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愛されることはないようなので軌道修正しますね

作者: 初春餅

 淡い光が差し込む荘厳な礼拝堂で、エドゥアール・ブフィエは不本意ながら結婚証明書に署名した。


 王国きっての名門、ブフィエ公爵家の嫡男という生まれの良さと、品の良い優しげな美貌。


 その一方で、進歩的な考えと、外見に似合わぬ鋭い舌鋒の持ち主として知られる彼は、それ故か、未だ若輩の身でありながら、官僚たちから政策に関する意見を求められることもしばしばであった。


 美貌、家柄、才覚。


 すべてを兼ね備えた完璧な貴公子。


 ステンドグラスが描く複雑な文様を頬に落としながら、エドゥアールは傍らに立つ花嫁を冷ややかに見やる。


 彼に続いて署名するのは、第六王女オドレイ――今日からはただのオドレイである。


 羽ペンを持つ指先も、ペン先から流れ出る署名も、成程確かに優美ではあるが、王族ならばそれくらいは当然であろう。


 ヴェール越しに見る横顔も、エドゥアールが思っていたよりは美しいようだったが、恐らくはヴェールの効果で、三割増し程度には美人に見えているのだろう、と意地の悪いことを考える。


「では、誓いの口づけを」


 大司教に促され、エドゥアールはヴェールの上からオドレイの頬に儀礼的な口づけを与えた。


 慣例として、ヴェールは初夜の床で花婿に外されるまでつけたままである。


 下らない慣例であった。






 ブフィエ公爵が自慢の息子に向かってしみじみと、噛みしめるように告げたのは、半年ほど前のことである。


「オドレイ王女が当家に降嫁されることとなった」

「誰ですかそれ」

「馬鹿者!」


 父公爵が何故そこまで嬉しそうなのか、エドゥアールには理解できなかった。ブフィエは今更、王族の降嫁をありがたがるようなぽっと出の家でもあるまいし。


「王の掌中の珠たるお方をお前にと言ってくださっているのだぞ。お前を見込んでのことであろう」


 王家の末の娘、第六王女オドレイのことなら無論エドゥアールも知っていた。常に王宮の奥深くで過ごし、公式行事にも滅多と顔を見せない、影の薄い王女としてである。


 自ら引きこもっているのか、意に反して押し込められているのか、さすがにそこまでは知らなかったが、王が彼女を溺愛しているという話はついぞ耳にしたことがなかった。


「王女は大変大人しい性格の方らしくてな。あまりきつい物言いをして、怖がらせぬようにしなくては。その点、お前は少々……」


 存在感のない王女になど、今までさしたる興味もなかったが、我が身が巻き込まれるとなれば別である。エドゥアールは父の言葉を遮って尋ねた。


「王女はあまり表に出てこられませんよね。何か理由があってのことでしょうか」

「上に五人も姉君がいるのだ。敢えてご臨席が必要な場というのもなかったのだろう」


 言い換えれば、社交は期待されてこなかったということだ。


 だが、王女は今年十七歳のはずで、その歳になってもまだ期待されていないというのはどういうことなのか。


 第一王女がそれくらいの歳の時には、晩餐会で隣り合った外国の特使とその国の言葉で流暢に会話し、感激させたという話が残っている。


「王女というお生まれなのに、オドレイ殿下は他国へ嫁ぐというお話のひとつも出ていなかったのですか」

「そうだな……。王も最愛の末娘を、外国にやるのは忍びないのかもしれぬな……」


 父の人の好いこと、心配になるほどであった。


 エドゥアールの怜悧な頭脳はとっくに別の答えを導き出している。オドレイ――王家に生まれながら、政略結婚の駒にもなれぬ、愚鈍で頼りない娘。


 恐らくは甘くし過ぎて駄目にしてしまった末娘を押し付け、その上恩も売ろうという魂胆であろう。


 冗談ではなかった。


 エドゥアールにはこの時既に、互いに憎からず思い合う令嬢がいたのである。


 ブフィエより家格は落ちるが、それでも名門の家柄で、いつも知的な刺激をくれる聡明な人だった。生涯の伴侶は彼女以外考えられない、そろそろ双方の家に話を、と思っていた矢先の降って湧いたような縁談であった。


