03
「まあ、良い香りですね。」
コーヒーの香りが居間にたちこめ、ジェリーが目を瞑って形の良い鼻をすんすんとさせた。
朝飯と言っても、パンにクリームとジャムを塗っただけのものに卵とトマトの炒め物を添えただけのごく簡単なものだ。それに、今淹れたコーヒーに牛乳屋が今朝持ってきたばかりの新鮮な牛乳と、レモネード。
俺一人ならパンと水で済ますところだが、ジェリーが落差にガッカリしないようにほんの少しだけ豪華にしたのだが、公爵家ではこの程度では使用人の食事にも劣るだろう。まあ良い。郷に入らば郷に従え、庶民の暮らしぶりを知る良い社会勉強だ。
しかし、ジェリーは
「美味しそうですわ。」
と、手を叩いて喜んでくれているので、こちらも悪い気はしない。いつもより高いパンを買った甲斐があったというものだ。
「では、早速いただきます。」
そう言うと、ジェリーはまたもや、雛鳥のように、あーんと、口を開けて待っている。
そう来ると思ったぜ。
「妹よ。」
俺は用意しておいた台詞を読み上げる。
「今は俺と一緒だが、俺だってそのうちに仕事をみつけたらここから居なくなる身だ。そうなっても困らないように、食事は自分でしなさい。」
どうだ。これなら納得して自分で食べ始めるに違いない。
しかし、ジェリーは
「あら、でも、下々の者は男女でお食事をする時はこうやってお互いのお口に入れてあげるのがマナーではないのですか?」
などと、素っ頓狂なことを言い出した。
「なんだそりゃ?」
「ほら、確かにここに。」
ジェリーが自信ありげに示したのは、少女向けの読み物だった。そこには、若い男女が同じグラスの飲み物を飲んだり、お互いに口に食べ物を入れてやっている絵が載っている。どうやらこんな物にうつつをぬかして間違った社会風俗の知識を仕入れてしまったようだ。
「いや、これは何で言うか……愛し合っている者同士がだな……。」
「兄さまは私を愛してはおられないのでございますか!?」
ジェリーは世界の終わりのような顔をする。
「い、いや、そうじゃなくて、こう言うのは恋人同士が自分達の幸せを他人に見せつける為に……じゃなくて、えーと」
何を言ってるんだ俺は! めちゃくちゃ僻みっぽい奴みたいじゃないか。
「ああ、なるほど、お外でお食事する時のお作法でしたのね!」
しかし、ジェリーは勝手に納得したようだ。
「い、いえ、もちろん存じていましたよ。そう、ちょっと兄さまをからかってみたのです。ほら、私ってお転婆娘ですから。」
そして聞かれもしないのにしどろもどろに余計な言い訳をしはじめた。
「まあまあ、良いから食べなさい。」
「はい、では改めていただきます。」
ジェリーは今度は素直に食べ始めたが、すぐに何かを思いついたらしく
「兄さま、兄さま、ご覧になって。」
と、得意そうに声をかけた。
「私、もう子供じゃありませんから、コーヒーをブラックで飲めるようになりましたのよ。」
しかし、そう言ってコーヒーをひと口含んだものの、
「うええーー。」
すぐに雑巾の絞り汁を飲んだような顔になった。
何なんだ、この謎の大人アピールは。これのどこが妹のステラになりすましているつもりなのだ。妹自慢をする訳ではないが、うちの妹は確かにコーヒーも飲めないお子ちゃまだが、断じておバカちゃんではないぞ。
「ムリするな、砂糖と牛乳を入れて飲めば良いじゃないか。」
ジェリーはしょんぼりとした。
「ステラは兄さまがコーヒー豆を丁寧に挽いて淹れたコーヒーを美味しそうに飲んでいらっしゃるのが、大人っぽくて、ずっと憧れていたんですって、いえ、いましたのよ。私が一緒にブラックコーヒーを飲んでみせたら、大人の仲間入りをしたみたいで兄さまも喜んでくださるかなって、思ったものですから。」
「……………。」
まただ。この気持ちは何だろう。腹の中からじんわり暖かくなるこの感じ。そう、冬の寒い日に温かいコーヒーを飲んだような。
