76.関興、荊州の領民を救う手段を考える
通常の話に戻ります。建安十三年(208)六月頃です。
仮にオレの推理どおりだとすれば、荊州を降伏に追い込むことに成功した曹操は、江陵を手に入れるまでは徳によって孫呉を降伏させる“王者”の道――戦わずして勝ち、攻めずして領地を得、武器を使わずして天下を帰服させる(『荀子』王制篇)――に従っていたはずだ。
だから曹操は降伏した劉琮や荊州の重臣たちを褒め称えた。
『魏武故事』によれば、
「劉琮が州を挙げて降伏したのは、(同様に領土を光武帝に献じた後漢の)鮑永や竇融に比すべき立派な行為である。栄達を軽視して信義を重視し、利害を無視して徳性を重んじ、万里にわたる領域の支配権に執着せず、三軍の軍勢を放棄して中正の道を尊崇し、名誉を大切にして、上は先君の遺された業績を輝かせ、下は子孫に伝える不朽の幸いを企図した賢明な決断であった」
と手放しで絶賛している。
また『魏志劉表伝』には荊州に仕える官吏の厚遇に言及していて、
「曹操は降伏した劉琮を青州刺史に任じ、列侯に封じた。蒯越ら侯となった者は十五人。特に蒯越を光禄勲,韓嵩を大鴻臚,鄧義を侍中,劉先を尚書令に取り立て、その他の多くが高位高官に登った」
とある。
あるいは、戦わずして勝つという戦略は、
――近頃、天子の辞を奉じて荊州の罪を数え上げ、我が軍旗が南に向かったところ、劉琮は州を挙げて降伏した。今、水軍八十万の軍勢を整えて、まさに孫権将軍とともに呉の地で会猟いたそうではないか。(『江表伝』)
という降伏勧告の書簡を孫呉に送ったのもそうだし、『魏志武帝紀』に「曹公は江陵に軍を進め、荊州の吏民に布令を下し、過去を清算し更始を与にせんと宣言した(原文:公進軍江陵、下令荊州吏民、与之更始。)」のもそうである。
※注 かつて曹操が袁譚の首を斬って冀州を平定した時に出した布告が「袁氏の悪事に荷担した者も、過去を清算し更始を与にせん(原文:下令曰。其与袁氏同悪者、与之更始。)」だった。荊州降伏後の布告とまったく同じ構文である。
であれば、曹操軍が当陽で劉備に追いついた時、付き従う十万の民衆の群れを蹴散らし無差別に殺戮したというのは、曹操悪玉史観に毒された三国志演義のデタラメな作り話ではないか?!
事実、正史『三国志』には、
・曹純は荊州征伐に従軍し、長坂で劉備を追撃して彼の二人の娘を捕らえ、輜重を捕獲し敗残兵を手中に収めた。(『魏志曹純伝』)←曹操軍は、民衆も兵もなるべく殺さず捕虜にした証拠である。
・諸葛亮と徐庶はともに劉備軍に随行したが、曹操に追撃されて敗北し、徐庶の母が捕虜となった。(『蜀志諸葛亮伝』)←徐庶の母は一般人だが殺されていない!
・劉備は長阪で追いつかれて甘夫人と息子を置き去りにし、趙雲を護衛に頼んでやっと難を逃れた。(『蜀志甘皇后伝』)←三国志演義と異なり、甘夫人は追い詰められて井戸に身を投げたわけではない!
そう。劉備将軍に付き従って南へ向かう無辜の領民十万が曹操軍に蹂躙されたという記述は、どこにも存在しないのだ!
或る者が「もし曹公の軍隊がやって来たらどうやって抵抗するのですか?」と尋ねたのに対し、劉備が「民衆は俺を慕って身を寄せているのだ。見棄てるに忍びない」と答えたという『蜀志先主伝』の匂わせ記事だけだ。
いや、結局彼らを見棄てて自分たち数十騎だけで漢津に逃げ出した恥知らずは劉備の方じゃないか!