 だが、エドゥアールに拒否権などない。


 あっという間に話は進み、王女との初顔合わせの日になった。


 恐れ多くも公爵邸にお出ましになった王女殿下は、夫となる相手に顔を見せぬよう、薄いヴェールを被っていた。古いしきたりの名残だったが、今では高位貴族の間でさえ廃れている慣習である。それを守っているということが、王族の王族たる所以であったが、エドゥアールには三歳下であるという彼女が古い時代の遺物に見えた。顔合わせとは名ばかりの茶番に辟易し、彼は体調不良と偽って早々に退散した。


 その後も何度か懇親の場を設けられそうになったが、エドゥアールはその都度のらりくらりとこれを回避した。顔を合わせればお小言を言われると分かっていたから、父からも逃げ回った。


 そうして迎えた婚礼の日。今夜はもう逃げられない初夜である。


 エドゥアールは屠殺場に連れていかれる家畜さながら、暗澹たる気分で花嫁の待つ寝室へと向かった。


 体に染みついた礼儀でドアをノックし、返事も待たずにドアを開ける。


 薄暗がりの中、慣例に従いヴェールを被ったままのオドレイが寝台の端に座っていた。衣装は純白の花嫁衣裳で、これもまた慣例である。


 シーツの上には祝福の花が振りまかれ、その中でたおやかに座るオドレイは、さすがに王族らしい気品があった。


 エドゥアールは随分と待たせたことを詫びもせず、彼女からやや離れてどかりと座った。


「あなたを謹んでお引き受け致しましょう。だが、ここはもう王宮ではなく、あなたももう王女ではない。それはお分かりになりますね? 当家の使用人たちは皆優秀で、才覚のない女主人でも問題なく回していけますが、だからといって、あなたがそれに甘えていいという訳ではない。あなたの方でも、少しは努力する姿勢を見せてほしいものです」


 何も出来ない上に、いつまでも王女気分でいられては堪らない。頭の回転が悪くても分かるよう、エドゥアールは努めて明確な物言いを心掛けた。


「ああ、それと。変に期待されたくないので、先に言っておきます。私があなたを愛することはない」


 中身のない愚鈍な女は大嫌いだった。妻という立場を盾に、まとわりつかれても鬱陶しい。


 言うべきことは言ったので、エドゥアールは初夜の夫の務めを果たすべく、オドレイに近づいてヴェールを持ち上げた。


 刹那、息をのむ。


 初めてまともに見た花嫁は、神々しいほど美しかった。


 少し癖のある漆黒の髪、透き通るように白い肌。瞳の色は王族の女性にしか出ないという、金のが散った宝石のような緑である。


 これは、まさか――。


 エドゥアールは言葉を失っていた。


 瞳に金の斑があるということは、予言の巫女の力を持つという、紛れもない証だった。


 ――まさか、そんなお伽話のような存在が。


 予言の巫女とは、何代かに一人、出るか出ないかという稀有な存在で、その力の発現は十代半ばくらいまでに起こるとされている。


 瞳に散る金の斑が多ければ多いほど強い力を持つとされ、たとえ斑があっても、その数が少なければ力は発現しないこともあるという。


 ――そういう、ことか……。


 オドレイは両目ともに小さなものがふたつほど。恐らく力は発現しなかったのだろう。


 オドレイが王宮の奥深くで大切に守られてきた理由を、エドゥアールは今こそ正確に理解した。


 王家は彼女に予言の力が発現するかどうか、慎重に見極めていたのだ。


 エドゥアールの胸に熱いものがこみ上げた。


 たとえ力が発現せずとも、瞳に金の斑を持つ王女は、嫁ぎ先に幸運をもたらす存在である。


 王は確かに、私を見込んでくださっていたのだ……。


 エドゥアールがこくりと喉を上下させ、オドレイの肩に手を置こうとした瞬間、オドレイがすっと身を引いた。


「すまないけれど」


 初めて聞いた彼女の声はまろやかで甘く、だがはっきりとエドゥアールを拒絶していた。


「今日はとても疲れたので、もう休ませて頂きたいの」


 指一本でも触れれば全力で抗う。オドレイはまるで手負いの獣のような、悲壮な雰囲気を湛えていた。


「……分かりました。今日のところはごゆっくりお休みください」


 大袈裟な拒絶ぶりに鼻白みつつ、エドゥアールは大人の対応を見せた。


 知らなかったこととはいえ、瞳に金の斑を持つ特別な女性に対し、いささか不躾な物言いをしたという自覚はあった。


「少し誤解があったようです。どうか悪く取らないでください。明日また話をしましょう」


 初手で少々躓いてしまったが、エドゥアールは二人の今後について、それほど悲観していなかった。子供でもあるまいし、一晩経てば彼女も頭を冷やし、適切な態度を取れるようになるだろう。この結婚は王命であり、歩み寄る義務はエドゥアール、オドレイ双方にある。明日はエドゥアールの方から和解の手を差し伸べることもやぶさかではなかった。


