降りる駅まではそう遠くないから、席に座ることはあまりなかったけれど、じしゃくちゃんと乗るようになってからは二人分空いた隣り合わせの席を見つけて座るようになった。座ってからも、じしゃくちゃんは私の方に寄りかかってくる。重たいよ、なんて茶化してみても、返事はない。本当はふんわり軽くて、乗ってる感触も全然無いくらいだ。

ここでじしゃくちゃんに聞いたことは沢山ある。学年は?クラスは?好きな食べ物は?嫌いな食べ物は?得意な科目は?

片っ端からなんでも質問した。一つでも分かれば、じしゃくちゃんのことが読み解ける気がした。でも段々、話す内容は質問から、学校であったことや家族への愚痴へと変わって、一方的に私が話すようになった。

誰にも打ち明けられないことを、じしゃくちゃんは聞いてくれる。相槌も同情も、無くていい。寧ろそれが心地良い。

「学校にいるのが、疲れるの。皆に合わせて笑うのも、お喋りをするのも。家では勉強のことばかり問い質されて。このまま、もっと遠い場所まで乗り越してみたいな」

そんなことをする度胸は無いけれど。でも、一人なら怖くても、二人ならどうだろう。じしゃくちゃんならどこへだって着いてきてくれるかもしれない…いや、じしゃくちゃんは電車を降りる時は着いてこない。じっと座ったままだ。私より先の駅で降りるらしい。そうだ、ならいっそ、今度は私がじしゃくちゃんに着いていってみようか。

「ねえ、いつもどこの駅で降りるの?」

やっぱり返事はない。けれど、どこか分からなくたって、降りようとしたところで一緒に降りればいいだけだ。

「私、ここじゃないどこかに行ってみたいの。ね、明日、私も同じ駅に降りてみていいかな」

じしゃくちゃんの無言はいつだって肯定だ。私がそう思いたいから。

何度も聞いて辟易する、自分の降りる駅のアナウンス。私は立ち上がる。どうしてこの時だけ、じしゃくちゃんは私を手放してしまうんだろう。もしも名残惜しげに袖を掴んでくれたなら、私はこの席に座ったまま、どこまでも逃げ出してしまえるのに。

「じゃあ、また明日」

じしゃくちゃんはただ、じっと私を見つめている。


次の日、じしゃくちゃんは靴箱に現れなかった。

思えば私が靴を履き替えたらすぐに隣に居たから、じしゃくちゃんを待ったのは初めてだった。あの長い髪も、セーターも、真っ黒な瞳も、どこにも見当たらない。

今日は休みだろうか。学年もクラスも知らないから確認する術もない。仕方なく一人で駅に向かう。

今日の空はいつもより少しだけ明るい。雲の隙間からは、もう少しで太陽が顔を出しそうだ。道に咲いた紫陽花からは僅かに活気が失せている。

あんなに明けて欲しかった梅雨が、まるでじしゃくちゃんと一緒に遠ざかってしまったみたいで、寂しかった。着いて行きたい、そう言ったのがいけなかったのだろうか。本当は嫌だったのに断れなかった、とか。

知らないうちにじしゃくちゃんを困らせていたかもしれない、と思いながらも、気づいたら私は、彼女に会いたいと、そればかり願っていた。ぴったりとくっついてくる感触が恋しい。それなのに一日でも触れないだけで、それがさっぱり思い出せなくなる。重みがあったのか、体温があったのか。私は彼女と、本当に一緒に帰っていたのか。

十五分はこんなにも短かったんだ、と驚くくらい、あっという間に駅に着く。一人では遠くに行けない。今日もいつも通りの駅で降りることになりそうだ。わざとらしくいつもよりゆっくりとした足取りで、ホームに向かう。


ホームに、線路をじっと見つめる少女を、もうすっかり見慣れたじしゃくちゃんの姿を見つけた時、私は思わず駆け出していた。

今日は先に駅に来てたんだ。あぁ、また線路を見て。私が引き止めてあげないと。まもなく三番のりばに列車が参ります、のアナウンス。危ないですので、黄色い点字ブロックの内側に…