これでは突然の曹操軍来襲に右往左往する民衆を盾にして、混乱に紛れて自分たちだけ悠々と安全な場所に逃げた卑怯者だと批判されてもおかしくない。
だったらオレが彼ら荊州の領民を安全な場所に誘導してやったって、史実改変じゃないから、バチは当たらないよな!?
◇◆◇◆◇
荊州侵攻に向けて唐県で備えをしているオレの元に、久しぶりに女神様が扮する諸葛孔明がやって来た。
「三年ぶりかしら、下僕の関興。あいかわらずのモブ顔ね」
「うるせえな、余計なお世話だ!
で、今さら何の用だ?オレの記憶が正しければ、オレとあんたは三年前に決別したんじゃなかったか?
それにオレは、女神様の最後の命令――史実どおり建安十三年(208)まで曹操の荊州侵攻を引き延ばすこと――は忠実に果たしたはずだぜ」
目をくれることもなく淡々と作業を進めるオレに、
「ちょっと!転生させてあげた大恩ある私を無視ってひどくない?べつにあんたを咎めようと思って来たわけじゃないのに」
「オレは忙しいんだ。誰かさんが推しの劉備を逃がすために、荊州の領民を盾代わりに使おうとしやがるんでな」
女神孔明はオレの皮肉に鼻で笑って、
「呆れた!あんたまだ諦めてなかったの?往生際が悪いわね。
あんたのムカつく忠告のおかげで、私が三年も早く歴史の表舞台に登場することになり、玄徳様をちょっとはマシな人格に調教できたわ。史実どおり、新野や襄陽のお人よしは玄徳様の逃避行について行きそうよ。墓穴を掘ったあんたには感謝してるわ」
「あっそ。女神様の用事ってそんだけ?終わったならマジでさっさと帰ってくれないか。あんたに構ってる時間はないんだ」
「フン、つれないわね。じゃあ本題。
もうすぐ劉表のジジイが死ぬじゃない?たしか正史『三国志』の記述でも、死に際に玄徳様に息子(劉琮だっけ?)の後見を頼むはずなんだけど、全然連絡が来ないのよねぇ」
「その話なら、とっくの昔に関羽のおっさんで再生されたぞ」
「はあ?なんで関羽の所に?まさか、関羽に荊州が譲られたんじゃないでしょうね?姑息な手を使って史実改変なんか絶対許さないわよ!」
じりじりと左手に雷を発生させる女神孔明。
「そのまさか、なのさ!ただし、関羽のおっさんは断ったけどな」
オレの弁明に女神孔明は安堵の溜め息をついて、
「ならいいけど。どうせ玄徳様にも断らせる予定だったから、作戦は今のところ順調なはずよね?」
と呟く。オレはふと思いついて、
「なあ女神様。オレが荊州の領民を安全な場所に誘導しようと企んでることに気づいてるくせに、嫌味を言うだけでやめさせないのか?」
「べつに。あんたがこれから起こる赤壁の戦いの邪魔をしない限り、好きなようにすればいいんじゃない?無駄なあがきと思うけど」
「ふーん、なら良かった。
正直に言うと、劉表から荊州が譲られたのは関羽のおっさんじゃなくて娘婿の関平君なんだ。だからさっきのあんたの質問にはNOって答えたけど、実質的にはYESなんだよね♪
ちょっと計画は狂っちゃったけど、関羽のおっさんの代わりに関平兄ちゃんを主君に立てて荊州に割拠する、オレの「天下三分の計(改)ver2」が実現できそうなんだ!
