02
俺はいつものように早朝のドブさらいの仕事を終え、店を開けたばかりのパン屋でパンを買う。
辺境でドラゴンに挑んだこともあるこの俺が、ドブさらいの仕事など情けなくて涙が出てくるが、ドラゴンの鱗のように熱くて触れないほどの焼き立てパンを誰よりも先に買えるのは悪くない。
今日はいつもよりも高いパンを買って我が家へ戻った。
この家は、台所と居間の他はほんの二部屋きりしかないから、俺と妹、そして両親の家族四人で暮らすにはいささか狭かった。
俺は妹のステラがまだ幼い頃に辺境警備の職を得て家を出てしまったから、すぐに自室を妹にとられてしまい、年に二度の休暇でせっかく帰省しても身の置き所もなく、居間で寝泊まりしていたくらいだ。
しかし、秀才のステラが奨学金を得て聖都の魔導学院へ留学すると同時に、両親は母方の田舎へ引っ込んでしまったので、ここ数年は人に貸していた。
俺が辺境警備の任務を終えて帰還したのが数ヶ月前のこと。そして、今度はステラが魔導学院を卒業して昨日帰宅した。
俺と妹の二人だけならば今のところは狭いながらも何とか互いのプライバシーを守ることができている。
「兄さま、おはようございます。」
台所で朝飯の支度をしていると、妹のステラが居間に姿を見せた。
いや、正確には、妹の身体を借りた公爵家の令嬢レディ・ジェラルダインだ。
面倒なので、俺もベルに倣い、今後は密かに彼女をジェリーと呼ぶことにする。
ベルとは、ジェリーと入れ替わって今は聖都の公爵家にいる妹から監視役として遣わされた、妖精みたいな姿をしたベルゼブブを自称しているちょっとカワイソウな使役動物だ。
ジェリーがここで楽しく休暇を過ごしてくれたら、上手くすれば俺は聖都で仕官のクチをきいてもらい、ドブさらい生活からもオサラバできるかも知れない。そんな下心を胸に俺はジェリーのために朝飯を用意するのだ。
ベルによれば、ジェリーは完璧にステラになりすましているつもりらしいので、俺も気づかないフリをすることにしたのだが、居間に姿を現したジェリーを見た俺は唖然となってしまった。
髪はボサボサ、ブラウスのボタンは掛け違え、スカートは後前、靴下は左右違うものを履いている上に片方はずり下がっている。もしかして顔も洗っていないのか?
妹は俺に全く似ていないので素材は可愛らしいのだが、何だか、何というか、大変に申し訳ないのだが、とてもついこの間聖都の魔導学院を卒業した秀才とは思えない、頭のお弱さんな子に見える。
「あー、もう、何て格好だ。服くらいちゃんと着なさい。ほら、顎上げて。」
俺は朝飯の支度の手を止め、ジェリーの服装を直してやる。
公爵家の令嬢を相手に無礼な事かも知れないが、中身は他人でも外見は妹のステラだ。この街きっての秀才と称された妹のこんなナサケナイ姿は見るに耐えない。
「ありがとうございます、兄さま、良い朝でございますね。」
世話をされるのに慣れているのか、ジェリーは俺に触れられても嫌がる事なくされるがままになっており、口だけは優雅な事を言っている。
もしや、ジェリーという子はちょっと残念な子なのか……?
などと、不敬な考えが頭をよぎってしまう。
「何しろ深層の御令嬢ですからねえ。人よりちょっとだけおっとりしてるんですよ。」
いつの間にか現れたベルが俺の肩に止まって言う。
「しかし限度があるだろう。これでどうして完璧になりすませていると思えるんだ。」
鏡の前にジェリーを座らせて髪を梳かしてやりながら、俺はついぼやいてしまう。
「兄さま、何でございましょうか。」
と、ジェリーが振り返る。ジェリーにはベルの姿も声もわからないらしく、気をつけていないと俺が独り言を言っている怪しいおじさんに見えてしまう。
「何でもないよ、さ、前を向いて。」
「はい、兄さま。」
俺はツヤツヤとした赤褐色の髪を梳かしてやる。
こんな事を妹にしてやったのは、妹がごく小さな時以来だ。昔は俺に懐いていた時もあったから、俺と同じ色のこの髪を気に入ってくれていたっけ。
しかし、俺がドラゴンに髪を焼かれ、見ての通りの頭になってしまったので、近所の悪ガキどもから今にお前も頭の毛が無くなるとからかわれ、悔しい思いをしたらしい。悪ガキどもは妹に魔法をかけられて向こう半年は俺とお揃いのヘアスタイルになり、自分の髪も魔法で金髪にしてしまった。学校で何度注意を受けても何度も繰り返し、ずっと金髪で通していた。
「そう言えば、金髪はやめたのか?」
ふと思いついてジェリーに尋ねた。
「え?何の事でございますか?ステラは、いえ、私は一年生の時からずっとこの髪ですわ。」
ジェリーはキョトンとした顔を鏡に映した。
「学院ではみんな魔法で思い思いの髪の色にしているんですけど、ステ、私はずっとこの色でしたのよ。兄さまとお揃い……なんですのよね? ねっ、そうですよね?」
ジェリーは鏡に映る俺の頭を見て不安そうに尋ねた。
「ああ、そうだよ。」
鏡の中の俺は戸惑いながら答える。
「ジェリー様の言う通りっすよ。おっさん、モーロクして妹の髪の色も忘れちゃったの?」
肩であぐらをかいてパンを盗み食いしていたベルも言う。
「……そうか。」
俺はブラシを置いた。
何やら腹の中に暖かいものを感じる。手で触れないほど熱い焼き立てのパンを食べた時のような、じんわりとした心地よい暖かさ。
髪をきちんと梳かし、服装も整えたジェリー、いや、妹ステラの姿はとても愛らしく、赤褐色の美しい髪がとても似合っていた。
「さあ、俺はせっかくのパンが冷めないうちに朝飯の支度に戻るとしよう。もう少し待っていて。」
「はい、兄さま。」
ジェリーはこぼれるような微笑を俺に向けた。
「ところで、何でジェリーにはお前が見えないんだ? 何かそういう魔法でもかけてるのか?」
台所で朝飯の支度の続きをしながら、何げなくベルに尋ねた。
「何と言っても深層の御令嬢ですからねえ。おっとりしすぎて私らみたいな魔物は気づかないんですよ。」
ベルは昨日のシチューを浸したパンを頬張りながら答えた。
「魔導士なのに!? 魔導学院出てるのに!? 」
俺は驚いて皿を落としそうになる。魔力のある奴がなんで使役動物の存在に気づかないんだ? ベルに限らず、使役動物なんか俺にだって見えるのに。
「まあー、魔導学院っつっても貴族枠があるんで。あと、ジェリー様の名誉の為に言うと、やんごとなき御身分の方はどっちかと言うと精霊とかの方が相性がいいんですよねー。ほら、私、蠅の王ベルゼブブだから、本能的に存在を否定されてるのかも。」
口の周りをシチューでベタベタにしたベルは、寂しそうにふっ、と笑った。
「はあー。」
俺は深く溜め息をついた。
おっとりしすぎて使役動物も見えない、魔導士!? の公爵家令嬢に、自称ベルゼブブの使役動物か……。
こんなのに付き合っていて、俺は本当に聖都で仕官できるのだろうか。変な夢ばかり見ていないで、地道にドブさらいの腕を磨いた方が良いのではなかろうか。
「何か、朝から疲れたわ……。」
むろん、早起きしてドブさらいをしたからではない。