「ほら、下がらなきゃ」

前へと進もうとする彼女の腕に、手を伸ばす。


じしゃくちゃんがくるりと振り返る。長い黒髪がふわりと棚引く。

伸ばした手は逆に掴まれた。思わずふらつくと、もう片方の手もぎゅっと握られて、私たちは両手を結んで向かい合う。

じしゃくちゃんの身体が後ろへ倒れて、私の身体の重心は彼女の胸に飛び込むように、前のめりに傾いていく。宙ぶらりんのふたつの身体。どこか遠いところから聞こえる、雑踏と車輪の音。


じしゃくちゃんが初めて、にっこりと笑った。


「危ない!」

甲高い女性の声と共に、思いきり身体が後ろへと引き寄せられる。その瞬間、人のざわめきと、耳を裂くような警笛の音が、突如として襲いかかってくる。

目の前に勢いよく電車が飛び込んできた。

徐々に減速し、止まっていくそれを、私は呆然と見つめていた。

「貴方、何してるの!」

茶髪のショートヘア。鈍色のスーツ。力強く肩を掴み揺さぶってくる。この人は、誰だろう。あの子じゃない。あの子は、どこへ。

「ふらついてたけど、不注意?それとも…」

「あの、じしゃくちゃんが」

「え?」

「友達が、友達が線路に」

女の人は、怪訝な表情を浮かべた。


「線路に飛び出したのは、貴方だけよ?」


暫くして、ホームに駅員さんが来た。女の人が呼んで来てくれたらしい。

「君が、線路に飛び出した子だね」

「あの、じしゃくちゃんが」

「じしゃくちゃん?」

「友達が、いつもふらふら、線路に引き寄せられる友達がいるんです。それで私、その子に手を引かれて。あの、じしゃくちゃん、私より先に、線路に飛び出してるはずで、でも電車は普通に通り過ぎて」

「あぁ。きっと、その子は幽霊だね」

駅員さんは表情ひとつ変えず、当たり前のようにそう言った。

「君を連れていこうとしたんだ。自分がいるのと同じ場所に」

「違います!じしゃくちゃんは幽霊なんかじゃ」

そんな訳がない。だって、いつも一緒に帰っていた。あの日出会ってから、学校から駅までの道を、ずっと二人きりで歩いていた。突然の出会いだったけれど、何も話してはくれなかったけれど、彼女のことは何も分からないけれど、それでも。

「…あ」

歩いていた、その風景が頭に甦る。湿ったコンクリート。フェンスに絡まる雑草についた細かい水滴。ずっしりと重い、梅雨の曇り空。

私はじしゃくちゃんの影を、一度も、見たことがなかった。

「…五年くらい前の、秋頃だったかな。君と同じ学校の女子生徒が、ここの駅で線路に飛び込んで、電車と接触して亡くなった事故があった。きっとその子じゃないかな」

季節外れの長袖のセーター。いつもの行動。心は受け入れることを拒んでいるのに、点と点が繋がっていく。

「たまにね、あるんだよ。駅で亡くなったはずの人が、突然現れる。彼等はきっと心のどこかで、自分のことを見つけて欲しかったんだ。君は、その女の子を見つけた。同い年の子が、自分を見つけ出してくれたことが嬉しくて、その子は君をここから連れ出そうとした。自分がいる世界に」

じしゃくちゃんは聞いていた。ここじゃないどこかに行きたい、じしゃくちゃんと同じ駅で降りたい。だからじしゃくちゃんは、自分の居場所に、私を連れ出そうとした。

「私、またあの子に会えるでしょうか」

「それは分からないけど、でも、会わない方がいい。君とその子の世界は、本当は交わってはいけないものだからね。生きる者は生きる者の世界で、どうにか息をしていかなくちゃいけない」


雲間から光が差す。薄ら青い空が透けて見える。明日からは天気も晴れて、曇天は暫し息を潜めるのだろう。微かな光なのに眩しくて、眩しくて、私は手で目を覆う。一滴だけ、頬に流れた雫の感触は、きっと梅雨の名残だろう。


じしゃくちゃんを見つけることは、もう二度となかった。

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