これから忙しくなるぞ。マヌケな劉琮に代わって、オレたち関羽の一族が先頭に立って、曹操軍を迎え撃つ準備をしなくちゃならないんだからな。甘寧を江陵に派遣して、水軍兵の調練をやってもらう必要があるし。
でも、赤壁の戦いの邪魔をしない限りはオレの好きにしていいんだろ?」
とカマをかけてみた。案の定、女神孔明は狼狽して、
「なんですって?!そんなの絶対駄目よ、明らかな史実改変じゃない!あーもう、周瑜や魯粛になんて説明すればいいのかしら?ちょっと関興、いったいどうしてくれるのよ!?」
とオレに詰め寄る。オレは素知らぬ顔で、
「大丈夫だって。荊州を譲られても劉備のクソ野郎を追い出したりしないから。気は進まないが孫権と同盟し、赤壁で曹操を迎え撃って見事勝利を収めてやるよ!そしたら史実を改変したことにはならないだろ」
「なに馬鹿なことを言ってるの?!江陵の数千隻の軍船がなければ、曹操軍が孫呉に戦いを挑むわけないじゃない!」
「えーそうなの?その辺は女神様の神通力でなんとかして下さいよ!」
「無理に決まってるじゃない!こうなったら【雷天大壮】でこいつら関一族を抹殺するしか……でもそしたら劉備軍の戦力がガタ落ちになって、自らの首を絞める結果に……」
とブツブツ悩む女神様の反応を見たオレは、自分の推理が大筋で間違っていないことを確信した。オレはニヤリと笑って、
「なーんてね☆ 安心しろ、今のは全部ウソだ。関羽のおっさんは関平君とともに劉備の逃避行について行くんだよ。オレは秦朗として唐県に残って曹操に帰順しろ、だって。赤壁の戦いで曹操が負ける史実の邪魔はしないさ♪」
(なに、関興のこの余裕の表情は?絶対に何か謀んでいる顔だわ。怪しいわね)
「……関興、あんたどこまで知ってるの?」
と訝しんでオレに尋ねる諸葛孔明。
「さあね。何の話だ?」
「へえー下僕のくせにとぼける気?ま、いいわ。
ねぇ覚えてる?この世界は女神である私が作ったバーチャルリアリティ・歴史シミュレーションゲーム三国志の世界。史実モードと仮想モードの切替が簡単にできちゃうのよ。
今までは、各群雄の戦力も登場武将も限りなく史実に近い世界観で楽しんでいたけど、あんたの態度がムカつくから、演義準拠の仮想モードに切り替えるわ。はい、ポチッとな!
ウフフ。赤壁の戦いって、史実では曹操は疫病の流行で撤退したことになっているけど、三国志演義では周瑜の火計にあって軍船を焼かれ全滅しちゃうのよねぇ!あの憎たらしい曹操が命からがら許都に逃げ帰るなんて、あー楽しみ!
ねぇ関興、何を謀んでいるのか知らないけど、あんたの思い通りにはさせないわよ」
うげっ、マジかよ?!
「あ、さっきあんたは唐県に残って曹操に帰順するって言ったわね?ついでに【流言】コマンドを駆使して、許都でのあんたの評判を落としてやるわ。知力100の孔明が実行する策略は、成功率100%なんだから。はい、ポチッとな!
あーあ、かわいそうに。曹操の秦朗君に対する信頼度が“好意”から“不和”に下がっちゃった(笑)。
覚えておきなさい、下僕のくせにご主人様に逆らったら痛い目に遭うのよ!」
……えげつないなあ、女神様って。やっぱ悪魔じゃん。
「やれやれ。じゃあオレから女神様に一応報告。
孫呉に【風気術】師の呉範って奴がいる。どうやらオレと同じ三国志マニアの転生者らしいぞ。孫呉に天下統一をさせようといろいろ動いているようだ。以上、報告終わり」
女神様は冷ややかな顔で、
「嘘ばっかり。私とあんた以外にどうして転生者が入り込んでいるのよ?!負け惜しみを言うのもほどほどに……」
「信じないならべつにいいさ。オレはちゃんと報告したからな。後から呉範に邪魔されて、天下統一がうまく行かなかった~なんて泣き言を言ったって知らねえぞ」
「……分かったわ、調査してみる。情報提供ありがと」
と言って、女神様が扮する諸葛孔明は帰って行った。
次回。不和になった曹操は、荊州侵攻に際し、間道を通って関興の守る唐県に攻め入らせる。軽騎兵を率いる将軍は曹丕。のちの魏皇帝だ。完膚なきまでに叩きのめすと、後の仕返しが怖い。史実どおり進行すれば、どうせ跡を嗣いだ劉琮は降伏するんだから、それまでの辛抱だけど……。お楽しみに!