 我が妻、オドレイ――明日はあなたに、花を贈ろう。


 エドゥアールが思い描いた二人の明日は、永遠にやってこなかった。


 オドレイはその夜のうちに王宮に帰ってしまったのである。


 翌未明、「よんどころない事情にて」二人の結婚を白紙撤回する旨がブフィエ公爵家に通告された。理由は一切説明されなかったが、初夜立会人が白判定を出した為、撤回に何ら支障はないという一文は遺漏なく添えられていた。


「馬鹿者が!」


 エドゥアールは激昂する父の前で狼狽うろたえることしか出来なかった。


「ですが、王女の振る舞いも、まるで子供のようではありませんか」


 確かに、エドゥアールの方でも勝手に反感を抱き、きつい物言いをしたかもしれないが、一度決まったことを感情のままに反故にするというのはどうなのか。


 父はエドゥアールの言い分を取り合おうとしなかった。


「それだけのことをお前がしたのだろう」

「そんな」


 言葉を荒げた訳でもなく、普通に諭しただけである。


 父はエドゥアールを見やり、深いため息をついた。


「お前が早々に出ていった初顔合わせを憶えているか」

「え、まあ……」


 突然過去の所業を持ち出され、エドゥアールは気まずげに目を逸らした。


「王女はあの時、お前の非礼を咎めもせず、こうおっしゃった。『体調が悪いのに、会ってくれてありがとう、と伝えておいて』と」

「え……」


 エドゥアールはこの時初めて、オドレイの為人ひととなりを知ることとなった。


 彼女は「今後はどうか娘として導いてほしい」と、公爵夫妻に頭を下げたという。王宮育ちの世間知らずだけれど、夫となる人に恥をかかせぬよう頑張りたい。互いに敬意と優しい愛を育んでいけたらと願う――そう言って、たおやかに微笑んだのだと。


「どうして、もっと早くにそれを伝えてくれなかったのですか……」

「告げようにもお前は逃げ回っていたではないか!」


 怒り狂っている父に、エドゥアールは構わず縋りついた。


「どうか父上、挽回の機会を」

「挽回の機会だと?」


 押し殺した父の声は、今まで聞いたこともないほど低かった。


「そんなもの、今迄幾らでもあった」


 すげなく振り払われ、エドゥアールは人形のように転がった。


「謹慎を命じる。しばらく屋敷から出るな」

「ですが父上、しばらく、とはいつまででしょう? 来週は官僚たちの勉強会に招かれていて……」


 エドゥアールは困惑して尋ねた。遊びや気晴らしの為の外出は論外だとしても、招かれている会合に出席しないという訳にはいかない。


「出席不要。そもそも門外漢のお前の意見に、さしたる有益性などない。だが、手垢のついていない、若い人の意見は新鮮で、勉強になると彼らが言うから」

「……」


 意欲があって優秀なのは官僚たちの方で、エドゥアールではないという訳だった。


「……お前はまだ若い。今回のことを教訓とし、失敗からよく学びなさい」


 呆然とするエドゥアールに、父は疲れた声でそう告げた。


 エドゥアールは床にくずおれたまま、しばらく立ち上がることも出来なかった。


 二人の結婚が撤回されたことはすぐに広まった。


 理由については「よんどころない事情」としか発表されず、ブフィエ家も終始沈黙を貫いたが、初対面でエドゥアールに無能と断じられ、冷淡な態度を取られた者や、以前から彼を良く思っていなかった者、或いは単に彼を妬む者たちが、ここぞとばかりに大きな声でさえずった。


「身の程もわきまえず、王女に説教でもしたに違いない」「あの性格ではね」「いつかはこんなことになると思ってたよ」等々。無責任に言い散らかされる言葉の中には、奇妙に本質を捉えているものもあった。