「まあ、せっかく泡立てた牛乳がムダになるのは勿体ないから、牛乳も飲んでくれ。」
俺はジェリーのカップに砂糖と泡立てた牛乳を足してやった。コーヒー牛乳というよりは、牛乳にほんのり色がついているだけの飲み物だ。そして、その上に少しずつコーヒーを落としてネコみたいな動物の絵を描いた。
「ふぉぉぉ〜!!」
ジェリーは大きな瞳がこぼれ落ちるのではないかというくらい、目を見開いた。
「魔法!?兄さまも魔導士だったのですか?私ったら、てっきり無職の穀潰しだとばかり……!!」
「いや、いいんだ、それで合っているんだ、俺は無職の穀潰しだ。」
自分の発言に深く傷つく。
「可愛らしい。嬉しい。ステラは幸せものです。」
もちろん、これは本物のステラではない。しかし、まるで妹が本当にそんなふうに考えてくれているようで、何だかくすぐったい。
「そんなのいくらでもやってやるよ。」
「本当ですか!? では、今度は不死鳥が灰から復活するところを描いて下さい。」
「………………また今度な。」
食事を終えたジェリーは後片付けをしている俺の周りをチョロチョロとしだした。こんなふうに懐いてくれるのは悪い気はしないが、ちょっとだけ邪魔だなあ、と思っていると、
「兄さまばかりが働いていらっしゃるのは心苦しゅうございます。私にも何かお手伝いさせて下さいな。」
こんな殊勝なことを言う。
「いや、滅相もない……」
言いかけたものの、ここはステラにとっては自宅だ。家事を分担しない方が不自然かもしれん。
「では、ちょっとお願いしようかな。」
「何なりと。」
俺は台所の隅に置いてある鍋を指差した。
「昨日のシチューがたくさん残っているんだが、この陽気では食べ終わる前に傷んでしまう。ちょっと、氷魔法か何かで保存してくれないか。」
「もちろんですわ! お任せください!」
ジェリーはずいと前に進み出て、右手を広げてシチューが入っている大鍋に手をかざし、唇をかすかに動かし何かを唱えた。
「はっ!」
という声とともに、右手の掌から無数の氷柱が飛び出しシチュー鍋に命中した。
「ざっとこんなものでございます!」
シチュー鍋もろとも永久氷土と化した台所の一角を、俺は呆然と見つめるのみだった。
「ありがとう、助かったよ……。」
俺はやっとそれだけ言うことができた。
得意満面のジェリーはしゃなりしゃなりと居間へ退場した。
「大丈夫ですよ、ジェリー様の魔術は見掛け倒しですから、夕方には魔法はすっかり解けて、一緒に氷も溶けてますって。」
ジェリーが居間で例の少女向けの雑誌を読み始めたのを見て、俺の肩に乗っているベルが言った。ジャムで手も口の周りもベタベタにしている。
「貴族の魔法はとにかく見た目重視。派手好きなんですよねー。」
「また知ったふうなことを。昨日はよくも口から出まかせ言いやがったな。何が『やんごとなき身分の令嬢は使用人に食べさせてもらってる』だ。」
ベルはジャムでベトベトの口をにやっとさせた。
「あはは、さーせん。おっさんが全然信じないからめんどくさくなっちゃってさ。ね、おっさん、私にもコーヒー牛乳ちょうだい。」
「けっ。」
俺は小さなミルクピッチャーにコーヒーを入れてやりながら、先程からずっと耳に残っている『大人っぽくて、ずっと憧れていたんですって』というジェリーの言葉を改めて思い返した。
「お前のご主人、ステラは、俺の事を何て言ってるんだ? その、無職で穀潰し以外に。」
思わず、そんな事を聞いてしまう。
ベルはしばらく考えた後言った。
「そうそう、『おっさん臭い』だっけな。後はね『汗臭い』、それから『足も』……。」
「い、いや、もういいわ。さあ、冷めないうちに飲め。」
「さんきゅー、おっさん。」
ベルは、わーん、と邪悪な羽音をさせてピッチャーに近づき、口をつけた。