 エドゥアールには彼らに反論する機会も、その気もなかった。


 屋敷の中で腑抜けのようにぼんやりと過ごす昼と、夫婦の寝室に一人座り、窓から覗く白く細い月を見上げる夜。


 彼の心はあの夜見たオドレイに今も囚われていた。


 金の斑に彩られた、宝石のような緑の瞳。


 忘れることなど出来そうになかった。


 こんな状態だったから、かつての恋人が独身に戻ったエドゥアールに連絡してきたらどうしようかと思っていたが、彼女からも何の連絡もなかった。


 やがて、エドゥアールの謹慎が解ける頃、オドレイが国境付近の城塞へ慰問に行くということを風の便りに知った。


 今回のことで我儘を押し通した罰かと思ったが、本人のたっての希望だという。


 王族として正しい身の使い方だった。たとえ予言の力はなくとも、瞳に金の斑を持つ王女の慰問は、前線の兵士たちの士気を大いに鼓舞するだろう。


 群衆に紛れ、エドゥアールも出立するオドレイを見送った。


 純白の花嫁衣裳ではなく、群青のケープをまとったオドレイは、あの夜と変わらず気高く美しかった。


 虚しいと分かっていても、エドゥアールは自問せずにはいられなかった。


 最初の一言さえ間違えなければ、彼女と共に歩く生もあったのだろうか、と――。


 彼女に最も近づくことが出来た夜、エドゥアールは不用意にも、最も彼女を遠ざけた。


 彼女とはもう二度と、人生が交差することはない。






 国境線を巡り、長らく続いていた隣国との紛争は、停戦という形で一応の収束を見た。


 それ故か、最前線である城塞にも、今は表面上の平穏が訪れている。


 とはいえ、停戦協定の陰で、隣国が不審な動きを見せているという情報もあり、城塞側は自ら打って出ることはしないが、有事の際は当然これを迎え撃つという態勢であった。


 そんな状況下で実現したオドレイの慰問は、前線の士気をここで下げる訳にはいかない軍上層部の思惑と、本人の強い希望が合致した結果であった。


 城塞に到着したオドレイは、出迎えた将校や兵士たちの日頃の労をねぎらい、甘くまろやかなその声で、彼らの武勇と献身を称えた。


 休む間もなく医務室へ向かい、傷痍兵一人一人に声をかける。彼らの方で嫌がる素振りを見せなければ、オドレイは躊躇なく彼らの手を取った。


 自他共に認める王宮育ちの世間知らずでも、瞳に金の斑を持つ王女の労わりがどれほど威力を持っているか、ごく自然に理解していた。


「王女様、一息つかれては? お茶をご用意いたしました」


 厨房で働く女性たちからの厚意で、温かい紅茶をご馳走になっていると、四十絡みの飄々とした城塞司令官が自らオドレイを呼びにきた。


「ラプノーが巡回から戻ってまいりました」


 オドレイは「ありがとう」と立ち上がる。到着時、彼と会う時間を設けたいと司令官に伝えていた。


「ラプノーってもしかして、あの男前のラプノー君?」

「驚いた。お知り合いだったんですか? 彼、何にも言わないから」


 彼らしい、と思いながら、オドレイは微笑んだ。


「古い友人なの」


 その人はかつて、オドレイの護衛騎士を務めていた人だった。


 零落した伯爵家の嫡男で、身を立てる為に騎士を志した、と聞いている。


 彼がオドレイ付きとなったのは、オドレイが十歳、彼が十一歳、まだほんの子供の頃のことだった。


 騎士と呼ぶにはまだ頼りない体つきだったが、咄嗟の判断の速さと、下町の子供のような機敏さが教官たちの目に留まり、栄えある護衛騎士の一人となったのだ。


 オドレイとよく似た、癖のある黒髪だったことも決め手となった。長くは誤魔化せずとも、いざという時、オドレイの身代わりを務めることも出来よう。


 彼女の身辺がそれほど危うかったという訳ではないが、警備担当者というものは、常に最悪の事態を想定するものなのだった。


 皆の期待に応え、彼は十二分にオドレイを守った。


 悪漢や侵入者からではない。


 オドレイが躓いて転びそうになるだけで、どこからともなく差し出される彼の手が、オドレイをいつの間にか支えていた。


 万一彼女の落下速度の方が速ければ、彼の体がクッションのように下で彼女を受け止めた。


 彼にとっては任務に過ぎない。だが、オドレイが無事だと確認した時の、ほっとしたような彼の顔、恥ずかしさに身悶えるオドレイを見る、蕩けるような彼の眼差し。好きになるなと言う方が無理だった。


 背丈も体つきも、いつしかオドレイとはかけ離れ、オドレイの身代わりなどとても出来なくなった頃、彼は髪を短く切った。


 もう大人の男なのだと見せつけるように。


 そうして、双子ごっこも出来なくなって、ますます手の届かない人になった。


 オドレイに予言の巫女の力が発現しないことがほぼ確実となり、ブフィエ公爵家へ嫁ぐことが決まった時、彼は護衛騎士を辞し、城塞防衛に志願するとオドレイに告げた。


 この時になって初めて、オドレイは前途ある彼を王宮に縛り付けていたことにようやく気づいたのだった。


 彼は身を立てる為に騎士となったのだ。


 前線に行くと言われて心が乱れぬはずもなかったが、これ以上彼の人生を邪魔する権利はオドレイにはなかった。


 せめてもの償いにと、オドレイは城塞に向かう彼の支度を整えようとしたが、「あの、嫁にいくのが俺みたいになってます」とやんわり辞退されてしまった。


「代わりと言っては何ですが、御髪おぐしをひと房頂けませんか」


 ぼそりとそう切り出された時、オドレイは勢い込んで鋏を取った。


「いいわ! これくらい?」

「わあっ! そんなに切っちゃ駄目!」


 珍しく慌てた様子の彼に、ならばあなたのお好きに、と鋏を渡すと、彼は茎の細い薔薇でも切るように、オドレイの髪を少しだけつまんで切った。


「ありがとうございます。大切にします」

「何の効力もないと思うわよ? 予言の力は発現しなかったし……」


 彼はくすりと笑っただけだった。


 優しい彼はこんな風に、オドレイの初恋を引き取ってくれたのだ。


 オドレイの気持ちを、彼はきっと知っていた。


 会いたい気持ちだけで来てしまったけれど、迷惑だったかもしれない……。


 司令官の後をついて歩きながら、オドレイは今更そんなことを考えていた。


「こちらへ」と案内されたのは、城塞の中に造られた小さな中庭だった。


 中央に低木の寄せ植えがあり、その周りに木のベンチが幾つか据えられている。ベンチのひとつに金の房のついたクッションがあった。オドレイに随行する女官が、馬車の中から急遽移動させたのだろう。彼女はオドレイのささやかな自由行動を許してくれた。「ラプノーが一緒なら大丈夫でしょう」と。未だに彼がオドレイの護衛騎士のような感覚でいる。


「むさ苦しいところで、お迎えのご用意も行き届かず」

「気を遣わないで。無理を言ったのは私なのだから」

「恐れ入ります。ラプノーは身支度を整えてから伺うと……早いな? ジェデオン・ラプノー」

「普通です」


 緩く腕を組み、風景の一部のように壁にもたれていた男が、ゆっくりと身を起こした。癖のある黒髪は相変わらず短い。瞳の色は優しい青灰で、そこは最初からオドレイと違っていた。


 懐かしいジェデオン。十か月ぶりくらいだろうか。詰襟の軍服がすらりとした彼によく似合っている。


「積もる話もおありでしょう。どうぞごゆっくり」


 司令官は二人を置いてさっさと立ち去った。もしかしなくても多忙な人である。案内役を務めさせ、悪いことをしてしまった――オドレイは彼の飄々とした背中に内心で詫びた。


「殿下」と膝をつくジェデオンを立たせ、先に腰を下ろしたオドレイが「掛けて」と隣をぽんと叩く。


 ジェデオンは一礼してオドレイの隣に腰を下ろした。


 互いにもう子供ではないから、密室となる場所では会わない。それ故に開けた中庭での面会となったのだが、オドレイの随員たちは皆「ラプノーなら」と彼を警戒する気配もなく、お目付け役の一人も配してこない。城塞の方もそんな余計なことに回す人員はいないのか、ここにきて何となくオドレイは彼と二人きりになっていた。


「出戻り娘」

「うるさい」


 深い事情があったのだ。


「……実は、予言の力が発現したの」


 オドレイが伏し目がちにそう告げると、がば、とジェデオンが体ごとオドレイに向き直った。


 あの夜、食い入るようにオドレイを見つめていた「夫」が頬を紅潮させ、喉をこくりと鳴らした時、オドレイは「見て」しまった。


 自らの不幸な結婚生活を。


 柔和なのは外見だけで、中身はきつい性格の夫と、感じやすいオドレイは最初からうまくいかなかった。


 公爵家の使用人たちからも冷遇され、オドレイは失意のうちに病を得て、一人淋しく短い生を終える。


「そんな人生を送ると知ってしまったの」


 父母にだけはそのことを話し、結婚は白紙撤回となった。夫が紳士であったことが幸いし、手続きは実にスムーズであった。完璧な貴公子の二つ名を持つ彼は、ぱっとしないオドレイを娶ることに不満そうだったし、これでお互い、望み通りの結果になったことと思う。


「そうですか……それは……本当に良かったとしか……」


 ジェデオンが本当に安堵しているのが分かり、オドレイの涙腺がじわりと緩んだ。


 ああ、また。あなたはすぐそうやって、私に勘違いさせるようなことを。


「じゃあ今後は巫女として生きるんですか? 生涯独身で?」

「それが……私の場合、発現する条件が少々特殊で」


 目の前の相手がオドレイと男女の関係になろうとした時、自分がその後どうなるかが見えるらしい。


 しかも、オドレイに見えるのはそれだけで、天変地異や他人の未来は予測できない。


 そういったことを言いにくそうにぼそぼそと説明すると、ジェデオンの目が点になった。


「何ですか? その発現条件……。ギリギリアウトでは」

「何代か前にもいたそうよ……。あまり知られていないけど、発現してもこの程度なら、発現しなかったものとして扱われるの。どちらにしろ、男性と『結婚』したら失われる能力な訳だし」


 この場合の「結婚」とは勿論、白くない結婚を指す。


「成程……。女性にとっては危機のようなものだから、防衛本能みたいなものかもしれませんね」

「だからと言って何も出来ないけど」


 オドレイは淋しげに笑った。彼女には「見える」だけなのである。今回のことも、たまたま夫が引いてくれたから丸く収まったに過ぎない。


「そんなことはない。あなたはちゃんと、恐ろしい未来を回避出来たじゃありませんか」


 ジェデオンの言葉が嬉しくて、オドレイはつい、縋るように彼を見た。


 美しい青灰の瞳がまっすぐ彼女を見つめていた。


「ご子息のことはよく知りませんでしたが、ブフィエ公爵は人格者だと聞いていました。だから、彼に嫁げばあなたはきっと、大切にされると思っていた。元々手の届かないあなたが、本当に手の届かない人になったから、俺はあなたとあなたの王国に身を捧げるつもりでここに来たのに」

「ジェデオン? 急に何を……何を言っているの?」

「軌道修正するって言ってるんです。あなたのタイミングで止めて。俺はそのつもりでいくから」


 ジェデオンはそう言って、ゆっくりと顔を近づけてきた。


 その瞬間、金の斑が散った瞳に未来が「見えた」。


 停戦協定を一方的に破棄し、攻め込んできた隣国を撃退する中で、ジェデオンが多大な功績を立てたこと。これをもって彼が伯爵家を立て直し、妻を迎える体裁を整えたこと。ジェデオンの功績は、王女とはいえ初夜に遁走という大スキャンダルを巻き起こし、もはや一生独り身でいるしかなさそうな出戻り娘を妻に迎えるには十分だったこと。


 晴れ渡った青空の下、二度目の花嫁衣裳をまとうオドレイと、騎士の正装をしたジェデオン。彼がオドレイを抱き上げる。二人が屈託なく笑い合う。やがて金の斑を持つ瞳が伏せられ、ヴェール越しに二人の唇が重なって――唇が触れる直前、オドレイの手が二人の間に滑り込んだ。


「そ、それで結構よ。お励みなさい」

「承知しました」


 オドレイの指に阻まれて、ジェデオンの声はくぐもっていた。


「ジェッ……ジェデオン……!」

「はい」


 未来の彼が告げた言葉に、オドレイは未だ混乱していた。


 ――初めてお会いした時から、ずっと好きでした。


「どうして! あなたはそんな素振り、全然見せなかったじゃないの!」

「この気持ちが誰かに知られれば、俺は護衛騎士を辞めさせられてしまう。それだけは絶対に嫌でした」


 そりゃそうでしょう、とジェデオンは言いたげだった。


 唖然として二の句が継げないオドレイの手を取り、ジェデオンは素早く甲に口づけた。


「待っていてください。必ずお迎えに上がります」

「……」


「ね」と口角を上げる彼を見下ろし、オドレイは未だ彼女の手を離そうとしない、ごつごつとした温かい手をきゅっと握り返した。


「……ジェデオン」

「はい」

「あんまり、待たせないでね……。待つけど」


 ジェデオンは「はい」と恭しく身を屈める。


「――オドレイ殿下、あなたの愛を決して疑ってはおりませんが、あなたからも俺に何か、愛の証をくださいませんか」


「何か」と言いながらも、上目遣いに額を突き出してくる彼の望みは明白だった。


 オドレイは彼の肩に震える手を添え、突き出される額に唇を押し当てた。

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